峠山(鳥居峠〜峠山〜姥神峠)縦走[本州横断シリーズ]
- GPS
- --:--
- 距離
- 9.3km
- 登り
- 724m
- 下り
- 600m
コースタイム
天候 | 曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2010年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
(復路)姥神峠〜(自転車)〜奈良井 |
コース状況/ 危険箇所等 |
10/9の高遠山からの縦走は結局、雨のために鳥居峠で打ち切ることになった。そのリベンジとして計画した。H2O氏は同行の予定だったが、都合悪く単独となった。朝5時35分に静岡を後にした。名古屋経由で、奈良井宿に向かう。天気は、だんだんと下り坂となり夜は雨の予報だ。権兵衛トンネルを超え羽渕集落へ向かう。くねくねの林道を進むと細い羽渕集落へ上がる林道がある。入口に折りたたみ自転車をくくりつけると、奈良井宿に向かいならい荘へ登る舗装道路の脇に駐車した。 10:35発。ならい荘のわきに出るふみあとをあがり、ならい荘前より鳥居峠への道にはいる。こぶし大の石が敷き詰めてある道を登る。途中、展望台があり、登ってみるが展望ははっきりしない。2週間前にくだった道をひたすら登る。上の方の沢の対岸で若者が嬌声を上げている。ハイカーが下ってきて「サルがいるようですね」という。そうか、あの声はサルだったんだ。葬沢でハイカーが3人。2週間前と違い、黄色の紅葉が進んで素晴らしい。このように季節の違いが感じられるのもまたいいものだ。やがて、静かな峰の茶屋に着く。 11:25 鳥居峠1197mだ。誰もいない。2週間前はざーざー降りだった。中に入りノートに記録を記す。2週間前から数人が来て書いている。今回は姥神峠を目指す・・・・と書いたはいいが本当に行けるのかいな、踏破できるのか確信はない。林道の終点で引き返してくるかも知れない・・・と思う。峰の茶屋には、水が樋に流れている。2週間前には流れていなかったような気がする。ひとすくい飲んでみるが、フツウの水だった(笑)。 11:30 峠に向かって茶屋の右手に延びる展望台へのフミアトに入る。一旦折り返すとそのままトラバースして御岳への展望台へと向かっていく。左手に尾根が聳え立っている。上を見ると御岳講 明覚霊神碑が立っている。その裏の尾根を適当に登る。ごく薄いフミアトがあったりなかったりといった感じだ。登りはとにかく楽だ。高みに登りさえすれば必然的に峠山に着く。迷う心配がない。尾根をはずさずに行けば最小のエネルギーで登れる。尾根上には、誰かがかつて歩いたような後がある。フミアトとはいえないが。激烈なヤブではないので助かる。適当に尾根上を木々を避けながら登る。天気は曇り。顕著な張り出している左の尾根がこの尾根に合わされば頂上ももう近い。一旦ゆるい傾斜になるが、うすいフミアトに導かれながら高みへと向かう。もうこのあたりは、ケモノの支配する世界であるはず。常に笛をふきながら登る。峠山(1415m)から北東に伸びる尾根の直下は、尾根上よりも尾根の北西にある植林帯のフミアトを拾う方が楽である。尾根上に乗ると、明確なフミアトが現われ、すぐに林道終点にであう。目の前には、無骨な電波塔が建っている。木祖楢川テレビジョン放送局 信越放送・長野放送とある。倒木があってその下に3等三角点が鎮座していた。 12:00峠山着。頂上はよくあるヤブの頂上であり、曇天も伴って、ぱっとしない。先は長い。12:05発。早々と下る。下にも人工の建造物があり、そこに行ってみると奈良井ダムや坊主岳の大展望が望める。写真を撮る。足元を見ると、ほっくり返したようなあとがあちらこちらにある。おそらくクマだろう、と思うと恐ろしくなった(あとから聞いたところではイノシシらしい)。このあたりから笛をより頻度を高くして吹く。尾根上はずっと林道が続く。やがて、林道は鳥居峠へと下るべく、ヘアピンカーブとなっている。しかし、林道は尾根上を南下している。この林道を峠山羽渕線と呼ぶ。いつどこからクマが現われるかもと思いながら笛は吹き続ける。建造物が現われ、そこから林道は左折するが、すぐに尾根上になりさらに南下する。最低鞍部からはまだ林道が登りにかかり目の前の4等三角点峰(1388.7m峰)を右に見る。 三角点峰を巻き切り南側の小さい鞍部で林道は終了する。尾根上の1390m等高線圏内のあたりである。大きな丸太が通せんぼしてあって、そこからはクルマは進めない。ここまでクルマが進入することはさして問題なさそうだ。快適な切り開きが進む。笛だけは欠かせないが上り下りがほとんどない。三村界に向けてゆるやかなのぼりが続くだけである。行けるところまで行こう。 13:00・1451(独立標高点)のある三村界に着く。御料局の三角点はあるが国土地理院の三角点はない。ここは日義村と楢川村と木祖村の3つの村の境界にあたる。樹林中のとりとめのないピークだ。遠くに車の音が聞こえる。ここまで幅2m程度の幅広い切り開きがあるが、この切り開きは、そのまま三村界から西に伸びる尾根上へと進んでいってしまうことが地図でわかった。ここからどうしようか。一見疎林の幅広い尾根で迷いそうでもある。天気も良くないしクマも出そうだ。時間も遅い。目の前に大久保というピークが聳えていて、これを超えて行けるかな? そこからの下りも心配だな。コンパスを振ると、南下する方向に2重の黄色のテープが巻かれている。少しだけ行ってみることとした。4時までに下るとして2時まで行動しようと思い、南下を決めた。どうもフミアトはありそうだ。三村界から下るとそこは右から入ってきている緩やかな沢がほとんど平坦地になっていて沼沢地のような感じになっている。新緑の季節なら、すばらしい別天地かも知れない。その緩やかな鞍部から登り返す。フミアトはあったりなかったり。赤布などはない。三村界から3つ目のコブ(1430m圏内)のところで慎重にコンパスを振り、南西の尾根に踏みこまないようにしつつ南東の尾根に入る。歩きながら、自分の位置を地形図に爪で強く押さえ込む。20mのコブを乗り越え大久保(△1491m)の登りにかかる。どうやらこのあたりになるとはヤブはほとんどなく、フミアトもしっかりしてきた。相変わらず笛を吹いて進むが特にクマの気配はない。60mほどの標高差を登りきり、三角点があった。 13:40大久保着。下山は登りの3倍は気を使う必要がある。慎重に進むことにする。写真を三等三角点の前で撮ると下り始める。遠くにヒコウキの音が聞こえる。 大久保の頂上から歩き始め一つ目のコブには、赤布がある。助かる。いつのころからかこの尾根には国土調査の四角いアルミ冠の杭があることに気がついた。ごく近いところに現われると思うと、しばらく現われなかったりする。しかしこれがある限り、自分の歩いているところは間違っていない。結局、この杭が赤布の代わりになって自分を姥神峠への確信とガイドを果たしてくれた。2つ目のコブの頂上には赤布があってまっすぐ行く尾根がある。行きかけて、あれって? もう一回1つ目のコブ方面に戻る。やはりまっすぐの尾根は違う。右に折れる尾根にフミアトはまったくないがこっちが正しいはず。数十m進むと国土調査の杭が現われた。おぉ合っていたぁ。天気は下り坂だなので早く降りたい。ここで突然、携帯電話が鳴る! びっくり。学生時代の友人からだった。それにしてもこのヤブ尾根で、携帯電話とは・・・。この技術の進歩。そして山の奥深さの喪失・・・。しかし携帯電話で夢中に話をしながら歩いているうちに標高1450m付近にいるのに、すでに・1424まで下っていると誤認してしまった。・1424なら、東に行くコブに乗りそこから、まっすぐ下ることになる。しかし何かがおかしい。そのうちに下の方でがざごそ音がした・・・・。やべー、きっとクマだ! とうとう出た!と思うとぞっとした。まずは西に戻る。待てよ。よくよく見ると、自分はまだそこまで下っておらず、大久保の肩とも言うべき1460mあたりにいることを再確認したのだった。コンパスをチエックして、南南西に下ると、国調の杭がまた現われた。ヤブはない。曇天ではなく新緑だったら素晴らしい尾根だろう。やがて・1424に達する。・1424の東のコブの頂上まで確認する。そこから、は急な壁状になる。歩数を数えそこから適当に下る。GPSがあればどんなに楽だろうと思いつつコンパスで方向を数分おきに確認する。そのうちにまた国調が現われた。だんだんとフミアトがはっきりしてきたと思うとまた失ってしまう。壁状を下り尾根に乗ると最後の峠への壁状の下りだ。そこでフミアトに太い黒いヘビの死骸を発見する! どきっとして後ずさりをした瞬間に足が攣って固まってしまう。しばらく、うーっつと唸ってその場にうずくまる。やっと攣りが解けてよく見るとそれは死骸ではなくて単なる枯れ木だった(笑)。かなりフミアトはハッキリしてきて目の前を見ると横切る太い道が見えてきた。姥神峠(1285m)の道である。ほっとした。 14:30姥神峠着。静かな峠だ。しかし鳥居峠のように車道もなく御岳講が華やかなりし頃を髣髴とさせる昔ながらの自然が残ったよい峠でもある。多くの石碑が歴史を見守っている。石碑を見ていると、さーっと雨が降ってきた。川端康成が「伊豆の踊り子」で書いた、雨脚が峠の下から追ってきた・・・・という情景と良く似ているなんて思ったりした。大棚入山への尾根は峠から見上げる限り、やぶのない林床が続いていたが、その先はわからない。きっと今日のような感じではないだろう。いずれにせよ、時間も遅く雨だ。試登は断念し羽渕集落に下ることにする。雨が強くなってくる。雨支度をして、ずっしりとした今日の思い出を背中に雨で鮮やかになったオオバコを踏みしめながら部落へと下る。ところどころ樹種が書かれた板が掛かっている。一緒に並んでいた沢もいつしかずっと右下に分かれていき、折りしもの雨とあいまって沢音だけが谷すじに響いている。 下の方に屋根が見え出した。一旦小さな墓地があったりしながらジグザグを切り、集落の中にある登山口に到着した。 14:50着。羽淵集落。人気のないしんとした集落で、昔は数十戸の家があったと思うが、今はかなりの家が廃屋になっている。廃屋の玄関には、紙で作られた神様が小さな箱に包まれて飾られている。住む人はいなくなり神様だけが廃屋に残されているかたち。人がいなくなって神様がいるのだろうか。そのあと、雨に打たれながら折りたたみ自転車で駐車場に向かい風呂にも入らずに静岡へと帰った。 |
感想
・ひとりだったので不安もありましたが地形図と国土調査の杭に助けられ縦走できました。曇りだったので光線がいま一つでしたが、晴れていれば原始の森が広がった素晴らしい場所だと思いました。
・姥神峠というのが面白い名前だなと思い、少し語源を調べてみました。以下はあるWebの引用です。
*姥神峠:「ウバ」の語源はアイヌ語のup-an(白子・いる、即ち幼魚・いる)であることがほぼ確実です。よく言われているように古代人が自然に対する畏敬の気持ちを強く持っていたとしたら、幼魚の育っている水辺を支配する超越的存在を実感し、その存在に名前を付けた可能性があります。
アイヌ語は、超越的存在に対して kamuy(=神)という言葉を持っています。それならば、幼魚のいる場所に、ウバ・カムイ=姥神という地名が残っていても不自然ではないでしょう。
そこで、5万分の1地図を調べたところ、それらしい地名が見つかりました。北海道、江差町の字名である姥神町です。ここは、沖に鴎島と呼ばれる岩礁を持ち、100m級の丘と谷が連なった港町です。町内に姥神大神宮がありますが、社伝を見ると元の場所から現在地に移築されたようで、地形との対応ははっきりしていません。しかし、姥神町沿岸が岩礁地帯ですから、原義の「幼魚がいる」環境の中に姥神大神宮があり、姥神町があると理解してよいようです。
後世に老女を「ウバ」と呼ぶ集団が日本列島に移住して、「ウバ」に「姥」の字を当てはめ、アイヌ語系の「ウバ(幼魚のいる)」にも「姥」の字を代用したため、老女を連想させる「姥神」を誕生させることになってしまったのが真相でしょう。「姥神」には、なんとなく暗く不気味な語感がありますが、原義はもっと明るく恵み深い神だったのでしょう。
語呂合わせで文字を選べば、「乳母(うば)神」や「生場(うば)神」の方が原義に近い表記でしょうが、後続の移住者にとっては、文字を持たない現地人の敬う神はなんとなく胡散臭い怪しげな神であって、「姥神」と表記するのが相応しいと考えたのかも知れません。
アイヌ語で「up-an-kamuy=幼魚・いる・神」と単純に並べて良いかどうか、実は疑問があります。「幼魚・いる・(場所を司る)・神」を意味したいとき、どのような表現がアイヌ語として正しいか、アイヌ語の権威者にお伺いを立てる必要があると思います。
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