岡山市 建部町親水公園〜阿光山〜藤田山〜夙山 史跡&動植物



- GPS
- 05:01
- 距離
- 12.5km
- 登り
- 399m
- 下り
- 394m
コースタイム
- 山行
- 3:50
- 休憩
- 1:12
- 合計
- 5:02
歩行距離12.5km、歩行時間4時間、歩行数19,300歩、消費カロリー2,410Kcal
天候 | 曇り一時晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
危険箇所やヤブコギはありませんが、八大龍王碑<写真31>からの下りは、雨天や雨後は避けたほうがいいでしょう。なお、シダやササが体に当たる細道があるので、時季によってはマダニ対策が必要です。今回は虫よけスプレーなしでも衣服にはついていませんでした。 阿光山の東麓から頂上<写真19〜21>までは、一部、道がわかりにくくヤブ気味な箇所があります。 シバザクラ<写真17>撮影地点を過ぎて矢佐古(やさこ)池辺りからきれいな砂利道になります。道なりに進むと、藤田山との分岐をスルーして藤田山に向かってしまいます。往路は行き過ぎて引き返し、標高180m辺りの地形図の実線の道入口から入りました。ササが茂って入口はわかりにくいです。肩などに当たりますがギリギリかき分けずに歩け、足元も見えました。 この細道はすぐ西の鞍部で左右に分かれました。左は地形図の道、右は阿光山に延びており、南西の細い踏み跡は藤田山への砂利道に出られる近道です。復路ではこの鞍部から南西へと細い踏み跡を辿って盛り土を乗り越えると、藤田山へのきれいな砂利道に出合いました。石を並べて目印<写真22>をつくっておきました。 藤田山&阿光山分岐<写真22>から阿光山方面に進むと、何度かシダの間の細道になりましたが、足には当たるものの足元は見え、倒木はまたいだりくぐったりしてすぐによけられるレベルでした。道は頂上の池田博道の墓<写真19>で行き止まりのようでした。 藤田山&阿光山分岐<写真22>から藤田山頂上<写真26〜29>、大岩池<写真34>、八大龍王碑<写真31>へは、きれいな砂利道で歩きやすいです。藤田山取り付き点<写真30>から樹林帯に入ると、頂上までなんとなく踏み跡らしくなっており、ヤブコギはせずにすみました。なお、藤田山頂上<写真26〜29>西側には青いビニール紐が張られており、ここから先は立ち入り禁止のようにも思えたので引き返しました。 八大龍王碑<写真31>から藤田山成就寺<写真38〜45>までは、一部、雨天や雨後は避けたほうがいい箇所があります。 大岩池<写真34>から引き返してくると、八大龍王碑<写真31>の西の土の細道は北側を周り、石灯篭<写真33>の側に見えていた注連縄の張られた土道に合流しました。歩けそうだったのでここを下りることにしました。 最初は粘土の上に苔の生えたシダの間の細道で、シダが足に当たりますが、足元は見えました。 標高180m辺りには道標があり、元来た西方向は「十二本木」、南方向は文字が消えており、完全にヤブでした。ここから先は枯葉が積もりたまに足元が見えにくいシダやササの間の細道が続きました。下るにつれて足元に微妙に水が見えるようになってきたので、雨天や雨後は避けたほうがいいでしょう。 標高110m辺りで南に砂防ダムのようなものが見え、道は広く歩きやすくなってきました。標高100mを切り地形図の実線の土道に出合うと、側に「大岩池 十二本木登り口」の道標がありました。このきれいな土道は藤田山成就寺<写真38〜45>まで続きました。 あした山・とりごえ池周遊コース案内板<写真47>から夙山(あしたやま)頂上<写真52>を経て北の舗装道路に出合うまでは、ほとんどきれいな砂利道です。枯れ草がまばらに残っている箇所があるので、夏場は多少歩きにくいかもしれません。北方面へと下り、標高120mの浄水場辺りからはコンクリート道で、舗装道路出合いには特に道標はありませんでした。 |
その他周辺情報 | 建部(たけべ)町文化センターを旭川の上流に向かってJRと交差する辺りまで進むと、「たけべ八幡温泉」があります。日帰り入浴やレストランでの昼食、お土産の購入の他、宿泊もできます。 |
写真
文化センター前の旭川畔に展示されています。高瀬舟は室町時代末期頃の岡山県の主要河川(吉井川、高梁川、旭川等)で使用され始め、江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用されました。1925年の岡山の鉄道開通にともない衰退し、1934年の旭川の水害で完全に消滅しました。
民家の東側から低いササがまばらに生えた細道があり、登り切ると一帯が城跡となっていました。天文年間に城主?江田左衛門が尼子晴久に攻められ、陥落したとの記録があるのみです。奥の神社の拝殿はドアが開けっ放しでした。小さな祠は石造と木造の2棟ありました。詳細は不明です。
神社のある主郭から見下ろすと、ここを取り囲むように帯曲輪(くるわ)がはっきりと遺っていました。さらに下にもう一段低い曲輪が見えます。往路の細道をもう少し下りると、竹でバリケードがあり、帯曲輪には行けませんでした。ここから下りて見に行けばよかったです。
創建当時は幡神宮又は番神宮と称していた小山、藤田の2社を、明治2年にそれぞれ富沢神社、藤田神社と改称しました。明治25年に藤田神社を合祀して現在の富沢神社となりました。ご祭神は春日大神です。大和国の影響か・・・
♬串にささってだんご
電線に並んで止まっている様子を縦に撮影したので、まるで一本の串に刺さってつながっているようでした。 ♬串にささって だんご だんご(^^♪3兄弟どころか、たくさんいました。動画も撮りました。
ここ(建部町富沢)から真庭市上水田までを結ぶ延長43kmの道路です。その間、信号機のある交差点が途中に2カ所しかないので、ライダーの聖地といわれています。旧建部町の鳥メジロが描かれています。警戒の鳴き声は何度か聞こえましたが、姿は見えませんでした。
鎌倉時代の作とされ岡山県の重要文化財に指定されています。腰のあたりから折れているので、「腰折れ地蔵」さんとも呼ばれています。昔、盗人が落してしまい、腰のあたりが二つに折れてしまいました。それからお願いすると足腰の痛みが治ると評判になったそうです。
池田博道の墓
道はここで行き止まりのようでした。阿光山は岡山藩の直轄地で、頂上付近は建部池田家墓所になっていました。旧建部町指定文化財です。建部で家老を務めた森寺家は、池田家から養子を迎えて存続したので、建部池田家と呼ばれています。これは9代博道の墓で「等覚院殿前布護署凛山宗威居士」と刻まれています。
池田俊清の墓
8代俊清の墓で「緫持院前布護署徳叟良功居士」と刻まれています。少し低い位置にあり、シダヤブの中を3〜4m歩いて見に行きました。復路はここから延びているシダの間の細道を辿ってすぐに往路の道に合流しました。
藤田山の頂上は衝撃の巨石群でした。岡山県の埋蔵文化財地図には載っていませんが、磐座(いわくら)のようにも思えました。ここで祭事が行われたのでは(?_?)歩きながら動画も撮りました。
砂利道を東に下ると、この一角だけ何かの跡地のように開けていました。隅にあったこの石碑には題目が彫られているので、東麓の日蓮宗の寺院藤田山成就寺<写真38〜45>と関係があるのかもしれません。
熊野三山の熊野十二所権現をお祀りしたのでしょう。これも隅にありました。下山中に「十二本木」と書かれた道標を見たので、おそらく、かつてここに牛や蚕の神様である十二本木様をお祀りした十二本木神社があったのでしょう。
天平勝宝年間に報恩大師によって備前四十八ヶ寺の最後の寺院として創建され、大願成就の道場として成就寺と称しました。後に金川城主松田氏の強要により天台宗から日蓮宗に改宗しました。
ヤツデ(八つ手)の葉は、実際には8つではなく、5つまたは7つと奇数に分かれています。八の方が大きく、縁起がよいということで八つ手と名付けられました。目立たない小さな花は、すっきりとしたいい香りがします。
(阿形像)
山門に向かって右の像です。寄木造で、像高は207.0cmあります。銘はありませんが、寺には運慶の作と伝わっており、少なくとも鎌倉時代の慶派様を正当に継承していると認められるため、1994年に岡山県の重要文化財に指定され、2010年から11年にかけて玉野市出身で赤磐市在住の仏師長谷川隆鳳氏により修復されました。
(吽形像)
山門に向かって左の像です。寄木造で、像高は205.2cmあります。こちらも岡山県の重要文化財に指定され、長谷川隆鳳氏により修復されました。ちなみに、山門は享保3年(1718年)に再建され岡山市の重要文化財でしたが、平成22年に新築されたので重要文化財指定からは外れました。
砂利道の左(北)側の低いササヤブの中ですが、よく見ると道から見えていました。道の両サイドには木が生えており、展望は効きません。通過点としか思えないような頂上でした。ちなみに、周辺の地名は神力(こうりき)ですが、三角点名は神力(じんりき)のようです。
東屋のように見えたので行ってみると、中には小さな祠が2つありました。左のほうは軒下に「十二本木」と書かれていました。牛と蚕の神様をお祀りしてあるようです。右の祠はよくわかりませんでした。なお、写ってはいませんが、左端には石碑があり、「惣守宮」と彫ってありました。ここは集落の守り神をお祀りした社なのでしょう。道は続いていましたが、引き返して北に下ることにしました。
警戒心があまりなく好奇心旺盛なので、翼をパタパタさせながらこちらを見ていましたが、動画を撮り始めるとすぐに飛び去りました。舗装道路に出て少し東に進んだ辺りで舞い散る枯葉を動画に撮りました。
岡山市の天然記念物に指定されている推定樹齢400年の大杉です。樹高37m、目通り幹周4.8mの大木ですが、社殿を囲むように杉の大木が他にもあります。この標柱がなかったら、どれか迷うでしょう。
神力稲荷神社拝殿&本殿
神力(こうりき)稲荷神社についてネットで調べると、大杉が有名過ぎて神社の由緒などの説明が見つかりませんでした(+o+)ちなみに、拝殿の手前に見えているのも杉です。
拝殿西杉の根元
拝殿と本殿のちょうど間辺りにまたしても杉の大木があるのに気づき、細道から下りて拝殿との隙間に入り込んでみました。左側の根にご注目(*_*;どっちが幹でどっちが根っこやねん(+o+)社殿の基礎が邪魔で下に根を伸ばせず、仕方なくこうしたようです。ちなみに、幹周は大杉<写真56,62>とあまり変わらないくらいありました(*_*;
拝殿西杉の根越しに本殿
細道に上がると、逆サイドの根はこんな感じ(*_*;おそらく、道の下が石積みなので左の斜面の方へ伸ばし、そこから地中に下りているのでしょう。ちなみに、見えている根っこの太さは30cm程です(+o+)背後の本殿ちっちゃっ!ここから歩きながら衝撃映像を動画に撮り、最後に大杉<写真56,62>を見上げました。
おそらく、樹高も幹周もこの木が一番でしょう。ちなみに、根は見えませんでした。社殿を囲むように杉の大木があるので、地中を想像すると・・・(+o+)1本1本の大きさはそれほどでもないのですが、なぜか圧倒されてしまい、パワーをもらったのか吸い取られたのかよくわからないまま神社を後にしました。
土手にたくさん見えたので下りてみました。直径1cm少々の黄色い実はミニトマトのようでかわいいですが、枯葉にはしっかりトゲが(*_*;ワルの所以でしょうか。動画には、画面右端にトゲだらけの枯葉が映っています。
オスの顔は覆面レスラーのようですが、メスは全身茶色っぽく地味です。動画を撮り始めると、慌てて飛び立ちましたが、水面すれすれの低空飛行で2m先に着水。危険な奴ではないと思ってくれたようです(*^^*)
&チュウダイサギ
旭川の中州にたくさんいました。右端は大きさからするとチュウダイサギのようです。中央の黒いのはカワウ、その他、小さいのが冬羽のカイツブリです。動画にはマガモのオスやカルガモも映っています。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
ズボン
靴下(厚手)
防寒具
手袋(防水加工)
軍手
雨具
日よけ帽子とフード
雨用帽子
登山靴(防水加工)
靴ひも予備
サブザック
ザックカバー
地形図
コンパス
マップケース
筆記用具
タオルハンカチ
カメラ
飲料水(スポドリ&茶)
水筒(保温)
非常食(栄養補助食品)
スマホ(地図アプリ使用)
eTrex22x(GPSナビゲーター)
|
---|
感想
【旭川(建部町)にも野鳥がやってきました(^^♪】
出発点は建部町文化センター前の親水公園です。旭川畔ということもあり、野鳥が何羽か見られました。もう朝の9時頃だったので、野鳥観察には時間が少し遅かったのですが、旭川にはセキレイ類などの留鳥に加え、渡り鳥も見られるようになりました。このまま1、2月の厳冬期に入ると、もう少し北ではオシドリも見られるかもしれません。
戻ってきたとき(14時頃)は、食事タイムなのか、ちょうどヒドリガモの採食シーンなどが見られ、なかなかゴールすることができませんでした(*^^*)そのシーンは写真や動画でも紹介しています。
【阿光山と建部池田家】
江戸時代はじめ、岡山藩は他領との国境を警護するためこの地に拠点を置きました。津山藩と接する中田村に陣屋が構えられ、侍屋敷が作られました。岡山藩家老の建部池田家4代目の池田長政が陣屋の領主に命じられ、建部を中心に知行地1万石が与えられました。 東を流れる旭川には高瀬舟<写真03>の泊まる「市」がつくられ、そこから米や材木などが運び出されて行きました。明治に入ると陣屋や侍屋敷は取り除かれ、商家が残るのみとなりましたが、鉄道で運ばれた石炭を高瀬舟で運ぶなど交通の要衝として栄えました。
こうした建部の繁栄の礎を築いた建部池田家の墓<写真19〜21>はなぜか阿光山の頂上にありました。道の入口がわかりにくいだけで、思ったよりも歩きやすかったです。この道は池田博道の墓<写真19>で行き止まりのようでした。
周辺はシダに覆われ木々が茂り現在は展望が効きませんが、当時は建部が一望できる場所だったため墓所となったのでしょう。栄枯盛衰、無常を感じ少ししんみりとしました。
【神秘的な巨石ワールド藤田山と麓の社寺】
藤田山は阿光山の南西方面に位置します。頂上に近づくと、突然巨石ワールドになります。磐座(いわくら)であったとは断言できませんが、何か祭事が行われていたのではないかと推察されるほど神秘的な雰囲気です。西側には青いビニール紐が張られており、ここから先は立ち入り禁止のようにも思えたので引き返しました。
砂利道を東に進むと、東尾根には八大龍王や十二社大権現が祀られていました。八大龍王の龍神は雲を操り雨を降らせる力を持つとされ、雨の少ない岡山南部の農耕社会では重要です。十二社大権現は熊野三山の神(熊野権現)を勧請して祀ったものです。ちなみに、この近くの建部町大田地区の下谷集落に熊野神社があります。
いったん砂利道を南東に下り、終点の大岩池<写真34>に立ち寄ってから引き返しました。八大龍王碑<写真31>の西の土の細道は北側を周り、石灯篭<写真33>の側に見えていた注連縄の張られた土道に合流しました。歩けそうだったのでここを下りることにしました。
標高180m辺りには道標があり、元来た西方向は「十二本木」、南方向は文字が消えており、完全にヤブでした。
標高100mを切り地形図の実線の土道に出合うと、側に「大岩池 十二本木登り口」の道標がありました。おそらく、標高180m辺りにかつては大岩池に向かう道があり、現在は八大龍王碑<写真31>などがある場所には牛や蚕の神様である十二本木様をお祀りした十二本木神社があったのでしょう。
この土道を南下すると、藤田山成就寺があります。境内にある三重宝塔<写真39>と宝篋印塔(ほうきょういんとう)<写真42>は岡山市の重要文化財、金剛力士像<写真44,45>は岡山県の重要文化財です。藤田山は謎に満ちていますが、神秘的で歴史的価値が高い山であることはわかりました。
【散策コースの夙山の最後にサプライズ】
今回、最後に訪問したのは夙山(あしたやま)です。今回の山で唯一三角点「神力(じんりき)」が設置されており、神力山(こうりきやま)とも呼ばれています。名前こそ神がかっていますが、山というよりも地元の方が気軽に散歩できる散策コースのイメージです。頂上からは展望も効かず、通過点といった感じで、実際にいったんはスルーしてしまいました。
惣守宮?<写真53>からも下り道がありましたが、引き返してあした山・とりごえ池周遊コース案内板<写真47>の「がんばりコース」の砂利道を北方面へと下りました。
お気楽コースの夙山麓の神力(こうりき)稲荷神社にサプライズが待っていました。岡山市の天然記念物に指定されている推定樹齢400年の大杉をはじめ、4本ほど杉の大木があります。大きさはそれほどでもないのですが、根っこの太さと張り出し方<写真60,61>に衝撃を受けました(*_*;どれだけすごいのかは写真より動画のほうがよくわかります。バチ当たりですが、途中からお稲荷様そっちのけで杉に圧倒されまくり、パワーをもらったのか吸い取られたのかよくわからないまま神社を後にしました。
これら以外にも、写真や動画で紹介していますように、たくさんの貴重な史跡や自然観察を楽しむことができました。周辺にはまだ山城跡や古墳などがあるので、また機会があれば訪問したいと思います。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する