小槍
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- GPS
- 20:59
- 距離
- 51.7km
- 登り
- 2,008m
- 下り
- 2,014m
コースタイム
- 山行
- 3:16
- 休憩
- 0:38
- 合計
- 3:54
- 山行
- 12:40
- 休憩
- 4:13
- 合計
- 16:53
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2019年09月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
写真
先行は2パーティで7人。取りつきで1時間ほど、懸垂で30分ほど待たされましたが天気が良かったので助かった。
1ピッチ目は2級15mのチムニーでいったんピッチを切ります。
ルートはジグザグに屈曲するのでダブルロープが有利。残置ピトンはたくさんあるのでプレッシャーはなし。そこから山頂までは稜線通しに10mぐらいだが、狭い山頂に先行の5人が休んでいるので石を落とさないように慎重に登頂。
古野が先に下って懸垂終了後は、ロープの末端を握る。万一懸垂下降中に手を放してしまった場合、末端のロープを引いてやると摩擦が増えて止まってくれるはず。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
Tシャツ
長袖インナー
ソフトシェル
ズボン
靴下
グローブ
防寒着
雨具
日よけ帽子
着替え
靴
ザック
昼ご飯
行動食
非常食
飲料
水筒(保温性)
ライター
地図(地形図)
トポ
コンパス
笛
計画書
ヘッドランプ
予備電池
GPS
筆記用具
ファーストエイドキット
ガムテープ
常備薬
日焼け止め
ロールペーパー
保険証
携帯
時計
サングラス
タオル
ナイフ
カメラ
ポール
テント
テントマット
シェラフ
ロープ
クライミングシューズ
ハーネス
ヘルメット
チョーク
確保機
ロックカラビナ
カラビナ
クイックドロー
スリング
ロープスリング
セルフビレイランヤード
ディッセンダー
|
---|---|
共同装備 |
60mダブルロープ2本
ツェルト
|
感想
大槍の初登頂は播隆上人と案内人の中田又重郎。
三郷南小倉の豪農中田又重郎は飛騨新道(小倉〜鍋冠山〜大滝山〜蝶ヶ岳〜上高地〜中尾峠〜飛騨)建設工事の陣頭をとっていました。この建設中のルートを利用して播隆を案内し1828年(文政11)7月28日に登頂。山頂に仏像3体を安置して「開山」。
その後、天保年間にロープやクサリも付けられて、多くの登山者(巡礼者)が登るようになりました。
小槍の登攀史について
1922年(大正11)夏、信濃山岳会の土橋庄三と、有明の案内人中山彦一が南面ルートより初登攀に成功しています。中山彦一はすでに岩登りの名人として知られていました。
「切れたザイル ―小槍登攀史上、初の犠牲者― 」小島隼太郎(小島烏水の長男)より抜粋。
宇治達二「山の人々」(同人誌「岳」1929年(昭和4)発行)によると、
「岩場に於いての彼(中山彦一)の確実さは驚異に値する。小槍の写真を撮る為に鞍部から殆ど頂上まで角を登り、相当ひどいオーバーハングを登った。」
「この一文の最後のくだりを読んだ私(小島隼太郎)は、正直のところ呆れた。(中略)岩場ではザイルと供にピトンが使用されていた時代に、バランスと腕力に物をいわせて『相当ひどいオーバーハングを登った』中山の技術には、宇治ならずともあの当時の技術水準よりすれば『驚異に値する』ものであろう。この中山も常念で吹雪で凍死した有明村の案内塚田清治等の遺骸引き下ろし作業のため、1932年(昭和7)3月29日、一の沢で雪崩に巻き込まれて生命を絶った。二重遭難事件であった。」
この後に小槍で初の死亡事故(ザイル切断事件)が発生したが、本文とは直接関係ないため省略。
すでに小槍は3000mのゲレンデと化していますが、最初に登った中山彦一はアドレナリン全開だったことでしょう。
「山岳 第一年第三号」にある「徳本峠と槍ヶ岳 河邨白水」によると、1906年(明治39)8月9日、大槍に登る前、小槍に登ったとの記載を見つけた。
「ついに信濃飛騨分け目の馬の背に立って前と後ろを較べる。槍に登る前に先づ南の方の小槍に上って左梓川の渓谷、右蒲田渓谷の中央に立って四方を眺める。」との記述。
小槍は大槍の北西に位置するが、「南の方」と言っているのでおそらく槍ヶ岳山荘の南にある大岩のことを小槍と勘違いしたのだと思われます。
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