月山(過去レコです)。


- GPS
- 32:00
- 距離
- 9.8km
- 登り
- 599m
- 下り
- 586m
天候 | 晴れ。 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2002年08月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
危険個所はありません。 |
写真
感想
2002年8月8日、朝6時に自宅を出発。天気予報によると、ここしばらく東北地方は晴れとのことである。東海北陸道を清見でおり、高山から富山までは国道41号線を走り、富山で北陸道に乗り新潟でおりた。さらに北上し、本日の宿泊地である山形県鶴岡の湯田川温泉に到着したのは4時15分であった。翌日の朝飯は7時半からしか駄目と、融通がきかない宿で、やむなく朝食ぬきで5時45分に出発し、途中コンビニでおむすびを買い車の中でそれを食べた。鶴岡の町からも遠くに、すぐに月山とわかる立派な山が見えた。羽黒山をかすめて、狭いが鋪装してある道路を登り、1時間弱で8号目駐車場に着いた。立派なレストハウスのある駐車場には、すでに10数台の車がとまっており、すでに山から下りて来た白装束の集団がバスに乗り込んでいた。支度を調え、7時に階段を登り始める。すでに森林限界は過ぎ、高い木の無いなだらかな緑の高原が広がり、その向こうに月山が連なっている。ウメバチソウ、イワオトギリ、ミヤマトウキ、シラネニンジンなどの花々が咲く弥陀ケ原の木道の散策路を気持ちよく歩き、程なく登山口に至った。登山道に入り少し登り、弥陀ケ原を見おろすと、快晴のもと、緑の中に点々と池塘が光り、その向こうに頂上に雲のかかった端正な美しい姿の鳥海山が見えた。弥陀ケ原のはるか下には庄内平野が広がり、日本海に続いているのであるが、その境ははっきりせず、どこまでも平野が続いているように見える。石ころと岩の登山道であるが、直径40冂のコンクリート製の円い飛び石が敷かれており歩きやすい。時に岩を掴んで登らねばならないような場所もあるが、登山道の両側は色んな花が咲いており、写真を撮りながらゆっくり登って行く。2000mもない山だが雪渓がまだ残っており、さすが東北の山は違う。上に登るにつれ、登山道の両側のお花畑は益々見事さを増し、はぼ中間点の仏生池小屋の辺りからは花の中の尾道を歩くことになる。イワツメグサ、ニッコウキスゲ、コバイケイソウ、ハクサンシャジン、ミヤマリンドウ、エゾシオガマ、リュウキンカ、ハクサンフウロ、キオン、ウツボザクラ、ハクサンイチゲ、ウスイロミヤマリンドウなど、ゆっくりゆっくりと楽しみながら登り、10時に頂上の月山神社に到着。生憎、ガスが立ちこめてきて眺望はきかなかったが、登り始めから頂上まで花盛りの月山を満悦できた。頂上は沢山の人で賑わっていたが、休む場所は幾らでもあり、岩の上に腰を掛けて食べた梨は冷たくてうまかった。10時半に出発し、霧も消えた山また山の景色を眺めながら下山。1時に駐車場に着き、レストハウスで一服し山菜うどんを食べた。往復5時間半かかったわけであるが、この山に梺から登った芭蕉はただの俳人ではなく、鉄人でもあったに違い無いと感じた。後日知った事であるが、芭蕉は忍者であったとの説があるそうだ。1644年に伊賀に生まれ、46歳の時、後に幕府巡見使となった弟子の曽良をお伴にして、奥の細道2400劼150日で歩いた。幕府に対して謀反を企てていた伊達藩の偵察のため、幕府の情報活動を担っていたとの説である。こんな話しも真実味が帯びて来る月山登山であった。
月山高原ラインを下り、月山ヴィジターセンターのT字路を右にまがり、山の中のすいた道を走り、最上川沿いの国道47号線に出た。川幅一杯に水をたたえ悠々と流れる川面は、見なれた長良川とは風情の異なったものであった。この道をひた走り、新庄から尾花沢に出て、本日の宿泊地である銀山温泉能登屋旅館に着いた。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する