北国街道柳ケ瀬。宿場ではなく間の宿の役割があった集落です。道の中央には今も昔ながらの水路が残っています。
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北国街道柳ケ瀬。宿場ではなく間の宿の役割があった集落です。道の中央には今も昔ながらの水路が残っています。
明治天皇小休止跡。明治11年に北陸行幸がありました。敦賀側から来られています。
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明治天皇小休止跡。明治11年に北陸行幸がありました。敦賀側から来られています。
宿の北方には彦根藩の柳瀬関所が置かれていました。女改めが特に厳しかったようで武士2人と番役8人が管理して夜間の通行は一切許されていませんでした。
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宿の北方には彦根藩の柳瀬関所が置かれていました。女改めが特に厳しかったようで武士2人と番役8人が管理して夜間の通行は一切許されていませんでした。
刀根道は左へ。右は北国街道今庄方面。
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刀根道は左へ。右は北国街道今庄方面。
右 えちぜん、かが、のと道、左 つるが、三国ふねのりば
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右 えちぜん、かが、のと道、左 つるが、三国ふねのりば
長閑な道筋。前方に見える橋で川を渡ります。
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長閑な道筋。前方に見える橋で川を渡ります。
この先で右に折れて尾根道に取りつきます。
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この先で右に折れて尾根道に取りつきます。
入口には案内看板があるので迷うことはないでしょう。ただし絵図によっては尾根道ではなく川筋を上っていくものもあるのでどちらが正解かは謎です。
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入口には案内看板があるので迷うことはないでしょう。ただし絵図によっては尾根道ではなく川筋を上っていくものもあるのでどちらが正解かは謎です。
藪や倒木はそれほどない歩きやすい道です。
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藪や倒木はそれほどない歩きやすい道です。
所々で古い石積みが散見されます。
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所々で古い石積みが散見されます。
この付近においては明治の測量地図や古絵図、現代の地理院地図によって道筋が若干違います。普通に登るならばそのまま見える道を進めば良いですが所々で旧道を付け替えたと思われる箇所を確認することができます。
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この付近においては明治の測量地図や古絵図、現代の地理院地図によって道筋が若干違います。普通に登るならばそのまま見える道を進めば良いですが所々で旧道を付け替えたと思われる箇所を確認することができます。
一見は廃道でも明らかに昔の人の手が入った道筋です。
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一見は廃道でも明らかに昔の人の手が入った道筋です。
大きなヘアピンになった道筋は江戸時代のものではない可能性が高いです。峠の区間は明治11年の明治天皇の行幸の折に大きく改修されています。
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大きなヘアピンになった道筋は江戸時代のものではない可能性が高いです。峠の区間は明治11年の明治天皇の行幸の折に大きく改修されています。
これも元々あった道の痕跡ですね。
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これも元々あった道の痕跡ですね。
倒木はこの程度のものが数か所。
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倒木はこの程度のものが数か所。
崖崩れはこの程度のものが一か所程度。
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崖崩れはこの程度のものが一か所程度。
峠が近くなると日当たりがいいので少々藪っている感じでした。
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峠が近くなると日当たりがいいので少々藪っている感じでした。
川の源流。絵図の一つにあった川筋の道はこの辺りで合流していたものと思われます。
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川の源流。絵図の一つにあった川筋の道はこの辺りで合流していたものと思われます。
倉坂峠。近江ではこの名前で呼ぶことが多いようです。他に柳ヶ瀬峠、久々坂峠とも。今回の道筋の名称においては刀根越、久々坂、柳ケ瀬道などいくつか存在しています。
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倉坂峠。近江ではこの名前で呼ぶことが多いようです。他に柳ヶ瀬峠、久々坂峠とも。今回の道筋の名称においては刀根越、久々坂、柳ケ瀬道などいくつか存在しています。
峠は大きな切通しになっています。右に上れば柳ケ瀬山、賤ケ岳の戦いの柴田勝家本陣だった玄蕃尾城はすぐ。
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峠は大きな切通しになっています。右に上れば柳ケ瀬山、賤ケ岳の戦いの柴田勝家本陣だった玄蕃尾城はすぐ。
風の通りはよく天然のクーラーのようでした。
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風の通りはよく天然のクーラーのようでした。
右手に祠がありますが昔は祠に沿ってそのまま下っていたと思われます(現在廃道)
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右手に祠がありますが昔は祠に沿ってそのまま下っていたと思われます(現在廃道)
アスファルト道と合流する辺りにトイレがあります。
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アスファルト道と合流する辺りにトイレがあります。
先ほどの祠はトイレの先から道が伸びていたと思われますが豪雪地帯であるがゆえに地形が変わって痕跡は残ってないようです。
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先ほどの祠はトイレの先から道が伸びていたと思われますが豪雪地帯であるがゆえに地形が変わって痕跡は残ってないようです。
この辺りは川の右側を通っていたと思われます。
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この辺りは川の右側を通っていたと思われます。
その道はこの辺りで合流(振り返って撮影)
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その道はこの辺りで合流(振り返って撮影)
やがて北陸自動車道の下をくぐります。
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やがて北陸自動車道の下をくぐります。
ここから先の旧道は北陸自動車道や鉄道によって吸収された箇所が多くなっています。
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ここから先の旧道は北陸自動車道や鉄道によって吸収された箇所が多くなっています。
柳ケ瀬トンネル。完成した当時は日本最長のトンネルでした。ちなみに北陸線開通当時はトンネルは未完成だったのでトンネルの前後で徒歩連絡になっていました。峠道が一地方街道にも関わらず立派な道筋になっているのはこの影響もあったものと思われます。
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柳ケ瀬トンネル。完成した当時は日本最長のトンネルでした。ちなみに北陸線開通当時はトンネルは未完成だったのでトンネルの前後で徒歩連絡になっていました。峠道が一地方街道にも関わらず立派な道筋になっているのはこの影響もあったものと思われます。
この付近は鉄道跡ではなく北陸自動車道建設に伴って整備された道です。このような判断は古い空中写真から判別することができます。
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6/9 11:47
この付近は鉄道跡ではなく北陸自動車道建設に伴って整備された道です。このような判断は古い空中写真から判別することができます。
北陸自動車道脇に残された石仏。道は消滅したものの山肌に街道の痕跡が残されていることがあります。
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6/9 11:54
北陸自動車道脇に残された石仏。道は消滅したものの山肌に街道の痕跡が残されていることがあります。
この付近も北陸自動車道建設に伴う代替道路。所々で元々の旧道と重なっていることがありますが大部分は高速道路下に眠っています。
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6/9 11:58
この付近も北陸自動車道建設に伴う代替道路。所々で元々の旧道と重なっていることがありますが大部分は高速道路下に眠っています。
刀根集落が見えてきました。地名の由来の一説は豪族の庄内刀根が坂道を修復したことから。女留ノ口番所が置かれていました。
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6/9 12:12
刀根集落が見えてきました。地名の由来の一説は豪族の庄内刀根が坂道を修復したことから。女留ノ口番所が置かれていました。
旧道は集落内へ。左へ。
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旧道は集落内へ。左へ。
明治天皇小休止場所。かつての鉄道の柳ケ瀬線刀根駅はこの付近にありましたが現在は北陸自動車道刀根パーキングエリアの一部になっています。
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6/9 12:16
明治天皇小休止場所。かつての鉄道の柳ケ瀬線刀根駅はこの付近にありましたが現在は北陸自動車道刀根パーキングエリアの一部になっています。
戦後間もない頃に刀根で大火があって復興したことを記す碑。
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6/9 12:19
戦後間もない頃に刀根で大火があって復興したことを記す碑。
公民館前には刀根トンネルの要石が保存されていました。
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公民館前には刀根トンネルの要石が保存されていました。
刀根集落の端で右に折れますが本来の道筋は正面に見える建物の左側を通っていたようです。
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刀根集落の端で右に折れますが本来の道筋は正面に見える建物の左側を通っていたようです。
この区間は元々は氣比神社の参道。この先で左に曲がりますが神社の横で昼食にしました。
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この区間は元々は氣比神社の参道。この先で左に曲がりますが神社の横で昼食にしました。
氣比神社。この左手に東屋があり飲み物の自販機もあります。
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氣比神社。この左手に東屋があり飲み物の自販機もあります。
橋を渡って左へ。
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橋を渡って左へ。
このトンネルの手前での本来の道は右に大きく弧を描いて進んでいたのですが北陸自動車道によって分断されています。
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このトンネルの手前での本来の道は右に大きく弧を描いて進んでいたのですが北陸自動車道によって分断されています。
分断された向こう側はこのような感じ。
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分断された向こう側はこのような感じ。
ここで左手から北陸本線の旧線と合流します。
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ここで左手から北陸本線の旧線と合流します。
小刀根トンネル。煤が付いているのはSLが通っていた証ですね。当時の姿を完全には留めている鉄道トンネルは最古のものとなっています。
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小刀根トンネル。煤が付いているのはSLが通っていた証ですね。当時の姿を完全には留めている鉄道トンネルは最古のものとなっています。
旧道は右へ。鉄道はそのまま直進していました。
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6/9 13:12
旧道は右へ。鉄道はそのまま直進していました。
旧道は川沿いに。
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旧道は川沿いに。
工事中ですが問題なく通れます。江戸時代の川筋はもう少し内側だったようで浸食によって外側外側へと移っていってるようです。ゆえにかつての旧道は現在の川の中にあったものと思われます。
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工事中ですが問題なく通れます。江戸時代の川筋はもう少し内側だったようで浸食によって外側外側へと移っていってるようです。ゆえにかつての旧道は現在の川の中にあったものと思われます。
高速道路を潜ってその先へ。かつての道筋は右斜め方向に延びていたと思われます。
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6/9 13:25
高速道路を潜ってその先へ。かつての道筋は右斜め方向に延びていたと思われます。
ここの舗装道路は鉄道跡。旧道はこの付近を右に折れて川沿いへと進んでいたと思われます。
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ここの舗装道路は鉄道跡。旧道はこの付近を右に折れて川沿いへと進んでいたと思われます。
その川沿いの道は酷い藪な上に大規模土砂崩れがあった影響で通ることが出来ません。
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6/9 13:32
その川沿いの道は酷い藪な上に大規模土砂崩れがあった影響で通ることが出来ません。
その土砂崩れ復旧現場が対岸に見えます。ちなみに歩いている舗装路は鉄道跡ですが右隣りにアスファルト道が存在しています。明治以降の旧道になります。
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その土砂崩れ復旧現場が対岸に見えます。ちなみに歩いている舗装路は鉄道跡ですが右隣りにアスファルト道が存在しています。明治以降の旧道になります。
廃道になった川沿いの道と再び合流します。こちら側は少しだけ痕跡が残っています。
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廃道になった川沿いの道と再び合流します。こちら側は少しだけ痕跡が残っています。
その痕跡1
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その痕跡1
その痕跡2。この先で土砂が崩落して完全に道が埋もれているようです。
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その痕跡2。この先で土砂が崩落して完全に道が埋もれているようです。
麻生口交差点付近。この舗装路は鉄道跡。ここで右に折れて旧道へ。
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麻生口交差点付近。この舗装路は鉄道跡。ここで右に折れて旧道へ。
北陸自動車道の脇を進みます。
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北陸自動車道の脇を進みます。
藪はそれほどでもありません。
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藪はそれほどでもありません。
途中でアスファルト道になって曽々木集落に入ります。
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途中でアスファルト道になって曽々木集落に入ります。
曽々木集落。
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曽々木集落。
本来は川沿いを真っすぐですが崩落しているので左の橋を渡って迂回します。
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本来は川沿いを真っすぐですが崩落しているので左の橋を渡って迂回します。
ちなみに望遠レンズで見るとかなり浸食されているのがわかります。
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ちなみに望遠レンズで見るとかなり浸食されているのがわかります。
迂回路と川沿いの道は橋の先で再び合流します。
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6/9 14:17
迂回路と川沿いの道は橋の先で再び合流します。
川沿いの道には路盤が若干残っているように見えます。
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6/9 14:17
川沿いの道には路盤が若干残っているように見えます。
国道8号を進みます。この付近の国道は鉄道跡を活用しています。ちなみにこの写真の場所の旧道は木と木の間にある平場を湾曲しながら進んでいたと思われます。
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国道8号を進みます。この付近の国道は鉄道跡を活用しています。ちなみにこの写真の場所の旧道は木と木の間にある平場を湾曲しながら進んでいたと思われます。
そしてこの場所で合流してきます(振り返って撮影)
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そしてこの場所で合流してきます(振り返って撮影)
右へ。旧国道8号線に入ります。
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右へ。旧国道8号線に入ります。
路盤が古いコンクリート舗装になっています。
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路盤が古いコンクリート舗装になっています。
土砂崩落していますが問題ありません。
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土砂崩落していますが問題ありません。
絵図によってはここから対岸に渡って川沿いに進んでいるものがあります。
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絵図によってはここから対岸に渡って川沿いに進んでいるものがあります。
この先で左に曲がります。
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この先で左に曲がります。
突き当りの左右の道は旧道です。右が疋田方向ですが左にも行って様子を見てきます。
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突き当りの左右の道は旧道です。右が疋田方向ですが左にも行って様子を見てきます。
左に進めば程なくして国道8号にぶつかります。国道8号から先50mぐらいで旧国道8号に合流しますが道が消滅しています。このようになったのは国道ですら舗装が珍しかった時代は脇道であった旧街道まで舗装が行き届いてなかったと考えるのが自然です。新国道開通によって盲腸区間になった50mほどは舗装でなかったゆえに完全に消滅してしまったのでしょう。
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左に進めば程なくして国道8号にぶつかります。国道8号から先50mぐらいで旧国道8号に合流しますが道が消滅しています。このようになったのは国道ですら舗装が珍しかった時代は脇道であった旧街道まで舗装が行き届いてなかったと考えるのが自然です。新国道開通によって盲腸区間になった50mほどは舗装でなかったゆえに完全に消滅してしまったのでしょう。
橋を渡ります。
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橋を渡ります。
川沿いに進んでいた旧道の一つは橋の先で合流します。こう見ると薄っすらと路盤があるように見えます。
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川沿いに進んでいた旧道の一つは橋の先で合流します。こう見ると薄っすらと路盤があるように見えます。
旧道は学校の校庭で分断されています。道なりに迂回します。
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旧道は学校の校庭で分断されています。道なりに迂回します。
国道を越えて西近江路との追分へ。
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国道を越えて西近江路との追分へ。
疋田宿に入ります。
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疋田宿に入ります。
明治6年の道標。「右 西京かい津志ほつ 左 東京きの本道 西方はれて千鳥みせたきねかひかな」ここでいう東京とは江戸のことで西京は東京奠都にともなう東京に対する京都の俗称です。
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明治6年の道標。「右 西京かい津志ほつ 左 東京きの本道 西方はれて千鳥みせたきねかひかな」ここでいう東京とは江戸のことで西京は東京奠都にともなう東京に対する京都の俗称です。
疋田宿は水路があります。かつては倍の川幅があって船溜まりもあり日本海の物資を積みかえて陸路を進んで琵琶湖を経由して京へと運ばれていました。
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疋田宿は水路があります。かつては倍の川幅があって船溜まりもあり日本海の物資を積みかえて陸路を進んで琵琶湖を経由して京へと運ばれていました。
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