記録ID: 574340
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ハイキング
甲信越
山梨百名山 要害山 (付 熊城) 岩堂峠
2015年01月12日(月) [日帰り]
- GPS
- --:--
- 距離
- 16.1km
- 登り
- 864m
- 下り
- 905m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 5:30
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 5:30
天候 | 天気晴朗なれど風強し |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2015年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
コース状況/ 危険箇所等 |
古府中、躑躅ヶ崎城館は明瞭、要害山周辺はハイキングコースが整備されています。熊城付近は獣みち程度、足元悪いです。林道から深草観音、岩堂峠、春日居町までコース完備、指導標もあります。 |
その他周辺情報 | 春日居町駅前に足湯あります。 |
写真
装備
個人装備 |
地下足袋 文庫本
|
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感想
出城の見学は今回が初めての経験で、たいへん勉強になりました。情報を提供してくれたyoneyamaさんにお礼を申し上げます。
要害山城主郭を見ると、南側の土塁が顕著に残っています。南の谷を敵の進入路のひとつとして警戒していたのでしょうか。さらに南の枝尾根に構えてあるのが熊城でした。熊城も同じく南側の谷へ防御の主眼を置いていました。
どちらの谷間も決して容易な地形ではないのですが、攻城戦の際に、軍勢を密かに谷から送り、奇襲を掛けるのは、常套手段だったようです。秩父の、長尾景春の最後の拠点だった塩沢城は、沢からの夜襲で落ちたそうです。いまでもその沢に討ち入り沢の地名が残ります。
甲府盆地での戦闘が長引けば、要害山周辺の城域の拡充はさらに進んだはずです。出城一つで済んでいるということは、信虎以降(駿河と同盟が成立した時期以降)の武田氏時代が、比較的領国が安定していたことの証しなのではないでしょうか。
熊城敷設の時期はもしかして、武田滅亡以後、川尻秀隆入部の時期、もしくは徳川と北条の対立時期か、なんて疑いが生まれましたが、今日はもう眠いので、調べるのはまた今度にします。
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コメント
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ジンさん、クマ城行かれましたね。前回の兜山に抜けると、春日居周辺の古墳群も回れるよいコースですね。こういう山行はある程度の予習も大事。畝状竪堀群求めてぜひ後追い山行したいです。この週末は留守でした。ザンネン。
甲府のクマさん、お留守のところに失礼いたしました。
二度訪れた要害山城に出城があると、yoneさんのレコで知って以来、矢も盾もたまらずついに無断で歩きました。あいすみません。
竪堀は敵の側面移動を阻害するもの、畝状竪堀は敵の進路を限定するもの、と思います。韮崎市の武田八幡宮近くの白山城にも見事な竪堀があります。放射状に構えてあるんです。
最近、体調が優れず、高山を目指せずにいまして、つい山城見学に行ってしまいます。城マニアの血がたぎっています。
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