石鎚山(過去レコです)。


- GPS
- 56:00
- 距離
- 8.4km
- 登り
- 538m
- 下り
- 538m
天候 | 雨。 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2004年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
鎖は避け、巻道を登りました。 |
写真
感想
祖母イトが叔父の広瀬宰平のもとで育てられたと父から聞いていた。宰平は別子銅山売却の危機、とりも直さず住友財閥の危機を救い、銅山の近代化をなしとげた住友財閥初代総理事で、また大阪株式取引所・関西貿易社・大阪商船などを創設した明治初期の代表的な財界人である。宰平の居宅が国の重要文化財として保護され、また昨年は戦時中に没収された宰平の銅像が復元されたと聞き、一度見に行かねばと思っていた。高村光雲作の「広瀬宰平銅像木型」が東京芸術大学に残されており、芸大の手によって復元されたものである。平成16年のゴールデンウィーク最中の5月3日、雨がシトシト降る中、名神高速、山陽高速、瀬戸大橋、松山高速を延々と走り、愛媛県新居浜市の広瀬歴史記念館を訪ねた。広瀬公園には西洋文化の影響を受けた旧広瀬邸と、宰平ゆかりの品を集めた展示館がある。いわゆる歴史記念館などを見る時は、よい加減に廻るだけであるがここは違って、大変興味深くじっくりと見て廻る事となった。偉人の足跡を辿った後、マイントピア別子に鉱山の跡を訪れ、昔の雰囲気を少しだけ味わった。伊予西条インターから松山高速道に入り、松山インターから国道33号線、494号線を通り、面河渓(おもごけい)に至った。その日は面河渓国民宿舎に泊まった。台風並みの低気圧が接近し、天気予報では明日は大荒れとの事で、愛媛県全域に大雨、強風注意報が発令されていた。おまけに山では雷の恐れもあり、注意が必要との事である。渡航警告が出ていたイラクに渡り、人質になった日本人に対して自己責任が問われている時期である。注意報が出ている中で無理に山に登り、遭難しても誰も悲しんで呉れないどころか、自己責任論で非難されるだけである。翌日、朝食の時間まで待てず、妻を宿に残し早々と発ち、石鎚スカイラインの7時の開門を待って土小屋に向かった。土小屋の大駐車場には一台も車は無く心配になり、少し引き返した所にあるバスの回転用の広場に車を停めた。そこには数台の車がとめてあり、外に出ると吹き飛ばされそうな雨混じりの強風で、登山意欲が薄らいで行く。しかし、二度とこんな遠く迄来る事は無いだろう、チャンスは今しか無いと、心を奮い立たせて準備に取りかかる。レインウェアーを取り出すと、何とそれは妻のものではないか。再び登攀意欲が消えかけるが、試しに着て見ると、上着は大丈夫だがズボンは短くおまけに腰回りが足りない。チャックを上げられる所まで上げて、あとは上着で隠せば何とかなるし、誰も見る人も居ないだろうし、取りあえず行ける所までは行こうと決めた。若い男が寄って来て「登られるのですか? 私はどうしようかと迷っているんです」と云う。「ハイ、私は登ります」と、君はこんな程度の風と雨で悩んでいるのかと云わんばかりに答えて、7時50分、登山口に入った。登山口には松山営林署の大きな登山案内板があり、登山届けを入れるポストもあり迷う事はない。しばらくは平坦な尾根を歩くが、林に遮られて風の影響は少ない。「石鎚国定公園、石鎚山、愛媛県」と書かれた大きくて立派な木製の看板があり、もし頂上まで行かれなかった時の記念にと写真を撮っておく。やがて左山のトラバースとなると風は全く無くなり、ほとんど傾斜も無く、気分も楽になる。しばらく歩くと尾根に出て右山のトラバースに変わると、猛烈な風が下から吹き上げて来るようになる。吹き飛ばされないように、一歩ずつ丸太で土留めされた階段を登るが、立ち止まってしゃがむ程のものでもない。登り切ると小さな広場があり、ベンチも並べられている休憩ポイントに出るが、一面水浸しで強風の中、休む気がせず先に進む。尾根道をからみながら登ったり下ったりしていると、ボーッ、ボーッと法螺貝を鳴らしながら二人連れの男が追い越して行く。さすが天下の霊山と驚くとともに、こんな日に登る人もいるんだと心強くなる。登山道は水の通り道と化し、急な崖を滝のように勢い良く濁った水が滑り落ちて来る所を何度もトラバースするが、頑丈な丸太の橋が整備されており恐くは無い。徐々に登りもきつくなり、右手に成就からの表参道が合流すると二の鎖小屋が目に入る。階段の上に建つ小屋には人の気配は無い。いよいよ名にしおう鎖場となるが、雨に濡れてツルツル光る岩場を見ると鎖場を登る気にはならず、迂回路を経由する事にした。断崖に掛けられた鉄製の階段や、迂回路とはいえ急な岩道を登り三の鎖小屋に着くが、ここも人の気配は全く無い。当然ここの鎖も回避し、迂回路に廻る。迂回路を登り切ると強風が襲いかかって来て、いよいよ頂上だ。登り始めてから丁度2時間が経っていた。頂上には真新しい小屋があり、その先にはこれまた真新しい石鎚神社奥の宮が建てられている。中から神主さんのお払いの声がする。神社正面に向かって左に受付があり、中の若い男衆に聞いて見ると、5月1日に神社を開けて、11月まで一週間ごとに交代するとの事である。神社をバックに写真を撮ってもらうが、雨に濡れたデジカメは云う事を聞かず、ここでその寿命を閉じた。沢山の山の写真を撮って呉れて御苦労さんでした。若い衆は生憎の天気を気の毒がって、絵葉書を見せながら「今は何も見えませんが、本当はこんな風に天狗岳が見えるんですよ」と慰めて呉れた。天狗岳までは10分程との事であるが、頂上まで来られた事だけに満足し、見る事も出来ない天狗岳に登る気は湧いて来なかった。雨の勢いはさらに増し、何にも見えない頂上に長居は無用と、水分を少し補給しただけで早々と下山を開始した。ドシャ降りの中、スパッツを着けているのに靴の中に水が入り、グチョグチョと気持ちが悪い。スパッツはレインウェアーの下に着けるものだという事を身を持って知った。1時間半経って車に帰り着いた時、雨は小降りとなって来た。誰の心掛けが悪かったのかと考えるまでもないが、石鎚神社の土小屋遥拝殿に向かい無事に戻って来られた事を感謝した。
面河渓を散策し堪能した妻を拾い、その夜は道後温泉の「うめ乃や」に泊まった。道後温泉本館の前には列が出来ており、中に入るのはあきらめた。翌日、快晴の下、今治の来島海峡大橋からしまなみ海道に入り、大島、伯方島、大三島を通って瀬戸内海をまたいだ。あとは長い長い高速道路をひた走り、時折襲う睡魔と格闘し無事帰宅した。
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