黒部・棒小屋沢〜西沢小沢〜岩小屋沢岳



- GPS
- 104:00
- 距離
- 24.3km
- 登り
- 2,156m
- 下り
- 2,215m
コースタイム
/8 発(610)6mC.S.滝上着(1700)
/9 発(655)タル沢出合(???)h.1220m着(1900)
/10発(1000)西沢小沢出合(1030)h.1710m着(1830)
/11発(650)稜線(1240)岩小屋沢岳(1310)種池小屋(1415)下山(1630)
過去天気図(気象庁) | 2004年08月の天気図 |
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アクセス | |
ファイル |
(更新時刻:2018/09/16 23:13)
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感想
黒部・棒小屋沢〜西沢小沢〜岩小屋沢岳
パーティー;青島靖(チーム野良犬)、成瀬陽一(充血海綿体)、松原憲彦(北大山の会)
「四年の歳月と言語に絶する苦労を要して棒小屋沢の未踏のゴルジュ帯を突破した時には、一夜にして頭髪は白くなり・・・」(岩と雪58号、p.104)
自身の中にあった棒小屋沢の印象は、まさにこの一文に集約される。フィクションの抜粋のように聞こえるが、池上昌司氏は物事を誇張するようなお方ではないそうなのできっと事実なのだろう。氏はこの棒小屋沢を解読した翌々年より十字峡を成すもうひとつの‘棒‘である剣沢に挑み、四度目の試みをもって(奇しくもそれは単独で!)「44才の青春」を迎えられた。(これは余談となるが、これら事実について黒部に深く関わる志水哲也氏に著書で一言なりとも是非触れて欲しかった。この記録は彼の遡行実施に好適に働いたはずだし、先達への敬意を払う意味においても悔やまれる。)
今回実際に行動に移してみて強く感じたことなのだが、氏は初登ながら棒小屋沢の滋味を吸い尽くすかのように非常に丁寧にひとつひとつの滝に取り組み、物語を組み立てていることに理解が及んだ。遡行に限らず、行動や行為にはその方の人となりが強く反映される。
志水氏の遡行は、サンナビキ谷右俣や新越沢の時とは違って高捲きに冴えと勢いを感じる(特に初日10:45から15:00のそれ)。この沢に対して逃げが効かない、誠実に真っ向勝負するしかない、という心意気を強く感じるその彼の記録から受けた印象は、棒小屋沢というのは両岸極めて高く聳える険阻な大峡谷というものだったが、新越沢の渓相からの想像を遥か越える様な空間ではなかった。ただ、あれ程の渓に二十一歳単独で分け入る勇気には敬服した。
1995年大阪わらじの会の朝山・岩崎パーティーについては、写真で判断するに随分と水量の多い時の実施で、新越谷同様に高捲きが主体となった些か残念な記録であった。
さて、それら記録の恩恵に預かった結果の我々の遡行は如何なるものだったかと言えば、池上氏の記録には及ばず、志水氏の高捲き部分を何箇所か拾い登り右岸大捲箇所を朝山岩崎ルート採用で越えた、といったところだ。過去の写真に拠れば今回の棒小屋沢は釜の埋まりが随分と進んだ様子で、多少なりとも進歩があったのはそれに因るところが大きい。高捲き部分に際どい場面はそれほどなく、むしろその後の懸垂下降に神経を遣った。サンナビキ谷左俣の時程に不明部分を作ることもなく、よいラインからの通過を許された。そして爺ヶ岳への本流筋を辿らず、滝印が顕著に示されている西沢小沢へと繋いで我々の山行として創った。
山行を終えての感想としては、谷の形態は私の数少ない経験に照らし合わせるとなるとその近所の新越沢との比較がやはり一番妥当に思う。鉛直方向に幾重もの層を成す堅固な黒部川右岸壁を穿ち貫く両沢は類似点も多いがまた相違点も確かにある。新越沢の、あの無垢でまっさらな清潔空間の記憶を携えて棒小屋沢に赴けば、落胆せざるを得ない現実が「落ちていた」。関電道とその支配下にある堰堤建造に際して吐き出された見苦しいコンクリートやブルーシート、鉄杭や軌道に由来するレールの残骸・・・。渓谷の造りが良かっただけに目を背けたくなる人工物の数々であった。廊下の長さは費やされた日数から判るように内容二倍・長さ三倍といったところか。沢が小振りな分、取り組みの親密さは新越沢にあり、こちらのほうが肌にシックリとくる親しみを感じる。
とまれ剣沢と棒小屋沢、共に我が宝物とすることがようやくにして叶った。やった!
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