生駒山
- GPS
- 06:49
- 距離
- 25.0km
- 登り
- 379m
- 下り
- 602m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年09月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
|
写真
感想
早朝4時すぎに目覚ましで起き、シャワーを浴びて身支度をして5時前に宿を出る。夜明けまでまだ一時間以上あるが、宝山寺までの石段の道は明かりがある。宝山寺手前からハイキングコースに入る。急な石段の道が延々と続く。ここ数ヵ月ほとんど山歩きをしていないので少々不安だ。生駒山は初めて歩く。登りは石段の道、こんな道は余り歩いたことがない。登りの標高差は、さほどでないが、下りは五百メートルはあるようだ。
所々で、右から宝山寺から来る道があり、左側にはケーブル線路が見える。ケーブル駅を2つ過ぎると五時半過ぎの日の出時刻が近づく。東側は樹林に覆われ日の出は見えそうもない。時刻が過ぎても太陽が出たかどうかわからない。しばらくするとついに樹間から、登る太陽が買おを出した。日が昇った。すると山頂下の駐車場に出る。端まで歩いて日の出を確認する。_が急にガスが出て太陽がガスで見えなくなった。しばらく待つが薄い太陽のワッカのようなものが太陽なのか月なのかわからなくなるー太陽らしいがー?
ハイキングコースに戻り、さらに、石段を登ると、すぐにケーブル山上駅に出る。その先は遊園地だ。遊園地のなかを生駒山山頂を探して歩くがようわからない。何かの乗り物の駅に頂上とあり、その先は下っているので多分これが山頂か?
怪しげだが取り敢えず山頂と見なし次の目標のくさかコースを目指す。
生駒山「頂上」から、くさかコースに向かい北上し、北側の駐車場から横断禁止となっているドライブウェイを渡る。まだ早朝でで車の陰はどこにもない渡ると石切駅に向かう急なハイキング道があり、道標もある。おそらく遊園地やドライブウェイ以前からある道なのだろう。ここ数日は天気が不安定で山沿いは雷雨などがあったようで石段が濡れており慎重に下る。まだ7時前だが、ここからがやや長く急な下りだ。少し先で遠回りの正規ルートと合流、七時過ぎに興法寺分岐を越えてくさかコースに入る。生駒山は山頂が遊園地となり、ケーブルもドライブウェイもできたが、もともとは、険しい岩山で、修験道の重要な山だった登りも下りも急であることにかわりない。ケガのないよう慎重に進むと上イナダ山手前に石切場跡を確認する。昨日までみていた大東市の石切場跡の発掘調査報告書の調査位置とは明らかに異なる場所で、詳しい説明は何も出ていない。これより北側の大東市の調査では、石切場跡に残された矢穴や引き受けた藩の印などがあったようで、このコースにある石切り場跡との関係は、よくわからない。もう少し石切り場跡をきちんと観察すべきだったが疲れと時間が押していることのふあんで、撮影しただけで、すぐ通過してしまった。疲れているので頭が回らない。さらに下り下イナダ向山も通過、これらの山々は、直接踏むことなく通過、霊岩寺の脇を進むと登山口に出た。これから登るはいかーに挨拶し、少し会話。石切駅から、さらに東石切公園を目指す。そこでシェアサイクルを借りて大東市歴史民俗資料館などを回る予定。いつものように下りで手間取って結局予定時間より早く到着できなかった。
石切場跡に関しては、大東市2012年の調査報告書があるが、くさかコースの石切り場とは別の場所(北側、ゴルフ場より)のようだ。
参考 ‖臈貉圓糧掘調査報告書
file:///C:/Users/hirok/Downloads/17459_1_%E7%9F%B3%E5%88%87%E5%A0%B4%E8%B7%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%20(2).pdf
参考◆wikipedia):日下貝塚(くさかかいづか)、または日下遺跡(くさかいせき)は、大阪府東大阪市日下町内に所在する縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡。遺跡範囲全域の名称は「日下遺跡」だが[1]、縄文時代の貝塚を中心とする範囲が「日下貝塚」の名称で1972年(昭和47年)7月26日に国の史跡に指定されている[2]。
立地
生駒山地西麓の、日下川右岸の標高23.8メートルの扇状地末端部に立地し、現在の東大阪市日下町2-3-6-7丁目の範囲が埋蔵文化財包蔵地「日下遺跡」として周知されている[1]。縄文時代前期にあたる約6000年-5000年前には、当遺跡は海の近くに立地していた。縄文海進により海水が河内平野へ進入し、生駒山麓まで海が迫っていたためで、その内海は河内湾と呼ばれている。
遺跡は大正時代に発見された。1932年(昭和7年)には、当遺跡出土の縄文土器の中に東北地方の縄文時代晩期土器である亀ヶ岡式土器が含まれていることが山内清男により確認され、関西地方における初の発見例となった[3]。
1960年(昭和35年)・1964年(昭和39年)・1966年(昭和41年)には、帝塚山大学の堅田直により発掘調査が実施され、厚さ1メートル以上の貝層が検出されたほか、大量の縄文土器や古墳時代の遺物が出土した[wikipedia)
参考⓷国史跡日下貝塚(「邪馬台国大研究 / 歴史倶楽部 」ウェブサイト 河内を歩くより)
縄文時代の東大阪は、東に生駒山麓の山々が連なり、西には河内湖が広がっていた。日下(くさか)の縄文人達も、河内湖で魚介類を採取し、生駒山麓で鹿や猪を追いかけていたと思われる。日下貝塚は、孔舎衛(くさか)東小学校の南側に広がる縄文時代後期から晩期の集落跡である。昔の地名は「貝畑」と言い、古老に聞けば30年ほど前まで周辺から貝殻がたくさん見つかったそうである。昭和47年に、縄文時代貝塚として国指定史跡となった。
貝塚からは、セタシジミ、オオタニシなどの淡水産の貝や、ハマグリ、サザエ、カキなどの海水産の貝に混じって、 シカ、イノシシなどの動物の骨も発見されている。日下貝塚では、石がこいの炉を持つ竪穴住居が発見されている他、多くの墓も発見された。縄文時代の墓は、地面に穴を掘って遺体を埋葬している。このような墓を土壙墓(どこうぼ)と呼ぶが、日下貝塚では34基以上の土壙墓が発見されている。ここでの人骨は、ほとんど穴の中に手足を折り曲げた状態で埋葬されている。このような埋葬方法を屈葬(くっそう)と呼ぶ。屈葬には身体を上に向けたもの、横にしたもの、うつぶせにしたものなど様々な形がある。日下貝塚の土壙墓群には、丸く環状に廻るものがあり、これを環状列墓(かんじょうれつぼ)と呼ぶ。縄文人も、人が死ぬと適当に埋葬したのではなく、一定の規則に従って埋葬していたのである。
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