関東武士金子十郎家忠を訪ねて
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- GPS
- 04:15
- 距離
- 9.3km
- 登り
- 225m
- 下り
- 288m
コースタイム
- 山行
- 3:11
- 休憩
- 1:05
- 合計
- 4:16
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年07月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス 自家用車
西武池袋線仏子駅ゴール |
コース状況/ 危険箇所等 |
危ない所はありません。 |
その他周辺情報 | スタート地点のすぐそばに、スーパーマーケットマミーマートさんがあります。 |
写真
装備
個人装備 |
Tシャツ
ソフトシェル
ズボン
靴下
雨具
日よけ帽子
靴
ザック
昼ご飯
行動食
非常食
飲料
レジャーシート
コンパス
笛
ヘッドランプ
予備電池
GPS
保険証
携帯
時計
タオル
ストック
カメラ
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感想
入間市に住み始めて15年目になりますが、いわゆる埼玉都民のため地理についてはなんとなくわかってきた程度でその歴史などは未だによくわかっていません。
色々と知りたいと思っていたところ、コロナ禍のため遠出を控えた方が良いようなご時勢になったため、この機会にと市内とその周辺を歩き回り、有名な建物や場所にある説明板を読んで少しずつ勉強してきました。
入間市は山間部ではないため市街地歩きがメインにはなってしまいますが、丘陵が二つあるので、そこを絡めたウォーキングも自分でルートを作り、休校中の子供を連れて何回か行っていました。
その二つある丘陵の一つである「加治丘陵」を歩いてた際に「金子家忠公」の名前が書かれた説明版をいくつか見かけました。
もちろんその場では「誰?」なので、家に帰り検索してみると、すぐにヒットしました。
【金子 家忠(かねこ いえただ)は、平安時代末期・鎌倉時代初期の武蔵国入間郡の武将である。武蔵七党村山党・金子氏の一族。父は金子家範。兄弟に金子親範がいる。】(Wikipediaより)
家系としては、桓武天皇の孫の平高房の子孫の平頼任が北多摩郡村山に住み、村山氏を名乗り、その孫たちが入間川流域に領地を得て、大井家綱・宮寺家平・金子家範・山口家継・仙波家信となったそうです。
山口氏は今の所沢市山口(メットライフドーム近辺、狭山丘陵東端付近)を治め、宮寺氏は今の入間市宮寺(埼玉みどりの博物館周辺、狭山丘陵北面周辺)を治め、金子氏は今の入間市南峯周辺(加治丘陵南面、JR八高線金子駅周辺)を治めたそうです。
金子家忠は家範の嫡男で三男高範は難波田氏となり今の埼玉県富士見市辺りに領地を得て、次男親範は加治丘陵北面に居を構えたとのことでした。。
家忠は桓武平氏の末裔として、はじめは平家につきましたが、のちに源氏につき、保元の乱、平治の乱から始まり、壇ノ浦の戦いまでを戦い抜き、功績によって伊予や播磨の地頭を恩賞として受けた、相当の武辺者ということが分かりました。
これはすごいと思い、ネットで色々調べるうちに面白くなり、折角だから色々繋げて歩いてみようと思い立ち、家忠公所縁の建物や場所と、各山頂(三角点)を繋げてコースを作り、歩いてきました、
〃棒鄂声
金子氏の屋敷の鬼門避けに上州の赤城神社から勧請したものといわれ、元は赤城明神社でしたが、廃仏毀釈令により赤城神社となり、その後雷電社を合祀したそうで、名前は村の中央を流れる桂川(霞川)の名前にちなんでつけられているそうです。
⊃霎寺
創建年代等は不詳ですが、家忠の妻を開基とし、家忠が創建したのではないかといわれています。
寺名の金龍山木蓮寺瑞泉院は家忠とその妻の法名から取られています。
今は広大な霊園となり、本堂等は存在しません。
ここの西に家忠の館があったようです。
(私は「国立音楽大学青梅体育合宿所」がある場所がその場所だと思っています。)
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家忠は保元の乱(1156年)や源頼朝の挙兵(1180年)などを中心に活躍した鎌倉初期の武将である。
19才で保元の乱に出陣して敵の大将鎮西八郎の部下で鬼神といはれた高間三郎、四郎を討ち、その名を天下にひびかせた。
治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵のときは畠山重忠とともに衣笠城を包囲して三浦大介義明を討破った。
この戦で家忠は身体に21本の矢をうけたが、それにひるまず戦功を重ねた。
また源義経に従って多くの戦巧をあげ、武蔵、伊豆、下総の地頭を歴任した。
家忠が30才になった仁安3年(1168年)に社殿を造営して武運長久を祈ったが、これが白髭神社の始めだといわれている。
保延4年(1138年)に生れ建保4年(1214年)2月17日にこの世を去っている。
昭和43年3月
(入間市教育委員会案内板より)
金子氏一族の宝篋印塔 付位牌
金子氏は、武蔵七党のひとつ村山党(平姓)の武士で、村山頼家の三男家範が入間郡金子郷を本貫地とし、金子氏を称した。家範の子・十郎家忠(1138-1216)は、源義朝に従い保元・平治の乱に参陣し、その後も衣笠城攻めや源平合戦にも参陣した。
入間市と青梅市の境目近くに、家忠の開基と伝える金子氏の菩提寺・瑞泉院(現・廃寺)があった。旧瑞泉院境内には、木蓮寺公会堂裏の小高いところに6基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、金子氏一族の供養塔とされている。いずれも形式は、安土桃山〜江戸時代前期のもので、この地に徳川の支配が及んだ頃、本貫地を離れることになった金子氏一族の先祖供養のため造立されたものと考えられる。
(入間市教育委員会)
ぐた槎斛〇山(203.6m)
四等三角点木蓮寺がある入間市の最高地点です。
瑞泉寺の裏手にあり、この一帯が加治丘陵の最高標高になり、南側一帯(豊岡街道/霞川))を俯瞰できるので、見張り場所としても良い場所です。
ダ蔵院裏山山頂
私はここが桂川神社に合祀された雷電神社址だと思っています。
雷電神社は家忠や畠山重忠の臣下の守護のために勧請された神社で、南峯村の村社に列せられ大正五年に桂川神社に合祀されています。
今は何もありませんが、址にある樹木にはお供えがされています。
泉藏院
10世紀末に堂宇が建てられたようですが、その後の詳細は不明のようです。
境内に市立保育所があります。
寺院というより大きな堂宇で、豊岡街道沿いにはいくつかこのようなお寺さんがあります。
Ч睛椹
戦国時代に子孫の家定が開基となったお寺さんです。
家定は北条氏照に従っていたとのことです。
じつはこのお寺さんはすごい石碑が有ります。
wikipediaにも、『埼玉県金子村B29墜落事故(さいたまけんかねこむらB29ついらくじこ)』として項目が造られている現入間市地域の近代以降最大の災害の慰霊碑が建っています。
『1952年(昭和27年)2月7日に爆弾を満載した米軍のB29爆撃機が、埼玉県入間郡金子村(現在の入間市)寺竹に墜落・炎上して爆発を繰り返し、村民4名と乗員13名が死亡した事故である。』とのことで、第二次世界大戦中は学童疎開を受け入れるような平和な土地だった現入間市地域に戦後起こった悲しい事件を今に伝えているのがこのお寺さんです。
┿山見晴台
見晴台という名称ですが、見晴らしはほぼありません。
一帯は小高く盛り上がっていて、高養寺さんの裏山に作られた墓苑のてっぺんになり、何かがあったと思える場所で、私は今は白鬚神社に合祀されている権現社がここに有ったと思っています。
中央に生えている木のうろには金精神様が祀られています。
金子神社
建立時期は不明ですが、祭礼の際に奉納される「西三ツ木ばやし」は大変に有名で、入間市指定無形民俗文化財となっています。
白鬚神社
開基は不明ながら、家忠が1168年に社殿を造営し、1572年に家定が再建したとあります。
摂末社のうちの一つである「権現社」の遷座元は、先ほど通った「寺山見晴台山頂」がそうだったと思われます。
阿須赤城山(179.7m)
四等三角点寺竹がある場所を阿須赤城山としています。
以前北方に赤城神社があったための命名のようです。
赤城神社は今は県道二本木飯能線脇に遷っています。
阿須山
二等三角点があり、加治丘陵の中では最も有名な山頂です。
というか、入間市で唯一公式な山頂です。
山頂脇には四阿もあり、たくさんの人たちが訪れています。
四等三角点仏子(154.4m)
三角点があるだけですが、設置されている場所がちょっと不自然です。
墳丘のようにきれいに盛土をされたような場所にあります。
赤城山、木蓮寺山に比べて、圧倒的に山頂然としている場所なのに、山名は付けられていません。
それも不自然です。
私は高正寺の上方に位置しているので私的に「高正寺山」と呼称しています。
(高正寺が金子親範の館跡であるのなら、ここは見張り台があったものと思われます。)
金子伊豆守親範墓所
高正寺から仮称高正寺山への稜線の途中に建てられており、令室との共同墓となっています。
傍らの石碑を見ると昭和六十三年に建立されたもののようです。
本来の親範の墓所は御霊社(高正寺北東にあったが現存せず)になります。
高正寺
家忠の弟である金子伊豆守親範(法名高正寺)が開基となり創建、瑞泉院二世菊陰瑞潭が当地へ移転の上、大永年間に中興開山、慶安年間には江戸幕府より寺領4石の御朱印状を拝領したといいます。
武蔵野三十三観音霊場二十一番札所になっています。
親範の館跡に建てられたのでしょうか。
大板碑が有名です。
姐眄技の板碑
高正寺は、金子十郎家忠の弟・親範一族の菩提寺である。 金子氏は、源平争乱の時に活躍した武蔵武士で、その武勇は「平治物語」「吾妻鏡」などの諸史料に明らかである。
現在、高正寺には鎌倉時代に作られた合計8基(断片を含む)の板碑(供養塔・いまの卒塔婆)が残されており、うち2基が市指定文化財に指定されている。
(入間市教育委員会案内板より)
曳坂神社
明治四十年、字霞沢の村社八坂神社、字西方欠下の白髭神社、字中島の家忠神社、金子坂の諏訪神社、字上広瀬の第六天社の五社を合祀したいます。
家忠神社は高正寺七世驚州和尚の時、家忠の武具を埋めて其上に社を立てたものが始まりになります。
コースとしては、桂川神社バス停をスタートとし、加治丘陵を辿り、西武池袋線仏子駅までのコースとなりました。
ルートの一部は入間市設定の「ふれあい茶ん歩道」になっているので、危ない所はほぼ無いのですが、昔から歩かれてきた里山の為に踏み跡が縦横に有り、道を間違えてしまう事が有ります。
(私はこの日一回間違えました。)
間違えても進んでいけば人家そばに出られるので危なくないと思いますが、スマホやGPSで現在位置を確認をしながら進むと良いと思います。
また、私が歩き始めた時間よりもっと早く歩き始めて、歩行終了後に入間市駅よりバスに乗り、入間市博物館(アリット)に行き、金子氏のことを調べても良いと思います。
里山と言うには少し標高が低く、やっぱり丘陵という感じがしっくりくる場所ですが、その分、寺社仏閣の立地場所や遷座元の現況、稜線まで上がっている竹林や人工林の植樹状態を実際に歩いて見ることが出来て楽しめましたし、なにより、丘陵内を縦横に通っている道を歩きやすく整備をしていただいている、ボランティアの方々や入間市に感謝をしたい気持ちになりました。
加治丘陵は西武池袋線仏子駅、元加治駅、飯能駅とJR八高線金子駅、東飯能駅からですと歩ける位置に有りますし、JR青梅線からですと東青梅駅から西武池袋線入間市駅行きのバス乗れば、山裾にある各バス停から登り始められますので、秋から春にかけての時期に是非来てみてください。
(夏は暑いので、あまりお勧めしません。)
私は今度は家忠公の伯父たちの「山口氏」、「宮寺氏」の跡を歩いてみたいと思っています。
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