記録ID: 267376
全員に公開
積雪期ピークハント/縦走
塩見・赤石・聖
聖岳から奥赤石沢へ1000m滑落遭難、100時間後奇跡のヘリ生還(畑薙→茶臼岳→上河内岳→聖岳→滑落し奥赤石沢⇒ヘリで安倍川河川敷へ)
1992年05月01日(金) ~
1992年05月06日(水)
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- GPS
- 16:00
- 距離
- 18.8km
- 登り
- 3,249m
- 下り
- 2,035m
コースタイム
5/1(金)畑薙第一ダムのゲートにある登山事務所へ登山計画書を提出
当初聖岳東尾根を登るつもりであったが、雪が少ないとのことで、夏道で茶臼岳経由へ変更。
16:25〜35 茶臼岳 快晴
茶臼小屋宿泊
5/2(土)
6:20〜35上河内岳 快晴
9:45 小聖岳 曇
聖岳南斜面の急登は氷のように堅い雪の一枚バーンになっており、ピッケル1本とのアイゼンの前爪で2点確保でバランスをとりながら、必死で登る。つま先がかかる深さ5cmくらいのかなり大股のカッティングあとがあり、これを伝っていくが、荷物が30kg近くあって重く、バランスをとるのが大変でめちゃくちゃ緊張し疲労困憊した。
11:00〜15 聖岳 霧で雪も降り始め強くなってきたため先を急ぐことにして、不十分な休憩で出発。
11:30 兎岳への稜線の南西側は崖になっているため、北東よりの急斜面をトラバースしながら下っていたが、山頂での休憩がたりず、登りの疲れが残っていたため、途中雪から露出している岩に座って休もうとしたところ、バランスを崩して30kgの荷物から仰向けに頭を下にして倒れてしまった。すぐに霧が晴れ、自分が猛烈なスピードで落ちていることに気付いた(ガスっていたのは山頂付近だけだった)がもはや到底止まることなどできず、右足のつま先がかかとの方向に180°ねじれてしまっていて全く動かすことができず、ぶらぶらしていることに気づき、その瞬間に自力下山できないことを悟った。(右足にはアイゼンがついており、雪面に引っかけて足首をひねってしまったらしい。左足はアイゼンがいつの間に外れていたがこれが幸いして雪面にひっかけず骨折しなかったようだ。)
そうしている間も猛スピードの滑落は続き、このまま崖から落ちて死ぬのか、岩にぶつかって死ぬのか…と、死を覚悟した。そしてついに体ふわっと宙に浮いた。ああついに死ぬのか、と目を瞑り、背中と腰を丸めて頭を抱えたが、次の瞬間腰から落ちてそのまま滑落を続け、とうとう次第に傾斜が緩くなってスピードも落ちてきた。これな止まれるかもしれないと急に思い立ち、まだ手に繋がっていたピッケルを持ち直して腹這いになりピッケル雪に突き刺し、ついに停止した。「いっ、生きている!」標高差約1000mも落ちた奥赤石沢近くの斜度が緩くなった場所だった。生きていることが信じられなかった。辺りは風もなく静かに雪が舞い落ちていて、それまでの出来事が夢の中の出来事ようだったが、猛烈な足の痛みが夢ではないことを教えていた。
あとで聞いた話だが、例年になく雪の量が多く滝が埋もれていたため、死なずにすんだらしいがここを落ちて生きていた人はいないらしい(救助していただいたヘリの方の話)。
右足首(距骨)骨折と右腰の骨折で動けなかった(腰も骨折していたことは病院での検査で初めて知ったが、足首よりもこっちの方がやばく、絶対安静が必要とのことだった)が、死を覚悟した後だったのでなんでもなかった。右足のつま先が180度ねじれて後ろを向いていたが、それでは動けないので手でひねって前向きに戻した。
額からも血が出ていた(おそらくピッケルが当たったものと思われる)。また、両腕の服の袖が肘までめくれあがっていて、腕の外側の皮膚が手首から肘まで完全に擦り剝け出血していた。滑落中に必死で両ひじを張って雪面に押し付けて止まろうとしていたらしい(記憶になかった)。かなり深く広い範囲の擦過傷だっただが、一度死んだ身にとってはこの程度はどうということもなく、そのままでは寒いので袖を戻した。(救助されたあとにこの擦過傷の部分が服と一体になってしまい完全に貼り付いて取れず、病院での処置がめちゃくちゃ痛かったのを覚えている。皮膚は再生したが、今でもこの部分は痣が残っている)
ザックの中身はバックルが壊れて飛び散ってしまったが、奥底に詰め込んでいた大きなイスカの化繊製(確かスペリオール兇箸言う素材だった)冬用シュラフだけは飛び出さずに残っていた。また、自分が停止した斜面の下方には自分の荷物らしきもの(眼鏡がなくなったのでよく見えなかった)が少し散らばっていて、テント本体とゴアのシュラフカバー、コッヘル1ヶ、食糧(確か1泊分=生米2合、レトルトカレー1ケ、粉味噌汁1ケ、お茶漬けの素ケ1)を入れた袋を痛む肘で必死に這い回って回収。その他、ザックの雨蓋にはいっていた小もの、二つつけていたウエストバッグの内、財布等の貴重品を入れていた方はなくしたが、その日の行動食を入れていた方が残った。ザックの雨蓋のファスナーは壊れず、中のテルモスやビニール袋等の小物は残った。(失くしたくない物はファスナーのポケットに入れておく必要性を感じた。)
怪我の状態から自力下山は到底無理だったので、前聖岳の北側に下る沢の雪渓と奥聖沢の雪渓との広い合流地点の真ん中でビバークし救助を待つことにし、テントを広げ、中にシュラフカバーとシュラフを入れてもぐりこむ。ピッケルをテントポール代わりに立てて顔の付近だけに空間を作る。
マットが無くテントのグランドシートのみで雪の上に直接寝ているため、体温で雪が解け、自分の人型に沈んでいく。雪が解けてできた水が自分が寝ている窪みに溜まり、冷たい水の中に寝ている状態となったが、ゴアテックスのシュラフカバーは完璧で、まったく寝袋が濡れることはなかったので助かった。(これ以来、ゴアテックスには絶大なる信頼を置いている。)
右足首の骨折を固定する手段が無かったので、インナーブーツ(スカルパのVEGAというプラブーツのインナー)を履いたままで、寝袋に入ったが、そのため足元が窮屈で、ちょっとでも動くと寝袋が右足のインナーブーツを引っ張って、足首が動くので、その度に骨折箇所が強烈に痛くて、寝返りどころか身体をわずかでも動かすことができなかった。
5/3(日) 曇のち晴れ 奥赤石沢でビバーク2泊目
コッヘルに雪をいれ、鼻先に置いて鼻息で溶かして飲む。この時はちょうど湾岸戦争が行われており、クエートの油田が燃えていたためか、雪を解かすと黒いすすがたくさん浮いていたが、そんなことを気にする状態ではなく、かまわずに飲んだ。
救出されるまで行動食のカンパン20個くらい、板チョコ半分、プルーン1袋を少しずつ食べつないだ。乾パンと板チョコは滑落の衝撃で完全に粉々混合されていて、板チョコのアルミ箔も混ざっていて分離が難しい状態だったが、気にせず食べた。生米はさすがに食べられがかったがレトルトは食べることができた。
1日当たりの量は非常に少なく、空腹で人を食べたというアンデス山脈の墜落事故の話などを思い出して、それほどの空腹になったらどうしようかと心配したが、救出されるまで、ほとんどおなかが減ることはなかった。(あとで病院で分かったが、怪我が原因で熱が38℃以上あり、そのために食欲が出なかったようだ。)
メガネがなくなったため、遠くがよく見えなかったが、白いビニール袋のようなものが10m以上向こうの雪の上に落ちているように見えた。もしかしたら自分の3〜5日目用の行動食が入った袋かもしれない、とりに行くかどうするか・・・と悩んだが、結局そこまで行くことは無理であきらめた。
救助はいつくるだろうか、聖沢で単独の方に抜かれ、その方に聖岳山頂で追いつき、私の後ろから来ていたので、もしかしたら私の滑落を見たかもしれない、見てなくても、突然いなくなったことを不審に思って下山後届け出てくれるかもしれない、そうすると今日あたり捜索のヘリが来るかもしれない…いつ来るかいつ来るか…というようなことをずっと考えて、テント生地から顔だけ出した空ばかり見上げていた。
はるか上空を飛行機が頻繁に飛んでいた(ああ、あの中には人がいるのか…遠いなあ)。
飛行機の通過後には必ず山の斜面に沿って突風が吹き降りてきてテントをばたつかせた。一緒に新雪が飛ばされてくることもあった。(それからこの風を飛行機風と呼んでいる。山の中で飛行機が来ると、後からやっぱりこの風が吹いていきて、この時のことを思い出す)
谷の下流側正面に、赤石岳が高々と、迫力満点に聳えていて、かっこよかった。
身動きすると痛くてどうしようもないインナーブーツを、どうでも良くなってとうとう外した。そうしたら、とても楽になって、固定のつもりが逆効果だったことが判った。
5/4(月) 曇のち雪 奥赤石沢でビバーク3泊目
自分の体の上にテント生地を隔てて雪が積もる。谷底にいたので新雪雪崩が心配でよく眠れなかった。時間が経つのがとても遅く感じられて苦痛で、「ああ、このまま人知れず死んでいくんだな」と弱気になった。
寝袋に入っていたため雪が降っても特に寒くはなかったが、雪が雨に変わって濡れることはもっと怖かった。しかし幸いにして雨になることはなかった。
5/5(火) 雪のち晴れ とうとう下山予定日。奥赤石沢でビバーク4泊目
日中は日が当たって暖かく、痛みもだいぶ慣れてきた。ピッケルを杖にすれば歩けそうな気がしてきて、自力下山考えた。このまま奥赤石沢を少し下り、百瞭兇ら下ってくる沢をさかのぼれば、百瞭胸海硫箸砲燭匹蠱紊、そこで待っていれば、まだGWなのでだれか来るかもしれない… テントから出て、ピッケルを支えに左足で立ち上がったが、その瞬間にピッケルが雪に埋まってどかっと倒れこんでしまった。骨折部分を打って猛烈に痛く、やっぱり到底歩けないことを悟った。
昼間に、児童公園のベンチに座っていたら、黒づくめの服を着た紳士が迎えに来て、黒い手袋をした手で私の手をつかんでどこかへ連れて行こうと引っ張った。おかしい、自分は今公園にいるはずがない、遭難しているんだ、ついて行ってはいけない!と考えた。いつの間に眠っていたらしい。目を開くと黄色いテント地を通して陽が当たっていてとても明るく暖かくてほっとした。その状態でもまだ手を握られている感覚が生々しく残っていて、恐ろしかった。ああ、これが死神か、ついに迎えに来たのか、ついて行かなくてよかった、と思った。
小水をするのも左を下にして横向きに寝たまま寝袋のなかでビニール袋に出していたが、ビニール袋にうまく入れるのに失敗、寝袋を濡らしてしまい、さすがに不快だった。
明日には捜索願いが出て捜索ヘリが来るだろうと期待した。一方でとうとう出勤日になるので勤務先でも大騒ぎになるかなあと心配もした。
5/6(水) 快晴のち曇
朝、予想よりも早く、待望のヘリがついに来た。(下山連絡が無いまま一晩経ち、心配した妻が警察へ遭難届を出してくれた)
しかし、はるか上の方、尾根ルート付近を捜索しており到底谷底にいる自分は見つけてもらえそうにも無かった。
晴れて気温も上がり、寒くなかったため、テントの外にでて、テントの位置をずらして寝る位置を変え、できるだけ広げて大きく見えるようにし、小水で濡れた寝袋を陽に当てて乾かした。
いったん遠ざかったヘリの音がまた近づいてくる、を数回繰り返していて、探してくれているのがうれしかった。そのうち下の方にも探しにくるだろうと期待して待った。
15時半ころ、奥赤石沢の下流の岩影から突然ヘリが現れた。テントの外にいたので、すぐに
脱いでいたヤッケを振り回して合図し、ついに見つけてもらった。
マイクで[○○さんですか」と確認され、頭上で両手で○を作り、歩けますか?と聞かれて両手で×を作って答えた。
ところが、そのヘリは捜索用の小さいへりで、救出に降りられないらしく、大きなヘリで出直すと戻っていてしまった。見つけてもらったので安心したが、その後陽が翳って寒くなり、再びまだ乾いていない寝袋とテントにもぐりこんで救助を待った。
しかし、天気が急激に悪化してきて曇となり、風も出てきて、暗くなってきた。
本当にヘリは戻ってくるのだろうか…このまま来なかったらまた一晩、いや天気が回復するまで雪に打たれるのか、気温が上がって雨に降られて濡れたらそれまで持たないかも…と心配になった16時半ころ、再びヘリがやってきた。
風が弱くなった隙に、救助員が一人吊下がって降りてくるとその吊具で私を身一つで吊り上げ、今度は本当に救出された。滑落からちょうど100時間後のことだった。
ヘリの床にゴロンと放り込まれて痛かった。
続いて救助員も吊り上げられてヘリは静岡の河川敷へと向かった。(装備はすべて置き去りだった)
ヘリの中で、遭難の経緯を聞かれ説明。その内容がそのまま詳しく翌日の読売新聞朝刊()1992/5/7付)に載っていた。
救助員の話では昔同じ場所へ滑落した死亡事故があったらしく、それをたまたま思い出して捜索の帰りに念のため寄ってみたら私がそこにいて、しかも生きていたので驚いたとのことだった(ここに落ちて生きていた人はそれまでいなかったらしい)。
河川敷から救急車に乗せ換えられ、静岡の病院へ直行、すぐに検査して足首以外に腰も骨折していることが判明、腰は手術では治せず安静にして自然治癒を待ち、右足首はすぐに手術して、その後は腰が治るまで集中治療室の人となった。
翌日から1週間、悪天候が続き、このタイミングが救出のラストチャンスだった。
(悪天候の中であと1週間は持たず、きっと死んでいただろう)
その後、腰の骨が治って起き上れるようになるまで3週間、1か月後に自宅近くの病院へ移り、1か月半後に退院して自宅療養、2か月後から会社へ復帰した。最初は松葉杖2本で歩き、体重の1割、2割・・・と少しずつ右足にかける体重を増やす練習をして、秋ごろには50%程度までかけられるようになって松葉杖1本になり、膝で支えて踵を浮かす装具を作って松葉杖もなくなってからは少しづつリハビリトレーニングして高尾山に復帰。南高尾山稜を時計回りで高尾山まで毎週のように通ってリハビリした(この時の記録は時にメモしていなくて、ヤマレコにも記録を上げていないが、高尾山には50回位、城山にも20回位は登頂している)
骨折した足首の距骨は体中の骨の中で最も血行が悪くて治りにくいとのことで、治らなかったら脚を切断するしかないとのことだった。奇跡的に何とか治ったものの、全体重をかけて歩けるようになったのは1年半後の翌年9月だった。
まだ完治する前の夏には装具をつけた状態でも利尻やニペソツに登頂した。
それでも、後遺症で右足首は今でも直角以下には曲がらず、一日歩いた翌朝は体重をかけると痛む。
終わりに
救助していただいた静岡県警航空隊と、とても親身になって看病していただいた静岡厚生病院へは、装具をつけて歩けるようになってから、お礼のあいさつへ伺いました。皆様のご親切は今でも忘れられません。本当にありがとうございました。
当初聖岳東尾根を登るつもりであったが、雪が少ないとのことで、夏道で茶臼岳経由へ変更。
16:25〜35 茶臼岳 快晴
茶臼小屋宿泊
5/2(土)
6:20〜35上河内岳 快晴
9:45 小聖岳 曇
聖岳南斜面の急登は氷のように堅い雪の一枚バーンになっており、ピッケル1本とのアイゼンの前爪で2点確保でバランスをとりながら、必死で登る。つま先がかかる深さ5cmくらいのかなり大股のカッティングあとがあり、これを伝っていくが、荷物が30kg近くあって重く、バランスをとるのが大変でめちゃくちゃ緊張し疲労困憊した。
11:00〜15 聖岳 霧で雪も降り始め強くなってきたため先を急ぐことにして、不十分な休憩で出発。
11:30 兎岳への稜線の南西側は崖になっているため、北東よりの急斜面をトラバースしながら下っていたが、山頂での休憩がたりず、登りの疲れが残っていたため、途中雪から露出している岩に座って休もうとしたところ、バランスを崩して30kgの荷物から仰向けに頭を下にして倒れてしまった。すぐに霧が晴れ、自分が猛烈なスピードで落ちていることに気付いた(ガスっていたのは山頂付近だけだった)がもはや到底止まることなどできず、右足のつま先がかかとの方向に180°ねじれてしまっていて全く動かすことができず、ぶらぶらしていることに気づき、その瞬間に自力下山できないことを悟った。(右足にはアイゼンがついており、雪面に引っかけて足首をひねってしまったらしい。左足はアイゼンがいつの間に外れていたがこれが幸いして雪面にひっかけず骨折しなかったようだ。)
そうしている間も猛スピードの滑落は続き、このまま崖から落ちて死ぬのか、岩にぶつかって死ぬのか…と、死を覚悟した。そしてついに体ふわっと宙に浮いた。ああついに死ぬのか、と目を瞑り、背中と腰を丸めて頭を抱えたが、次の瞬間腰から落ちてそのまま滑落を続け、とうとう次第に傾斜が緩くなってスピードも落ちてきた。これな止まれるかもしれないと急に思い立ち、まだ手に繋がっていたピッケルを持ち直して腹這いになりピッケル雪に突き刺し、ついに停止した。「いっ、生きている!」標高差約1000mも落ちた奥赤石沢近くの斜度が緩くなった場所だった。生きていることが信じられなかった。辺りは風もなく静かに雪が舞い落ちていて、それまでの出来事が夢の中の出来事ようだったが、猛烈な足の痛みが夢ではないことを教えていた。
あとで聞いた話だが、例年になく雪の量が多く滝が埋もれていたため、死なずにすんだらしいがここを落ちて生きていた人はいないらしい(救助していただいたヘリの方の話)。
右足首(距骨)骨折と右腰の骨折で動けなかった(腰も骨折していたことは病院での検査で初めて知ったが、足首よりもこっちの方がやばく、絶対安静が必要とのことだった)が、死を覚悟した後だったのでなんでもなかった。右足のつま先が180度ねじれて後ろを向いていたが、それでは動けないので手でひねって前向きに戻した。
額からも血が出ていた(おそらくピッケルが当たったものと思われる)。また、両腕の服の袖が肘までめくれあがっていて、腕の外側の皮膚が手首から肘まで完全に擦り剝け出血していた。滑落中に必死で両ひじを張って雪面に押し付けて止まろうとしていたらしい(記憶になかった)。かなり深く広い範囲の擦過傷だっただが、一度死んだ身にとってはこの程度はどうということもなく、そのままでは寒いので袖を戻した。(救助されたあとにこの擦過傷の部分が服と一体になってしまい完全に貼り付いて取れず、病院での処置がめちゃくちゃ痛かったのを覚えている。皮膚は再生したが、今でもこの部分は痣が残っている)
ザックの中身はバックルが壊れて飛び散ってしまったが、奥底に詰め込んでいた大きなイスカの化繊製(確かスペリオール兇箸言う素材だった)冬用シュラフだけは飛び出さずに残っていた。また、自分が停止した斜面の下方には自分の荷物らしきもの(眼鏡がなくなったのでよく見えなかった)が少し散らばっていて、テント本体とゴアのシュラフカバー、コッヘル1ヶ、食糧(確か1泊分=生米2合、レトルトカレー1ケ、粉味噌汁1ケ、お茶漬けの素ケ1)を入れた袋を痛む肘で必死に這い回って回収。その他、ザックの雨蓋にはいっていた小もの、二つつけていたウエストバッグの内、財布等の貴重品を入れていた方はなくしたが、その日の行動食を入れていた方が残った。ザックの雨蓋のファスナーは壊れず、中のテルモスやビニール袋等の小物は残った。(失くしたくない物はファスナーのポケットに入れておく必要性を感じた。)
怪我の状態から自力下山は到底無理だったので、前聖岳の北側に下る沢の雪渓と奥聖沢の雪渓との広い合流地点の真ん中でビバークし救助を待つことにし、テントを広げ、中にシュラフカバーとシュラフを入れてもぐりこむ。ピッケルをテントポール代わりに立てて顔の付近だけに空間を作る。
マットが無くテントのグランドシートのみで雪の上に直接寝ているため、体温で雪が解け、自分の人型に沈んでいく。雪が解けてできた水が自分が寝ている窪みに溜まり、冷たい水の中に寝ている状態となったが、ゴアテックスのシュラフカバーは完璧で、まったく寝袋が濡れることはなかったので助かった。(これ以来、ゴアテックスには絶大なる信頼を置いている。)
右足首の骨折を固定する手段が無かったので、インナーブーツ(スカルパのVEGAというプラブーツのインナー)を履いたままで、寝袋に入ったが、そのため足元が窮屈で、ちょっとでも動くと寝袋が右足のインナーブーツを引っ張って、足首が動くので、その度に骨折箇所が強烈に痛くて、寝返りどころか身体をわずかでも動かすことができなかった。
5/3(日) 曇のち晴れ 奥赤石沢でビバーク2泊目
コッヘルに雪をいれ、鼻先に置いて鼻息で溶かして飲む。この時はちょうど湾岸戦争が行われており、クエートの油田が燃えていたためか、雪を解かすと黒いすすがたくさん浮いていたが、そんなことを気にする状態ではなく、かまわずに飲んだ。
救出されるまで行動食のカンパン20個くらい、板チョコ半分、プルーン1袋を少しずつ食べつないだ。乾パンと板チョコは滑落の衝撃で完全に粉々混合されていて、板チョコのアルミ箔も混ざっていて分離が難しい状態だったが、気にせず食べた。生米はさすがに食べられがかったがレトルトは食べることができた。
1日当たりの量は非常に少なく、空腹で人を食べたというアンデス山脈の墜落事故の話などを思い出して、それほどの空腹になったらどうしようかと心配したが、救出されるまで、ほとんどおなかが減ることはなかった。(あとで病院で分かったが、怪我が原因で熱が38℃以上あり、そのために食欲が出なかったようだ。)
メガネがなくなったため、遠くがよく見えなかったが、白いビニール袋のようなものが10m以上向こうの雪の上に落ちているように見えた。もしかしたら自分の3〜5日目用の行動食が入った袋かもしれない、とりに行くかどうするか・・・と悩んだが、結局そこまで行くことは無理であきらめた。
救助はいつくるだろうか、聖沢で単独の方に抜かれ、その方に聖岳山頂で追いつき、私の後ろから来ていたので、もしかしたら私の滑落を見たかもしれない、見てなくても、突然いなくなったことを不審に思って下山後届け出てくれるかもしれない、そうすると今日あたり捜索のヘリが来るかもしれない…いつ来るかいつ来るか…というようなことをずっと考えて、テント生地から顔だけ出した空ばかり見上げていた。
はるか上空を飛行機が頻繁に飛んでいた(ああ、あの中には人がいるのか…遠いなあ)。
飛行機の通過後には必ず山の斜面に沿って突風が吹き降りてきてテントをばたつかせた。一緒に新雪が飛ばされてくることもあった。(それからこの風を飛行機風と呼んでいる。山の中で飛行機が来ると、後からやっぱりこの風が吹いていきて、この時のことを思い出す)
谷の下流側正面に、赤石岳が高々と、迫力満点に聳えていて、かっこよかった。
身動きすると痛くてどうしようもないインナーブーツを、どうでも良くなってとうとう外した。そうしたら、とても楽になって、固定のつもりが逆効果だったことが判った。
5/4(月) 曇のち雪 奥赤石沢でビバーク3泊目
自分の体の上にテント生地を隔てて雪が積もる。谷底にいたので新雪雪崩が心配でよく眠れなかった。時間が経つのがとても遅く感じられて苦痛で、「ああ、このまま人知れず死んでいくんだな」と弱気になった。
寝袋に入っていたため雪が降っても特に寒くはなかったが、雪が雨に変わって濡れることはもっと怖かった。しかし幸いにして雨になることはなかった。
5/5(火) 雪のち晴れ とうとう下山予定日。奥赤石沢でビバーク4泊目
日中は日が当たって暖かく、痛みもだいぶ慣れてきた。ピッケルを杖にすれば歩けそうな気がしてきて、自力下山考えた。このまま奥赤石沢を少し下り、百瞭兇ら下ってくる沢をさかのぼれば、百瞭胸海硫箸砲燭匹蠱紊、そこで待っていれば、まだGWなのでだれか来るかもしれない… テントから出て、ピッケルを支えに左足で立ち上がったが、その瞬間にピッケルが雪に埋まってどかっと倒れこんでしまった。骨折部分を打って猛烈に痛く、やっぱり到底歩けないことを悟った。
昼間に、児童公園のベンチに座っていたら、黒づくめの服を着た紳士が迎えに来て、黒い手袋をした手で私の手をつかんでどこかへ連れて行こうと引っ張った。おかしい、自分は今公園にいるはずがない、遭難しているんだ、ついて行ってはいけない!と考えた。いつの間に眠っていたらしい。目を開くと黄色いテント地を通して陽が当たっていてとても明るく暖かくてほっとした。その状態でもまだ手を握られている感覚が生々しく残っていて、恐ろしかった。ああ、これが死神か、ついに迎えに来たのか、ついて行かなくてよかった、と思った。
小水をするのも左を下にして横向きに寝たまま寝袋のなかでビニール袋に出していたが、ビニール袋にうまく入れるのに失敗、寝袋を濡らしてしまい、さすがに不快だった。
明日には捜索願いが出て捜索ヘリが来るだろうと期待した。一方でとうとう出勤日になるので勤務先でも大騒ぎになるかなあと心配もした。
5/6(水) 快晴のち曇
朝、予想よりも早く、待望のヘリがついに来た。(下山連絡が無いまま一晩経ち、心配した妻が警察へ遭難届を出してくれた)
しかし、はるか上の方、尾根ルート付近を捜索しており到底谷底にいる自分は見つけてもらえそうにも無かった。
晴れて気温も上がり、寒くなかったため、テントの外にでて、テントの位置をずらして寝る位置を変え、できるだけ広げて大きく見えるようにし、小水で濡れた寝袋を陽に当てて乾かした。
いったん遠ざかったヘリの音がまた近づいてくる、を数回繰り返していて、探してくれているのがうれしかった。そのうち下の方にも探しにくるだろうと期待して待った。
15時半ころ、奥赤石沢の下流の岩影から突然ヘリが現れた。テントの外にいたので、すぐに
脱いでいたヤッケを振り回して合図し、ついに見つけてもらった。
マイクで[○○さんですか」と確認され、頭上で両手で○を作り、歩けますか?と聞かれて両手で×を作って答えた。
ところが、そのヘリは捜索用の小さいへりで、救出に降りられないらしく、大きなヘリで出直すと戻っていてしまった。見つけてもらったので安心したが、その後陽が翳って寒くなり、再びまだ乾いていない寝袋とテントにもぐりこんで救助を待った。
しかし、天気が急激に悪化してきて曇となり、風も出てきて、暗くなってきた。
本当にヘリは戻ってくるのだろうか…このまま来なかったらまた一晩、いや天気が回復するまで雪に打たれるのか、気温が上がって雨に降られて濡れたらそれまで持たないかも…と心配になった16時半ころ、再びヘリがやってきた。
風が弱くなった隙に、救助員が一人吊下がって降りてくるとその吊具で私を身一つで吊り上げ、今度は本当に救出された。滑落からちょうど100時間後のことだった。
ヘリの床にゴロンと放り込まれて痛かった。
続いて救助員も吊り上げられてヘリは静岡の河川敷へと向かった。(装備はすべて置き去りだった)
ヘリの中で、遭難の経緯を聞かれ説明。その内容がそのまま詳しく翌日の読売新聞朝刊()1992/5/7付)に載っていた。
救助員の話では昔同じ場所へ滑落した死亡事故があったらしく、それをたまたま思い出して捜索の帰りに念のため寄ってみたら私がそこにいて、しかも生きていたので驚いたとのことだった(ここに落ちて生きていた人はそれまでいなかったらしい)。
河川敷から救急車に乗せ換えられ、静岡の病院へ直行、すぐに検査して足首以外に腰も骨折していることが判明、腰は手術では治せず安静にして自然治癒を待ち、右足首はすぐに手術して、その後は腰が治るまで集中治療室の人となった。
翌日から1週間、悪天候が続き、このタイミングが救出のラストチャンスだった。
(悪天候の中であと1週間は持たず、きっと死んでいただろう)
その後、腰の骨が治って起き上れるようになるまで3週間、1か月後に自宅近くの病院へ移り、1か月半後に退院して自宅療養、2か月後から会社へ復帰した。最初は松葉杖2本で歩き、体重の1割、2割・・・と少しずつ右足にかける体重を増やす練習をして、秋ごろには50%程度までかけられるようになって松葉杖1本になり、膝で支えて踵を浮かす装具を作って松葉杖もなくなってからは少しづつリハビリトレーニングして高尾山に復帰。南高尾山稜を時計回りで高尾山まで毎週のように通ってリハビリした(この時の記録は時にメモしていなくて、ヤマレコにも記録を上げていないが、高尾山には50回位、城山にも20回位は登頂している)
骨折した足首の距骨は体中の骨の中で最も血行が悪くて治りにくいとのことで、治らなかったら脚を切断するしかないとのことだった。奇跡的に何とか治ったものの、全体重をかけて歩けるようになったのは1年半後の翌年9月だった。
まだ完治する前の夏には装具をつけた状態でも利尻やニペソツに登頂した。
それでも、後遺症で右足首は今でも直角以下には曲がらず、一日歩いた翌朝は体重をかけると痛む。
終わりに
救助していただいた静岡県警航空隊と、とても親身になって看病していただいた静岡厚生病院へは、装具をつけて歩けるようになってから、お礼のあいさつへ伺いました。皆様のご親切は今でも忘れられません。本当にありがとうございました。
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
飛行機
復路;奥赤石沢〜安倍川河川敷;静岡県警航空隊ヘリコプター 安倍川河川敷〜静岡厚生病院;救急車 |
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写真
冬の聖岳北面。netで探してようやく次のHPで見つけました。
http://blog.livedoor.jp/mountain_star_flower/archives/81766.html
矢印がおそらく私が滑落したと思われるルート。もう少し右寄りかも。
http://blog.livedoor.jp/mountain_star_flower/archives/81766.html
矢印がおそらく私が滑落したと思われるルート。もう少し右寄りかも。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
長袖インナー
ゴアテックスジャケット&オーバーズボン(モンベル)
タイツ
ズボン
靴下
厚手ウール手袋
オーバーミトン
予備手袋
防寒着
傘
ロングスパッツ
バラクラバ
毛帽子
着替え
予備靴ひも
ザック
ザックカバー
サブザック
アイゼン12本歯
ピッケル
アルミスコップ
アルミ製カンジキ
昼ご飯
行動食
非常食
調理用食材
飲料
水筒(500ccテルモス
ポリタン2L)
ガスカートリッジ2個
EPIガスコンロ
コッヘル(大小)
食器
ライター
地図(地形図)
コンパス
笛
計画書
ヘッドランプ
予備電池
筆記用具
針金
常備薬
日焼け止め
ロールペーパー
保険証
腕時計2個(1個は標高計測機能付き)
サングラス
タオル
ナイフ
一眼レフアナログフィルムカメラ&望遠レンズ2本
ポール
マジックマウンテンのテント( 厳冬期用内張付き)
エアマット
銀マット
isukaスペリオール2シェラフ厳冬期用
ゴアテックスシュラフカバー
スカルパのベガ(冬用プラスチック製登山靴)
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備考 | ▼カメラは学生時代から使用していた1眼レフのアナログフィルムカメラを持っていっていましたが、滑落中に失いましたので、写真はありません。 ▼滑落後に残った荷物 テント本体のみ、シュラフ(ザック本体に唯一残った)、シュラフカバー(ビバーク地点付近で回収)、ピッケル(手に持っていた)、防寒着全て(身に着けていた)、コッヘル大(ビバーク地点付近で回収)、食糧二食分(行動食一回分(ポシェットに入っていた)、夕食一回分(ビバーク地点付近で回収、生ゴメは食べられず)、テルモス、ビニール袋(ザックの雨蓋に入っていた)、腕時計(両腕に一つずつしていて、高度計付きのカシオプロトレックが滑落中に故障、もう片方は壊れず、時間確認可能だった) ▼当時は携帯やスマホはもちろん、GPSや高度計もない時代でしたので、原始的な方位磁石と紙の地形図のみでした。もし携帯があったとしても、現在でも電波が全く届かない場所に滑落したので、役には立たなかったと思いますが。 |
感想
この記録は私にとってはとても恥ずかしいものですが、20年以上たった今、ようやく冷静に書けるようになりましたので、忘れないため、そして少しでもこの経験がみなさんの役に立てればと思って書きました。
ちょっと前までは話そうとするとなぜか急に涙があふれてきて、まともに話すことができませんでした。ヘリコプターの音を聞いただけでも、なぜか同様にこみ上げるものがあって、涙があふれたりしました。
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shigetoshiさん、こんばんは。
レコ拝見しました。私も涙が出てきました。凄まじい体験ですね。
助かったのはまさに奇跡です。
骨折もされているし、私なら到底生きていられなかったと思います。
それが今こうしてヤマレコでつながっている。うれしいですね。
丹沢24Hでお会いできるのを楽しみにしています。
壮絶な体験ですね‼️
聖岳から赤石を見渡した時、とんでもなく深い谷が間に有るのを思い出しました、あそこに堕ちて助かるなんてとても信じられません‼️
どんな成功談より貴重な体験記ありがとうございます‼️
nekojigen さん、こちらにもコメントありがとうございます。
もう27年も前のことで、とても恥ずかしい記録なのですが、
何かの参考になれば書いた甲斐があります。
これを公開することにはとても抵抗があったのですが、
こうしてご覧になった皆様から拍手やコメントが頂けると、
改めていただいた命を大切にしなければ、
自らの行動を戒めていかなければと、思いを新たにします。
長い登山経験の中で、こういう危険な経験も血となり肉となっていて
とても役に立っていると感じています。
あなた様の滑落後の顛末を読ませて貰いました。
今は、生があることに感謝して生きられて居ら
れる日々だと思います。有り難うございました。
totokobeさん、こんばんは。
こんな拙い記録にお付き合いいただいたうえ、コメントまでいただき、ありがとうございます。
totokobeさんの今後の登山や人生に、少しでもお役にたてれば幸いです。
体験記、ありがとうございます。命があることが奇跡のような状況で生還されたのには、きっと生きてやるべき事があったから、そういう運命を感じました。怪我の後遺症など、日々大変な事もおありでしょうね。奥様はじめ、周囲の方々の支えにも頭が下がります。与えられた人生、大切にしようと思いました。貴重な体験記、感謝いたします。
elepaoさん、おはようございます
コメント、お気遣いありがとうございます。
私のこの拙い記録が、少しでもお役にたてれば、書いた甲斐があります☺️
今回、富士山での滑落事故をきっかけに、私の記録が注目されたのは、なんとも皮肉で戸惑いをかんじますが、お亡くなりになられた方にはお悔やみ申し上げます。
今年、十数年ぶりに南アルプスへの登山を再開した者です。
夏山の単独山行のみですので足下にも及びませんが、命を守るために必要な心の持ちようが凝縮されていると感じました。
数年前に登山を教えていただいた恩師が、ゴールデンウィーク中の剣で遭難しました。地元山岳会の役員を務め経験豊富だったにもかかわらず、想定外の事態にはいつでも遭遇する危険を誰もが背にしているのだと思います。
登山は生死を賭けた最も危険なスポーツであることを今一度肝に命じて責任ある行動をしていきたいと思います。
大変貴重な記録を公開いただきありがとうございました。
どうか、こころのケアにも留意いただき、御自愛くださいませ。
N-VANさん、こんばんは
コメントありがとうございます。
「命を守るために必要な心の持ちようが凝縮されている」
このような拙い記録にそのように言っていただけるとは、とても嬉しく、書いた甲斐がありました。ありがとうございます。
「登山は生死を賭けた最も危険なスポーツ」
逆に、きちんと管理された一般道を、実力に応じて無理せず、しっかりした装備で歩く分には、とても安全なスポーツだとも言えます。
お気遣いありがとうございます。「責任ある行動」をしていれば大丈夫だとおもいますので、お互いその意識を忘れずに登山を楽しみましょう。
貴重な体験の記録ありがとうございます。
私にも、shigetoshiさんほどではないですが。8年前のクリスマスの日に単独で布引山からの帰りに道を間違えて7mほど転落して動けなくなってヘリに救助された経験があります。
持っていた石が抜けて空中に放り出された瞬間は、人生ってあっけなく終わるんだと
思ったことを思い出します。
次の瞬間、瓦の大きな岩に叩きつけられて激痛だったのですが意識があり、
助かった!、絶対生きて帰れる!と思ったことが助かった要因だと思っています。
非常食もビバークの体制もきっちり準備できていたことも大事ですね。
あとは、下山日が過ぎて帰宅されなかったときにすぐに遭難届を出してくれた
奥様に感謝です。(私も同じでした)
時々ニュースで「1週間過ぎて帰らないからと家族からの届けが。。」などと聞くと心配してすぐに届けてくれたことに感謝でした。
H.Hiroshiさん、コメントありがとうございます。
布引山とは、笊ヶ岳の南の布引山でしょうか。あまり人が入らない山の冬季で、助けてもらえて幸運でしたね。
お互い拾った命、大事にしながら安全登山を続けましょう。
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