名草山と名草戸畔(なぐさとべ)
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- GPS
- 06:16
- 距離
- 10.1km
- 登り
- 437m
- 下り
- 418m
コースタイム
天候 | はれ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2022年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
他にJR紀三井寺駅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
コースはすべて整備していますが、過剰に道が作られややこしかった 杣道、古道で歩いた |
写真
https://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=2002
名草山に、名草戸畔に、和歌山に興味のおありの方是非読まれると良いと思います
https://tyottonow.com/nakagoto-jinja/
北緯34°11′03″.2519 東経135°11′43″.1999 標高228.68
選点明治36年4月23日
設置 不明
(最近観測)測量平成16年12月7日
日本最後の軍人
そして、最後の戦死者 小塚金七一等兵を忘れてはならない
日本人として日本の平和を思えば二度とあってはならない
裏山は玉輪山(ぎょくりんさん)と呼ばれるが
玉輪山は高倉山か下の153mピークか
一度高倉山に登った事が有る
https://www.syotann.com/takakurayama.html
感想
名草山とは、最後の日本兵 小野田寛郎の実家に有る宇賀部神社に関する伝説に有るように名草戸畔が起こりです。
当社のご祭神に関する「名草戸畔」伝説
当社のご祭神は神明帳によれば、「迦具土神」(火の神)となっているが、
こうべ一説には「名草戸畔」の頭を祀るとも伝えられる。
名草戸畔は、名草山の東麓・吉原の地に本陣を構えた豪族の首長であった。
太田亮氏の『姓氏家系大辞典』にもあるように、「名草戸畔のことは厳然たる事実であって、何らかの大事件が起こったことは、この地方の伝承で伺い知ることができる」と記している。
時は日本の黎明期、各地には豪族が割拠して覇を競い合っていた。日向で
いわれびこのみことは頭角を現した伊波礼毘古命(後の神武天皇)兄弟が、九州を勢力下に収め、行く行く各地を平定しつつ、一路、大和を目指して攻め上ろうとした。だが
紀ノ国では、思わぬ抵抗勢力の反撃に苦汁を強いられる羽目となった。「毛見ノ浜」に上陸した東征軍は、これを迎え撃つ名草戸畔の軍勢と死闘を繰り広げた。東征軍は皇兄の五瀬命を失い、鎮魂の地には竈山神社が創建された。
一方、名草戸畔はここを先途と勇戦奮闘したが、その甲斐もなくあえない最期を遂げた。
むらそこで邑人は泣く泣くその頭を携え、小野田の里に身を潜め、高倉山の北麓にあるこの小高い山に葬ったのが、「おこべさん」の由来だと言われる。
因みに、名草戸畔の腹部は、杉尾神社(高倉山の南麓、海南市阪井)に、脚
部は、千種神社(海南市重根)に祀られていると言われる
この記事から、名草山、宇賀部神社 杉尾神社、千草神社を廻った
宇賀部神社の山は城跡で城山と呼ばれ、杉尾神社は玉輪山(ぎょくりんさん)と言う。千草神社は山を背負わない
玉輪山は猪囲いで登れず、またリベンジしたい
記事は長くなってしまいました
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