大島亮吉『石狩岳より石狩川に沿うて』100年前の足跡をたどって◆ゝ貔仄軋遡行 - 石狩岳 - 音更山 - 秋葉沢下降 - 由仁石狩林道
- GPS
- 23:45
- 距離
- 17.8km
- 登り
- 1,231m
- 下り
- 1,413m
コースタイム
- 山行
- 12:13
- 休憩
- 0:27
- 合計
- 12:40
- 山行
- 9:49
- 休憩
- 0:30
- 合計
- 10:19
過去天気図(気象庁) | 2021年07月の天気図 |
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アクセス |
写真
感想
大島亮吉が『石狩岳より石狩川に沿うて』に描いた山旅から100年になるのを記念し、日本山岳会北海道支部の支部山行でその前半部分の足跡をたどったのは2020年7月のこと。
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2476295.html
それから1年後、前年の行程に続く部分をたどる山行を行った。
今回私たちが歩いたのは、石狩川から石狩岳、音更山を越えて由仁石狩川に降る、大島たちが1920年7月25日から26日にかけて歩いた行程。幕営地も大島たちと同じ場所を計画していた。前回に比べルートがはっきりしない部分があり、近年あまり人の入っていない箇所も多い。夏道のない石狩岳北西尾根はハイマツ漕ぎが鍵になるとは考えていたが…。
◉旧・石狩沢の細い水脈を辿って
7月30日、私たちは大雪湖そばの大雪山道路情報センター横にテントを張って前泊した。夕刻、このテントサイトを、翌日石狩沢から石狩岳に登る予定の京極紘一さんたちが訪れてくれ、「明日、石狩岳の山頂で会えたらいいですね」と話して別れた(結局は会えなかったのだが)。
翌31日5時過ぎ、私たちは昨年の山行終了地点であるヌタプヤンベツ川と石狩川本流の合流点付近にいた。大島が憧れの石狩川本流と出合い、犬を連れた二人のアイヌと邂逅して感激した場所である。天気は上々、暑くなりそうだ。
大島たちは101年前、この付近の石狩川本流から支流の「石狩沢」に入り、これを遡って石狩岳へ向かっているのだが、この「石狩沢」がどの沢を指すのか?は意外と知られていない。普通に考えると、現在の地形図に「石狩沢」と書かれ、この日も京極さんたちが遡る予定の石狩岳への直登沢(以下「現・石狩沢」)のことでは?となるのだが、実はそうではない。なぜなら大島は『石狩岳より〜』にこう書いているからだ。
「アイヌと別れて合流点より左岸の林中を下流に沿うて少時降ると対岸に小さな沢の再び合流するに遭った。これが石狩沢である。」
つまり、石狩川本流と「石狩沢」との出合=合流点は、ヌタプヤンベツ川との合流点よりも本流の下流にあると言っているのだ。しかし、現・石狩沢の合流点は、ヌタプヤンベツ川の合流点よりも上流である。不思議に思って、大島たちが持参した『山岳』12年附図や、大島とともにこの山行に参加した田中三晴の編纂になる昭和初期のガイドブック『北海道の山岳(登山案内)』を見ると、意外なことがわかる。現・石狩沢は大正〜昭和初期には「大石狩沢」と呼ばれており、当時「石狩沢」と呼ばれていたのは、現在の地形図では無名の、石狩沢と音更沢の間にある短い沢(以下「旧・石狩沢」)だったのだ。当時と現在では沢の名前が変わってしまっているのだ。大島たちは、この旧・石狩沢から石狩岳の北西尾根に出て山頂に達したと思われる。
そこで私たちも、まずは旧・石狩沢を遡らねばならないわけだが、500mほど下流の地形図上の合流点まで行ってみても、そこには何もない。このあたりの石狩川は2016年の台風で甚大な被害を受けて19年まで林道が不通になっていたほどで、かなり地形が変わっている。もっと上流寄りの薮の中の細い流れが旧・石狩沢だった。今も「小さな沢」である。
「直ちに石狩沢の細い水脈を辿って遡り始める。石狩沢と言ってもそれは決して顕著な沢ではなく本流に沿うて来てもうっかりしていれば見出し難い程のものである。沢は両側に繁茂する針葉樹に蔽われて水面などは薄暗く、朝霧に濡れそぼれたイタドリの群生を分けて登るのは極めて無気味だ。」
少々薮を漕ぐと開けてはくるが、水量はかなり少ない。倒木が多く、薮もかぶり気味で、全くすっきりしない。北向きの沢なので暗く、沢登りの楽しみは皆無に近い。
「登れば益々傾斜は加えて来るが、だんだん水量は減じて来る。沢を左へ左へと登って来た様であるが地図が簡略なためにどこをどう登るのか少しも解らずただ嘉助の朧気な記憶に依頼するのみで甚だ心細い。」
この「簡略な」地図というのは『山岳』12年附図のこと。この文章からはルート取りが案内人の成田嘉助に一任されていたことがうかがえる。
私たちの遡る沢も1250m付近でほぼ直角に左折して東を向き、正面から日の光を浴びる形になる。沢水はいったん伏流したりして、さらに水量を減らし、1400m手前で遂にほぼ水流がなくなる。ここで水を補給したが、今夕は沢を降って幕営予定だからと、行動中に飲む分しか汲まなかったのは失敗だった。
「樹枝の緑の集団の間から真直の前面に大きな残雪の輝きが眼を射る。忠別岳のあたりらしい。」
私たちの真後ろに残雪を帯びて聳える立派な山は、忠別岳ではなくトムラウシ山。もっと上部で谷の向きが変わると忠別岳も見えてくるが、こちらにはほとんど残雪は見えない。
1430mの二股からは、北西尾根のコルに上がる左股ではなく1710mのピークに上がる右股へ。沢形がよりはっきりしており、石狩岳の山頂へ近いので稜線の薮漕ぎが少なくてすむかも、という思惑だが、すぐにナナカマドなどの灌木やササが被さるようになってしまい、割とはっきりした鹿道を頼りに小尾根上を1710m峰へ登っていく。
◉ハイマツの山稜を伝って
「一直線に四十度近くもあろうかと云う急斜面をナナカマド、ミヤマハンノキなどの密生を分け、それらの樹枝を手頼りに漸く這い登って前石狩岳に連亙する山稜の一点に達したのは九時三十分で、石狩川畔よりは約三時間を要している。」
私たちが北西尾根の稜線に達したのは10時過ぎ。石狩川畔から5時間近くかかっており、大島たちよりかなり遅い。暑さも相まって、皆かなり疲労している。ちなみに、大島が前石狩岳と書くのは北西尾根上の1824m峰のことらしい(「山岳附図」とは位置が大きく異なるのは大島の書く通り)。
灌木の茂った稜線を乗っ越して東側に出ると木がなく、眼前に大きく音更山とポン音更山が立ちはだかる。右手には、尾根通しに石狩岳も初めて見えてくる。稜線のこちら側は笹や灌木の薮も低く薄いので、斜面をトラバース気味に進むが、傾斜は急でザレており、薮で足下も見えず、思ったほどスムーズには進めない。
1710m峰の山頂近くまで来ると、北西尾根と石狩岳の全貌がはっきりする。翼を広げた猛禽類のような石狩岳は、どこから見るよりも立派だ。山頂の右下、現・石狩沢の上流部に細く残った雪渓が一直線に小石狩岳に突き上げているのが印象的(表紙写真)。京極さんたちの姿がそこにないか目を凝らしたが見えなかった。その頃、京極さんたちは既に山頂に達し、逆に私たちの姿を望遠レンズで捉えていたことを後から知った。
1824m峰(前石狩岳)へ続く稜線上はハイマツと思われる濃い緑色の部分が多いが、左の沢形は緑色が淡く土も出ており、稜線の右にもハイマツが薄そうな部分が見える。
コル(1650m)までの緩い降りは薮が薄く、鹿道もはっきりして歩きやすい。ハイマツも丈が高く枝が少なくて、難なく下を通り抜けられる。しかし、コルからは猛烈なハイマツ漕ぎが待っていた。左の沢形に入るにはいったん降らねばならないので思い切れず、結局、ハイマツの一番濃い尾根のてっぺんに追い上げられる。
「山稜にはナナカマド、ミヤマハンノキの密生する間に偃松のひねくれた樹枝が思うさまにのさばりかえっていてその通過の困難は容赦のない日光の直射を加えていや増し、非常な疲労とたえがたい喉の渇きに身体はへとへとになってしまった。」
ハイマツはまさにこの通りで、枝の上に乗って渡って行こうにも、重荷にバランスを崩し、度々枝の隙間に落ち込んでしまう。直射日光は強烈で、喉はからからになり、どんどん飲み水が減っていく。藪漕ぎは、メンバーがピッタリとくっついて先頭交代しながら進むのが労力軽減にはいいが、私たちは4人がバラバラになってしまう。それでも右へ右へと、前石狩岳の山頂を巻くように進み、石狩岳山頂とのコル(1800m)を目指すが、すぐそこのように見えて、全然近づかない。
「漸く偃松を泳ぎ越し、それから解放せられると又草いきれのする暑く熱った草地を過ぎり絶えず山稜を伝って漸く十二時意外な時間を費やして前石狩岳と石狩岳の鞍部に遥か下の山襞に辛くも残存している残雪を目的にして昼餉をすることにした。」
私たちがコルに着いたのは15時30分。陽もだいぶ傾いて薄暗い。稜線に出てから3時間で来た大島たちに対し、私たちはもう5時間半も稜線の薮を漕いでいる。60代中心の私たちと20歳前後の大島たち(最年長の嘉助でさえ40代)の体力差か。疲労困憊してコルで大休止するが、残雪はどこにも見当たらなかった。
「前面に深く暗い谷を隔ててユーニ石狩岳がその端麗な山容を眼近く聳えさせ、山頂の三角櫓さえも明らかに指示することが出来る。(中略)やや左に位置してヌタクカムウシュペが大きく肩を張って真夏の強烈な日光に鋭い残雪の輝きを見せている。」
『石狩岳より〜』にはそうあるが、音更沢(大正期の名称は前石狩沢)の谷を隔てて私たちの前に聳えているのは、先ほどと同じ音更山だ。ユニ石狩岳はここからは見えない。では大島が間違えたのかというと、そうではない。当時は音更山とユニ石狩岳の呼び名が現在と逆だったのだ。当時の音更山は現在のユニ石狩岳で、当時のユーニ石狩岳が現在の音更山。つまり大島がユーニ石狩岳と書いているのは、今の音更山のこと。山頂に三角点測量用の櫓があったことからも、音更山のこととわかる。三角点は音更山山頂にはあるがユニ石狩岳山頂にはない(もっとも、この音更山山頂の一等三角点の点名は当時も今も「音更山」。ちなみに、大島も書いているように石狩岳山頂に三角点はない)。また、ヌタクカムウシュペ=表大雪は、音更山のやや左という位置関係にないので、これはニセイカウシュッペ山の間違いではないか。
眼の前に見える音更山だが、そこまでの道のりはまだ遠い。あの山の向こう側の幕営予定地まで、とても今日中にはたどり着けそうにない。
◉石狩岳の山頂に立つ
コルからの道のりは格段に楽になる。稜線上にはまだ薄くハイマツが続いているが、右の斜面の薮は膝下程度。全然ないところも多く、そこをつなぐように登っていく。稜線の傾斜はきつくて疲れた身には辛く、あまりペースは上がらないが、細く平らな山頂稜線は確実に近づいてくる。振り返れば、登ってきた稜線がくっきり見える。
「非常に急傾斜の草地を喘ぎつつジッグザッグをして登りつめて漸く石狩岳にとりつき始めると、もう草地はなくなって偃松の蒼黒い叢生と黒くイワゴケなどの付着した岩石の堆積のみで、その岩石の崩壊して細かい砂礫となった様な斜面には駒草がかがやかしい光線を一杯に吸い込んで、その小さい淡紅色の花弁は可憐な生命のよろこびに顫えている。」
今もここにはコマクサが咲いていた。
「更に登るに従い、ただ磊々とした岩片の堆積のみとなり、山稜は著しく狭く両側の傾斜は恐ろしく急峻を加えて荒寥とした山巓の景趣を備えて来た。幾つも幾つも岩稜の小隆起を越えてゆき、遂にその最高点と思わるる岩稜の隆起に達したのは正二時であった。」
少々大げさな表現だが、確かに小隆起は多い。私たちが山頂(1966m)に達したのは16時50分。そばのハイマツには京極さんからのメッセージが縛りつけられていた。
夕闇が迫り、また雲と逆光で見にくいが、大島が山頂からの眺望の描写で言及している表大雪やトムラウシ、そして十勝岳連峰は見えている。とりわけ左端のパナクシポロカメトクヌプリ(現在の下ホロカメットク山)は目立っている。南のニペソツ山、北のニセイカウシュッペ山や北見岳(現在の武利岳)は霞んでいるものの何とか見ることができたが、低いユクリヤタナシ(現在の北見富士)は暗闇に沈んで判別できなかった。
十勝方向に流れ下る音更川も確認できるが、大島が
「オトプケの流域は鬱々として蔽うた暗緑の深林のうちを黒い細条をなして牢獄のような暗い峡谷が深く穿ち流れている」
と書いたような恐ろしげな雰囲気ではないのは、今は針葉樹の大森林が失われてしまっているからだろうか。
「眼界に入るものはただ硬い岩石や冷たい雪、或いは又陰鬱な森林に蔽われて、人間味の少ない或いは全くこれまで人間との交渉を少しも有していない山々谷々のみであることを知り、しかもその奥深い核心をなすこの地点に立つ自分たち四人の存在を想うと一種恐怖の感情にも相似た強い自然の圧迫を犇々と胸に感じないわけにはゆかないのである。実際に石狩岳の山頂よりは全く人間の住地である平原と云うものの片影さえも望見することは出来ない。」
今も石狩岳の山頂から平原は見えないが、恐怖は感じない。大島を魅了した手つかずの原始性は、もはや過去のものでしかない。
時刻は既に17時を過ぎ、音更山まで縦走して未知の沢を降るには遅すぎる。音更山への稜線の縦走路の途中でビバークすることに決める。
「最高点より更に岩稜の隆起を進めば少時して再び偃松の叢生は激しく、岩稜は長大な山稜を丁字形に相会している。右は即ちニペソツ山脈に連り、左はユーニ石狩岳に導くものであり…」
この大島の文章は謎というより不可解である。というのも「右・ニペソツ山、左・音更山」という形で稜線が分岐するジャンクションポイントは、まさに今われわれがいる石狩岳の山頂だけで、ここから先に進んだところにはないのだから。
「その山稜について深い偃松の繁茂をかき分けてユーニ石狩岳との鞍部に只管下りつづけた。十勝側はすべて峻直な岩壁をなし、処々草地と御花畑を点綴してはいるが全くオトプケの谿までは削り落とされている。偃松のひどい処は岩壁を搦み、…」
当時は道のなかったこの稜線に現在は縦走路が開かれているので、ハイマツ漕ぎはないが、表大雪に比べて整備されておらず、標識なども少ない。降りは急で、確かに十勝側=音更川側は切れ落ちている。降り始めて20分ほどで、シュナイダーコース分岐近くのコル(1750m)に着く。ここでビバークすることとし、2張りのテントを張る。水は残り少ないので夕食は作らず、各自の行動食や非常食、おつまみなどで済ませた。その夜は満天の星が頭上に広がった。
◉音更山から由仁石狩川を降る
明けて8月1日、朝起きると昨夜の星空が嘘のように濃霧に包まれ、雨も降っている。視界数十m。朝食抜きで5時過ぎに出発した。
「鞍部よりは青黒くイワゴケの付着した大きな岩片の堆積を息もつかずに登りつめてユーニ石狩岳一八一三米突の三角点に達した時は三時四十分であった。」
私たちも縦走路を歩き、岩礫帯の中を登って、6時15分に一等三角点の標柱のある音更山(旧・ユーニ石狩岳)山頂に着く。ガスで眺望はゼロ。
さて、この先のルートについて大島は「ユーニイシカリに降る」としか書いていない。現在の地形図上の由仁石狩川本流に降るには、まず音更山の東の肩まで稜線を辿らなくてはならないが、大島の文章にそのような記述はなく、また、そこから先は切れ落ちた斜面で、彼らが降ったとは考えにくい。山頂から直接、由仁石狩川の支流、現在の秋葉沢に降ったと考えるのが自然だろう。ということで私たちも、北西尾根上に以前あったという、ポン音更山(1790m峰)への登山道の痕跡を少したどり、秋葉沢へ向かって降っていく。
「ユーニ石狩岳の山頂より中腹にかけては花崗岩の岩崩れがこれを被覆して、足場の悪い急峻な下りを急ぐので膝頭がガクガグ痛い。」
大きな岩の積み重なった岩礫帯を降っていくとすぐにハイマツが出てくる。昨日のトラウマから、なるべくハイマツは避けたいと、岩礫帯から岩礫帯へと繋いでいくが、この濃いガスでは、なかなか避けきれず時々ハイマツにつかまってしまう。しかし、距離が短い上に、降りなので昨日に比べれば格段に楽だ。そうこうしているうちに1670m付近で秋葉沢の本流に出る。まだまだ岩礫帯だが、ハイマツの恐怖からは解放された。やがてイワブクロなどの花が出てきて、普通の涸れ沢の様相となる。
「激しい下りに何時の間にか偃松帯は灌木帯にかわり、微かな水のせせらぎも遥かの下に聞こえるのでひとまず安堵の胸を撫で下して進むうち少時して沢を埋めて残雪があり、その下より滴る冷たい甘美な水を思うさま飲んで半日の激しい喉の渇きを医やした。」
私たちがやっと沢に水流を見出したのは1550m付近。8時10分に1530mあたりで大休止をとって一日ぶりに水を汲み、朝食の煮麺を作って、久しぶりにまともな食事にありついた。そこからすぐ、1520m付近で左岸側に見つけた長さ5mほどの小さな雪渓が、この日私たちが目にした唯一の雪だった。
「それより沢の傾斜は著しく緩やかとなり、少時して漸くガンピの林と蕗の下生えを見出したので早速そこで野営と決めた。(中略)標高は一三八七米突を示している。」
キンバイが咲き乱れるところを過ぎ、沢には小滝が、両岸には木が出てくる。右岸から支流が合流してくるあたりが標高約1380m。フキはあるがダケカンバの林はなく、幕営に適した平地もない。計画では昨晩ここに幕営する予定だった訳だが、夜にたどり着いても、まともにテントを張ることができたか疑問だ。
さて、大島たちはここに泊まった翌日、1920年7月26日の朝、灌木の密林をかき分け、川幅の広くなった流れを進み、明るく開けた場所に出て、衝撃的な光景を目にする。
「自分たち一同はただ悚然としてしまった。曠々とした川床の全部を蔽い尽して尚遠い両側の傾斜地までそこには打倒れた巨木が累々と折れ重なり、相横たわり半ば倒れかかって相互いによりかかりつつ刺々しい樹枝を空しげに突き立てている。それが前方にまでずっと続いている。何んと言う痛ましい凄然たる光景であろう。自分は最初この光景を一瞥したとき言い知れぬ戦慄に全身を突き動かされたのである。これらは皆トドマツの風倒木でその樹幹は一間近くの直径が充分にあろうと思わるる程の巨木である。この広大な地域に於いてその巨きな樹々を幼児が玩具を壊す様に手易く或いはもっと造作もなく、吹き払い、なぎ倒し、捻じ折ってこの谷一杯に渦巻いた計り知れぬ強暴な旋風の空と地を震撼せしめた光景を想像して自分はまたも戦慄したのである。」
この山行中、各所で様々な光景を目にして感激し、恐怖し、戦慄している大島だが、中でもここは最大級に心を動かされた場所だったようだ。自然の無益な自己破壊に神秘を感じて大島は深い感慨に浸っている。
私たちが降る沢も、1320m付近で右岸から支流を合わせるあたりから谷幅が一気に広がり、土砂が堆積し巨岩が転がる荒れた渓相にはなるが、大島の書くようなスケールの大きさは微塵も感じられない。倒木は増え、腐りかけた倒木に「もしや大島たちが見た木か?」と反射的に思うが、100年も残っているはずがない。かつてここに、大島たちを戦慄させる凄絶な光景が広がっていたことを想起させるものは何もなかった。この後、別の形で自然の破壊力の凄まじさを感じさせる光景を目にすることにはなったが。
大島たちはこの風倒木帯を越え、多大な労苦と苦痛をなめつつ野茨の薮を分けて進み、やがて
「この暗い巨樹の鬱々たる大森林の深い静けさのうちに吸い込まれる様に這い込んでいった。水脈とは何時しか風倒木を越えているうちに離れてしまった。
(中略)そこには無限と思わるる寂寥があった。かような深い暗い森林の奥底に於いてこそ始めて森林を蔽庇とし隠れ所とした吾等の祖宗の時代から吾等の胸の奥底に潜在した遥遠な感情を呼び醒すことが出来る。」
「長い間この恐ろしいまでに沈黙に秘めた森林(中略)を漠然とした方角に向かってただ消え失せてしまった水脈を再び求めつつさまようて行った。」
私たちも川原の丈の低い針葉樹やササの中の鹿道をたどるうちに、水脈を離れてしまい、水が涸れて石の詰まった幅広い沢形を倒木を跨ぎ越しながら進んだが、今はどこにも深く暗く静かな大森林などなく、その痕跡さえ見出せなかった。
大島たちは、わずかな水たまりにイワナが群れ集まり、水のなくなった窪みにイワナが重なり合って腐臭を放っているという光景を目撃する。
「思うにこのユーニイシカリはその幅広い針葉樹濶葉樹に被われた暗鬱な河床のうちを幾多の分流や伏流迷流を形造って日光を怖るる土鼠の様に森の陰影の暗い処地下の暗黒を求めて日光の曝露を避けつつ流れて来たらしい。」
幅広い谷の中を川が伏流と合流、分流を繰り返しているところだけは100年前と変わらないようだ。
13時15分、1050m付近で一気に谷が開けると、そこは由仁石狩川本流との合流点だった。
「右手よりひとつの大きな沢を合流させた流れは漸く純正のユーニイシカリの渓流を形成して来た。」
そう大島が書いたのがここのことだろう。現在このあたりは谷幅が数百mもあるが、水量は少なく、どこを川が流れているのかよくわからない。国道273号線からここまでは由仁石狩川林道が来ているはずで、私たちもそこを歩くつもりだが、以前は十石峠、ユニ石狩岳へのアプローチに使われた林道は、台風による崩壊で2011年から通行止めとなっており、その荒れ具合の程度が心配だ。
大島たちはこのあたりで俄雨と雷に襲われ雨具を着たが、今日の私たちはほぼ雨具を着っぱなしである。
「そこから下流は水滑かに、幅濶く緩やかなカーブをして針葉樹に多くの濶葉樹を混淆した緑の繁茂の間を環り流れている。(中略)雨に潤った緑葉の集団が艶々しくまだ灰色だがしかし既に明るい空からの光りに映えて、静かに淀みなく流れてゆく穏やかな水辺に連っている光景は全くすがすがしく情趣の豊かなものである。」
大島は下流をこのように描写するが、私たちのたどる谷筋は荒れ果て、情趣は全く感じられない。
合流点から、だだっぴろい川原の石混じりの林道だったと思しきところを歩いて行くと、谷がカーブするところで法面が大きく崩れている。道がなくなっているので川原に降りて100mほど歩き、再び現れた林道に上がる。林道上には一面のフキ。この先にも二、三箇所、同様の崩壊地点を同様に通過する。由仁石狩二の沢との合流点付近の山嶺橋は、手前の道が崩れて橋と切れているが、橋自体はしっかりしていて反対側の林道とはつながっているので、一度道から降り橋に這い上がって進む。
衝撃的だったのは、標高915m付近の夕影橋。見事なまでに真っ二つに折れている。大島が目にした大倒木群とは比べられないが、自然の破壊力の凄まじさに戦慄する。
標高900mからさらに川幅が広がり、大崩壊地もある。河岸段丘上の薮を漕ぎ、川原を歩いて国道273号沿いの林道入口にたどり着いたのは15時30分。
こうして日本山岳会北海道支部山行としての『石狩岳より石狩川に沿うて』100周年ツアーはここで終了となった。
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