北海道の後に 将棋の町「天童」にて駒探し
- GPS
- 04:22
- 距離
- 9.5km
- 登り
- 185m
- 下り
- 184m
コースタイム
- 山行
- 4:15
- 休憩
- 0:08
- 合計
- 4:23
天候 | 曇り時々雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2019年08月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
写真
感想
この日、どこか歩きたいと思っていた。普通だったら白神山地や大朝日岳、飯豊山、乳頭山辺りを考えていたが、それまでの北海道の山々のことで脳みそが疲れてしまったので気楽に歩ける街歩きにすることにした。
で、木曜日の夜から金曜日にかけてフェリーに乗り、金曜日には山形県入りをしていたので当然山形県の中から選ぶこととした。有力な候補は3つ、将棋の街天童、最上家の伝統の山形、芭蕉も訪れたという山寺、他に候補をあげるとすれば面白山高原、米沢辺りであろうか。
その中で今回は天童を歩くこととした。
天童市が将棋の街として知られているのは、駒の生産量が90%以上を誇るからだ。江戸時代、武士の内職として奨励された。将棋がどのようにして生まれ大衆に広まったのかということについてはここでは触れないが江戸時代中期には大衆の中で楽しまれていたものである。
1828年、配置替えになってこの地に織田家がやってきた。この織田家は織田信長の傍流である。2万石という録の少なさの中で将棋駒の製作を奨励しこの地の名物となった。将棋家元制度の中で幕府に保護されてきた将棋だが庶民も結構指していたのである。
こうして、天童は将棋の街として知られるようになった。
現在の天童は各所に将棋のオブジェがあったり、桜まつりでは人間将棋が行われたりしているのは話に聞いてはいるので、その様子を見てもたかったのである。駅から様々なものを撮影しながら進んでゆく。目指すは人間将棋が行われる舞鶴山だ。でも、その前に織田信長を祀神とした神社があったり将棋の駒を作る木が説明付きで植えられていたりと、撮影したいところが次々に出てきていた。
大山康治十五世名人の書による将棋の塔、そこから見下ろす将棋盤。三角点、ケヤキ。今度人間将棋を見に来たいと思った。
その後、更に天童市内を巡る。道の駅、天童温泉街、そして市内を流れる川に将棋の駒の表示があったり市役所の駐車場の車止めも駒だったりする。本当に徹底していると思い、それらを撮影するのは楽しい。
気温も上がってきてそろそろ最後の見所である将棋博物館に出向く。以前にも来たことがあるのだがここの展示は主に「将棋の成り立ちや歴史」「将棋の駒の製造」に特化している。でも、将棋の歴史といっても説明文があるだけで、歴代永世名人の肖像画や写真があったりすることはない。様々な名将棋やエピソードがかたられるわけでもない。
過去に日本将棋連盟に出向いたことがあるが一般の人が入れるのは1階のショップ(当時の藤井4段のクリアファイルと駒があしらわれているボールペンを買った。)と、2階の道場(指したい人は指すことができる)のみだ。
初代永世名人と言われる初代大橋宗桂からの様々な名勝負、エピソード、それのまつわる物品、タイトル線の歴史などを気軽に見ることができるような博物館ができたら行ってみたいなあと思う。
その後、自宅に向けて運転をして戻ってきた。この旅では3435km運転し、2万kmを越えた。でも、給油は新潟、札幌、十勝清水、函館の4回で済んだ。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
天童の街…大人の休日倶楽部パスを利用して、1時間だけ持ち時間があったので、ダラダラと、街中を歩いたことがあります。
その時に駅近くに舞鶴山があるなとは思ったものの、さすがに時間が足りないと思って下から見上げるだけでした
駅そばがあったのも分かりましたが、こちらも時間不足でした。
隊長
半袖隊長、こんにちは。コメントありがとうございます。
天童は面白い町でしたね。隣に山形市という大きな町がありながらも城下町だったんですね。そのせいで武士の内職として駒の生産が奨励されたという歴史、そして、将棋の街という現在、じっくり見ることができてよかったと思っています。
惜しむらくは昼食になるような名物があるとなおよかったですね。
aideiei@富山県でした。
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する