8:53JR関ヶ原駅スタート。
西軍側の史跡を巡る為西軍に詳しい文献『関原始末記』『関ヶ原軍記大成』を参考とすると、関ヶ原合戦は辰の刻(午前8時ごろ)に開戦したので遅参となった。
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5/3 8:53
8:53JR関ヶ原駅スタート。
西軍側の史跡を巡る為西軍に詳しい文献『関原始末記』『関ヶ原軍記大成』を参考とすると、関ヶ原合戦は辰の刻(午前8時ごろ)に開戦したので遅参となった。
JR関ヶ原駅前観光交流館の立て看板がお出迎え。
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5/3 8:54
JR関ヶ原駅前観光交流館の立て看板がお出迎え。
関ヶ原観光交流館。計画段階で急ぎの旅となると意識していたので、LSD(ロング・スロー・ディスタンス)の速度7-8km/m程度で走る。
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5/3 8:54
関ヶ原観光交流館。計画段階で急ぎの旅となると意識していたので、LSD(ロング・スロー・ディスタンス)の速度7-8km/m程度で走る。
関ヶ原古戦橋(跨線橋)前の幟と菩提山遠景。
新しく関ヶ原合戦の解説板が取り付けられてあったが急ぎの旅。
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5/3 8:54
関ヶ原古戦橋(跨線橋)前の幟と菩提山遠景。
新しく関ヶ原合戦の解説板が取り付けられてあったが急ぎの旅。
商工会の幟やガレージシャッターにもこだわりが見られ、来る人の目を楽しませてくれる。
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5/3 9:00
商工会の幟やガレージシャッターにもこだわりが見られ、来る人の目を楽しませてくれる。
月見宮大杉はかなり高かった。樹齢800年か。
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5/3 9:08
月見宮大杉はかなり高かった。樹齢800年か。
月見宮大杉の説明板。
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5/3 9:08
月見宮大杉の説明板。
福島正則陣跡の案内板。
福島正則は豊臣恩顧の武将であり、幼少の頃から共に働いた石田三成とは犬猿の仲であった為か、小山評定で真っ先に東軍に加勢を表明。竹ヶ鼻城・岐阜城を攻め落として大垣城に駐軍、夜半に発って松尾村に陣を敷き、西軍・宇喜多隊に対峙した。
関ヶ原開戦の時は井伊直政・松平忠吉隊に抜け駆けされる。宇喜多隊をよく抑え、12時ごろ小早川軍の寝返りにより西軍が突き崩され、それに乗じて押し返した。
関ヶ原の戦功により大封を賜るが、豊臣恩顧の将であったためか大坂の陣には参戦を許されず、後に改易され失意の内に没する。
敵であった宇喜多秀家とは、舟運が遭難し八丈島に流れ着いた家臣が秀家と思しき老人に出会い、許しを得ず独断で酒を与えてしまった。その事を聞いた正則は『わしの面子も立った。よくやってくれた』と褒賞を与えたそう。
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5/3 9:08
福島正則陣跡の案内板。
福島正則は豊臣恩顧の武将であり、幼少の頃から共に働いた石田三成とは犬猿の仲であった為か、小山評定で真っ先に東軍に加勢を表明。竹ヶ鼻城・岐阜城を攻め落として大垣城に駐軍、夜半に発って松尾村に陣を敷き、西軍・宇喜多隊に対峙した。
関ヶ原開戦の時は井伊直政・松平忠吉隊に抜け駆けされる。宇喜多隊をよく抑え、12時ごろ小早川軍の寝返りにより西軍が突き崩され、それに乗じて押し返した。
関ヶ原の戦功により大封を賜るが、豊臣恩顧の将であったためか大坂の陣には参戦を許されず、後に改易され失意の内に没する。
敵であった宇喜多秀家とは、舟運が遭難し八丈島に流れ着いた家臣が秀家と思しき老人に出会い、許しを得ず独断で酒を与えてしまった。その事を聞いた正則は『わしの面子も立った。よくやってくれた』と褒賞を与えたそう。
不破関跡に到着。壬申の乱に関係があるらしく、興味が湧いてきた。
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5/3 9:11
不破関跡に到着。壬申の乱に関係があるらしく、興味が湧いてきた。
不破関跡の説明板。
壬申の乱の後に立ったらしく、平安時代以降は多くの文学作品や紀行文に不破の関所の情景が記されていたとか。
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5/3 9:11
不破関跡の説明板。
壬申の乱の後に立ったらしく、平安時代以降は多くの文学作品や紀行文に不破の関所の情景が記されていたとか。
不破関資料館。
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5/3 9:12
不破関資料館。
壬申の乱の幟と青空。
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5/3 9:11
壬申の乱の幟と青空。
松尾山・小早川秀秋陣跡を目指し東海自然歩道に入る。地面の状態・木の根・石を警戒し、速度は遅め・脚を少し高く上げ・地面の状態を確認しながら走る。
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5/3 9:14
松尾山・小早川秀秋陣跡を目指し東海自然歩道に入る。地面の状態・木の根・石を警戒し、速度は遅め・脚を少し高く上げ・地面の状態を確認しながら走る。
東海自然歩道の雰囲気は良い。カメラをiPhone12Proに変えたのでポートレート撮影を覚えておいた。
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5/3 9:15
東海自然歩道の雰囲気は良い。カメラをiPhone12Proに変えたのでポートレート撮影を覚えておいた。
東海自然歩道を抜けて舗道に入る。
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5/3 9:16
東海自然歩道を抜けて舗道に入る。
標識に新緑が映える。
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5/3 9:17
標識に新緑が映える。
松尾山の近くに来ると、小早川秀秋の幟が立っていた。
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5/3 9:18
松尾山の近くに来ると、小早川秀秋の幟が立っていた。
松尾山・小早川秀秋陣跡車道側入り口。黄色の幟がわかりやすい。
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5/3 9:20
松尾山・小早川秀秋陣跡車道側入り口。黄色の幟がわかりやすい。
松尾山登山口駐車場と説明板。
東軍が布陣した岡山(大垣市)・大垣城・南宮山(垂井町)の様子が手に取るように分かる重要拠点・ここ松尾山に、小早川秀秋はおよそ1万5千の兵を引き連れ布陣した。
毛利両川・小早川家に養子となり、豊臣秀吉の正室・高台院の甥でありながら徳川家康からの恩義に報いたいと思っていた19歳の秀秋は、西軍・東軍に与する事が出来ずに迷っていた。午前11時に業を煮やした家康に銃撃され、正午12時に東軍に付く。麓の藤川台に陣を敷く大谷・平塚隊に矛先を向ける事となる。
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5/3 9:21
松尾山登山口駐車場と説明板。
東軍が布陣した岡山(大垣市)・大垣城・南宮山(垂井町)の様子が手に取るように分かる重要拠点・ここ松尾山に、小早川秀秋はおよそ1万5千の兵を引き連れ布陣した。
毛利両川・小早川家に養子となり、豊臣秀吉の正室・高台院の甥でありながら徳川家康からの恩義に報いたいと思っていた19歳の秀秋は、西軍・東軍に与する事が出来ずに迷っていた。午前11時に業を煮やした家康に銃撃され、正午12時に東軍に付く。麓の藤川台に陣を敷く大谷・平塚隊に矛先を向ける事となる。
前回食事から3時間は経っており、ここで間食・食事休憩。坐禅陣を組み(一人じゃ陣とは言わない)、行動食とコーヒーと水をいただきます。
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5/3 9:24
前回食事から3時間は経っており、ここで間食・食事休憩。坐禅陣を組み(一人じゃ陣とは言わない)、行動食とコーヒーと水をいただきます。
松尾山登山道は観光で管理されている為白い礫石が敷かれてあり平坦で歩きやすい。石垣があり雰囲気があったが、状態が良すぎるので恐らくこれは管理道か治水工事のものか。
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5/3 9:41
松尾山登山道は観光で管理されている為白い礫石が敷かれてあり平坦で歩きやすい。石垣があり雰囲気があったが、状態が良すぎるので恐らくこれは管理道か治水工事のものか。
分岐路。黄色の小早川家紋の幟がありわかりやすい
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5/3 9:44
分岐路。黄色の小早川家紋の幟がありわかりやすい
山の神神社周辺に来たが急ぎの旅なので、ここで遥拝し山域の土と静寂を荒らす無礼をお詫びする。
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5/3 9:45
山の神神社周辺に来たが急ぎの旅なので、ここで遥拝し山域の土と静寂を荒らす無礼をお詫びする。
登山道の見晴らしの良い地点に出た。
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5/3 9:50
登山道の見晴らしの良い地点に出た。
松尾山山頂に到着。
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5/3 10:01
松尾山山頂に到着。
青紅葉が映える。奥に東屋があり休憩できるよう行き届いていた。
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5/3 10:04
青紅葉が映える。奥に東屋があり休憩できるよう行き届いていた。
松尾山山頂の史跡位置図。
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5/3 10:02
松尾山山頂の史跡位置図。
史跡位置図と景色。
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5/3 10:02
史跡位置図と景色。
松尾山山頂の景色。なるほど笹尾山・南天満山・関ヶ原盆地・桃配山・垂井辺りの様子がよくわかる。
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松尾山山頂の景色。なるほど笹尾山・南天満山・関ヶ原盆地・桃配山・垂井辺りの様子がよくわかる。
ここに松尾山山頂のトイレがあった。山頂から50m離れたところにある為体力的・心理的に不安になるが、位置が分かれば安心できる。
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5/3 10:07
ここに松尾山山頂のトイレがあった。山頂から50m離れたところにある為体力的・心理的に不安になるが、位置が分かれば安心できる。
松尾山の木製案内板。
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5/3 10:02
松尾山の木製案内板。
松尾山山頂の小早川秀秋陣跡の案内板。
ここ松尾山は東海道(中山道)・北国街道・伊勢街道を睨む戦略上の要衝として古くから知られており、浅井家・近江国侵攻後の織田家によって抑えられていた。
慶長6年(1600年)、石田三成は大垣城主・伊藤盛正に改修させ、毛利輝元を招聘しようとしたが輝元は大坂城を出ず、代わりに毛利両川の一家・小早川秀秋が陣を敷く事となった。その時改修された遺構が今も残っている。
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5/3 10:01
松尾山山頂の小早川秀秋陣跡の案内板。
ここ松尾山は東海道(中山道)・北国街道・伊勢街道を睨む戦略上の要衝として古くから知られており、浅井家・近江国侵攻後の織田家によって抑えられていた。
慶長6年(1600年)、石田三成は大垣城主・伊藤盛正に改修させ、毛利輝元を招聘しようとしたが輝元は大坂城を出ず、代わりに毛利両川の一家・小早川秀秋が陣を敷く事となった。その時改修された遺構が今も残っている。
本丸位置。
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5/3 10:01
本丸位置。
松尾山城(跡)史の案内板。
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5/3 10:00
松尾山城(跡)史の案内板。
土塁の案内板。
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5/3 10:01
土塁の案内板。
桝形虎(小)口の案内。
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5/3 10:05
桝形虎(小)口の案内。
馬出状の曲輪の位置案内。
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5/3 10:06
馬出状の曲輪の位置案内。
松尾山を下り大谷吉継陣跡へ。奥に伊吹山が見える。
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5/3 10:30
松尾山を下り大谷吉継陣跡へ。奥に伊吹山が見える。
側に藤古川が通る農道を歩く。藤古川ダムがあるためか農業灌漑によく活かされている。
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5/3 10:31
側に藤古川が通る農道を歩く。藤古川ダムがあるためか農業灌漑によく活かされている。
藤古川の案内板。藤古川には6月上〜中旬にはゲンジ・ヘイケボタルが乱舞する景色が見られるらしい。
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5/3 10:32
藤古川の案内板。藤古川には6月上〜中旬にはゲンジ・ヘイケボタルが乱舞する景色が見られるらしい。
脇坂安治陣跡に入る。
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5/3 10:34
脇坂安治陣跡に入る。
奥に幟が見える。
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5/3 10:34
奥に幟が見える。
脇坂安治陣跡。
賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた脇坂安治は、初め大谷吉継の指揮により朽木・小川・赤座らと共に松尾山の麓に布陣していたが、藤堂高虎との内通に応じ、正午12時の小早川軍の裏切りに呼応して大谷隊らの側面に攻撃を仕掛け、これらを壊滅させた。
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5/3 10:35
脇坂安治陣跡。
賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた脇坂安治は、初め大谷吉継の指揮により朽木・小川・赤座らと共に松尾山の麓に布陣していたが、藤堂高虎との内通に応じ、正午12時の小早川軍の裏切りに呼応して大谷隊らの側面に攻撃を仕掛け、これらを壊滅させた。
奥に伊吹山がよく映える。
石田隊は大谷隊を突破した織田・藤堂・脇坂隊にしばらく持ち堪えるが、蒲生以外諸士が討死し伊吹山へ潰走となる。
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5/3 10:38
奥に伊吹山がよく映える。
石田隊は大谷隊を突破した織田・藤堂・脇坂隊にしばらく持ち堪えるが、蒲生以外諸士が討死し伊吹山へ潰走となる。
ここで壬申の乱の史跡に寄り道。
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5/3 10:41
ここで壬申の乱の史跡に寄り道。
黒血川の案内板。壬申の乱だけでなく関ヶ原や青野ヶ原にも関係があるらしい。
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5/3 10:43
黒血川の案内板。壬申の乱だけでなく関ヶ原や青野ヶ原にも関係があるらしい。
自害峯の三本杉。本当に杉が三本並んで幹を伸ばしていた。
壬申の乱(672年)にて大海人皇子が野上行宮から不破に出陣し、名産の桃を全兵士に配り戦いに快勝した。関ヶ原の合戦で徳川家康はその故事に倣い、桃配山に最初の陣を敷いた。
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5/3 10:44
自害峯の三本杉。本当に杉が三本並んで幹を伸ばしていた。
壬申の乱(672年)にて大海人皇子が野上行宮から不破に出陣し、名産の桃を全兵士に配り戦いに快勝した。関ヶ原の合戦で徳川家康はその故事に倣い、桃配山に最初の陣を敷いた。
自害峯の三本杉の案内板。
壬申の乱での皇位継承戦争に敗戦した大友皇子の首がここに葬られていると伝えられ、弘文天皇御陵候補地となっている。
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5/3 10:44
自害峯の三本杉の案内板。
壬申の乱での皇位継承戦争に敗戦した大友皇子の首がここに葬られていると伝えられ、弘文天皇御陵候補地となっている。
消火栓にも意匠があって面白い。
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5/3 10:48
消火栓にも意匠があって面白い。
松尾山眺望地の案内板。駐車場有。
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5/3 10:48
松尾山眺望地の案内板。駐車場有。
自販機に大谷刑部の絵が。オオタニサン…
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5/3 10:49
自販機に大谷刑部の絵が。オオタニサン…
松尾山眺望地駐車場の大谷吉継陣跡・大谷吉継公墓の案内板。
大谷吉継は初め徳川の会津征伐に宇喜多秀家が出陣したところに糾合しようとしたが、石田三成に挙兵を打ち明けられ、再三に渡り無謀で勝機なしと説得するも応じられず。共に働いた義によって三成を支える。
かねてから小早川秀秋に二心ありと疑い矛先を向けていた吉継は、正午12時の小早川軍の裏切りを迎え撃ち、よく奮戦したが、指揮下にあった脇坂隊の裏切りにより側面を突かれて壊滅し、藤川台にて自刃。それを見た西軍諸将は動揺し、西軍総崩れの発端となった。
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5/3 10:50
松尾山眺望地駐車場の大谷吉継陣跡・大谷吉継公墓の案内板。
大谷吉継は初め徳川の会津征伐に宇喜多秀家が出陣したところに糾合しようとしたが、石田三成に挙兵を打ち明けられ、再三に渡り無謀で勝機なしと説得するも応じられず。共に働いた義によって三成を支える。
かねてから小早川秀秋に二心ありと疑い矛先を向けていた吉継は、正午12時の小早川軍の裏切りを迎え撃ち、よく奮戦したが、指揮下にあった脇坂隊の裏切りにより側面を突かれて壊滅し、藤川台にて自刃。それを見た西軍諸将は動揺し、西軍総崩れの発端となった。
若宮八幡神社に布陣した大谷吉継陣跡へと入る。
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5/3 10:50
若宮八幡神社に布陣した大谷吉継陣跡へと入る。
若宮八幡神社。急ぎの旅なのでここでも遥拝し先を急ぐ。
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5/3 10:51
若宮八幡神社。急ぎの旅なのでここでも遥拝し先を急ぐ。
若宮八幡神社の案内板。
大谷隊と小早川軍が激戦を繰り広げたこの地に鎮座する神社は、戦火を免がれられなかった為か棟札が現存しない、とある。
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5/3 10:52
若宮八幡神社の案内板。
大谷隊と小早川軍が激戦を繰り広げたこの地に鎮座する神社は、戦火を免がれられなかった為か棟札が現存しない、とある。
大谷家家紋の丸に違い鷹の羽紋の幟が立つ。
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5/3 10:54
大谷家家紋の丸に違い鷹の羽紋の幟が立つ。
松尾山眺望地に到着。
顔出しパネルがあって面白いが、松尾山の小早川秀秋への憎悪の眼差しで撮れという趣…は洒落にならない。
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5/3 10:55
松尾山眺望地に到着。
顔出しパネルがあって面白いが、松尾山の小早川秀秋への憎悪の眼差しで撮れという趣…は洒落にならない。
松尾山眺望地より松尾山。
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5/3 10:55
松尾山眺望地より松尾山。
松尾山眺望地の案内板。
ここで小早川隊の裏切りを見た(と思われる)大谷吉継は『人面獣心なり 三年の間に祟りを成さん』と憎悪を一言に吐き捨てる。
関ヶ原合戦より2年後、小早川秀秋はその言葉の通り狂い死にした。享年21歳。人々はそれを大谷吉継の祟りと噂した。
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5/3 10:55
松尾山眺望地の案内板。
ここで小早川隊の裏切りを見た(と思われる)大谷吉継は『人面獣心なり 三年の間に祟りを成さん』と憎悪を一言に吐き捨てる。
関ヶ原合戦より2年後、小早川秀秋はその言葉の通り狂い死にした。享年21歳。人々はそれを大谷吉継の祟りと噂した。
松尾山眺望地の眺望案内。
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5/3 10:56
松尾山眺望地の眺望案内。
眺望案内図。
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5/3 10:56
眺望案内図。
眺望案内図と松尾山。
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5/3 10:56
眺望案内図と松尾山。
大谷吉継陣跡に到着。
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5/3 10:57
大谷吉継陣跡に到着。
大谷吉継陣跡の案内板。
東軍の近江侵攻、開戦前より不穏な動きを見せる小早川秀秋の松尾山からの軍の抑えとなる要害となるこの地に、大谷吉継は布陣した。
東より攻める藤堂・京極隊に奮戦し、正午12時ごろに小早川軍の裏切りと攻撃をよく跳ね返したが、直後脇坂らの裏切りに遭い、三方より攻められ全滅した。
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5/3 10:57
大谷吉継陣跡の案内板。
東軍の近江侵攻、開戦前より不穏な動きを見せる小早川秀秋の松尾山からの軍の抑えとなる要害となるこの地に、大谷吉継は布陣した。
東より攻める藤堂・京極隊に奮戦し、正午12時ごろに小早川軍の裏切りと攻撃をよく跳ね返したが、直後脇坂らの裏切りに遭い、三方より攻められ全滅した。
大谷吉継墓に到着。
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5/3 11:01
大谷吉継墓に到着。
大谷吉継墓。大谷吉継墓の五輪塔が建てられている。
小早川らが寝返り最期を悟った吉継は「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と湯浅五助に言い残し、藤川台で自刃。享年35歳(前後)。『契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも』
近江余呉町小谷出身と伝わる大谷義継と同じ近江国出身であり、犬上郡藤堂村(甲良町大字在士)出身であり敵方となった藤堂高虎の家の者によって建てられている。
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5/3 11:01
大谷吉継墓。大谷吉継墓の五輪塔が建てられている。
小早川らが寝返り最期を悟った吉継は「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と湯浅五助に言い残し、藤川台で自刃。享年35歳(前後)。『契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも』
近江余呉町小谷出身と伝わる大谷義継と同じ近江国出身であり、犬上郡藤堂村(甲良町大字在士)出身であり敵方となった藤堂高虎の家の者によって建てられている。
墓所前面。
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5/3 11:02
墓所前面。
大谷吉継(吉隆とも伝わる)墓所。大谷吉継の五輪塔の隣に立つ墓碑は湯浅五助隆貞のもの。
『(主君・大谷吉継の)首を敵に渡さじ』と山中を駆けて埋めた説が伝わるが、一説により建てられた大谷吉継の首塚が滋賀県米原市の米原駅西口付近にある。
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5/3 11:02
大谷吉継(吉隆とも伝わる)墓所。大谷吉継の五輪塔の隣に立つ墓碑は湯浅五助隆貞のもの。
『(主君・大谷吉継の)首を敵に渡さじ』と山中を駆けて埋めた説が伝わるが、一説により建てられた大谷吉継の首塚が滋賀県米原市の米原駅西口付近にある。
大谷吉継墓の案内板。
隣に立つ墓碑の主・湯浅五助は藤川台で自刃した主君・大谷吉継の首を戦場を離れた所に隠し、直後に出くわした藤堂高刑に「主君の首の在処を秘して欲しい」と首を差し出した。高刑はその約束を守り、徳川家康の詰問にも答えなかったという。
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5/3 11:01
大谷吉継墓の案内板。
隣に立つ墓碑の主・湯浅五助は藤川台で自刃した主君・大谷吉継の首を戦場を離れた所に隠し、直後に出くわした藤堂高刑に「主君の首の在処を秘して欲しい」と首を差し出した。高刑はその約束を守り、徳川家康の詰問にも答えなかったという。
大谷吉継顕彰碑。
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5/3 11:03
大谷吉継顕彰碑。
大谷吉継顕彰碑前。
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5/3 11:04
大谷吉継顕彰碑前。
大谷吉継顕彰碑の案内板。
大谷吉継は石田三成の挙兵を諌めたが聞き入れられず、意を決し毛利家と共謀・連合し西軍に与して奮戦したが、小早川らの裏切りに遭い自刃。
主君・豊臣秀吉への恩に報い、共に秀吉に仕えた石田三成への義に殉じた大谷吉継は、まさに武士道の模範である、と讃えられた。
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5/3 11:03
大谷吉継顕彰碑の案内板。
大谷吉継は石田三成の挙兵を諌めたが聞き入れられず、意を決し毛利家と共謀・連合し西軍に与して奮戦したが、小早川らの裏切りに遭い自刃。
主君・豊臣秀吉への恩に報い、共に秀吉に仕えた石田三成への義に殉じた大谷吉継は、まさに武士道の模範である、と讃えられた。
大谷吉継顕彰碑と大谷吉継墓。
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5/3 11:06
大谷吉継顕彰碑と大谷吉継墓。
藤川台に到着。
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5/3 11:15
藤川台に到着。
藤川台の案内板。
ここに大谷・戸田・平塚隊が布陣し、藤堂・京極・小早川・脇坂隊を迎え撃った。空堀が縦横に連なった陣の構築跡が見られるそうだが、探す暇なく広域農道を渡る。
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5/3 11:15
藤川台の案内板。
ここに大谷・戸田・平塚隊が布陣し、藤堂・京極・小早川・脇坂隊を迎え撃った。空堀が縦横に連なった陣の構築跡が見られるそうだが、探す暇なく広域農道を渡る。
平塚為広碑に到着。
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5/3 11:14
平塚為広碑に到着。
平塚為広碑の案内板。
平塚為広は岐阜・垂井城主。盟友・大谷吉継の配下として北陸戦線の転戦の後、戸田勝成と共に約六百の兵を連れて藤川台に布陣。藤堂・京極隊を迎え撃ったが、正午12時、小早川隊らの裏切りにより支えきれず、吉継に辞世の句を送り討死。
『名の為に 賭する命は惜しからむ 終に留まらぬ 浮世と思えば』
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5/3 11:14
平塚為広碑の案内板。
平塚為広は岐阜・垂井城主。盟友・大谷吉継の配下として北陸戦線の転戦の後、戸田勝成と共に約六百の兵を連れて藤川台に布陣。藤堂・京極隊を迎え撃ったが、正午12時、小早川隊らの裏切りにより支えきれず、吉継に辞世の句を送り討死。
『名の為に 賭する命は惜しからむ 終に留まらぬ 浮世と思えば』
藤古川ダム前の橋を通る。
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藤古川ダム前の橋を通る。
藤古川ダム前の橋の欄干より。
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藤古川ダム前の橋の欄干より。
藤古川。
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藤古川。
藤古川ダム。
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藤古川ダム。
藤(古)川の名前の通り、藤の花が咲いている。
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藤(古)川の名前の通り、藤の花が咲いている。
宇喜多秀家陣跡に向かう。
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宇喜多秀家陣跡に向かう。
南天満山・天満神社が見える。
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南天満山・天満神社が見える。
宇喜多秀家陣跡の案内板。
徳川の会津征伐に対して出陣し大垣城に駐軍。夜半に軍を進めて追いついてきた東軍・福島正則隊と小競り合いをしながらも、午前5時に南天満山に布陣。西軍最大の1万7千の兵を率いて午前8時、井伊直政・松平忠吉・福島ら東軍の先駆けを迎え撃ち、開戦の火蓋が切って落とされた。
正午12時の小早川軍の裏切りによって、衆寡敵せず大谷らの隊は全滅。西軍に動揺が広がり抑えきれなくなった宇喜多隊は潰走。山々へと逃げ落ち島津家に匿われるが、徳川幕府に追及された島津は秀家を差し出す。島津家当主・島津忠恒と正妻の生家・前田家当主の前田利長の懇願によって死罪は免れたが、八丈島への流罪となった。
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5/3 11:23
宇喜多秀家陣跡の案内板。
徳川の会津征伐に対して出陣し大垣城に駐軍。夜半に軍を進めて追いついてきた東軍・福島正則隊と小競り合いをしながらも、午前5時に南天満山に布陣。西軍最大の1万7千の兵を率いて午前8時、井伊直政・松平忠吉・福島ら東軍の先駆けを迎え撃ち、開戦の火蓋が切って落とされた。
正午12時の小早川軍の裏切りによって、衆寡敵せず大谷らの隊は全滅。西軍に動揺が広がり抑えきれなくなった宇喜多隊は潰走。山々へと逃げ落ち島津家に匿われるが、徳川幕府に追及された島津は秀家を差し出す。島津家当主・島津忠恒と正妻の生家・前田家当主の前田利長の懇願によって死罪は免れたが、八丈島への流罪となった。
天満神社。
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5/3 11:23
天満神社。
宇喜多秀家陣跡と天満神社社殿。天満神社に土と静寂を荒らす事をお詫びし柏手を打った。
社殿と狛犬しか残っていないのは、関ヶ原の戦火を免られなかった為か。
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5/3 11:24
宇喜多秀家陣跡と天満神社社殿。天満神社に土と静寂を荒らす事をお詫びし柏手を打った。
社殿と狛犬しか残っていないのは、関ヶ原の戦火を免られなかった為か。
宇喜多秀家陣跡。
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5/3 11:24
宇喜多秀家陣跡。
天満神社を後にする。
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5/3 11:25
天満神社を後にする。
天満神社石碑。
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5/3 11:27
天満神社石碑。
天満神社の案内板。
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5/3 11:27
天満神社の案内板。
笹尾山方面を見る。
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5/3 11:28
笹尾山方面を見る。
宇喜多秀家が交通安全の標識のキャラクターにされていた。目つきが怖いが旅の無事を祈っての事と思いたい。
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5/3 11:28
宇喜多秀家が交通安全の標識のキャラクターにされていた。目つきが怖いが旅の無事を祈っての事と思いたい。
笹尾山・池田山方面。
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5/3 11:31
笹尾山・池田山方面。
関ヶ原古戦場開戦地公園に出た。躑躅(ツツジ)が咲いている。
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5/3 11:33
関ヶ原古戦場開戦地公園に出た。躑躅(ツツジ)が咲いている。
藤の花が咲いている。
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5/3 11:33
藤の花が咲いている。
関ヶ原古戦場開戦地の公園のトイレ。
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5/3 11:35
関ヶ原古戦場開戦地の公園のトイレ。
小西行長陣跡に到着。
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5/3 11:37
小西行長陣跡に到着。
小西行長陣跡の碑文。
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5/3 11:37
小西行長陣跡の碑文。
小西行長陣跡の案内板。
肥後半国の所領を持ち宇土城にて当地を治める小西行長は、同じ肥後半国に所領を持つ加藤清正と政治的対立を深め、それは朝鮮出兵にまで及び、豊臣家の文治派・武断派の二分化を引き起こしたとも言われている。
小西行長は同じ文治派であった石田三成らの挙兵に呼応し、夜明けまでに軍を進めて東山道(中山道)と北国街道に面する北天満山に布陣。午前8時に宇喜多・東軍先鋒の激突を見て開戦の烽火を上げると、寺沢・戸川らと戦ったが攻め込まれ切り崩されてしまう。正午12時の小早川軍の裏切りに遭った西軍が総崩れとなると、キリシタン大名であった行長は切腹出来ず、春日・揖斐川を目指して敗走の後、関ヶ原の住職を介して自首、関ヶ原を治める竹中重門の家臣の手によって捕縛され、京都・六条河原で斬首される。経文を置かれることを拒絶し、キリストとマリアのイコンを掲げて三度頭上に置いた後、首を打たれたと伝わる。
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5/3 11:37
小西行長陣跡の案内板。
肥後半国の所領を持ち宇土城にて当地を治める小西行長は、同じ肥後半国に所領を持つ加藤清正と政治的対立を深め、それは朝鮮出兵にまで及び、豊臣家の文治派・武断派の二分化を引き起こしたとも言われている。
小西行長は同じ文治派であった石田三成らの挙兵に呼応し、夜明けまでに軍を進めて東山道(中山道)と北国街道に面する北天満山に布陣。午前8時に宇喜多・東軍先鋒の激突を見て開戦の烽火を上げると、寺沢・戸川らと戦ったが攻め込まれ切り崩されてしまう。正午12時の小早川軍の裏切りに遭った西軍が総崩れとなると、キリシタン大名であった行長は切腹出来ず、春日・揖斐川を目指して敗走の後、関ヶ原の住職を介して自首、関ヶ原を治める竹中重門の家臣の手によって捕縛され、京都・六条河原で斬首される。経文を置かれることを拒絶し、キリストとマリアのイコンを掲げて三度頭上に置いた後、首を打たれたと伝わる。
小西行長陣跡の史跡案内板。
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5/3 11:38
小西行長陣跡の史跡案内板。
史跡案内板と景色。
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5/3 11:38
史跡案内板と景色。
関ヶ原古戦場開戦地の史跡案内板。
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5/3 11:41
関ヶ原古戦場開戦地の史跡案内板。
史跡案内板と景色。
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5/3 11:41
史跡案内板と景色。
関ヶ原古戦場開戦地の石碑。
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5/3 11:41
関ヶ原古戦場開戦地の石碑。
関ヶ原古戦場開戦地。この地に布陣した宇喜多・小西の幟が立つ。
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5/3 11:41
関ヶ原古戦場開戦地。この地に布陣した宇喜多・小西の幟が立つ。
笹尾山方面へ向かう。
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5/3 11:43
笹尾山方面へ向かう。
新緑が眩しい。
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5/3 11:43
新緑が眩しい。
島津義弘(維新斎)陣跡に到着。
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5/3 11:44
島津義弘(維新斎)陣跡に到着。
島津義弘陣跡。
慶長5年(1600年)、徳川が会津征伐の軍を起こし島津義弘は徳川から援軍要請を受け、徳川家臣・鳥居元忠が籠城する伏見城へ馳せ参じた。しかし元忠から入城を拒否された為、周囲に西軍がいる中孤立した義弘は西軍に与する事を決意した…とあるが、これは幕藩体制後の記録。
2007・16年の研究によると、『徳川の会津征伐の動きに合わせて毛利・石田らの秀頼様御為に上杉に味方する事、それに私も加わる。仔細は石田より連絡ありと存ずる(意訳)』という書状を送っており、元から西軍に与していたようだ。
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5/3 11:46
島津義弘陣跡。
慶長5年(1600年)、徳川が会津征伐の軍を起こし島津義弘は徳川から援軍要請を受け、徳川家臣・鳥居元忠が籠城する伏見城へ馳せ参じた。しかし元忠から入城を拒否された為、周囲に西軍がいる中孤立した義弘は西軍に与する事を決意した…とあるが、これは幕藩体制後の記録。
2007・16年の研究によると、『徳川の会津征伐の動きに合わせて毛利・石田らの秀頼様御為に上杉に味方する事、それに私も加わる。仔細は石田より連絡ありと存ずる(意訳)』という書状を送っており、元から西軍に与していたようだ。
島津義弘陣跡の案内板。
鳥居元忠が守る伏見城攻めから討死・負傷者を出し国許からの援軍を募りながら関ヶ原に合流するも、兵3000余とわずかな手勢であった(一説)。三成からの援軍要請の使者である家臣・八十島助左衛門が下馬しなかった無礼に怒って追い返し、戦意喪失。その後三成自身が説得に来るも応じなかった。
小早川らの裏切りにより戦局が一変、西軍諸将らは次々と敗走していく。孤立した島津隊は大胆にも、東軍諸将らが群がる正面を突破し、伊勢街道を南へ抜ける退路を採った。これが後にいう『島津の退き口』となった。
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5/3 11:45
島津義弘陣跡の案内板。
鳥居元忠が守る伏見城攻めから討死・負傷者を出し国許からの援軍を募りながら関ヶ原に合流するも、兵3000余とわずかな手勢であった(一説)。三成からの援軍要請の使者である家臣・八十島助左衛門が下馬しなかった無礼に怒って追い返し、戦意喪失。その後三成自身が説得に来るも応じなかった。
小早川らの裏切りにより戦局が一変、西軍諸将らは次々と敗走していく。孤立した島津隊は大胆にも、東軍諸将らが群がる正面を突破し、伊勢街道を南へ抜ける退路を採った。これが後にいう『島津の退き口』となった。
島津義弘陣跡の案内板その2。
東軍が群がる正面を突破し伊勢街道を南へ抜ける退路を採った島津義弘らは、福島隊を突破し島津豊久は福島正之と激戦を繰り広げた。井伊・本多・松平隊らが追撃するも、島津隊の捨て奸と呼ばれる殿軍部隊を配置し続ける壮絶な撤退戦法を採択した。
その結果、豊久・長寿院盛淳ら数多の将兵が犠牲となり、重傷を負った井伊直政、松平忠吉は負傷した事により、東軍の追撃隊の手が緩んだ事、家康からの追撃中止令が出された事もあり、島津義弘ら80数名はかろうじて敵中突破に成功、帰国した。
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5/3 11:45
島津義弘陣跡の案内板その2。
東軍が群がる正面を突破し伊勢街道を南へ抜ける退路を採った島津義弘らは、福島隊を突破し島津豊久は福島正之と激戦を繰り広げた。井伊・本多・松平隊らが追撃するも、島津隊の捨て奸と呼ばれる殿軍部隊を配置し続ける壮絶な撤退戦法を採択した。
その結果、豊久・長寿院盛淳ら数多の将兵が犠牲となり、重傷を負った井伊直政、松平忠吉は負傷した事により、東軍の追撃隊の手が緩んだ事、家康からの追撃中止令が出された事もあり、島津義弘ら80数名はかろうじて敵中突破に成功、帰国した。
笹尾山・関ヶ原古戦場決戦地へ。
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5/3 11:49
笹尾山・関ヶ原古戦場決戦地へ。
関ヶ原古戦場決戦地に立つ幟と垂井の山々の緑が映える。
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5/3 11:49
関ヶ原古戦場決戦地に立つ幟と垂井の山々の緑が映える。
笹尾山・石田三成・島左近陣跡に到着。
近くに駐車場があり簡単に登れる小山で景色が良い事からも、当然の人気だろう。
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5/3 11:50
笹尾山・石田三成・島左近陣跡に到着。
近くに駐車場があり簡単に登れる小山で景色が良い事からも、当然の人気だろう。
笹尾山と水田。
ちょうど田に水が引かれた時期だった。
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5/3 11:50
笹尾山と水田。
ちょうど田に水が引かれた時期だった。
関ヶ原古戦場決戦地と水田。
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5/3 11:50
関ヶ原古戦場決戦地と水田。
笹尾山を登る。復元された馬防柵が並べられており雰囲気が良い。
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5/3 11:52
笹尾山を登る。復元された馬防柵が並べられており雰囲気が良い。
石田三成陣跡の案内板。
豊臣秀吉の逝去により徳川の台頭と豊臣家存亡を危惧した三成は決起を決意。大谷の諫言を下げ大谷と毛利家の助力を得た三成は、豊臣家恩顧の武家達と共に関ヶ原に布陣し徳川軍を迎え撃った。ここ笹尾山は関ヶ原盆地を一望でき、伝令を出しやすい。
開戦の午前8時頃、島左近の獅子奮迅の武働きにより黒田・細川隊を何度も押し返すが、黒田隊の銃撃により島左近が負傷、徐々に押し込まれる。善戦していた西軍は一部の軍のみだった。島津隊は三成の度重なる参戦要請を拒否。午前11時ごろに総攻撃の烽火を上げるが、毛利・小早川軍は山から動かない。
正午12時ごろ、突如小早川軍が裏切り突撃。藤川台に陣取った大谷・平塚隊が全滅。宇喜多・小西隊が次々と潰走し、石田隊は踏み留まるもの午後2時ごろには壊滅。再起を誓い、故郷と佐和山を目指して伊吹山へと駆けたのであった。
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5/3 11:52
石田三成陣跡の案内板。
豊臣秀吉の逝去により徳川の台頭と豊臣家存亡を危惧した三成は決起を決意。大谷の諫言を下げ大谷と毛利家の助力を得た三成は、豊臣家恩顧の武家達と共に関ヶ原に布陣し徳川軍を迎え撃った。ここ笹尾山は関ヶ原盆地を一望でき、伝令を出しやすい。
開戦の午前8時頃、島左近の獅子奮迅の武働きにより黒田・細川隊を何度も押し返すが、黒田隊の銃撃により島左近が負傷、徐々に押し込まれる。善戦していた西軍は一部の軍のみだった。島津隊は三成の度重なる参戦要請を拒否。午前11時ごろに総攻撃の烽火を上げるが、毛利・小早川軍は山から動かない。
正午12時ごろ、突如小早川軍が裏切り突撃。藤川台に陣取った大谷・平塚隊が全滅。宇喜多・小西隊が次々と潰走し、石田隊は踏み留まるもの午後2時ごろには壊滅。再起を誓い、故郷と佐和山を目指して伊吹山へと駆けたのであった。
石田三成陣跡に到着。
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5/3 11:54
石田三成陣跡に到着。
明治期の皇太子殿下(大正天皇)がここに御野立、つまり休憩なされたようだ。
大正天皇がここに来られたのだから、ここに人が集まるのも頷けるかと。
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5/3 11:55
明治期の皇太子殿下(大正天皇)がここに御野立、つまり休憩なされたようだ。
大正天皇がここに来られたのだから、ここに人が集まるのも頷けるかと。
笹尾山の眺望台。
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5/3 11:56
笹尾山の眺望台。
笹尾山から関ヶ原。
「大一大万大吉」とは石田三成の旗印であり、意味は「一人が皆の為、皆が一人に尽くせば、世の中は天下泰平となる」。
主君であり父のような存在であった豊臣秀吉の為に、同郷出身・同僚であり友であった大谷吉継、俸禄の半分を与えるほどの信頼を寄せた島左近と共に関ヶ原に望んだ石田三成。だが幼少期の人質や三方原の敗戦を経験し、織田信長・豊臣秀吉と共に戦乱の世を歩んできた徳川家康には、それらを凌ぐ膨大な縁が力となって勝利へと導いた。石田三成では、徳川家康には遠く及ばなかった。
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5/3 11:56
笹尾山から関ヶ原。
「大一大万大吉」とは石田三成の旗印であり、意味は「一人が皆の為、皆が一人に尽くせば、世の中は天下泰平となる」。
主君であり父のような存在であった豊臣秀吉の為に、同郷出身・同僚であり友であった大谷吉継、俸禄の半分を与えるほどの信頼を寄せた島左近と共に関ヶ原に望んだ石田三成。だが幼少期の人質や三方原の敗戦を経験し、織田信長・豊臣秀吉と共に戦乱の世を歩んできた徳川家康には、それらを凌ぐ膨大な縁が力となって勝利へと導いた。石田三成では、徳川家康には遠く及ばなかった。
笹尾山の関ヶ原古戦場史跡位置図。
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5/3 11:56
笹尾山の関ヶ原古戦場史跡位置図。
笹尾山の史跡位置図と景色。
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5/3 11:57
笹尾山の史跡位置図と景色。
笹尾山の景色全景。
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5/3 11:57
笹尾山の景色全景。
ここにも馬防柵の復元が。
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5/3 11:59
ここにも馬防柵の復元が。
島左近陣地に到着。
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5/3 12:00
島左近陣地に到着。
島左近陣地の案内板。
『三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と佐和山の城』と評されるほどの智将であり、三成は自らの俸禄の半分を与えたと伝わる。
関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の合戦では東軍の中村一栄軍に勝利。関ヶ原の合戦では攻め寄せる黒田・細川隊を押し返す戦働きを見せたが、黒田家家臣・菅正利の射撃により負傷し、討死したか逃げおおせたとも言われている。これにより石田隊は徐々に押し込まれていった。
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5/3 12:01
島左近陣地の案内板。
『三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と佐和山の城』と評されるほどの智将であり、三成は自らの俸禄の半分を与えたと伝わる。
関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の合戦では東軍の中村一栄軍に勝利。関ヶ原の合戦では攻め寄せる黒田・細川隊を押し返す戦働きを見せたが、黒田家家臣・菅正利の射撃により負傷し、討死したか逃げおおせたとも言われている。これにより石田隊は徐々に押し込まれていった。
関ヶ原合戦のあらまし。大まかな経緯が記されている。
関ヶ原合戦についてはたくさんの脚本が書かれていますが、ご自身の信じたいものを信じるのも一興だと自分は考えます。
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5/3 12:01
関ヶ原合戦のあらまし。大まかな経緯が記されている。
関ヶ原合戦についてはたくさんの脚本が書かれていますが、ご自身の信じたいものを信じるのも一興だと自分は考えます。
関ヶ原古戦場史跡案内図。
松尾山・南宮山もありあまりに広いので一日で回りきるのは難しい…
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5/3 12:02
関ヶ原古戦場史跡案内図。
松尾山・南宮山もありあまりに広いので一日で回りきるのは難しい…
笹尾山交流館への道に幟が並び立っている。
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5/3 12:02
笹尾山交流館への道に幟が並び立っている。
南宮山と関ヶ原古戦場決戦地と水田。
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5/3 12:03
南宮山と関ヶ原古戦場決戦地と水田。
笹尾山交流館。二本角の兜を模ったモニュメント?が建っている。
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5/3 12:04
笹尾山交流館。二本角の兜を模ったモニュメント?が建っている。
笹尾山交流館前の公衆トイレ。
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5/3 12:04
笹尾山交流館前の公衆トイレ。
関ヶ原古戦場決戦地に到着。風が強かったがここで休憩する。
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5/3 12:06
関ヶ原古戦場決戦地に到着。風が強かったがここで休憩する。
関ヶ原古戦場決戦地から笹尾山と水田。
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5/3 12:06
関ヶ原古戦場決戦地から笹尾山と水田。
笹尾山交流館も入れた景色。
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5/3 12:24
笹尾山交流館も入れた景色。
関ヶ原古戦場決戦地の案内板。
午前8時ごろ開戦。石田隊は攻め寄せる黒田・細川隊を押し返す。動かない島津隊には幾度も参戦要請するも拒否。午前11時ごろ総攻撃の烽火をかけるも南宮山の毛利軍・松尾山の小早川軍は動かず。最初に桃配山に布陣した家康は、内通していたが動こうとしない小早川軍に痺れを切らして銃撃して促す。
正午12時に小早川軍が裏切りの動きを見せて趨勢は決した。西軍は防戦虚しく次々と潰走、東軍諸将らは笹尾山に陣取る石田隊を攻撃。午後2時ごろにはついに潰走し、国の大大名らを二分する規模の合戦はわずか半日で終わった。
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5/3 12:06
関ヶ原古戦場決戦地の案内板。
午前8時ごろ開戦。石田隊は攻め寄せる黒田・細川隊を押し返す。動かない島津隊には幾度も参戦要請するも拒否。午前11時ごろ総攻撃の烽火をかけるも南宮山の毛利軍・松尾山の小早川軍は動かず。最初に桃配山に布陣した家康は、内通していたが動こうとしない小早川軍に痺れを切らして銃撃して促す。
正午12時に小早川軍が裏切りの動きを見せて趨勢は決した。西軍は防戦虚しく次々と潰走、東軍諸将らは笹尾山に陣取る石田隊を攻撃。午後2時ごろにはついに潰走し、国の大大名らを二分する規模の合戦はわずか半日で終わった。
ごみ収集場にも家紋があった。
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5/3 12:32
ごみ収集場にも家紋があった。
関ヶ原古戦場・徳川家康最後陣地に到着。
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5/3 12:38
関ヶ原古戦場・徳川家康最後陣地に到着。
徳川家康最後陣地の石碑と徳川家康公の旗印・厭離穢土欣求浄土の幟が立つ。
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5/3 12:38
徳川家康最後陣地の石碑と徳川家康公の旗印・厭離穢土欣求浄土の幟が立つ。
厭離穢土欣求浄土とは、現実の世の中は穢れた世界であるからこの世界を厭い離れて、来世には清浄な仏の国土に生まれることを願い求めるという意味。
徳川家康公は三方ヶ原の敗戦から、大樹寺登誉天室に厭離穢土欣求浄土の教えを諭されて以後、戦国の世を穢土、平和な世を浄土として旗印と定めた。
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5/3 12:34
厭離穢土欣求浄土とは、現実の世の中は穢れた世界であるからこの世界を厭い離れて、来世には清浄な仏の国土に生まれることを願い求めるという意味。
徳川家康公は三方ヶ原の敗戦から、大樹寺登誉天室に厭離穢土欣求浄土の教えを諭されて以後、戦国の世を穢土、平和な世を浄土として旗印と定めた。
徳川家康最後陣地。周辺に小さな土塁が広がる。
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5/3 12:34
徳川家康最後陣地。周辺に小さな土塁が広がる。
徳川家康最後陣地の碑文。
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5/3 12:34
徳川家康最後陣地の碑文。
床几場の案内板。
徳川家康公はここで床几に腰掛け、戦後の論功行賞の判断材料とするため味方が獲った首級を自ら首実検し、東西に首塚を造らせて敵の首級や遺骸を葬らせた。
土壇と土塁と松はおよそ240年後、幕府より命を受けた竹中家により造られたとある。
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5/3 12:34
床几場の案内板。
徳川家康公はここで床几に腰掛け、戦後の論功行賞の判断材料とするため味方が獲った首級を自ら首実検し、東西に首塚を造らせて敵の首級や遺骸を葬らせた。
土壇と土塁と松はおよそ240年後、幕府より命を受けた竹中家により造られたとある。
岐阜関ヶ原古戦場記念館と新緑。
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5/3 12:35
岐阜関ヶ原古戦場記念館と新緑。
岐阜関ヶ原古戦場記念館には小早川・島津・大谷の家紋が描かれていた。
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5/3 12:35
岐阜関ヶ原古戦場記念館には小早川・島津・大谷の家紋が描かれていた。
徳川家康公の幟と関ヶ原古戦場記念館。
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5/3 12:40
徳川家康公の幟と関ヶ原古戦場記念館。
徳川家康最後陣地の幟。
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5/3 12:40
徳川家康最後陣地の幟。
徳川家康最後陣地の案内板。
午前6時に壬申の乱の大海人皇子の故事に倣い桃配山に布陣した家康は、霧が深かった関ヶ原の戦況が把握できず、午前11時ごろに笹尾山より数百メートルのこの位置に陣を敷き直す。東軍に寝返ると内通した小早川に業を煮やした家康は、小早川軍の方向に銃撃し催促する。正午12時ごろに小早川軍が裏切りの動きを見せ、大谷・平塚隊は全滅、宇喜多・小西隊は敗走し、奮戦する石田隊を押し切り午後2時ごろには西軍は総崩れとなった。
最後まで戦場に残っていた島津軍は撤退戦を決行。徳川本陣を掠めるかのように伊勢街道へ南進し、井伊・本多・松平ら追撃隊を出すも重度の負傷者を出すほどの被害を被った。この事は想定外だったのだろうか、追撃中止令を出さざるを得ない程だった。
翌日以後、この地で床几場を立てて戦後処理をし、東西に首塚を造らせて敵の首級や亡骸を葬らせた。関ヶ原の西軍の布陣は完璧とも呼べるほどだったが、南宮山の毛利軍を沈黙させ、松尾山の小早川軍を寝返らせた、徳川家康公の政略手腕による大勝と言えるだろう。
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5/3 12:40
徳川家康最後陣地の案内板。
午前6時に壬申の乱の大海人皇子の故事に倣い桃配山に布陣した家康は、霧が深かった関ヶ原の戦況が把握できず、午前11時ごろに笹尾山より数百メートルのこの位置に陣を敷き直す。東軍に寝返ると内通した小早川に業を煮やした家康は、小早川軍の方向に銃撃し催促する。正午12時ごろに小早川軍が裏切りの動きを見せ、大谷・平塚隊は全滅、宇喜多・小西隊は敗走し、奮戦する石田隊を押し切り午後2時ごろには西軍は総崩れとなった。
最後まで戦場に残っていた島津軍は撤退戦を決行。徳川本陣を掠めるかのように伊勢街道へ南進し、井伊・本多・松平ら追撃隊を出すも重度の負傷者を出すほどの被害を被った。この事は想定外だったのだろうか、追撃中止令を出さざるを得ない程だった。
翌日以後、この地で床几場を立てて戦後処理をし、東西に首塚を造らせて敵の首級や亡骸を葬らせた。関ヶ原の西軍の布陣は完璧とも呼べるほどだったが、南宮山の毛利軍を沈黙させ、松尾山の小早川軍を寝返らせた、徳川家康公の政略手腕による大勝と言えるだろう。
徳川家康最後陣地と笹尾山方面。
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5/3 12:43
徳川家康最後陣地と笹尾山方面。
岐阜関ヶ原古戦場記念館には幟が並び立っていた。
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5/3 12:43
岐阜関ヶ原古戦場記念館には幟が並び立っていた。
徳川家の葵の御旗を中心に📸
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5/3 12:43
徳川家の葵の御旗を中心に📸
田中吉政陣跡に立ち寄る。
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5/3 12:41
田中吉政陣跡に立ち寄る。
田中吉政陣跡の案内板。
田中吉政は黒田・細川隊と共に石田隊を攻撃し壊滅させている。
関ヶ原合戦後、石田三成捜索令を拝命していた田中吉政は、古橋村(滋賀県長浜市)の洞窟に潜む石田三成を捕縛する。同じ近江国出身で親しい仲であった石田三成を韮粥を与えるなどして丁重に遇したといい、三成はその恩に報いて豊臣秀吉より拝領した脇差『切刃貞宗』を差し出したと言う。
後に田中吉政は、石田三成を捕縛した大功により柳川(福岡県柳川市)に所領安堵。後に立花宗茂が旧領回復を成し遂げるまで、柳川の町の発展に尽力した。
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5/3 12:41
田中吉政陣跡の案内板。
田中吉政は黒田・細川隊と共に石田隊を攻撃し壊滅させている。
関ヶ原合戦後、石田三成捜索令を拝命していた田中吉政は、古橋村(滋賀県長浜市)の洞窟に潜む石田三成を捕縛する。同じ近江国出身で親しい仲であった石田三成を韮粥を与えるなどして丁重に遇したといい、三成はその恩に報いて豊臣秀吉より拝領した脇差『切刃貞宗』を差し出したと言う。
後に田中吉政は、石田三成を捕縛した大功により柳川(福岡県柳川市)に所領安堵。後に立花宗茂が旧領回復を成し遂げるまで、柳川の町の発展に尽力した。
消防栓に井伊直政の家紋があった。消防栓の赤と井伊の赤備をかけてのものだろうか。
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5/3 12:42
消防栓に井伊直政の家紋があった。消防栓の赤と井伊の赤備をかけてのものだろうか。
井伊直政・松平忠吉陣跡のある東首塚に到着。
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5/3 12:47
井伊直政・松平忠吉陣跡のある東首塚に到着。
東首塚敷地。玉垣に囲まれたスダジイの古木がそびえ立っている。
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5/3 12:49
東首塚敷地。玉垣に囲まれたスダジイの古木がそびえ立っている。
東首塚の石碑と首級墳碑。
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5/3 12:49
東首塚の石碑と首級墳碑。
首級墳碑の案内板。
関ヶ原合戦より約210年後の文化14年(1817年)、関ヶ原合戦が風化していくのを恐れた、関ヶ原宿本陣の主・古山兵四郎により建てられたものと伝わる。
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5/3 12:50
首級墳碑の案内板。
関ヶ原合戦より約210年後の文化14年(1817年)、関ヶ原合戦が風化していくのを恐れた、関ヶ原宿本陣の主・古山兵四郎により建てられたものと伝わる。
東首塚の案内板。
関ヶ原合戦の翌日、戦に勝った家康は破壊された神社や戦場に残るおびただしい数の亡骸を葬らせた。関ヶ原一帯を領していた竹中重門はその命を拝命し、東西に首塚を造らせて葬らせた。当時の墳墓は風化のためか姿形を留めておらず、スダジイの古木が残るのみであったという。
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5/3 12:50
東首塚の案内板。
関ヶ原合戦の翌日、戦に勝った家康は破壊された神社や戦場に残るおびただしい数の亡骸を葬らせた。関ヶ原一帯を領していた竹中重門はその命を拝命し、東西に首塚を造らせて葬らせた。当時の墳墓は風化のためか姿形を留めておらず、スダジイの古木が残るのみであったという。
井伊直政・松平忠吉陣跡の石碑。
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5/3 12:51
井伊直政・松平忠吉陣跡の石碑。
井伊直政・松平忠吉陣跡の案内板。
徳川家康四男で舅に井伊直政を持つ松平忠吉はこの合戦が初陣となり、後見役に井伊直政が就く。
真田昌幸・幸村(信繁とも)の妨害を受け未だ中山道の途にいた徳川秀忠は間に合わず、先鋒は福島正則が務める事となっていたが、福島は豊臣恩顧の将であり徳川の将が先鋒を取る重要性を感じた直政は忠吉と共に抜け駆けを決行。福島隊の脇を進む。
福島隊の可児才蔵に咎められるが、初陣の忠吉に見聞を広めてもらう為と弁明した直政は、そのまま進んで南天満山の宇喜多隊に銃撃し、福島隊もそれに続いて午前8時、開戦の火蓋が切られた。
午後2時ごろに総崩れとなった西軍から島津軍が突撃してくる。徳川本陣の前を掠めて伊勢街道へと逃走する島津軍へと追撃に出るが、島津軍の捨て奸により直政は重傷・忠吉は負傷し、二人はこの戦傷がもとで亡くなったと伝わる。
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5/3 12:50
井伊直政・松平忠吉陣跡の案内板。
徳川家康四男で舅に井伊直政を持つ松平忠吉はこの合戦が初陣となり、後見役に井伊直政が就く。
真田昌幸・幸村(信繁とも)の妨害を受け未だ中山道の途にいた徳川秀忠は間に合わず、先鋒は福島正則が務める事となっていたが、福島は豊臣恩顧の将であり徳川の将が先鋒を取る重要性を感じた直政は忠吉と共に抜け駆けを決行。福島隊の脇を進む。
福島隊の可児才蔵に咎められるが、初陣の忠吉に見聞を広めてもらう為と弁明した直政は、そのまま進んで南天満山の宇喜多隊に銃撃し、福島隊もそれに続いて午前8時、開戦の火蓋が切られた。
午後2時ごろに総崩れとなった西軍から島津軍が突撃してくる。徳川本陣の前を掠めて伊勢街道へと逃走する島津軍へと追撃に出るが、島津軍の捨て奸により直政は重傷・忠吉は負傷し、二人はこの戦傷がもとで亡くなったと伝わる。
関ヶ原古戦橋へ。
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5/3 12:51
関ヶ原古戦橋へ。
関ヶ原記念館と山々。
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5/3 12:52
関ヶ原記念館と山々。
関ヶ原古戦橋より南宮山。
計画段階で南宮山登山は無理と知っていたので今回はおあずけ…体力的にも厳しいが。
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5/3 12:53
関ヶ原古戦橋より南宮山。
計画段階で南宮山登山は無理と知っていたので今回はおあずけ…体力的にも厳しいが。
JR関ヶ原駅-関ヶ原古戦橋の関ヶ原の合戦の案内板。
以下コメントは控えます。
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5/3 12:54
JR関ヶ原駅-関ヶ原古戦橋の関ヶ原の合戦の案内板。
以下コメントは控えます。
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5/3 12:57
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5/3 12:57
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5/3 12:57
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5/3 12:54
本多忠勝陣跡に到着。
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5/3 13:05
本多忠勝陣跡に到着。
本多忠勝陣跡の石碑と幟。
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5/3 13:05
本多忠勝陣跡の石碑と幟。
本多忠勝陣跡の案内板。
徳川家康直属部隊・関ヶ原の合戦の軍監を務めた忠勝は、午前6時、約5百の兵を従えて伊勢街道を抑え、南宮山の毛利軍を牽制するこの地に布陣し、豊臣恩顧の将であり先鋒を務める福島正則隊、桃配山の徳川家康本隊の間にあって静観していた。
南宮山の毛利軍は動かないと見るや、午前11時の徳川本隊の前進に合わせて自らも陣を進める。午後2時ごろには伊勢街道へと敵中突破する島津軍を追撃するが、島津からの銃撃を受けて愛馬・三国黒が倒れ伏し、同じ追撃隊の井伊直政は重傷・松平忠吉は負傷を負うこととなった。
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5/3 13:05
本多忠勝陣跡の案内板。
徳川家康直属部隊・関ヶ原の合戦の軍監を務めた忠勝は、午前6時、約5百の兵を従えて伊勢街道を抑え、南宮山の毛利軍を牽制するこの地に布陣し、豊臣恩顧の将であり先鋒を務める福島正則隊、桃配山の徳川家康本隊の間にあって静観していた。
南宮山の毛利軍は動かないと見るや、午前11時の徳川本隊の前進に合わせて自らも陣を進める。午後2時ごろには伊勢街道へと敵中突破する島津軍を追撃するが、島津からの銃撃を受けて愛馬・三国黒が倒れ伏し、同じ追撃隊の井伊直政は重傷・松平忠吉は負傷を負うこととなった。
烏頭坂に到着。島津家の丸に十字と十字紋の幟が並び立つ。
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5/3 13:23
烏頭坂に到着。島津家の丸に十字と十字紋の幟が並び立つ。
島津豊久墓の道標と丸に十字紋。
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5/3 13:23
島津豊久墓の道標と丸に十字紋。
島津の家紋と新緑。
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5/3 13:24
島津の家紋と新緑。
烏頭坂より。
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5/3 13:25
烏頭坂より。
烏頭坂の案内板。
乱戦で伯父の島津義弘を一度見失った島津豊久は涙ながらに探し出し、切腹する覚悟をした義弘に豊久は「島津家の存在は義弘公にかかっている。義弘公こそ生き残らねばならない。天運既に窮まる。戦うというも負けは明らかなり。義弘公は薩摩に帰られよ。国家の存亡は公の一身にかかれり」と述べ、撤退を促した。のちの島津の退き口。
豊久は撤退戦の殿軍を務めるが、井伊・松平・本多らの追撃は激しい。銃撃が当たらないよう坐禅陣を組み、井伊隊を一度銃撃し乱戦。ここで討死したか、義弘を追いかけ瑠璃光寺辺りで住職や村人らの介抱を受けた後亡くなったとも伝わる。義弘は豊久討死の確証を得ておらず、3年ほど安否を探らせていた。
元和偃武(大坂落城後の天下泰平)が過ぎ、関ヶ原の数少ない生き残りであった中馬重方は、戦いの話を聞こうと鹿児島藩から訪ねてきた若い藩士達に「関ヶ原と申すは…」と話し始めたものの、とめどなく涙が溢れ出て、一言も話すことができなかった。後、若い藩士達は関ヶ原の話はこれまで何度も聞いてきたが、そのどれよりも優っていたと語ったという。
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5/3 13:22
烏頭坂の案内板。
乱戦で伯父の島津義弘を一度見失った島津豊久は涙ながらに探し出し、切腹する覚悟をした義弘に豊久は「島津家の存在は義弘公にかかっている。義弘公こそ生き残らねばならない。天運既に窮まる。戦うというも負けは明らかなり。義弘公は薩摩に帰られよ。国家の存亡は公の一身にかかれり」と述べ、撤退を促した。のちの島津の退き口。
豊久は撤退戦の殿軍を務めるが、井伊・松平・本多らの追撃は激しい。銃撃が当たらないよう坐禅陣を組み、井伊隊を一度銃撃し乱戦。ここで討死したか、義弘を追いかけ瑠璃光寺辺りで住職や村人らの介抱を受けた後亡くなったとも伝わる。義弘は豊久討死の確証を得ておらず、3年ほど安否を探らせていた。
元和偃武(大坂落城後の天下泰平)が過ぎ、関ヶ原の数少ない生き残りであった中馬重方は、戦いの話を聞こうと鹿児島藩から訪ねてきた若い藩士達に「関ヶ原と申すは…」と話し始めたものの、とめどなく涙が溢れ出て、一言も話すことができなかった。後、若い藩士達は関ヶ原の話はこれまで何度も聞いてきたが、そのどれよりも優っていたと語ったという。
烏頭坂の島津豊久墓。
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5/3 13:25
烏頭坂の島津豊久墓。
島津豊久碑の案内板。
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5/3 13:25
島津豊久碑の案内板。
薩摩ベンチ。
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5/3 13:25
薩摩ベンチ。
薩摩ベンチの案内板。
岐阜県と鹿児島県は縁あって姉妹県盟約を結び、鹿児島県の鶴丸城御楼門復元プロジェクトで使用する岐阜県産ケヤキが贈呈なされた。
鹿児島県知事が岐阜県で島津豊久の墓が大切に管理されているのを知ると、御楼門に使用する鹿児島県産クスノキで造られたベンチを寄贈したそうだ。
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5/3 13:25
薩摩ベンチの案内板。
岐阜県と鹿児島県は縁あって姉妹県盟約を結び、鹿児島県の鶴丸城御楼門復元プロジェクトで使用する岐阜県産ケヤキが贈呈なされた。
鹿児島県知事が岐阜県で島津豊久の墓が大切に管理されているのを知ると、御楼門に使用する鹿児島県産クスノキで造られたベンチを寄贈したそうだ。
13:46JR関ヶ原駅ゴール。タイム5:44の長旅でした。
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13:46JR関ヶ原駅ゴール。タイム5:44の長旅でした。
帰り道、まだ15時前だし山行計画書もあるし、佐和山と弁天山も登っちゃう?行っとけ行っとけ!充電したし電車賃もったいないし!とイケイケムードに陥り佐和山・弁天山登山を決行。
14:37JR彦根駅東口スタート。
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5/3 14:37
帰り道、まだ15時前だし山行計画書もあるし、佐和山と弁天山も登っちゃう?行っとけ行っとけ!充電したし電車賃もったいないし!とイケイケムードに陥り佐和山・弁天山登山を決行。
14:37JR彦根駅東口スタート。
佐和山登山口・南側の佐和山城跡縄張図。
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5/3 14:47
佐和山登山口・南側の佐和山城跡縄張図。
佐和山登山口に着いたが、佐和山は清涼寺の所有地であるらしい。リサーチ不足だった。登山許可を得るため清涼寺へと歩く。
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5/3 14:48
佐和山登山口に着いたが、佐和山は清涼寺の所有地であるらしい。リサーチ不足だった。登山許可を得るため清涼寺へと歩く。
石田三成屋敷跡に到着。
何もない。関ヶ原の合戦後、井伊家の彦根築城の時に徹底的に城割されたとの話はどうやら本当のようだ。
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5/3 15:01
石田三成屋敷跡に到着。
何もない。関ヶ原の合戦後、井伊家の彦根築城の時に徹底的に城割されたとの話はどうやら本当のようだ。
佐和山城跡への登り口の案内図を発見。石垣もあった。
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5/3 15:01
佐和山城跡への登り口の案内図を発見。石垣もあった。
石田屋敷跡付近から彦根城の方角。
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5/3 15:02
石田屋敷跡付近から彦根城の方角。
彦根城を中央に。
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5/3 15:04
彦根城を中央に。
清涼寺に到着。登山許可を得るため境内に入るが誰もいなかった。
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5/3 15:06
清涼寺に到着。登山許可を得るため境内に入るが誰もいなかった。
清涼寺の案内板。
井伊直政公の発願により創建された曹洞宗の古刹であり、井伊家の菩提寺と定めたとある。
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5/3 15:07
清涼寺の案内板。
井伊直政公の発願により創建された曹洞宗の古刹であり、井伊家の菩提寺と定めたとある。
佐和山登山口(西側)の佐和山(東山)ハイキングコースの案内板と石田三成公銅像所在地の石碑。
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5/3 15:10
佐和山登山口(西側)の佐和山(東山)ハイキングコースの案内板と石田三成公銅像所在地の石碑。
佐和山に登る前に、石田三成公にご挨拶。
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5/3 15:13
佐和山に登る前に、石田三成公にご挨拶。
石田三成公の銅像に新緑が映える。
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5/3 15:13
石田三成公の銅像に新緑が映える。
佐和山西側登山口は龍潭寺の境内を通る。
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5/3 15:14
佐和山西側登山口は龍潭寺の境内を通る。
佐和山ハイキングコース入口の案内板。
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5/3 15:16
佐和山ハイキングコース入口の案内板。
いざ佐和山城跡へ。
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5/3 15:18
いざ佐和山城跡へ。
佐和山城の塩硝櫓跡に到着。
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5/3 15:22
佐和山城の塩硝櫓跡に到着。
佐和山城西の丸跡の案内板。
土坑・土塁を残すのみだった。
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5/3 15:23
佐和山城西の丸跡の案内板。
土坑・土塁を残すのみだった。
西の丸跡の案内板。
佐和山城西側登山口は通称龍潭寺越えというらしい。
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5/3 15:25
西の丸跡の案内板。
佐和山城西側登山口は通称龍潭寺越えというらしい。
佐和山城本丸跡地に到着。
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5/3 15:28
佐和山城本丸跡地に到着。
遠くには関ヶ原を敗走する石田三成公が目指した伊吹山が見える。
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5/3 15:28
遠くには関ヶ原を敗走する石田三成公が目指した伊吹山が見える。
びわ湖に彦根高と総合運動場がよく見えた。
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5/3 15:28
びわ湖に彦根高と総合運動場がよく見えた。
彦根八景に数えられる佐和山からの景色を堪能。
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5/3 15:30
彦根八景に数えられる佐和山からの景色を堪能。
彦根城方面の景色。
中山道・北陸道を睨む位置にある佐和山は古くから要衝の地として知られ、佐々木・六角・浅井・織田・羽柴(のち豊臣)らの家臣が駐軍した。
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5/3 15:31
彦根城方面の景色。
中山道・北陸道を睨む位置にある佐和山は古くから要衝の地として知られ、佐々木・六角・浅井・織田・羽柴(のち豊臣)らの家臣が駐軍した。
新緑と彦根城にびわ湖がよく映える。
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5/3 15:31
新緑と彦根城にびわ湖がよく映える。
佐和山城跡の石碑があった。
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5/3 15:32
佐和山城跡の石碑があった。
JR彦根駅方面。
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5/3 15:42
JR彦根駅方面。
JR彦根駅方面。多賀大社は左手のあたりか。
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JR彦根駅方面。多賀大社は左手のあたりか。
芹川・豊郷町方面。
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5/3 15:42
芹川・豊郷町方面。
本丸跡の案内板。中山道と北国街道を睨む位置にあるこの山城は堅城であったに違いない。
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5/3 15:29
本丸跡の案内板。中山道と北国街道を睨む位置にあるこの山城は堅城であったに違いない。
佐和山史跡略図。これから歩く弁天山も描かれている。
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5/3 15:32
佐和山史跡略図。これから歩く弁天山も描かれている。
佐和山三角点に到着。
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5/3 15:41
佐和山三角点に到着。
タッチ。松尾山には見られなかったのでなんとなく力が入る。
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5/3 15:41
タッチ。松尾山には見られなかったのでなんとなく力が入る。
佐和山城の石垣?を発見。ほとんどは彦根城築城に持って行かれたんだろうか。
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5/3 15:44
佐和山城の石垣?を発見。ほとんどは彦根城築城に持って行かれたんだろうか。
弁天山へと進んでいく。ツツジの花が咲いていた。
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5/3 15:55
弁天山へと進んでいく。ツツジの花が咲いていた。
弁天山を突き進む。
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5/3 15:58
弁天山を突き進む。
ハイキングコースの標識に手書きで物生山が書き足されていた。体力的・時間的にも余裕はないので予定変更はせず下山を急ぐ。
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5/3 16:00
ハイキングコースの標識に手書きで物生山が書き足されていた。体力的・時間的にも余裕はないので予定変更はせず下山を急ぐ。
弁天山山頂に到着。
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5/3 16:00
弁天山山頂に到着。
夕陽が差し込んできて標識が映えるが少し焦ってくる。
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5/3 16:05
夕陽が差し込んできて標識が映えるが少し焦ってくる。
弁天山下山。大洞弁財天の奥の院に辿り着いてひと安心。
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5/3 16:05
弁天山下山。大洞弁財天の奥の院に辿り着いてひと安心。
大洞弁財天奥の院に手を合わせ、山域を汚した非礼をお詫びする。
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5/3 16:06
大洞弁財天奥の院に手を合わせ、山域を汚した非礼をお詫びする。
奥の院と新緑。
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5/3 16:06
奥の院と新緑。
階段を降りていく。人の手が入ったところに出ると安心する。
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5/3 16:06
階段を降りていく。人の手が入ったところに出ると安心する。
宇賀神の額が。宇賀神は弁財天と同一視される。
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5/3 16:07
宇賀神の額が。宇賀神は弁財天と同一視される。
大洞弁財天の裏手のお堂があった。
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5/3 16:07
大洞弁財天の裏手のお堂があった。
社殿の古さに興味をそそられる。
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5/3 16:08
社殿の古さに興味をそそられる。
大洞弁財天に到着。
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5/3 16:09
大洞弁財天に到着。
大洞弁財天の案内板。
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5/3 16:09
大洞弁財天の案内板。
奥に見える社殿は何だろうか、確かめられず帰り道につく。
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5/3 16:10
奥に見える社殿は何だろうか、確かめられず帰り道につく。
山門も古さが目立ってまた良い。
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5/3 16:09
山門も古さが目立ってまた良い。
山門から彦根城が見えた。
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5/3 16:10
山門から彦根城が見えた。
大洞弁財天参道の階段から彦根城。
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5/3 16:10
大洞弁財天参道の階段から彦根城。
彦根城天守閣がはっきりと見えた。
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5/3 16:10
彦根城天守閣がはっきりと見えた。
参道を降りていく。鳥居なのは神仏習合の名残か。
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5/3 16:12
参道を降りていく。鳥居なのは神仏習合の名残か。
大洞弁財天西側参道を見上げる。
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5/3 16:13
大洞弁財天西側参道を見上げる。
大洞弁財天西側参道の常夜燈。
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5/3 16:14
大洞弁財天西側参道の常夜燈。
佐和山を後にする。山城を表す目印、城跡名の看板があった。
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5/3 16:20
佐和山を後にする。山城を表す目印、城跡名の看板があった。
彦根駅西口でゴール…と考えたが井伊直政公像前に移動。
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5/3 16:33
彦根駅西口でゴール…と考えたが井伊直政公像前に移動。
JR彦根駅西口ロータリー。
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JR彦根駅西口ロータリー。
16:34井伊直政公像でゴール。お疲れ様でした。
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5/3 16:34
16:34井伊直政公像でゴール。お疲れ様でした。
ツノの長い兜がやたら目立つ。戦場でこの兜を目にした武者達にはさぞ心強かったことだろう。
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5/3 16:34
ツノの長い兜がやたら目立つ。戦場でこの兜を目にした武者達にはさぞ心強かったことだろう。
彦根駅構内より佐和山。
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彦根駅構内より佐和山。
関ヶ原古戦場の史跡巡りと佐和山・弁天山登山の記録。
合計タイム7:41
距離計23.8km
上り計563m
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関ヶ原古戦場の史跡巡りと佐和山・弁天山登山の記録。
合計タイム7:41
距離計23.8km
上り計563m
佐和山・弁天山登山の記録。
タイム1:57
距離6.8km
上り163m
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佐和山・弁天山登山の記録。
タイム1:57
距離6.8km
上り163m
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