再び日光街道第5日目。幸手団地入口交差点です。いよいよ幸手宿です。地元なので今日は幸手宿を中心に幸手宿近辺もじっくり廻ります。
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10/23 8:24
再び日光街道第5日目。幸手団地入口交差点です。いよいよ幸手宿です。地元なので今日は幸手宿を中心に幸手宿近辺もじっくり廻ります。
ここを斜め左に進むのが日光街道です。
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10/23 8:33
ここを斜め左に進むのが日光街道です。
上高野村道路元標。元はこの先の日光御成道との合流点にありました。
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10/23 8:40
上高野村道路元標。元はこの先の日光御成道との合流点にありました。
圏央道を潜ります。幸手も幸手インターができて便利になりました。
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10/23 8:42
圏央道を潜ります。幸手も幸手インターができて便利になりました。
上高野神社。明治42年旧上高野村内の11社が八阪神社を中心に合祀されました。江戸時代は「牛頭(ごず)天王社」と称されました。7月第2土曜日曜日に神輿渡御祭が行われます。
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10/23 8:50
上高野神社。明治42年旧上高野村内の11社が八阪神社を中心に合祀されました。江戸時代は「牛頭(ごず)天王社」と称されました。7月第2土曜日曜日に神輿渡御祭が行われます。
上高野神社境内にある天満宮。幸手一色氏が鎌倉の荏柄天神社に倣って勧進した幸手五天神の一つ。
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10/23 8:50
上高野神社境内にある天満宮。幸手一色氏が鎌倉の荏柄天神社に倣って勧進した幸手五天神の一つ。
境内に大般若経600巻を書写した心学者鈴木百淵の書写供養塔があります。
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10/23 8:51
境内に大般若経600巻を書写した心学者鈴木百淵の書写供養塔があります。
日光道中・日光御成道合流点。左折するのが日光御成道、日光街道は右折します。
昔ここに茶屋があり道しるべもあったようです。
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10/23 8:57
日光道中・日光御成道合流点。左折するのが日光御成道、日光街道は右折します。
昔ここに茶屋があり道しるべもあったようです。
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10/23 8:58
合流地点にある石井酒造。天保11年(1840)創業。昔はこの辺り一帯が造り酒屋でした。今は縮小して酒造りを続けています。和洋折衷の建物が古さを示しています。銘酒「初緑」「豊明」。
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10/23 9:00
合流地点にある石井酒造。天保11年(1840)創業。昔はこの辺り一帯が造り酒屋でした。今は縮小して酒造りを続けています。和洋折衷の建物が古さを示しています。銘酒「初緑」「豊明」。
太子堂。ここの本尊は孝養像と言って聖徳太子の少年像です。太子は法隆寺を建立したことや大工道具の曲尺を発明したと言われることから大工の神様としても信仰を集めていました。
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10/23 9:04
太子堂。ここの本尊は孝養像と言って聖徳太子の少年像です。太子は法隆寺を建立したことや大工道具の曲尺を発明したと言われることから大工の神様としても信仰を集めていました。
神宮寺と薬師堂。源頼朝が奥州征伐の時に戦勝を祈願したお寺です。この寺は「鷹尾山誓願院神宮寺」と言いますが、頼朝がここで鷹狩りをした時、逃げた鷹が薬師堂の薬師如来に誓願したら無事戻ってきたという伝説からこの名前になりました。
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10/23 9:07
神宮寺と薬師堂。源頼朝が奥州征伐の時に戦勝を祈願したお寺です。この寺は「鷹尾山誓願院神宮寺」と言いますが、頼朝がここで鷹狩りをした時、逃げた鷹が薬師堂の薬師如来に誓願したら無事戻ってきたという伝説からこの名前になりました。
神宮寺薬師堂。
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10/23 9:08
神宮寺薬師堂。
大阿寺仲墓地。旧光福院跡。鈴木百淵が開いた寺小屋「文中堂」がありました。
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10/23 9:09
大阿寺仲墓地。旧光福院跡。鈴木百淵が開いた寺小屋「文中堂」がありました。
鈴木百淵夫妻の墓。
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10/23 9:12
鈴木百淵夫妻の墓。
祥安寺(しょうあんじ)。幸手宿の右馬之助町の名主中村平左衛門は亡くなった妻と娘のために建立したお寺で中村家の菩提寺になっています。それと鈴木百淵が書写した大般若経600巻がこのお寺に保管されています。
またここは幸手城の馬場だったと言われています。
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10/23 9:22
祥安寺(しょうあんじ)。幸手宿の右馬之助町の名主中村平左衛門は亡くなった妻と娘のために建立したお寺で中村家の菩提寺になっています。それと鈴木百淵が書写した大般若経600巻がこのお寺に保管されています。
またここは幸手城の馬場だったと言われています。
中村家の墓。
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10/23 9:22
中村家の墓。
志手橋。幸手宿はここが入口で約1km続きます。昔は長さが21間もある大きな橋でこの下には志手沼が広がっていました。幸手ではここで静御前が身を投げたという伝説が残っています。
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10/23 9:33
志手橋。幸手宿はここが入口で約1km続きます。昔は長さが21間もある大きな橋でこの下には志手沼が広がっていました。幸手ではここで静御前が身を投げたという伝説が残っています。
神明神社。宝暦5年(1755)建立されました。
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10/23 9:37
神明神社。宝暦5年(1755)建立されました。
境内の今宮大杉神社。「あんばさま」と呼ばれ、6月27日に幸手の夏祭りの先駆けとして神輿が繰り出されます。
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10/23 9:37
境内の今宮大杉神社。「あんばさま」と呼ばれ、6月27日に幸手の夏祭りの先駆けとして神輿が繰り出されます。
境内の成田不動尊と菅谷不動尊。目の病が成田不動尊のお告げにより、菅谷不動尊に参詣したらたちどころに治ったという伝説があります。菅谷不動尊を火災から守ったタニシにあやかり菅谷不動尊は「螺不動」と呼ばれ目の病を患った人の信仰を集めたと言われています。
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10/23 9:38
境内の成田不動尊と菅谷不動尊。目の病が成田不動尊のお告げにより、菅谷不動尊に参詣したらたちどころに治ったという伝説があります。菅谷不動尊を火災から守ったタニシにあやかり菅谷不動尊は「螺不動」と呼ばれ目の病を患った人の信仰を集めたと言われています。
境内の石灯篭の台座に几号水準点があります。他から移設したものと思われます。この几号水準点は東京・塩釜間の20番目にあたり、現存しているものでは13番目です。
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10/23 9:40
境内の石灯篭の台座に几号水準点があります。他から移設したものと思われます。この几号水準点は東京・塩釜間の20番目にあたり、現存しているものでは13番目です。
高札場跡。今は何も残っていません。
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10/23 9:40
高札場跡。今は何も残っていません。
岸本家住宅主屋。幸手で唯一の国登録有形文化財です。かっては醤油醸造業を営み、明治33年(1900)パリ万博で銅賞を受賞しました。関東大震災で壊滅的被害を受け、現在は主屋のみ残しています。屋根正面が切妻造り、背面が寄棟造りの見事な造りです。
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10/23 9:40
岸本家住宅主屋。幸手で唯一の国登録有形文化財です。かっては醤油醸造業を営み、明治33年(1900)パリ万博で銅賞を受賞しました。関東大震災で壊滅的被害を受け、現在は主屋のみ残しています。屋根正面が切妻造り、背面が寄棟造りの見事な造りです。
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10/23 9:42
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10/23 9:41
明治天皇行在所跡。ここに右馬之助町の名主中村平左衛門邸がありました。明治天皇は、明治9年に1泊この時は知久本陣に泊まりましたが、明治14年に2泊、明治29年に3泊と計5泊この中村家に泊まっています。今は東郷平八郎が書いた石碑が残るのみです。
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10/23 9:42
明治天皇行在所跡。ここに右馬之助町の名主中村平左衛門邸がありました。明治天皇は、明治9年に1泊この時は知久本陣に泊まりましたが、明治14年に2泊、明治29年に3泊と計5泊この中村家に泊まっています。今は東郷平八郎が書いた石碑が残るのみです。
幸手城跡。今年3月に竣工したばかりの新しい幸手駅の駅舎です。ここに室町時代後期から徳川時代前期まで幸手城(陣屋)があったと言われています。古河公方の家臣だった幸手一色氏の城です。幸手一色氏は徳川家康から5160石の知行を得て、知行替えで現在の野田市に移りました。
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10/23 9:48
幸手城跡。今年3月に竣工したばかりの新しい幸手駅の駅舎です。ここに室町時代後期から徳川時代前期まで幸手城(陣屋)があったと言われています。古河公方の家臣だった幸手一色氏の城です。幸手一色氏は徳川家康から5160石の知行を得て、知行替えで現在の野田市に移りました。
一色稲荷神社。別名陣屋稲荷とも言い、幸手一色氏の陣屋の中にあったと言われています。神仏習合が今でも残り、縁日には日蓮宗の坊さんがお経をあげています。
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10/23 9:50
一色稲荷神社。別名陣屋稲荷とも言い、幸手一色氏の陣屋の中にあったと言われています。神仏習合が今でも残り、縁日には日蓮宗の坊さんがお経をあげています。
この前の道は古道で奥州に続く道でした。鎌倉街道中道だったという説もあります。ちょっと歩いてみましょう。
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10/23 9:50
この前の道は古道で奥州に続く道でした。鎌倉街道中道だったという説もあります。ちょっと歩いてみましょう。
天神神社。裏町天神とも言われ幸手一色氏が建立した幸手五天神の一つです。幸手城の鬼門に位置し幸手一色氏の守護神でした。
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10/23 9:53
天神神社。裏町天神とも言われ幸手一色氏が建立した幸手五天神の一つです。幸手城の鬼門に位置し幸手一色氏の守護神でした。
日光街道に戻りました。幸手宿の続きを歩きます。幸手宿は他の宿場町に比べて道幅が広く6間ありました。
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10/23 9:58
日光街道に戻りました。幸手宿の続きを歩きます。幸手宿は他の宿場町に比べて道幅が広く6間ありました。
旧旅籠「朝萬(あさよろず)」。文政2年(1819)創業。200年の歴史を持ちます。幸手宿には27の旅籠がありましたが現存するのはこの1軒のみです。現在も営業しており、館内に伊藤博文、板垣退助、大久保利通等の宿札が残っています。
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10/23 9:59
旧旅籠「朝萬(あさよろず)」。文政2年(1819)創業。200年の歴史を持ちます。幸手宿には27の旅籠がありましたが現存するのはこの1軒のみです。現在も営業しており、館内に伊藤博文、板垣退助、大久保利通等の宿札が残っています。
幸手宿の家並みは何故か街道に対して正面を向いておらず、斜めに向いています。何故なのかは分かっていません(色々な説はありますが)。
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10/23 10:00
幸手宿の家並みは何故か街道に対して正面を向いておらず、斜めに向いています。何故なのかは分かっていません(色々な説はありますが)。
永文商店。旧家の雰囲気ありますね。側面に芭蕉と曽良の絵が描かれています。
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10/23 10:04
永文商店。旧家の雰囲気ありますね。側面に芭蕉と曽良の絵が描かれています。
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10/23 10:12
この店に「横丁鉄道」があります。宿場町特有の間口が狭くて奥行きが長い家では荷物の運搬が大変で、このようにレールを作ってトロッコで運んでいました。このようなレールは幸手に3箇所残っており、現役で働いているのはここだけです。
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10/23 10:03
この店に「横丁鉄道」があります。宿場町特有の間口が狭くて奥行きが長い家では荷物の運搬が大変で、このようにレールを作ってトロッコで運んでいました。このようなレールは幸手に3箇所残っており、現役で働いているのはここだけです。
問屋場跡。幸手宿の4人の名主が交代で問屋になり、幸手宿は人足25人、馬25匹が割り当てられました。
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10/23 10:07
問屋場跡。幸手宿の4人の名主が交代で問屋になり、幸手宿は人足25人、馬25匹が割り当てられました。
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10/23 10:05
幸手宿知久本陣跡。本陣は代々知久家が務めました。特に6代目の知久文左衛門景信は幸手宿の発展に尽くしました。明治の本陣廃止令で没落し幸手を去りました。説明板のみ残っています。本陣跡地に久喜新道が作られました。久喜新道を少し歩きます。
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10/23 10:15
幸手宿知久本陣跡。本陣は代々知久家が務めました。特に6代目の知久文左衛門景信は幸手宿の発展に尽くしました。明治の本陣廃止令で没落し幸手を去りました。説明板のみ残っています。本陣跡地に久喜新道が作られました。久喜新道を少し歩きます。
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10/23 10:16
満福寺。幸手一色氏が開基。通称「幸手観音」と呼ばれ安産子育てのご利益があると言われています。毎年8月9日に「献灯会(けんとうえ)」(四万六千日の祭礼)が行われます。
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10/23 10:19
満福寺。幸手一色氏が開基。通称「幸手観音」と呼ばれ安産子育てのご利益があると言われています。毎年8月9日に「献灯会(けんとうえ)」(四万六千日の祭礼)が行われます。
所々に古い家が残っています。
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10/23 10:24
所々に古い家が残っています。
飯村医院。大正12年建築。
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10/23 10:25
飯村医院。大正12年建築。
この通りは「愛の妻路地」という洒落た名前がつけられています。昔賑わった通りで、切り妻造りの家が並んでいたためそう呼ばれました。
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10/23 10:25
この通りは「愛の妻路地」という洒落た名前がつけられています。昔賑わった通りで、切り妻造りの家が並んでいたためそう呼ばれました。
関薬局。明治13年以降の蔵造り。
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10/23 10:29
関薬局。明治13年以降の蔵造り。
成田金物店の鬼瓦に髭のようなものがありますがこれは何でしょう。「からす 」とか「殺生釘」と呼ばれるもので、魔除け、火除けのために付けられたものです。珍しいですね。
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10/23 10:29
成田金物店の鬼瓦に髭のようなものがありますがこれは何でしょう。「からす 」とか「殺生釘」と呼ばれるもので、魔除け、火除けのために付けられたものです。珍しいですね。
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10/23 10:33
この通りは妙観院横町と言って日光御廻り道の起点になっています。日光社参の時、権現堂川の出水で幸手栗橋間が不通になった場合に備えて徳川幕府が整備した栗橋宿までの迂回路です。一度も使われることのなかった「幻の御成道」でした。
こも道を歩いて寄り道します。
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10/23 10:33
この通りは妙観院横町と言って日光御廻り道の起点になっています。日光社参の時、権現堂川の出水で幸手栗橋間が不通になった場合に備えて徳川幕府が整備した栗橋宿までの迂回路です。一度も使われることのなかった「幻の御成道」でした。
こも道を歩いて寄り道します。
幸宮(さちみや)神社。幸手町の総鎮守。昔は八幡香取社と言いました。大正3年幸手町の総鎮守となり幸宮神社と名を改めました。現在改修中ですが、本殿の彫刻が見事です。
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10/23 10:35
幸宮(さちみや)神社。幸手町の総鎮守。昔は八幡香取社と言いました。大正3年幸手町の総鎮守となり幸宮神社と名を改めました。現在改修中ですが、本殿の彫刻が見事です。
境内の八坂神社。7月第3土曜日曜日の幸手の夏祭りは300年の歴史を持ち7台の山車が出て町中を練り歩きますが、ここの八坂神社の祭りです。
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10/23 10:38
境内の八坂神社。7月第3土曜日曜日の幸手の夏祭りは300年の歴史を持ち7台の山車が出て町中を練り歩きますが、ここの八坂神社の祭りです。
妙観院。上野の寛永寺の末寺で約300年の歴史を持ちます。
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10/23 10:40
妙観院。上野の寛永寺の末寺で約300年の歴史を持ちます。
境内に日光御廻り道の道標があります。
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10/23 10:40
境内に日光御廻り道の道標があります。
左面「きさい・くき道」
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10/23 10:40
左面「きさい・くき道」
右面「かぞ・わしの宮道」
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10/23 10:40
右面「かぞ・わしの宮道」
雷電神社。第11代垂仁天皇の頃、嵐の中空から黄金の雷神様が落ちてきたのをここに祀ったと言われています。日本武尊が東征の時ここで勝利を祈願し、その時この辺りを「薩手が島」と言ったことから「幸手」という名前が生まれたという説があります。アイヌ語起源説もあります。
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10/23 10:42
雷電神社。第11代垂仁天皇の頃、嵐の中空から黄金の雷神様が落ちてきたのをここに祀ったと言われています。日本武尊が東征の時ここで勝利を祈願し、その時この辺りを「薩手が島」と言ったことから「幸手」という名前が生まれたという説があります。アイヌ語起源説もあります。
境内にある御嶽山。御嶽塚とは珍しいですね。
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10/23 10:43
境内にある御嶽山。御嶽塚とは珍しいですね。
境内にある石碑。左から「瘤(こぶ)神社」「疣(いぼ)権現」「疱瘡(ほうそう)宮」。皮膚病の方は是非拝んで下さい。
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10/23 10:43
境内にある石碑。左から「瘤(こぶ)神社」「疣(いぼ)権現」「疱瘡(ほうそう)宮」。皮膚病の方は是非拝んで下さい。
日光御廻り道から北側にある寶持(ほうじ)寺に寄り道。幸手一色氏の祖である一色公深(きみふか)が開基したと言われています。
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10/23 10:52
日光御廻り道から北側にある寶持(ほうじ)寺に寄り道。幸手一色氏の祖である一色公深(きみふか)が開基したと言われています。
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10/23 10:52
一色公深の供養塔。
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10/23 10:54
一色公深の供養塔。
日光御廻り道から南側にある心鏡院にも寄り道。本尊は白檀の一本木による十一面観音で、幸手一色氏の姫の持仏だと伝えられています。
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10/23 11:09
日光御廻り道から南側にある心鏡院にも寄り道。本尊は白檀の一本木による十一面観音で、幸手一色氏の姫の持仏だと伝えられています。
牛村医院。立派な黒塀に囲まれていて城下町の雰囲気があります。この辺りの名主でした。ここが幸手城跡だという方もいます。さて日光御廻り道に戻り日光街道に戻ります。
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10/23 11:10
牛村医院。立派な黒塀に囲まれていて城下町の雰囲気があります。この辺りの名主でした。ここが幸手城跡だという方もいます。さて日光御廻り道に戻り日光街道に戻ります。
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10/23 11:12
幸手宿に戻りました。
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10/23 11:19
幸手宿に戻りました。
俳人中野三允生家。松岡子規の弟子で「ホトトギス」の選者を務めました。
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10/23 11:20
俳人中野三允生家。松岡子規の弟子で「ホトトギス」の選者を務めました。
豪商長嶋屋跡。幸手宿で隆盛を極めた呉服商。広い店舗と七つの蔵をもつ豪商でした。新田開発失敗、幕府への大量献金等で明治19年に没落しました。池大雅書の3枚の看板が現存しています。長嶋屋が創建したと言われる浅間神社に行ってみます。
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10/23 11:23
豪商長嶋屋跡。幸手宿で隆盛を極めた呉服商。広い店舗と七つの蔵をもつ豪商でした。新田開発失敗、幕府への大量献金等で明治19年に没落しました。池大雅書の3枚の看板が現存しています。長嶋屋が創建したと言われる浅間神社に行ってみます。
浅間神社。長嶋屋が創建。その証拠に常夜灯に「店内安全」とあります。山開きにあたる6月30日と7月1日に「初山」と言われる行事が行われます。赤ちゃんの額に赤い神社印を押し健やかな成長を願う行事です。
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10/23 11:28
浅間神社。長嶋屋が創建。その証拠に常夜灯に「店内安全」とあります。山開きにあたる6月30日と7月1日に「初山」と言われる行事が行われます。赤ちゃんの額に赤い神社印を押し健やかな成長を願う行事です。
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10/23 11:29
浅間神社の本殿の彫刻。ここの彫刻も見事です。
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10/23 11:30
浅間神社の本殿の彫刻。ここの彫刻も見事です。
聖福寺の勅使門。市指定文化財。将軍か日光例幣使しか通れませんでした。
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10/23 11:35
聖福寺の勅使門。市指定文化財。将軍か日光例幣使しか通れませんでした。
聖福寺。「しんてら」とも言われます。日光社参の時、将軍の昼食所で吉宗が食べた昼食が今復元され「吉宗弁当」として近くの料理店「ときわや」で食べれます。拝殿には、伝左甚五郎の彫刻や伝運慶の阿弥陀如来、長嶋屋の看板等があります。
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10/23 11:35
聖福寺。「しんてら」とも言われます。日光社参の時、将軍の昼食所で吉宗が食べた昼食が今復元され「吉宗弁当」として近くの料理店「ときわや」で食べれます。拝殿には、伝左甚五郎の彫刻や伝運慶の阿弥陀如来、長嶋屋の看板等があります。
芭蕉句碑。「幸手行けば 栗橋の関」隣に曽良の句「松杉を はさみ揃ゆる 寺の門」。深川芭蕉庵での連句会の時に作った句で「寺の門」が勅使門だと言われています。
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10/23 11:37
芭蕉句碑。「幸手行けば 栗橋の関」隣に曽良の句「松杉を はさみ揃ゆる 寺の門」。深川芭蕉庵での連句会の時に作った句で「寺の門」が勅使門だと言われています。
幸手一里塚跡。枡形が始まるところにありました。日本橋から12里目。最近石碑は立てられ、説明板も新しくなりました。
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10/23 11:42
幸手一里塚跡。枡形が始まるところにありました。日本橋から12里目。最近石碑は立てられ、説明板も新しくなりました。
正福寺。この寺は昔は内国府間(うちごうま)村側に正門がありました。江戸時代は檀林所で49の末寺を持っていました。
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10/23 11:39
正福寺。この寺は昔は内国府間(うちごうま)村側に正門がありました。江戸時代は檀林所で49の末寺を持っていました。
境内にある馬頭観音道標。街道沿いにあったものを移設したものです。
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10/23 11:39
境内にある馬頭観音道標。街道沿いにあったものを移設したものです。
左側面「日光道中」
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10/23 11:39
左側面「日光道中」
右側面「ごんげんどうがし」
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10/23 11:39
右側面「ごんげんどうがし」
境内の義賑窮餓(ぎしんきゅうが)の碑。県指定文化財。天明3年(1783)の天明の飢饉の折、幸手宿の21名の商人たちが金を出し合い、末寺の満福寺で70日間の施粥を行ったことを記念して建てられました。裏に21名の名前が彫られています。
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10/23 11:39
境内の義賑窮餓(ぎしんきゅうが)の碑。県指定文化財。天明3年(1783)の天明の飢饉の折、幸手宿の21名の商人たちが金を出し合い、末寺の満福寺で70日間の施粥を行ったことを記念して建てられました。裏に21名の名前が彫られています。
石太菓子店。明治天皇に献上された銘菓「塩がま」の老舗です。
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10/23 11:43
石太菓子店。明治天皇に献上された銘菓「塩がま」の老舗です。
国学者橘守部遺蹟碑。橘守部は29祭の時、幸手の田村家の娘と結婚し20年間この地で過ごしました。近辺の学校の校章にも「たちばな」が用いられ橘守部の偉業を讃えています。
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10/23 12:13
国学者橘守部遺蹟碑。橘守部は29祭の時、幸手の田村家の娘と結婚し20年間この地で過ごしました。近辺の学校の校章にも「たちばな」が用いられ橘守部の偉業を讃えています。
八幡神社。明応元年(1492)創建。内国府間(うちごうま)村の鎮守。
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10/23 12:22
八幡神社。明応元年(1492)創建。内国府間(うちごうま)村の鎮守。
権現堂堤が見えてきました。権現堂堤に行く前に、この周辺を十九夜塔を探しに寄り道します。
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10/23 12:28
権現堂堤が見えてきました。権現堂堤に行く前に、この周辺を十九夜塔を探しに寄り道します。
法蔵寺と十九夜塔。
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10/23 12:45
法蔵寺と十九夜塔。
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10/23 12:44
真乗院と十九夜塔。
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10/23 12:55
真乗院と十九夜塔。
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10/23 13:02
宝性院前の御廻り道に立つ馬頭観音道標。
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10/23 13:15
宝性院前の御廻り道に立つ馬頭観音道標。
「北 新井ふなとみち」
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10/23 13:15
「北 新井ふなとみち」
「東ごんげんどうみち」
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10/23 13:16
「東ごんげんどうみち」
宝性院と十九夜塔。
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10/23 13:16
宝性院と十九夜塔。
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10/23 13:16
ささら獅子舞の千塚神社。
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10/23 13:20
ささら獅子舞の千塚神社。
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10/23 13:21
寶積院と十九夜塔。
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10/23 13:34
寶積院と十九夜塔。
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10/23 13:34
残光寺と十九夜塔。
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10/23 13:48
残光寺と十九夜塔。
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10/23 13:48
高須賀池。天明6年の権現堂川の決壊によってできた池。
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10/23 13:59
高須賀池。天明6年の権現堂川の決壊によってできた池。
常福寺と十九夜塔。
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10/23 14:06
常福寺と十九夜塔。
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10/23 14:07
行幸堤之碑。江戸時代の度重なる洪水を経て、明治時代になると新しい堤防造成の機運が高まり、明治8年に旧日光街道に並行に新堤が完成しました。明治9年明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られ100円が下賜され行幸堤と名付けることが許可されました。題字は岩倉具視。
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10/23 14:14
行幸堤之碑。江戸時代の度重なる洪水を経て、明治時代になると新しい堤防造成の機運が高まり、明治8年に旧日光街道に並行に新堤が完成しました。明治9年明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られ100円が下賜され行幸堤と名付けることが許可されました。題字は岩倉具視。
権現堂堤。市指定文化財。天正4年(1576)頃に築かれたと言われてます。江戸時代には「御府内御囲堤」(江戸を守る堤)として幕府が手厚く管理しました。大正9年桜を植樹し観桜地として名声を博しましたが、戦後薪として伐採され、昭和24年に再び植樹し現在に至っています。
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10/23 14:17
権現堂堤。市指定文化財。天正4年(1576)頃に築かれたと言われてます。江戸時代には「御府内御囲堤」(江戸を守る堤)として幕府が手厚く管理しました。大正9年桜を植樹し観桜地として名声を博しましたが、戦後薪として伐採され、昭和24年に再び植樹し現在に至っています。
順礼樋管。権現堂川用水の取水施設。
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11/7 23:16
順礼樋管。権現堂川用水の取水施設。
新圦。権現堂川用水の取水施設。順礼樋管と共に煉瓦造りで、平成22年「権現堂川用水樋管群」として土木学会選奨土木遺産に認定されました。
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11/12 6:32
新圦。権現堂川用水の取水施設。順礼樋管と共に煉瓦造りで、平成22年「権現堂川用水樋管群」として土木学会選奨土木遺産に認定されました。
順礼の碑。市指定文化財。享和2年(1802)の洪水の時、堤奉行の指示で必死に改修工事を行なっていた時、順礼親娘が通りかかり、母巡礼が人身御供になって身を投げました。娘巡礼も後を追い、そして洪水が治まったという悲話が残されています。
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10/23 14:24
順礼の碑。市指定文化財。享和2年(1802)の洪水の時、堤奉行の指示で必死に改修工事を行なっていた時、順礼親娘が通りかかり、母巡礼が人身御供になって身を投げました。娘巡礼も後を追い、そして洪水が治まったという悲話が残されています。
清保堂。慶安3年(1650)亡くなった僧侶清保善士を祀っています。耳の病にご利益があり、快癒すれば錐(耳の通りが良くなる)を奉納する風習が今でも残っています。
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10/23 14:31
清保堂。慶安3年(1650)亡くなった僧侶清保善士を祀っています。耳の病にご利益があり、快癒すれば錐(耳の通りが良くなる)を奉納する風習が今でも残っています。
熊野神社。天正年間(1573〜1592)の創建。熊野権現、若宮権現、白山権現を合祀した神社で「権現堂村」の由来となりました。
拝殿の中には「権現堂修復絵馬」(市指定文化財)が掛けられていましたが、今は郷土資料館に保管されています。
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10/23 14:36
熊野神社。天正年間(1573〜1592)の創建。熊野権現、若宮権現、白山権現を合祀した神社で「権現堂村」の由来となりました。
拝殿の中には「権現堂修復絵馬」(市指定文化財)が掛けられていましたが、今は郷土資料館に保管されています。
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10/23 14:37
聖福寺閻魔堂。日光社参の時、将軍が聖福寺で休憩したときの鬼門除けとして建立されたと伝えられています。堂内には徳川家康の位牌があり、阿弥陀如来とともに閻魔大王が祀られています。
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11/8 0:00
聖福寺閻魔堂。日光社参の時、将軍が聖福寺で休憩したときの鬼門除けとして建立されたと伝えられています。堂内には徳川家康の位牌があり、阿弥陀如来とともに閻魔大王が祀られています。
境内の千日念仏廻向供養塔。市指定文化財。1200名を越える人々の法名や俗名が刻まれています。特筆すべきことは、関東郡代の伊奈家当主である忠次、忠治、忠克の法名が刻まれていることです。伊奈氏と幸手との関わりや身分の垣根を越えた供養塔だったことが分かります。
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10/23 14:42
境内の千日念仏廻向供養塔。市指定文化財。1200名を越える人々の法名や俗名が刻まれています。特筆すべきことは、関東郡代の伊奈家当主である忠次、忠治、忠克の法名が刻まれていることです。伊奈氏と幸手との関わりや身分の垣根を越えた供養塔だったことが分かります。
権現堂河岸跡。江戸時代から昭和初期まで、江戸川を利用した舟運として栄え、6軒の河岸問屋が、穀類・雑貨・食料品・木材・砂石等を扱い、幸手と江戸の流通を支えてきました。今は船頭たちの信仰した大杉様を祀る水神社があるのみです。
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10/23 14:45
権現堂河岸跡。江戸時代から昭和初期まで、江戸川を利用した舟運として栄え、6軒の河岸問屋が、穀類・雑貨・食料品・木材・砂石等を扱い、幸手と江戸の流通を支えてきました。今は船頭たちの信仰した大杉様を祀る水神社があるのみです。
大日堂。幸手の石仏の中では最も大きい大日如来の石仏が納められています。江戸時代この石仏を江戸に運ぼうとしたら、この地で船は進まず、この地に留まりたいのだろうと、ここにお祀りしたものです。
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10/23 14:49
大日堂。幸手の石仏の中では最も大きい大日如来の石仏が納められています。江戸時代この石仏を江戸に運ぼうとしたら、この地で船は進まず、この地に留まりたいのだろうと、ここにお祀りしたものです。
マリア地蔵。文政3年(1820)に作られた延命地蔵で、キリストを抱いたマリアに見立てられています。錫杖の十字架、「イメス」と刻まれた文字等がその根拠とされています。
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10/23 14:52
マリア地蔵。文政3年(1820)に作られた延命地蔵で、キリストを抱いたマリアに見立てられています。錫杖の十字架、「イメス」と刻まれた文字等がその根拠とされています。
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10/23 14:56
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10/23 14:57
マリア地蔵の並びに十九夜塔が二基ありました。本日最後の十九夜塔です。今日の歩きはここまで。今日は幸手宿のみでした。次回は権現堂堤から栗橋宿に向かいます。
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10/23 14:53
マリア地蔵の並びに十九夜塔が二基ありました。本日最後の十九夜塔です。今日の歩きはここまで。今日は幸手宿のみでした。次回は権現堂堤から栗橋宿に向かいます。
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