四天王寺から難波宮へ―上町台地を歩く
- GPS
- --:--
- 距離
- 9.4km
- 登り
- 25m
- 下り
- 11m
天候 | 小雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
街中を歩くので車など交通事故に注意 |
写真
感想
亀ノ瀬じすべり見学ツアーが11時半過ぎに終了し、いそいでチャリで引き返し、午後の四天王寺見学ツアーに間に合わねばならない。大和川に沿って25号線を下るが、途中近道をしようとして失敗、スマホの電源が切れて困った。雨でスマホも濡れて故障トラブルが心配、方向感覚を失い、何とか国道に出たようで、通りがかりの人に道明寺・藤井寺方面への道を尋ねると、国道をまっすぐ進めば河内国分駅に出ると教えられ、ようやく元気が出てチャリを必死にこぐ。なんとか河内国分駅に出るが、シェアサイクルポートは一杯で返却スペースがない。スマホの充電をし始め、駅前のパン屋でパンを二つ買って補給(すでに腹ペコ)、道明寺駅まで1.5km程度で返却可能と分かり、12時過ぎになんとかチャリを返却し、すぐに阿部野橋に戻る。12時半すぎたので、急いで徒歩で四天王寺西門にある石鳥居まで1卻發、辛うじて集合時間1時に間に合った。結構疲れた。
近つ飛鳥博物館学芸員の谷崎仁美氏が通る声で解説を始める。現在同博物館で開催されている企画展「四天王寺と大和王権」展関連企画だ。
まず四天王寺の歴史と概要について中心伽藍を見学、聖徳太子とも関連する百済様式を踏まえた「四天王寺式」伽藍ー南大門から中門、塔、金堂、講堂が一直線上に並ぶ。ここまで歩いて驚いたのは、天王寺駅周辺からのビルなどの建物の密集する中、各時代での戦乱や自然災害、第二次大戦の空襲などで何度も焼失、破壊が繰り返されたにもかかわらず、何度も再建され、現在まで再建とはいえ、地下の遺跡・遺構も含め残されたことに対する脅威の感覚だ。よくぞ残ったと感心せざるを得ない。大阪のこの地の人々の再建への思いが伝わるようだ。
四天王寺の東大門から難波宮に向かい、上町台地の地形の思わぬアップダウンを体感するようにルートが工夫されていた。すでに松山で二日間、+今日の亀ノ瀬と旅してきた身には少々つらい行程で長く感じてしまう。最初に摂津国国分寺跡とされる「国分公園」、次に堂ヶ芝にある豊川稲荷観音寺の境内の中にある堂ヶ芝廃寺跡、さらにアップダウンを繰り返して高津宮跡・真田丸推定地などを通り、最後に難波宮史跡公園に到着、隣の大阪歴史博物館前の法円坂遺跡倉庫群遺構と博物館地下にある残された掘立柱遺構を歴史博物館学芸員の解説を聞いてフィナーレ、長かった一日が終わった。
ー四天王寺の創建は諸説あるものの、推古天皇の頃、聖徳太子の建立とすれば、6世紀末には着工されている。最初の仏教寺院である蘇我氏の「飛鳥寺」の創建の後、当時瓦を使う建築は仏教寺院しかなく、「前期難波宮(難波長柄豊碕宮、現・大阪市中央区法円坂)の下層遺構から瓦が出土するが、この時代の日本において瓦葺きの建物は仏教寺院のみであり、これらの瓦は四天王寺の創建瓦と見なされている=wiki=」。したがって、孝徳天皇が前期難波宮に遷った7世紀半ば以前の推古朝にすでに四天王寺がこの地に存在したことが分かる。
ところで、この地域の台地側の開発は主として渡来系集団により行われてきたことがわかるようだ。谷崎氏によれば、低地以外の河内のこの地域の最初の開発は例えば
陶邑の須恵器窯跡群の開発で、渡来系技術者が中心となって開発がすすめられた=5世紀初めころの話=。次に上町台地を見ると、縄文には多くの活動の痕跡、遺跡が確認されているが、その後は人の活動痕跡が途絶えるーー従来、ヤマト王権の初期倉庫群で6世紀後半頃と考えられたが近年では6世紀前半のもので後半期には廃絶されている。これらをふくむ難波宮下層遺跡からは200軒余りの建物跡が検出されている。どうやら6世紀前半、難波津が開港しヤマト王権の施設群が建設される前に港町とその物流倉庫群が作られた可能性があるようだ。全国各地でのいわゆる「屯倉」の設置と関連湊建設にかかわることだ。6世紀前半に新しい集落が現れ、大型化していくことが発掘調査で確認され、こうした新たな王権による開発、渡来系集団の関与が確認されてきている。そうした中で7世紀には、百済の滅亡後、大勢の百済難民が列島に亡命・渡来し、これらの地域には、「百済王氏(=くだらのこにきし)」と呼ばれる百済王族の末裔が定住し、開発に当たったらしい。訪問した「堂ヶ芝廃寺跡」はこれらの百済王氏一族らの「氏寺」であったらしい。
またその先の細工谷町にある「細工谷遺跡」では「百済尼寺」などの墨書土器や富本銭、木樋を使った暗渠や古代の大規模な掘立柱建物群が検出され、後の百済郡設立と関連するとみられている。この百済王氏一族は、やがて奈良時代以降中央政界でも活躍し、枚方に新たな百済寺が創建され、先月それを見学することができた。
難波宮跡に到着するころにはすでに体力が尽き果てており、歴史博物館地価の難波宮遺構の見学もそこそこに、本町駅に戻って荷物をロッカーから引き出し、ひたすら急いで帰宅の途に就いた。疲れ果てましたーー。
参考 wikipedia=
四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。山号は荒陵山(あらはかさん)。本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている[1]。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった[2]。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。
歴史
七星剣
『日本書紀』に見る創建の経緯
創建時の四天王寺伽藍模型(大阪府立近つ飛鳥博物館展示)。南から北へ(この画像では右から左へ)中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置するのが特色。
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである[3][4]。 四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。
用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現・大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。
以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。
『書紀』の推古元年是歳条には「是歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とあって、「是歳」が造営の開始を意味するものか完成を意味するものか定かでなく、めでたい「元年」を造営の年にしたものとも考えられている[5]。ただし、四天王寺が推古朝にはすでに存在したことは考古学的にも確認されている。前期難波宮(難波長柄豊碕宮、現・大阪市中央区法円坂)の下層遺構から瓦が出土するが、この時代の日本において瓦葺きの建物は仏教寺院のみであり、これらの瓦は四天王寺の創建瓦と見なされている。したがって、孝徳天皇が前期難波宮に遷った7世紀半ば以前の推古朝にすでに四天王寺がこの地に存在したことが分かる。四天王寺の創建瓦の中には、斑鳩寺(法隆寺)のいわゆる若草伽藍(現存する法隆寺西院伽藍の建立以前に存在した創建法隆寺の伽藍)の出土瓦と同笵の軒丸瓦がある。若草伽藍と四天王寺の同笵瓦を比較すると、前者の文様がシャープであるのに対し、後者は瓦当笵に傷が見られる。このことから、若草伽藍の造営が先行し、同伽藍の造営が落ち着いたところで、瓦当笵が四天王寺造営の工房へ移動したことが分かる[6]。
四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である若草伽藍の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる。
創建に関わる異説
四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本 巻頭と巻末)
当初の四天王寺は現在地ではなく、上町台地の北部に位置する玉造(JR森ノ宮駅付近)の岸上にあり、推古天皇元年(593年)から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(鵲森宮の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとするが、鵲森宮が元四天王寺の存在を示す根拠に挙げる「難波古絵図」には、石山(現・大阪城本丸)の東隣に「天王寺跡」が描かれており、天王寺跡と接する東の河川が現在の大阪城東外堀であることから「元天王寺」は現在の大阪城二の丸梅林付近に存在したこととなり社伝と矛盾している)。また、建立の動機も、丁未の乱で敗死した物部守屋とその一族の霊を鎮めるため、とりあえず守屋の最後の拠点の玉造の難波邸宅跡(元大阪樟蔭女子大教授今井啓一は鵲森宮が難波の守屋の宅跡と推測する[7])に御堂を営んだ6年後、荒陵の地に本格的な伽藍建築が造営されたのだとされる。現在四天王寺には守屋祠(聖徳太子の月命日22日に公開。物部守屋、弓削小連、中臣勝海を祀る)があり、寺の伝説には守屋が四天王寺をキツツキになって荒らしまわり、それを聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起が残っており[8]守屋らの社を見下ろす伽藍の欄干に太子の鷹の止まり木が設置されているなどから、御陵社の意味合いを推察する向きもある。
山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。例えば、大阪市住吉区にある帝塚山古墳は、「大帝塚山」、「小帝塚山」と地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお、小帝塚山は、住吉中学校の敷地内にあったといわれている。また、東高津宮は、仁徳天皇の皇居であるとする1898年(明治31年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。
現在の大阪市東淀川区豊里の東部は、元は西成郡天王寺庄村といった。四天王寺の建立予定地であったという伝承による。なお、8世紀の西成郡と隣接する東生郡の郡領は、吉士系で占められていたとする推察がある[9]。
20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある[10]。また、上記の『書紀』批判の記述とは別に、孝徳朝創建説[11]、阿倍氏創建説[12]、難波吉士氏寺説[13]があり、加藤謙吉は孝徳朝以降の造営事業は「少なくとも四天王寺を豪族の私寺的なものとみることはできない[14]」とする
参考2(wiki)=四天王寺式伽藍配置(してんのうじしきがらんはいち)は、飛鳥時代の代表的な伽藍配置の一つ。
様式
南北に南大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線上に並ぶ。大阪天王寺区の四天王寺などにみられる。一塔一金堂式。
建築に際して、中心軸となる南北線をどう設定するのか。7世紀前半に創建された四天王寺は真北にとっている。古代の寺院建築では軸線を真北に設定するのが基本で、中国に端を発する。
地方での例として愛知県岡崎市北野町の北野廃寺は、矢作川右岸の標高25メートルの碧海台地上に位置している。中門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ伽藍である。参道も検出されている。かつては東西124メートル、南北147メートルの区画に建っていたらしい。古瓦から7世紀中頃から終わり頃の創建とみられ、7世紀半ばに溯る西三河最古寺院との評価が下されている。
参考3=地形からみた「上町台地」の歴史(三井住友トラスト不動産HPより)
かつては海に囲まれた半島だった「上町台地」
「上町台地」周辺の地形・標高を色と影で表現した陰影段彩図
かつては海に囲まれた半島だった「上町台地」
国土地理院「基盤地図情報:数値標高モデル5mメッシュ」を「カシミール3D(http://www.kashmir3d.com/)」により加工し作成
図は「上町台地」周辺の地形・標高を色と影で表現した陰影段彩図。地図上の注記は本ページで取り上げたものを中心に記載している。
「上町台地」は東西及び北の三方を低地で囲まれている。約7000〜6000年前の縄文海進の時代には東に「河内湾」、西に「大阪湾」が拡がる半島であった。その後、砂州が北に向かって形成され「河内湾」を締め切り「河内湖」となった。「淀川」「大和川」をはじめとする河川による土砂の堆積によって陸地化が進み、現在は「河内低地」となっている。
古代の頃の「上町台地」も海や湖、湿地、河川に囲まれていた。「大阪湾」側の台地の下の微高地は「難波砂堆(さたい)」、北側の微高地は「天満砂堆」と呼ばれる砂の堆積地で、陰影段彩図では緑色の微高地となっている。船場、天満など、大坂における江戸時代より前からの町は砂堆上に発展しており、のちに「古町」と呼ばれている。
神武天皇の時代、現在の「大阪城」の場所に「生島神」「足島神」の両神が祀られたのが「生國魂神社」の始まりとされている。両神は大地・国土の守護神であり、「上町台地」の対岸にあたる「淡路島」の「国生み神話」とも重ねることもできる。平安時代から鎌倉時代にかけては、両神を祀った「八十島祭」が行われた。天皇の即位の翌年に行われた祭儀で、沿岸の島々を日本の国土である「大八洲(おおやしま)」に見立てて、その神霊を天皇の御衣に遷すというもので、これらの島々は「難波八十島(なにわやそじま)」と呼ばれた。「大阪海岸低地」には現在も「堂島」「中之島」「福島」「江之子島」など「島」のつく地名が残る。
平安時代中期から鎌倉時代初めにかけて、王侯貫族から庶民に至るまで「熊野信仰」が盛んになった。「熊野街道(熊野古道 紀伊路)」は、京都から「淀川」を船で下り、「渡辺津(のちの「八軒家」)」から「上町台地」を縦断し「熊野三山」へ向かっている。街道沿いには遥拝所と休憩所を兼ねた「王子」(「熊野九十九王子」と呼ばれる)が設けられた。「上町台地」上には五つの「王子」があったが、現在も神社として残るのは「阿倍王子神社」だけとなっている。
「上町台地」の西端は「大阪湾」に沈む夕陽を望める場所であり、「夕陽丘」という地名もある。平安時代、真言宗開祖の弘法大師空海が「四天王寺」から真西に沈む夕日を見て、西方の極楽浄土を観想する「日想観」を行った地であり、その後、浄土宗開祖の法然上人も「日想観」をこの地で修し、その草庵が現在の「一心寺」となったという。
戦国時代に築かれた「大坂城」は、「上町台地」の北端部分に位置し三方は川や湿地と、天然の要害で囲まれていた。唯一、南に続く台地面が弱点とされ、大きな「空堀」が掘られたほか、「大坂冬の陣」では出城の「真田丸」も築かれ守りを固めている。
「茶臼山」は、5世紀の古墳といわれており、南にある「河底池」は、8世紀ごろに「大和川」や「河内湖」の水を排水するための水路を掘削しようとした工事の跡という。現在の近鉄南大阪線の駅名に残る「河堀口(こぼれぐち)」という地名もこの工事に由来する。「大坂冬の陣」では徳川家康、「大坂夏の陣」では真田信繁(幸村)が本陣とした山でもある。「河底池」の南側では、1895(明治28)年から住友家が本邸建築のため、敷地の買収に取りかかり、1908(明治41)年には家屋の建築、庭園の造営が一通り竣成した。その後、1915(大正4)年に移転してきているが、1925(大正14)年に大阪市に寄付されのちに「天王寺公園」の一部となった。現在、本邸庭園であった「慶沢園」は公園施設として公開されているほか、邸宅の敷地は「大阪市立美術館」となっている。
上町台地◆wikipedia)=
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上町台地(うえまちだいち)は、大阪平野を南北に伸びる台地。
南北約11km、東西約2 - 3km[1]と南北に細長く、大阪市中央区・天王寺区・阿倍野区・住吉区にまたがり、大川に架かる天満橋から大和川に架かる遠里小野橋まで大阪府道30号大阪和泉泉南線(谷町筋・あべの筋)が台地上を南北に貫く。標高は北端付近の大坂城(本丸)で約32m、中間付近の生國魂神社で約22m、同じく四天王寺で約19m、南端付近の住吉大社で約7mと、北から南へ低くなる。
上町台地の南東、御勝山古墳(大阪市生野区)から三国ヶ丘(堺市堺区)へ続く台地は、広義では上町台地の東側部分として扱われるが、狭義では「我孫子台地」として区別される[1]。
上町台地の西側に難波砂堆、北側に天満砂堆と呼ばれる砂州(微高地)が形成されている。難波宮の時代から豊臣政権前期までの市街地は台地上に展開していたが、豊臣後期以降は難波砂堆上に船場・島之内、天満砂堆上に天満といった市街地が展開するようになり、台地上の市街地を上町と総称するようになった。上町台地の呼称もこれによる。
上町台地の範囲と成り立ち
上町台地の範囲
台地北部に立つ大阪城
台地の西端の崖線にある坂の一つ、源聖寺坂
大阪市域の本格的な地質調査は大大阪時代末期の1930年代に遡るが、資料の大半が戦災で失われ、信頼できる大阪平野全域の沖積層の基底等深線図が日本建築学会により作成されたのは1966年(昭和41年)になってからである。
上町台地は洪積台地であり、大阪層群の上に成立する中位段丘層である上町類層を基礎としている。北部の天満層とは地質学的に不整合であり、上町台地の北端は大阪城と考えられる。また、台地の全容は、古地図や戦後実施された大学や行政、また、高層建築物の建設際の地盤調査の際に行われるボーリング調査等の地層断層検査などの結果から5世紀頃において既に砂嘴として形成されていたと予想される高地部分を上町台地と推定している。
上町台地は縄文時代には東西を河内湾と瀬戸内海に挟まれていた半島状の砂嘴だったと考えられており、弥生時代から現在に至る期間を経て台地東部(東成地区の語源と言われる)は淀川・大和川水系から運ばれる大量の土砂が堆積し、河内湾が河内湖、湿地帯を経て沖積平野となり、台地西部(西成地区の語源と言われる)も同じく河川の働きにより大阪市の中枢部を含む平野を形成するに至った。台地東部への下りが比較的なだらかなのに対し、台地西部への下りが急峻であるのは台地東部が淀川・大和川水系の上流に位置し、土砂の堆積量が豊富なためで、台地西部は標高が低く大阪湾平均水面より低いゼロメートル地帯が広く分布している。なお、台地の標高は最も高い大阪城天守閣跡で38メートルであり、北部はストンと淀川水系の大川に落ち込み、南部へはなだらかに下り北の大阪城大手町付近で24メートル、中央部の天王寺交差点付近で16メートル、帝塚山付近で14メートルの標高を保つが、南部の万代池南方から急速に標高を失い住吉大社付近で6メートルとなり細井川を越えた台地南端の住吉区清水丘では標高は2メートル-3メートルとなっている。
なお、台地の範囲を四天王寺付近までとする見解もあるが、台地表層の開発利用状況から見ての明治期以前に拓けていたか否かを分岐とする考え方から来ているものと考えられている。そもそも、江戸時代までは河内(かわち=大阪東部の旧国名)を形成していた大和川が柏原から北へ蛇行し現在の東大阪市から大東市辺りに大きな池を作り、現在の天満橋の辺りで淀川(大川)と接合して海へ流れていたことから、上町台地の北の端は大阪市中央区天満橋辺りであり、南の端は住吉区の苅田付近までにわたる。行政区としては、中央区の東部分、天王寺区、阿倍野区、住吉区北端と南部の一部にわたっている。
上町台地上には「○○山」や「○○丘」という地名が多く、北から天王寺区の「真田山」「北山」「桃山」「夕陽丘」「茶臼山」、阿倍野区の「晴明丘」「丸山」住吉区の「帝塚山」「清水丘」と続く。
上町台地の成り立ち
縄文海進期の上町台地は河内湾に突き出した半島状の台地であったと想定されている。その東側は河内湾とされ、河内湾が淡水化されていく河内湖の形成過程では天満橋の台地北端からさらに北へ砂州がつながり、半島状の上町台地は完全に両端が陸域化された。大阪湾の北岸は千里丘陵のすぐ下、吹田市の豊津や高浜といった地名がある辺りにあり、そこへ上町台地からの砂州が大阪市の東三国か吹田市の江坂辺りまで延び、淀川や大和川の流れ込む河内湾と大阪湾は垂水(現在の吹田市垂水付近)というわずかな幅の水路でつながっていた。そのため、時代が下がるにつれて河内湾は河川水による淡水化が進み河内湖となる。仁徳天皇は河内湖と大阪湾をつなぎ、河から海への水運や、河内湖の排水をスムーズにするため、現在の天満橋の辺りで砂州を掘って河内湖と大阪湾を直結する難波の堀江という運河を作ったといわれている。
大和川開削の名残 河底池と茶臼山
途中で台地が途切れているのは、掘割工事や河川の付替えが行われたためとされている。江戸時代の大和川付け替えが典型的な例であるが、それ以前にも上町台地を開削して河内の水を大阪湾に流そうという試みはあった。難波の堀江のほかにも、延暦7年(788年)に和気清麻呂が大和川の水を大阪湾に流すため四天王寺の南を開削しようとしたが失敗したとされている。天王寺公園北側の茶臼山にある「河底池」や、付近の谷町筋の起伏、堀越町という町名などはこの跡地と思われる。
上町台地開発と大阪の歴史
四天王寺伽藍図
古くから大阪湾に突き出した高台であったこの土地の先端は古代から生國魂神社が鎮座していた。西日本各地や中国大陸・朝鮮半島との交易が盛んになるとともに次第に重要となる。1987年(昭和62年)夏、上町台地の北端付近で古墳時代の5世紀後半と推定される高床倉庫群が検出された。検出された倉庫群は16棟で、東西方向に2列に並んでいる。倉庫のどれも同じ構造で、平面規模も一辺10メートル×9メートル前後と同じで、真北向きに配置されており、建物の間隔も同じである。16棟の合計床面積が約1470平方メートルもあり、租税としての米を籾で入れるのか稲束で入れるのかの違いがあるが相当大きな収容量であったと推測される。5世紀に突然、上町台地の北端に大規模倉庫群が立てられたのか疑問が残る[2]。この遺跡は「法円坂遺跡」として国の史跡に指定されている(史跡「難波宮跡」の「附」(つけたり)としての指定)[3]。
神武天皇即位前、天皇が上町台地の先端、難波埼(なにわさき)に生国魂神社を創建。弥生時代後期〜古墳時代、応神天皇の行宮難波大隈宮(なにわのおおすみのみや)、大王(おおきみ)と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇の皇居、難波高津宮(なにわのたかつのみや)などが営まれた。国内流通の中心である難波津や住吉津が開港され倭国が統一していった時代とされる。飛鳥時代に入り、『日本書紀』では推古天皇元年(593年)に日本の仏教の祖である聖徳太子が四天王寺を難波の荒陸に建立するとある。以後、四天王寺の西大門から難波津に沈む夕日を望む西方浄土信仰と重なり、仏教信仰、とりわけ浄土信仰の隆盛とともにその中心地の一つとして栄えていくこととなった。四天王寺や住吉大社、熊野に詣でる人たちは上町台地の西にあった渡辺津(今の天満橋周辺)で船を下り、そこが熊野街道の基点であった。四天王寺から熊野街道、庚申街道などが走り多くの人たちが救いを求めてこの地を往来した。平安から鎌倉、室町にかけてはこの渡辺津と四天王寺周辺が大きな商業都市として栄えている。渡辺津は、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)を祖とする渡辺氏をはじめとする武士団の生まれた場所でもあり、彼らの水軍の拠点として瀬戸内を束ねる場所でもあった。
大坂とは、四天王寺の西大門から難波津へ下る坂の名称で、後に町全体を指すようになったもの。
大化元年(645年)の大化の改新の時、上町台地北端付近、大王と呼称された倭国の首長である仁徳天皇の難波高津宮跡地周辺に日本の最初の首都である難波宮(なにわのみや)が造られた。その後も首都や副都としての難波京が置かれた。後年、ほぼ同じ場所である上町台地北端付近に、蓮如により石山本願寺が開かれ商工業が発展し、全国の浄土真宗の総本山となる。その後、石山本願寺は織田信長による10年にもわたる激しい攻撃の末、ついに陥落した。信長はこの地に壮大な城を築き、天下統一の拠点にしようと計画していたが、本能寺の変により信長は死去した。そして豊臣秀吉が大坂城を築いたが、三方を河川・湿地に囲まれた大坂城にあって、南はなだらかな上町台地に開かれており多数の軍勢に圧迫される可能性のある城郭防衛上の弱点となっており、秀吉は後年、総構えとしてこの上町台地に堀を掘削する工事を行っている。また、徳川家康による大坂城攻め(大坂冬の陣)の際、豊臣方の武将・真田信繁が総構えから大きく突出した丸馬出「真田丸」を築城して弱点を補い、攻める徳川勢に多大な損害を与えた。
上町台地は宗教上・軍事上・交易上重要な場所で、大阪市の基礎となる場所であったといえる。
都心のオアシス
都会のオアシス 天王寺公園
天正11年(1583年)に始まった秀吉による大坂城下の整備は当初上町台地上に展開されたが、慶長3年(1598年)に行われた大坂城三の丸の造営によって惣構堀内となった東横堀川以東・空堀以北に居た町人たちは惣構堀外に移され、船場などの下町へ町人地の中心が移った。上町という呼称もこれ以降に起こったものである。
上町は東横堀川以東の市街地を指す地域名称で、西から松屋町筋、骨屋町筋、御祓筋(熊野街道)、善安筋、谷町筋、上町筋などの道路が南北に通じている。船場に隣り合う地域は内町や東船場とも呼ばれ、船場に対応する形で「内○○町」という町名がいくつかある。なお、現行住居表示の上町は昭和19年(1944年)に上本町1丁目(旧)が改称したもので、昭和54年(1979年)に広小路町や寺山町などをさらに編入したものである。
大坂夏の陣後に大坂城下の復興にあたった松平忠明は、豊臣期に惣構堀内となっていた渡辺・玉造の地に再び町人地を置くこととし、伏見からの移住者を中心に再興を図った。ただし、町人地にならなかった箇所も点在しており、それらは玉造平野口町の高津屋吉右衛門に肝煎させて西成郡吉右衛門肝煎地となった。一方、惣構堀外となる空堀跡以南に広がっていた屋敷地や町人地は破却されて年貢地(畑地)となり、空堀跡は吉右衛門肝煎地、五條宮に至る屋敷地・町人地は東成郡北平野町村や南平野町村(現在の東平や上汐)といった年貢地となった。船場の南、島之内に隣り合う地域は御用瓦師に払い下げられて瓦土取場となったが、この辺りは古来高津瓦や高原焼の産地でもあった。また、後の大阪大空襲による被害が少なかったため、戦前の木造建築なども残っている。
空堀跡以南の変化において屋敷地・町人地の破却に増して大きかったものは、四天王寺にかけて寺町群が形成されたことである。大阪市中に点在していた寺院のうち浄土真宗以外の寺院が上町台地上に移転され、東成郡小橋村・東高津村・天王寺村・西成郡西高津村領内に、小橋寺町(12ヶ寺)・八丁目東寺町(11ヶ寺)・八丁目中寺町(15ヶ寺)・八丁目寺町(13ヶ寺)・谷町筋八丁目寺町(16ヶ寺)・生玉筋中寺町(24ヶ寺)・生玉中寺町(12ヶ寺)・生玉寺町(14ヶ寺)・天王寺寺町(14ヶ寺)・下寺町(25ヶ寺)が形成された。
以後今日に至るまで寺院の木々の緑が上町台地を彩っている。歴史のある寺や神社、四天王寺七宮や天王寺七坂と呼ばれる台地西端の崖地を降りる坂道、空襲から焼け残った空堀や谷町六丁目付近の長屋の家並みや商店街、上六の繁華街、昭和町・田辺・帝塚山などの戦前の郊外に当たる屋敷町、天王寺公園など、上町台地には緑の少ないと言われている大阪市[4]の都心でありながら、風情や緑のある所が数多く残されている。
上町断層
なお、上町台地が大阪平野の真ん中に南北に直線状に突き出しているのは、豊中市から上町台地西端を経て岸和田市にまで至る上町断層の力によるものである
参考=百済王氏=wiki=
百済王氏(くだらのこにきしうじ)は、百済最後の王である義慈王の子である善光[注釈 2]を始祖とする日本の氏族。持統朝に百済王の氏姓を賜与された。「こにきし」は、古代朝鮮の三韓の王を指す言葉であり、古代朝鮮語に由来すると考えられている。
概説
氏として「百済」を称する氏族は複数ある(百済朝臣、百済公、百済連、百済宿禰)が[2]、王という特殊な姓の示すとおり、かつての百済王族の出身の氏を指す。また延暦9年(790年)菅野朝臣の改姓上表で、百済王仁貞らが後見者然と名を連ねている[3]ことより、百済系渡来氏族の宗家的地位にあったと考えられる。
百済王氏の本拠地は当初難波にあったが、その後北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し[注釈 3]、この地に百済王の祀廟と百済寺[注釈 4]を建立した。百済寺は中世に焼失したが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残る。
歴史
正史の『三国遺事』 卷1 紀異1 北扶餘に扶余氏(元姓)の温祚の父である東明帝が卒本夫餘を建国したという記事がある。
古記云 天帝子降于訖升骨城(在大遼醫州界) 乘五龍車 立都稱王 國號北扶餘 自稱名解慕漱 生子名扶婁 以解爲氏焉 王後因上帝之命 移都于東扶餘 東明帝繼北扶餘而興 立都于卒本州 爲卒本扶餘 卽高句麗之始[5]。
— 『三国遺事』 卷1 紀異1 北扶餘
『三国史記』百済本紀の分注に、朱蒙が卒本(朝鮮語版)夫餘に至った際に娘を得て二子をもうけたとする記事がある[6]。
或云:「朱蒙到卒本,娶越郡女,生二子。」
— 三国史記、巻二十三
百済最後の国王・義慈王は倭国と同盟し、その王子豊璋と善光(扶余勇・禅広王・余禅広)を倭国に送った。日本に残った善光が百済王族の血統を伝えることとなった。
奈良時代末期には俊哲が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使などに任じられ、武鏡は出羽守となるなど、敬福以来東北地方の経営と征夷事業に関わった。平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の和氏出身であったため天皇の外戚とみなされ[注釈 5]厚遇を受けた。一族の娘を桓武天皇・嵯峨天皇らの後宮の宮人とした。和気氏・伴氏・佐伯氏などとともに功臣の子孫として天皇即位などの儀式の際に氏爵を受け、従五位下の官人を輩出する慣例ができた[8]。これらの百済王氏への氏爵は戦国時代まで行われていた[9]。
百済王神社の旧神主家である三松氏は百済王氏の後裔を自称した。
また、平安時代後期に常陸国の税所を預かって在庁官人の最高位にあった百済氏も元は百済王氏の子孫であったとみられる。
人物
飛鳥時代の人物
扶余豊璋:善光の兄で、善光と共に倭国に派遣されている(日本書紀では派遣、三国史記では人質)、鬼室福信ら百済遺臣に迎えられて帰国する。
百済王善光(601年 - 693年):持統天皇より百済王の氏姓を賜る。
参考2=百済郡=wiki
百済郡(くだらのこおり)は、かつて摂津国にあった郡。
西生郡・東生郡・住吉郡と並んで「江南四郊」のひとつに数えられたが、平安時代末期までに隣接の東生郡と住吉郡に編入されて消滅した。郷数3の小郡であった。
歴史
背景
百済郡の設置には、舒明天皇3年(631年)に百済の王子・豊璋と善光が来日したことが大きく関わっている。
設置
善光は天智天皇3年(664年)に許しを得て居を摂津国の難波に定め、これ以降一族ともども中央貴族として朝廷に仕え、「百済王氏」という姓を下賜されることになる。一族繁栄は著しいもので、持統天皇5年(691年)には食封100戸を追加されて計200戸となったことが『日本書紀』に見られる。さらに「百済寺」と呼ばれる大寺を建立しており(大阪市天王寺区の堂ヶ芝廃寺)、その権勢がうかがえる。[1]
百済郡の設置には、このような百済王氏一族および多数の難民の存在が大きく関わっているとみられている。摂津国百済郡の存在については、「百済郡何里車長百済部若末呂」裏面に「(霊亀)元年」と書かれた長屋王木簡が初見史料である。[1]
また当時の日本は百済からの難民や渡来人を、その理由にかかわらず積極的に受け入れ、その人数が非常に多くなったため郡の新設が行われた。他には武蔵国において高麗郡や新羅郡(後に「新座郡」と改称)が立てられた例もあるが、当時の首都近隣に創られた百済郡とは異なり、開発の遅れていた東国への殖民としてである[1]。設置の時期は、善光が浪速に居住する654年(天智3年)あるいは、斉明朝の「難波百済寺」の存在から評の成立した649年(大化5年)までさかのぼるともいわれている。
特異点
この百済郡は律令制の郡としては極めて特異な構造の郡であった。通常郡はそれぞれ独自の条里区画を持っているが、百済郡にはそれがなく、隣接の東生郡や住吉郡の条里を流用して済ませていた。また、郷名も『和名類聚抄』の記すところによれば「東部」・「西部」・「南部」と自然地名とは思えない人工的な名称であった。ただし、これには田部郷(現在は田辺と表記)を東・西・南に三分したことに由来するという説がある。読みも元が「たなべ」であるため「ひがしべ」・「にしべ」・「みなべ」などの可能性が十分にある。
このような特異な郡であるため、郡域の特定が難しく、現在もその区域については定説を見ていない。「百済野」の広域地名が残る上町台地東麓にあたる大阪市天王寺区南東部と生野区西部、「北百済村」・「南百済村」の旧自治体を含み、百済貨物ターミナル駅と東部市場前駅(事実上百済駅を継承)が位置する東住吉区北中部などが有力な比定地であるが詳細は不明である。一説によれば、現在の長居公園周辺までを含んでいたのではないかと考える人もいる
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する