弓立山:マゴットザン(孫と登山)
- GPS
- 03:36
- 距離
- 6.3km
- 登り
- 347m
- 下り
- 353m
コースタイム
天候 | 晴、温暖微風 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
https://www.town.tokigawa.lg.jp/info/2414 有料:500円:無人受付に備えつけの封筒にワンコインを入れ、車ナンバーと目的を備えつけの鉛筆で記入し、所定の箱に投入(支払い)。簡易トイレあり。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
きれいに整備されていて、危険個所はなし。登りは歩きやすくルートも明解。山の南面は頂上側まで車でこれる道があり、南側にまわり降りるコースは、大半が舗装林道。ハイク用山道もあるが、ルートは分りにくい。ルート違いに要注意。 |
写真
感想
♠年齢差ほぼ55歳の孫二人は17と19
17と19の孫がいます。小学生くらいまでは懐いてくれて、よくいっしょに遊びに行きました。人生で孫といっしょにいて遊ぶ歓びは、何物にも代えがたい幸せでした。が、孫はすぐに大きくなりました。ジジイからは当然のように離れて行きました。
ジジイはそこで考えました。自分の趣味になった登山に孫を連れて行くにはどうしたらいいか?
何度か誘いましたがなまくらな返事しかありません。スルーされているのです。「面倒くせえなー」という声が聞こえてくるよう。
山に行くには、ある程度装備を必要です。最低限必要なものは、登山靴。
靴を買ってやろう――と思いましたが、お試しなので、最低限の安いやつでいいか――と思い、ワークマンが頭に浮かびました。私はビンボー人なので……。
二人の孫の時間がある時、誘って車にのせ、近くのワークマンショップに連れて行き、靴を捜しました。
ワークマンには、透湿防水素材のミドルカット登山靴「アジム」という3900円のトレッキングシューズがあることが分かりました。
これならいいだろう。靴底もそこそこ固く丈夫で評価もある。なんといっても格安で助かる――そう思ってショップを訪れたのですが、目当ての靴はありませんでした。店員に聞いても、迷惑そうな対応。ワークマンには評判のよい商品がたくさんありますが、ショップにすべてが在庫されているわけではありません。
仕方なく、孫を連れてきた責任で、「じゃあ、モンベルに行くか」と、モンベルショップに行きました。
店員さんに、孫に合う低山用の靴を選んでもらうことにしました。
「それでは靴下をご購入ください」と促され、登山靴用の靴下の値札を見て、私は卒倒しそうになりました。
「に、に、、、2000円? 一足で?」
登山靴の値段は、最低でも2万5000円ほどしました。二人の孫の靴合わせをして、17歳の孫の足の甲が低く、モンベルブランド品が合いませんでした。店員さんが「これなら……」ともってきてくれて、ピタリと合う靴が見つかりました。が、3万5000円の品でした。目の前がくらくらした私は、倒れる直前でしたが、何とか平常心を装いました。
こうして、登山靴を買ってやったので、孫には私の要望を拒否できない義務が生じました。
こうして1週間後に誘って登ったのが、今回の弓立山だったのです。
♠登山初心者に大事なこと
登山を経験して、もう一度登りたいと思うか、もう登りたくない、と思うかは、最初の登山経験のインプレッション次第です。
まずは天候。雨はもちろんダメだが、曇でもダメ。少し霞みがちでも、晴れた日であることが最重要。風が強すぎてもダメ、暑い日や寒い日もダメ。湿気が多い日もダメ、ヒルがいる山もダメ。もう一つ花粉も問題ですが、これは無視するしかないかも……。
次にコース。いきなり八ヶ岳でデビューして嵌まる人も少なくないようですが、老人の私の体力で連れていけるのは、近隣の低山しかありません。低山で頂上の眺望がよい山は多くはありません。そしてまだ、私が登っていない山がいい……これは私の我がままですが……。
――こうして弓立山と決めました。
テンクラで近くの武甲山や笠山、堂平山などを事前に調べ、早朝に出かけました。二人の孫を山に連れ出す作戦が実ったのです。なんという幸せ……。
♠駐車場
私一人なら、なるべく無料の駐車場を選びます。登山計画では、ときがわ町の第二庁舎の駐車場にする予定でした。もう少し遠いですが、慈光寺入り口にも堂平山用の駐車場があります。が、孫を長く歩かせると、文句を言われる懸念があったので、500円の三波渓谷駐車場に止めました。
無人の料金所には、弓立山への登山口までの案内が、大きな写真で紹介されていました。簡易トイレもありました。きれいなトイレで済ませたい場合には、車で少し先の慈光寺入り口のバス停のトイレか、コンビニを利用したほうがよいかもしれません。
♠初心者にも安心のルート……でも、老人の私には汗ダラ
登山口からいきなり階段の急登です。が、登り切ると、足場が整備された快適な道が続いていました。たくさん人が歩いているようで落ち葉も少なく、途中まではスニーカーでも行けるかもしれません。が、さすがに半分くらいのところになると、気の根がうじゃうじゃだったり、岩場も出てきました。ここまで来ると、登山靴の必要が理解できるようになります。私が、清水の舞台から飛び下りて大枚をはたいて買ってやった本格的な登山靴と専用靴下の効果を、二人の孫は関心をするように体験したようです。
得意気な気持ちになった老人の私ですが、こんな低山でもゆっくりでしか登れません。少し登っては「はあはあ」と息が切れ、気づくと上で私を見守る二人の視線がありました。
「おじいちゃん、大丈夫? ほらそこ危ないよ〜」
上から目線で私の遅速とよろよろした歩みを心配してくれました。
この登山道は、とても歩きやすい道でした。この程度の道は、17歳と19歳の孫にとっては何の問題もない道なのでした。若い人の体力は、この程度の山道はラクラクなのです。私の1.5倍のスピードで登っていきます。私はすでに40座以上の山に登ってきました。はあはあ,ふうふう言いながら、よたよたしながらでも、何とか10キロ、20キロ近い山行をしてきましたので、少しは自信がないわけではありません。が、それにしても、若い人とはとても同じペースで登れない自分が老人であることを思い知りました。年の差は、55歳以上です。
ずっと昔、孫ではなく、孫の親、つまり私の息子と黒山三滝や那須岳を登ってことがありました。息子は二人いて、小学生くらいでした。そのときに子どもの二人は、両親を差し置いて山に駆け上って行ってしまいました。ちっちゃな子どもは元気がいいな。と、まだまだ若かった私は思ったものです。
二人の孫と山を登って、そのことを思い出しました。17歳、19歳とはいえ、私にとっての孫は、ガキンチョです。そんなガキンチョに、心配されて顔色を覗かれるようになってしまいました。
ジジイにとって、それはたいへんに嬉しいことなのですが、自分が老いたことを認めないわけにいかなくなりました。嬉しいやら悲しいやら……。孫と登山するというのは、奥深い感慨もありました……(なんちゃって)。
♠男鹿岩と眺望豊かな頂上の楽しみ
岩場が出てきたところで、もうすぐ頂上かな? と期待しました。が、目の前に見えたのは、ドドンと立っている男鹿岩でした。数メートル以上も高く、垂直に立っています。その先にあるのが、ローソク岩?でしょうか。そこにハーネスをつけた方がいらっしゃいました。
聞けばこれから、男鹿岩で垂直下降をして楽しむそうです。
これを抜けてもうひと登りすると、広い伸びやかな頂上がありました。ベンチもいくつかあって、そこで持ってきたヤカンで水を温め、カップ麺を食べました。ふんわかとやわらかな陽射しを浴び、爽やかな風の中で、下界の眺望を楽しみながら食べるカップ麺の味わいには格別なものがありました。
その味の違いを、二人の孫は感じ取りました。
これでこの孫と登る登山は大成功です。
因みに弓立山の頂上には、展望デッキとバイオトイレがありました。そして南面には、駐車場までがあり、ここまで車でも登れることが分かりました。
♠下山の南面ルートは、大半が舗装路
弓立山の地図では、登山ルートが北面の三波渓谷側からがメジャーなようですが、東面から回って南面に至るルートと西面から南面に至るルートが見て取れます。私は今回は、北面から登り、南面から左まわりして弓立山の裾野を歩いて戻る計画にしていました。
実際に頂上の南側から下山ルートを探ると、車が通れる道でした。山に来て、車道はできるだけ通りたくはなかったので、うろうろと探すと、山道がありました。そこを降りても、計画ルートと混じりそうでした。
その道を下ると、途中に赤い鳥居があり、お稲荷さんが祀られていました。私が登ってきたルートで、はじめてあった霊スポットでした。「無事に下山できますように」とお願いをして、さらに下りました。が、この山道は、分け道らしきがあったりし、すぐに民家の屋根が見えて、ひょっとしたら民家の敷地ではないかと思わせる造作した畑があったりして、登山道としては微妙でした。
しかし民家がいくつか見えるあたりでは、木々は白や桃やピンクの花をつけ、叢には白や黄色や紫などの花々がモザイク模様のように広がって、里山の春の賑わいに魅了されました。
「あ、これトトロのトンネルだよ」と孫が叫ぶところもあり、道はヤマレコの警告が出て不安でしたが、愉しい山歩きができました。
その後は、舗装路の林道でした。探すと山道があるのかもしれませんが、弓立山の南面からのルートは、ほぼ車用といえそうです。舗装林道下りは楽ですが、,面白くありません。途中で「温泉スタント」への入り口がありました。地図を見てみれば、ここを通過したほうが早く戻れます。計画ルートはさらに舗装路を金比羅山を巻くようになっていましたので、それを中止して、温泉スタンド経由にしました。舗装路ですが……。
♠弓立山の名の由来と伝承
都幾川村・弓立山の伝説(Produced by 陽山亭)(http://youzantei.la.coocan.jp/mitisirube/tokigawa_densetu.html)というブログに、山の名前の由来について、興味深い伝説が記されていました。
そこから、一部を引用します。
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天慶8年(945)に武蔵国司・源經基が慈光寺の四囲境界を定めるため、龍神山で蟇目(ひきめ)の秘法をおこなった。經基が四方に放った矢は、北が小川町青山の「矢の口」、東が大字瀬戸の「矢崎」、南が越生の「矢崎山」、そして西が「矢所」に落ち、それ以降、この山は弓立山と呼ばれるようになったという。弓立山は海抜426メートルの独立峰で、ここから西に射はなされた矢は、「ズウズウ」と音を立てて地上すれすれに飛び、「振り矢」で向きをかえ、「曲り矢」で方向転換して「矢所」に落ちたという。その後、地面に突き刺さった矢は根が生えて篠やぶとなったとされている。(現在でもこの場所は霊地「矢所」として、篠やぶが大切に保存されている。)
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ところでこのブログの著者は、「飛騨観光 陽山亭」(http://youzantei.la.coocan.jp/index.html)です。
♠番外編:皎円寺(こうえんじ:臨済宗妙心寺派)
この前の山行で、弓立山の西に聳える新柵山(あらざくやま)に登頂しましたが、下山後、新柵山の南面中腹にある全長寺を参拝した時に,偶然ご住職にお話を伺うことができました。
そのお話の一つに、都幾山中腹にある、関東最古の禅寺道場、霊元院の別院として、山の麓にある正法寺に次いで、1240年に創建された寺であること。因みに当時はさらにその次に、皎円寺が創建されたこと。こうして霊元院から分院したすべての寺は、いま臨済宗妙心寺派であることを教えていただきました。
その時に、弓立山に登った時には、皎円寺を参拝しようと思ったのです。
しかし今回は、ルートで皎円寺を巡ると道路歩きがだらだらと続くので、下山後に車で訪れることにしました。
事前に皎円寺はどういう寺なのか、調べてみましたが、所在地などの情報だけで(〒355-0358埼玉県比企郡ときがわ町大字瀬戸元上60:電話:0493651358)、どういう寺なのか判然としません。
しかし一つだけ、よく分かるブログがありました。それは,ときがわ町町長が令和4年5月に認めた「渡邉町長のときがわ歳時記」(https://www.town.tokigawa.lg.jp/div/102010/pdf/chouchou_saijiki/R4_5_saijiki_back.pdf)でした。
そこには、「皎円寺は源義賢の菩提寺」と紹介され、それについての皎円寺資料から引用された文章が紹介されていました。その一部をここで引用します。
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仁治2年(西暦1242年)、荻窪家の先祖は、主君「源義賢」の菩提を弔い、また、人々の信仰の拠りどころとして皎円寺を建立するが、この時には、木曽の義仲もすでに他界しているので、心情としては、源義賢、義仲親子の菩提を弔ったものであろう。
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ここから、皎円寺の創建の年と、創建したのが、「源義賢」を主君と仰いだ荻窪家の先祖であり、その目的は、主君の菩提を弔うためだったことが分かりました。
さて,歴史には疎い私は、源義賢?……鎌倉殿の関係した人物?……調べました。
♠番外編:源義賢(みなもとのよしかた)
平安時代後期の武将。河内源氏、源為義の次男。源義朝の異母弟。源義仲(木曾義仲)の父……でした。木曽の義仲の父というのが分かりやすいです。
さらに調べると、この源義賢の史跡が、近隣にありました。
ウィキペディアを引用します。
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埼玉県比企郡嵐山町大蔵には大蔵館跡がある。都幾川に沿った段丘上で、川をへだてて水田が開け、現荒川の沖積平野に続いていて鎌倉街道の要路にあたっている。近くには源義賢の墓と伝えられている県内最古の五輪塔がある。……中略……埼玉県児玉郡上里町帯刀の福昌寺は、室町時代に義賢の菩提を弔うために創建され、大蔵合戦後に落ち延びてきた義賢を祀ったとされる五輪塔がある。
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ここにはすでに、源義賢の菩提を弔う福昌寺(曹洞宗)が創建されています。https://ameblo.jp/fookky/entry-12435715290.htmlに、こんな解説がありました。引用します。
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1155年8月16日、大蔵合戦で源義平に敗れた源義賢。上野国を目指して逃れようとしたものの、8月28日、ついに追いつかれ、この地において討ち取られたとのこと。それを憐れと思った村人らが埋葬。村の名前まで「帯刀村」と変えてしまった・・・・と記載されています。
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これによると、源義賢が戦死した場所に、福昌寺が建立されたということのように伺えます。ウィキペディアでは、その戦いの流れについて、次のように解説されています。
*
……父・為義と不仲になり関東に下っていた兄・義朝が、仁平3年(1153年)に下野守に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下った。上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力をのばす(なお、義賢は重隆の養子になったとする見方もある)。為義・義賢は秩父氏・児玉氏一族に影響力を持つ重隆を後ろ盾に勢力の挽回を図ろうとしたみられるが、結果的には両氏の内部を義賢派と義朝派に分裂させることになる。久寿2年(1155年)8月、義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた甥・源義平に大蔵館を襲撃され、大蔵合戦に及んで義父・重隆とともに討たれた。享年は30前後とされる。
*
源義賢の出生は不明ですが、1155年9月に、30歳前後という若さで戦死しています。それは鎌倉時代が始まる30年前のことでした。
源義賢が京から関東に派遣され、居を構えたのが、比企郡嵐山町でした。ときがわ町の皎円寺は、戦場となった上里町帯刀の福昌寺に弔われましたが、恐らく鎌倉時代に変わってから、館を構えていた武蔵国比企郡大蔵で、義賢に仕えた荻窪家の先祖が、義賢の往年を偲び地元に弔う寺を建てたのだろうと想像します。
皎円寺は、そういう曰くのある寺でした。
皎円寺の境内に大きな石碑がありました。「四国八十八霊場巡札行円成記念」と刻印してありました。いま皎円寺は、臨済宗妙心寺派の寺院です。本山である京都の妙心寺は、1342に創建された寺です。ところが、皎円寺はの創建は、1242年です。鎌倉で一番古そうな臨済宗の建長寺の創建が1252年ですから、皎円寺はそれよりも前に建てられました。となると、創建時は、臨済宗ではなかったのかもしれません。
霊山院から最初に分院された正法寺のご住職にかつて聞いた記憶では、最初は天台宗で、創建後に、真言宗などになったこともあって、後に臨済宗として落ち着いた経緯があったそうです。
霊山院も、かつては都幾山の天台宗の古刹、慈光寺の塔頭(たっちゅう)として、建久8年(1197)に創建されました。塔頭とは、禅宗寺院で祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院とされます。
ところで慈光寺は、伝承によれば、天武天皇2年(673年)、興福寺の僧慈訓が千手観音を安置し、その後宝亀元年(770年)道忠が開山となって創建されたといん、平安時代の貞観年間(859年-877年)には勅願所となり、天台宗の別院として中心的な寺院となったとされます。飛鳥時代から奈良時代にかけて創建されている寺院でした。
慈光寺は今でも天台宗ですが、霊山院は臨済宗です。恐らく鎌倉時代に、慈光寺の塔頭から霊山院は独立し、天台宗から臨済宗へと宗旨替えをしたのではないでしょうか。皎円寺はその影響を受けた経緯があるのでしょう。
弓立山の東の裾野、金比羅山の麓に佇む皎円寺は、鄙びた素朴な田舎の寺の美しさを感じさせる、こころ落ち着くところでした。
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