賤ヶ岳(過去レコです)。
- GPS
- --:--
- 距離
- 8.2km
- 登り
- 331m
- 下り
- 335m
天候 | 晴れ。 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2011年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
危険個所はありません。 |
写真
感想
「新・分県登山ガイド 滋賀県の山」を買い、そこから始めて選んだのが賤ヶ岳である。標高421mの低山で、のんびりと晩秋の日帰り登山が楽しめそうだ。「賤ヶ岳の戦い」、名前は知っているが、大河ドラマを見た事が無い私には全く興味が無く、誰と誰がいつ戦ったのか、何にも知らない。折角登るのだからと下調べして見ると、天正11(1583年)年4月21日、羽柴秀吉と柴田勝家が壮絶な戦をした場所であるという事が分かった。羽柴秀吉は知っているが、柴田勝家って誰?と調べて見ると、織田信長の父信秀に仕え、信秀亡きあとは信長の弟の信勝に家老として仕えた。信勝を信秀の後継者にしようと信長と戦ったが敗れ、以後、信長に仕えることになる。信長の器量が大きいのか、勝家が世渡り上手なのか、おそらくどちらもあって家臣として活躍して行く。信長の上洛の為の数々の戦で功を挙げ、重臣となり、筆頭家老まで上り詰める。本能寺の変で信長が討たれ、嫡男信忠も二条城で亡くなったあと、織田家の継承問題と遺領の配分に関して清州城で会議が持たれた。メンバーは柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人で、信長の三男信孝を擁立する勝家と、信長の嫡孫三法師(信秀)を推す秀吉が対立した。信秀は直系であり、秀吉は明智光秀討伐の功労者であることより、信秀が後継者に決まり、秀吉はその後見人におさまった。ここで勝家と秀吉の立場は逆転し、柴田勝家は秀吉に対抗する事になる。信孝は岐阜城主となったが、1582年12月、美濃に進駐した秀吉に降伏した。勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に討たれ自害、まさに戦国時代の壮絶な戦であった。
2011年11月23日、勤労感謝の日、朝7時に自宅を出発。北陸道を木本ICで降り、余呉湖畔の観光館の駐車場に車を停める。駐車場から少し戻って、8時22分、「賤ヶ岳登山口→」の標識のある道に入る。10分程で、「岩崎山砦跡」の説明板が立てられている場所に着く。秀吉方のキリシタン大名高山右近が築いた陣城であるが未完成なもので、柴田勝家方の佐久間盛政によって奇襲攻撃を受け落城したと記されている。雑木林に囲まれた緩やかな幅の広い尾根道を歩いていると、甲冑に身を固めた何万もの侍どもが進軍している状景が浮かんでくる。岩崎山砦跡から10分で岩崎山登山口からのルートを合わせ、さらに10分ちょっと進むと、「←中川秀清の墓」と案内がある。中川秀清は摂津茨木城主で、秀吉軍の大岩山陣地を守っていた。1582年3月12日、柴田勝家は3万と云われる兵力を率いて近江国柳ケ瀬に布陣。これに対し3月19日、秀吉は5万の軍勢で近江国木之本に対峙した。戦線は膠着していたが4月16日、一度は秀吉に降伏していた信孝が挙兵し、岐阜城に侵攻。翌17日に秀吉は美濃に進軍するが、揖斐川の氾濫により大垣城に留められた。賤ヶ岳の秀吉陣が手薄になったのを見計らって、勝家陣の佐久間盛政が大岩山砦を奇襲。多勢に無勢、4時間の攻撃で中川秀清は首を取られる。さらに盛政軍は岩崎山砦も攻撃し、高山右近はさっさと逃げ出す。中川秀清の墓は、死後100年に5代目の中川久恒により建立されたものである。大岩山を5分程下ると、「首洗いの池」という案内があるが、50m程下っていかねばならいようなのでパスして先に進む。「猿が馬場」という案内がある所を見ると、馬も通ることが出来たようである。秀吉がここで指揮をとったと記されている。木立の間から余呉湖を垣間見ながら、なだらかな尾根道を行く。やがて道は登りとなり、40分は登ったと思われる頃、「熊出没注意」の看板が出る。今頃そんな事云われても、こういうものは登山口に立て掛けておいて欲しいとぶつぶつ云っていると、そこはもう賤ヶ岳の頂上であった。今まで誰にも会う事は無かったが、広い山頂にはリフトで上がって来たと思われる観光客がチラホラ。「熊出没注意」の看板は、これらの人に対する警告で、ちゃんと入口に立てられていた訳である。眼下に余呉湖を見渡し、その向こうには柴田勝家が陣を構えた山々が重なる。青銅の武士像があり、横に「戦のあと」という文が刻まれている。鎧を纏った武士fが兜を傍らに置き、疲れ切った姿で槍にもたれて石に坐っている姿、勇ましい姿とは懸け離れた姿は、いにしえの戦をリアルに偲ばせる。広場の南側に「史跡賤ヶ岳七本槍古戦場」の柱が立ち、そこからは琵琶湖が見下ろす事が出来る。七本槍とは、秀吉軍で功名を挙げた加藤清正ら七人の事を云うが、これまた諸説がある所である。「賤ヶ岳合戦図」の大きな案内板、その横に「賤ヶ岳合戦のあらまし」が記されている。これをじっくり見ると、大岩山砦の奇襲や秀吉の反撃の経路が時系列で理解出来る。ベンチに腰を下ろし、余呉湖を眺めながらコーヒーを飲む。湖の向こう遠くに、佐久間盛政が陣を置いた行市山が見える。4月20日の午前1時にそこを発ち、あの辺りを通って湖の南側からここ迄登り、そして今わたしが登って来た尾根道を駈け下りて大岩山砦を襲撃した、と云う事が手に取るように判る。奇襲時、舟で琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が取って返し、賤ヶ岳の砦を死守。大垣にいた秀吉は大岩山砦落城の報を受け、午後2時に大軍を引き連れ大垣を出発し、木之本まで52kmの道を僅か5時間で引き返した。これを知った佐久間盛政は撤退を開始するが、翌未明、秀吉の大軍に強襲され壮絶な戦いが始まる。余呉の湖が真っ赤に染まったと云う賤ヶ岳の合戦である。この間、柴田側の前田利家が戦線離脱し、それに対峙していた軍も合わせ、秀吉の大軍は柴田勝家本隊に殺到。勝家は越前北ノ庄に退却した。北ノ庄城に逃れた勝家は、前田利家を先鋒とする秀吉軍に追撃包囲され、4月24日、お市の方とともに自害。柴田勝家の後ろ盾をなくした織田信孝は、4月29日にこれまた自害。最大のライバルを討ち取った結果、多くの織田氏の旧臣が秀吉に接近、臣属するようになり、天下取りに向けて一歩も二歩も前進したのがここ賤ヶ岳であった。30分程頂上で過ごし、急な階段を余呉湖に向けて下る。15分程で飯浦との分岐に出る。そこからは落ち葉の積もったグジュグジュの道、至る所にイノシシの掘り返した土がモコモコ。グジュグジュモコモコと15分程下って、余呉湖畔に降り立つ。車を置いた所は湖の反対岸。湖畔の道路をとぼとぼ歩く事30分、山口誓子の詩碑、岩崎山の大岩、岩崎山の登山口を経て、駐車場に帰り着いた。
戦国時代、大将から足軽まで、それぞれの思惑から、必死になって敵と戦っていた。そんな時代に生まれていたら、わたしなんか誰の目にもとまらない山奥に逃げ込んで、息を潜めてこっそり生きていたに違いない。
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