坂戸山の花と城址
- GPS
- 03:43
- 距離
- 6.1km
- 登り
- 531m
- 下り
- 515m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2022年04月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
電車
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写真
装備
個人装備 |
雨具
ウィンドブレーカー
長袖?
水(1.2l)
昼食弁当
GPS/ケータイ
地図
カメラ
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感想
昨夜は少し遅かったが坂戸山に行ってみたくなり始発のとき301で越後湯沢経由で六日町に。若い頃巻機山などで来たことがあるように微かな記憶があるが上越線に乗るのは久しぶり。かつては本数もあったが最近では新幹線の駅からレンタカーで走るなどが多く駅から歩ける坂戸山は楽しみだった。早朝は寒くはないが空はどんより。晴れてくれることを祈った。
越後湯沢でしばらく上越線を待ち8時過ぎの電車で六日町に8時二十分過ぎに到着。駅から真っ直ぐ進み商店街を過ぎる頃正面に坂戸山らしき姿が見え始めた。そのまま魚野川の橋を渡る。魚野川の水量は雪解け水でやや多目だ。川の向こう側に雪を抱いた上越の山々。川向こうの道を渡りさらに進むと鳥坂神社の参道があり、神社の手前に道標があり右に進むといきなり階段の登りとなる。階段の入口にはいきなりカタクリが数株開花してお出迎え。やや急な階段を登っていくと並木の小広い坂道となる。そこはカタクリの自生地園地でロープで保護されている。開花は進んでピーク過ぎだがまだまだ見られる。
カタクリを楽しみ、その先にある「御居間屋敷跡」の案内板があり、立ち寄ってみる。ハイキング道から少し下ると、日陰に残雪が残る平坦な場所に出る。そこら中にカタクリの芽が出ており、開花しているものもある。その中を進むと御居間屋敷跡の標柱があった。
今日のハイキングの楽しみの第一は花だが、第二はこの坂戸城城址の遺跡、遺構の見学だ。坂戸城そのものは
「戦国時代、山全体が山城であった坂戸山。上杉謙信ゆかりの城跡であり、上杉景勝、直江兼続の居城でもありました。坂戸山頂には、本丸上屋敷跡、中腹の中屋敷、山麓の城主館、家臣屋敷跡などは今も完全に残っています。山麓には長尾政景の墓所と、上杉景勝と重臣直江兼続の生誕の碑があります。ふもとには、殿様が銭を投げ込んだという伝説の残る「銭淵公園」があります。(国指定文化財)=南魚沼誌観光協会」、とある。
しかしこの「御居間屋敷」は上杉家ではなく、その後上杉慶長3年(1598),
国替えで会津に去った後に越後に配置された「堀家」のうち、堀 直竒
が、入城したのがこの「坂戸城」だったようで、その中屋敷として直竒が住んだらしい。
「堀 直竒 (ほり なおより)天正5年(1577)〔生〕〜寛永16年6月29日(西暦1639年7月29日)〔没〕
(坂戸城主、蔵王堂城主時代 1598〜1610)
慶長3年(1598)、上杉家が国替えで会津に去った後、堀秀治が春日山城に入城した。直竒の父直政は幼君である堀秀治を支え執政として越後の治政を行った。直政は豊臣秀吉からの信認も厚かった。このとき、直竒は坂戸城1万石に配された。
慶長5年(1600)の関が原合戦の前哨戦ともいえる、上杉家による遺民一揆を、駆逐した際、その第一報を直竒が徳川家康・秀忠に報告したところ、大変に喜んだという」(新潟市出身の人物」HPより
「御居間屋敷は中屋敷とも呼ばれ、薬師尾根の中腹部に構えられた館で、堀直竒が入封後、山頂の実城を廃して新坂戸城の主郭とした館と伝えられます」(「Dawn太とおでかけLOGの歴史を訪ねて」より)
そこからは延々と階段上の山道をひたすら登る。 三合目を過ぎるとイワウチワの群落が目立つようになる。この群落は途切れ途切れにほぼ山頂付近まで続いている。またイワナシ、カタクリ、カンスゲ、ショウジョウバカマ、キジムシロなど春先の雪融け直後に見られる花ばなやタムシバ、ミネザクラ、ミツバツツジなどの樹木の花も見られとりわけタムシバは時期的には終盤の様相だがまだ綺麗な花をつけているものもあった。時折展望の良い場所があり、六日町や上越国境の山々などを望めた。とりわけ残雪の多い巻機山も望めたが山頂付近は雲がかかっていてすぐにガスで見えなくなった。
九合目を過ぎ、すぐ上が山頂だった。お堂がありこの先に大城、小城の道標があった。山頂で二百円コンビニ弁当で腹ごしらえし、大城に向かう。残雪があり道はぬかるんでいるが何とか大城に出る。ここには大勢のハイカーが昼食休憩をとっていた。当方は写真撮影だけで引き返す左前方には八海山、その右奥に中ノ岳、更に奥ば兎岳か?また右側の近くの大きく見えるピークは尋ねると巻機山だというが近すぎるのでおそらくその裏側だろう。先に雲の中に入ってしまったが目の前のピークはとてもそんな高さはなさそうだ。地図で確認するとどうやら、かつて私がMTBでアクセスして登った「金城山」らしい。ヤマレコをまだやっていない12年以上前、MTBで登山口までアクセスして避難小屋に泊まって周回したと思われるが、記録がなくなって記憶も定かでない。その金城山の背後に巨大な巻機山があるはずだが、今は見えない。
下山を開始。山頂に戻り、城坂コースを下る。この道はぬかるみや残雪が多く、パンツには泥ハネ、安物のトレランシューズはたちまち浸水。この靴は乾燥時にしか使えないことを確認する羽目にーでも確認できてよかった。
山頂から下って2-3分で「廣瀬曲輪」の標柱があり、さらに10分強下ると桃木平と主水曲輪の分岐があった。午後からリモートで新潟県埋文の春の企画展「下越の縄文遺跡」の解説会があるので、主水曲輪にはいかなかったが、後から記録を見ると近くにあったの立ち寄るべきだったと後悔。次の桃の木平もどこにあるのか、わからなかった。この時は時間を気にしてカタクリも見るべき場所がなかったので、一気に下山を試みた。
こちらでは、午後に入ってからも団体が次々に登ってくる。道のコンデションがよくないためか、バテテ座り込むグループも。下山コースはカタクリがずっと続く道だが、こちらのカタクリはほぼ終盤でかなりみすぼらしい状態の株が多かった。6合目を過ぎたあたりから、カタクリに交じってキクザキイチゲやアズマイチゲなどが目立つようになる。さらに終わりかけたエンレイソウや誰かに教わったミチノクエンゴサクなど様々な花が咲き乱れており、花の撮影でペースが落ちた。それでも6合目から25分弱で一本杉に到着、もう過ぎ下界かと思われたが、意外な残雪に手間取り、10分強かかってようやく遊歩道のような良い道に出て坂戸城址の石碑のある場所に出る。この石碑の文字は「第17代上杉邦憲氏書」と彫られていた。上杉家は今でも存続していると初めて知る。ここには上杉家の居館跡の石垣などが残され、それを説明する解説板が立派な石に設置されていた。石垣の傍らには「御館」という石柱があった。上杉氏ファンにはたまらない遺構だろう。ここにもカタクリの自生地や桜が満開で来る人を和ませる。すばらしいハイキングコースでもあり、この地域の人は幸せだ。
12時半前に鳥坂神社前に戻ってきて、朝のハイキングコース入口を過ぎると右手の堀の看板が目に入ったので見てみると「坂戸城内堀」の解説板であった。坂戸城の防御線でまだほかにも遺構が眠っている可能性が多いそうだ。12時36分発の常設線目指して早足で駅に向かったが、残念ながら途中の商店街に入った段階であと2分になり、あと1分まで来たが残念ながら駅はまだ少し先でここであきらめて、目の前のイチゴパフェの看板に誘惑されてイタ飯屋に入って2800円なりのイチゴ媛パフェを食べて疲れをいやす。
イチゴがふんだんに入っており、ボリュームたっぷりだが、パフェとしての出来は今一つ、千疋屋のパフェには及ばない。それでも高かったが疲れを癒して駅に行き、次の列車で越後湯沢に向かい、新幹線の中で「下越の縄文遺跡展」のyoutubeの講演を聞きながら帰宅の途についた。
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