三池岳(過去レコです)。
- GPS
- --:--
- 距離
- 5.7km
- 登り
- 622m
- 下り
- 622m
天候 | 雨。 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2006年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
特別危険な個所はありません。 |
写真
感想
2006年11月26日、曇り後雨の天気予報である。八風キャンプ場の奥の広場に車をとめ、林道に入る。入り口には登山道の案内はなく、やや不安である。林道は大石がごろごろし、車では入れない。谷に沿って登り、少し汗をかき始めた頃、砂防ダムの堰堤に突き当たる。その手前を石を伝って右岸に渡り、コンクリートの堰堤に上がって見ると、ダムの中は石灰岩や土砂で埋め尽くされており、崩壊の激しい山であることがわかる。左手の道に入ると、ここからは登山道となり、徐々に勾配が増して来る。一旦沢を渡って中峠と八風峠との分岐に至るが、中峠への道は踏み跡がなく余り使われていないことをうかがわせる。八風峠への道は一層急坂となり、これをジグザグに登る。しばらく登ると道脇に赤い前掛けをつけた三体のお地蔵さんが祀られている。地図上には坂中ノ地蔵と記されている。お地蔵さんの肩にはうすく元禄十三年という文字が読み取れ、古い歴史のある道であることがわかる。右手に三池岳を眺めながら山肌の急坂を登りきると、勾配は緩やかとなり雑木林の中の尾根道となる。最後に岩を少し登って八風峠に出る。峠はちょっとした広場になっており、古びた鳥居がまたまた歴史の深さを偲ばせる。この峠は鎌倉時代から通られ、近江側の八風谷に沿う道は今でも八風街道と呼ばれている。応仁二年(1468年)、尾張の商人が峠を越えたときの様子を横川景三和尚が「東遊記」に記している。それによると、商人らは百人以上の人夫と護衛の六〜七〇名の武士を雇い、峠の宿で一泊して八風街道を下ったという。その宿は今では跡形も無い。戦国時代には織田信長が足利義輝に謁見し、京都から清洲城へ帰る時に越えた峠であり、ほかにも多くの歴史上の人物が通った記録がある。鈴鹿山系の北端にある関が原峠と南端の鈴鹿峠の間には幾つもの峠がある。北から鞍掛峠、治田峠、石博峠、八風峠、中峠、羽鳥峰峠、中峠、根ノ平峠、国見峠、武平峠と並ぶ。これら数ある鈴鹿の山越えの中でも八風峠は高い場所にあるが、にもかかわらずよく利用された歴史的な峠である。南に釈迦ヶ岳が横たわり、そちらへ向かう道筋がついている。小雨が降り始めたのでそそくさと鳥居をくぐって三池岳に向かい、小さなアップダウンを繰り返す。鈴鹿のここら辺りの山は伊勢側が花崗岩の急峻な断崖となっており、雨が砂や土を流出し、風化が山肌を崩壊させている。その一つの崩壊地をこわごわトラバースし、砂混じりのガレを小股で登り、「三池岳」と記された石柱の立つ頂上に到る。頂上からは視界を遮るものはなく、枯れた木々におおわれた近江の山々が緩やかに連なっているのを見渡すことが出来、竜ヶ岳に向かう道筋が延びている。頂上からさらに奥に三角点のあるピークがあるが、そこは木立に囲まれ眺めはないので止まることなく通過。20分ほど下るとお菊池に到り、まだ10時であるが腰をおろして昼飯を食べる。お菊さんが身を投げたという言い伝えがあるが、小さな池でとても身を投げて死ぬことが出来るような深さも広さもない。昔話として、八風峠に長老屋敷があり、家宝の皿を守っていたお菊に恋をした若者が皿を隠してしまい、お菊は悲しみの余り池に身を投じたというものと、峠の茶屋で働いていたお菊が大切な皿を割ってしまい、この池に身を投じたという二つがある。いずれもお菊さんと皿がキーワードになっており、陶器を持って峠を越えると嵐になると云われている。根っ子の這った急坂を笹にしがみつき、木の枝を掴み、右足首の捻挫に気を配りながら慎重に下る。下から「パーン、パン」という音が聞こえ、下るにつれその音が大きくなってくる。「注意、近くに射撃場があります」と書かれた看板が立っているが、注意するのはそっちだろう。頂上からずっと続く急坂であったが、雨もたいしたことは無く、無事駐車場に帰り着くことが出来た。ゆっくり歩き、充分休んで、4時間の行程であった。
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