加波山の禅定場
- GPS
- 05:19
- 距離
- 7.9km
- 登り
- 818m
- 下り
- 815m
コースタイム
- 山行
- 4:07
- 休憩
- 1:09
- 合計
- 5:16
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2020年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
禅定場とされる岩巡りは邪念や妄想に打ち克つという目的から、あまり容易な道という性格は持たない。また、後述する50年前(S44-50ごろ)の資料を基に位置を追ったために、当時と地形が異なる箇所、消失した箇所があった。 |
写真
感想
筑波山は巨石に案内板があり名前が分かるが、加波山は何度も登っているのに頂上の巨石の名前を知らない。
また、加波山には禅定で巡る七百余りの参詣場所があるそうだが、何度か登ってもその1/100くらいしか見当つかなかった。
そこで、図書館の郷土資料コーナーを調べたところ、茨城県立図書館に、加波山を詳細に調べた本が前川康司氏により寄贈されており、この本の中に、秘伝と思っていた禅定場の順路の地図があり、この資料を参考に岩の名称、位置をたどることにした。
参考文献は45年前のものであり、GPSがなかった頃の労作であることに加え、石が消失したり、道が変わり踏まれていない場所があり、位置の特定は容易ではないことがわかった。加波山で夏の1ヶ月に実施される禅定に参加させていただけば分かると思うが、時間もないので、余裕があるときに図を見ながらたどってみたいと思う。
今日の探索は30枚の図の5枚だけで時間切れ。とはいえ大仏石をあきらめていたときに姿図の通りに見つけたときには感激した。
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以下は、前川氏の本、その他文献を読んで分かったことのメモ。
自分で調べたわけではなく、書いてあることで気になった要点を自分のために。すぐに忘れてしまうので
参考図書、
◎前川康司、加波山巻5霊場、1979.5、手書きのコピー製本
- 小森五助の1791の絵図に、大先達指導や踏査記録を整理し昭和44年から50年ごろに参拝順序を記した資料
桜井徳太郎編、山岳宗教と民間信仰の研究、山岳宗教史研究叢書6、1976
鈴木市右、霊峰加波山、1978.3、加波山神社社務所
つくば新聞 http://www.tsukubapress.com/kabasan.html
・筑波山は江戸時代500石を与えられ、一別当知足院が支配してきたが、加波山は本宮、中宮、親宮三寺院並立で支配される。三寺院は本寺が異なる。
・古代、中世の加波山神社史は明らかにしえない。独自の信仰を展開するのは近世以後、特に江戸時代中期以後。(桜井著)
・三寺院並立なので、山頂、里に加波山名の社がたくさんある。
・本宮、親宮は真壁町長岡の鎮守、中宮は八郷町大塚の鎮守。
・真壁の新しい里宮は中宮で箱根大天狗山神社が資金提供。中宮は八郷の鎮守だが東西両方に里宮がある。
・たばこ神社は八郷を信仰圏とする中宮。昭和32年。
・それぞれの神社に所属し加持祈祷を行う山先達の案内で、一般民衆が夏一ヶ月加波山中の巨石、奇岩、岩窟を巡る禅定を行う。
・加波山では禅定という言葉は一般民衆の登拝する夏期の修行に限られて使われる。
・禅定場の地図は小森五助、大塚久右衛門によって1791年に作成された。その後信仰圏の拡大が図られる。文化文政の町人文化の最盛期の頃。
・禅定の成立は布教、財源確保のためがひとつの側面で、幕府の祈願所として繁栄した筑波山より、加波山が江戸中期に禅定場を整備し、活発な信仰を展開した理由のひとつと考えられている。
・霊場は、1395年熊野の天台宗の僧侶を招き、熊野吉野大峰に擬した霊場がつくられた。中興開山のこの僧、源海上人は筑波山と同一。
・霊場(禅定場、岩)は三社で別の霊場を持っているわけではなく、共通している。ただし、名称が異なるところがある。
・伝承は行者の間でも秘密にされ、弟子にも順序を変えたり抜かしたりして伝授されていた。一般に開放されたのは江戸期小森五助の後。
・江戸時代にあっても、石材として消失したものもある。秘伝で知られていなかったことも理由。
・三尊石は釈迦、弥陀、薬師を示す。
・加波山行者は、強力三年、水くみ三年、清掃三年で十年修行する。それまでは霊場の案内もできないし、先達の部屋に入ることが許されなかった。
・岩屋とあるがほとんどが岩窟ではない。滝とあるがほとんどが水のないもので雨天には滝になる。
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