今話題の渋谷警察署前から出発
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2/18 10:00
今話題の渋谷警察署前から出発
前回渡り損ねた並木橋を渡り、旧街道に入ります。橋の北詰には鎌倉道案内板もあります
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2/18 10:07
前回渡り損ねた並木橋を渡り、旧街道に入ります。橋の北詰には鎌倉道案内板もあります
前回立寄った金王神社前を通過
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2/18 10:14
前回立寄った金王神社前を通過
六本木通りを越えて青山通りへ。正面には岡本太郎のモニュメント「こどもの樹」
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2/18 10:22
六本木通りを越えて青山通りへ。正面には岡本太郎のモニュメント「こどもの樹」
青山通りから表参道へ入ります
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2/18 10:32
青山通りから表参道へ入ります
表参道交番裏手に秋葉神社。ビルと一緒に新築されたかな?
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2/18 10:34
表参道交番裏手に秋葉神社。ビルと一緒に新築されたかな?
すぐ先を右に入る道が旧街道。入口には時代を感じる民家が
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2/18 10:39
すぐ先を右に入る道が旧街道。入口には時代を感じる民家が
外苑西通りを渡り、青山熊野神社へ。紀州徳川家の邸内に奉斎されていた御宮を地元町民の請によって正保元年(1644)ここに移遷されたとか
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2/18 10:51
外苑西通りを渡り、青山熊野神社へ。紀州徳川家の邸内に奉斎されていた御宮を地元町民の請によって正保元年(1644)ここに移遷されたとか
その先、緩い勾配の坂は勢揃坂。坂の途中の説明板では、永保三年(1083)に八幡太郎義家が奥州征伐に向かう途中、ここで軍勢を揃えて出陣したとか。
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2/18 10:57
その先、緩い勾配の坂は勢揃坂。坂の途中の説明板では、永保三年(1083)に八幡太郎義家が奥州征伐に向かう途中、ここで軍勢を揃えて出陣したとか。
坂の下のT字路を左に折れ、外苑西通りを渡って道なりに進むと榎坂。昔、この坂に榎の巨木があったことにちなむとされる
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2/18 11:08
坂の下のT字路を左に折れ、外苑西通りを渡って道なりに進むと榎坂。昔、この坂に榎の巨木があったことにちなむとされる
坂の途中に榎稲荷。女性の下の病に御利益がある性神として内藤新宿周辺の遊女や女将などが進行されたとか
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2/18 11:09
坂の途中に榎稲荷。女性の下の病に御利益がある性神として内藤新宿周辺の遊女や女将などが進行されたとか
鳩森神社前の交差点を左に入ると、ニュースでよく見かける将棋会館
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2/18 11:16
鳩森神社前の交差点を左に入ると、ニュースでよく見かける将棋会館
その斜め向かいに「わらじの庚申」と呼ばれる庚申塔。造立は享保8年(1723)。堂内には沢山のわらじが奉納されていた
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2/18 11:17
その斜め向かいに「わらじの庚申」と呼ばれる庚申塔。造立は享保8年(1723)。堂内には沢山のわらじが奉納されていた
交差点に戻り、鳩森八幡神社へ。
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2/18 11:20
交差点に戻り、鳩森八幡神社へ。
境内の梅は今が見頃
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2/18 11:20
境内の梅は今が見頃
貞観2年(860)慈覚大師が関東巡錫の途中、村民の強い願いにより神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし崇敬し祀ったとされる
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2/18 11:20
貞観2年(860)慈覚大師が関東巡錫の途中、村民の強い願いにより神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし崇敬し祀ったとされる
寛政元年(1789)の築造とされ、山頂には奥宮を安置し、山裾には里宮、七合目の洞窟には身禄像を安置し、都内に現存する富士塚では最古のものとか
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2/18 11:22
寛政元年(1789)の築造とされ、山頂には奥宮を安置し、山裾には里宮、七合目の洞窟には身禄像を安置し、都内に現存する富士塚では最古のものとか
境内には、隣接の日本将棋連盟から奉納された大駒を納めた六角堂もある
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2/18 11:26
境内には、隣接の日本将棋連盟から奉納された大駒を納めた六角堂もある
鳩森八幡近くで昼食を済ませ、首都高・JRの下を抜けて新宿御苑千駄ヶ谷門へ
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2/18 12:12
鳩森八幡近くで昼食を済ませ、首都高・JRの下を抜けて新宿御苑千駄ヶ谷門へ
御苑に入り、旧御凉亭に入ると寒桜に彩られた美しい日本庭園を見ることができた
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2/18 12:25
御苑に入り、旧御凉亭に入ると寒桜に彩られた美しい日本庭園を見ることができた
ドコモタワーと寒桜
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2/18 12:36
ドコモタワーと寒桜
ドコモタワーと紅梅
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2/18 12:43
ドコモタワーと紅梅
新宿御苑新宿門を出て、新宿通りを渡って太宗寺へ
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2/18 13:04
新宿御苑新宿門を出て、新宿通りを渡って太宗寺へ
入口では銅造六地蔵菩薩坐像がお出迎え。江戸六地蔵の第三番として、正徳2年(1712)に江戸市中から約7万2千名の寄進者を募って造立されたものとか
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2/18 13:04
入口では銅造六地蔵菩薩坐像がお出迎え。江戸六地蔵の第三番として、正徳2年(1712)に江戸市中から約7万2千名の寄進者を募って造立されたものとか
菩薩坐像の横には、「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めた閻魔像を納めた閻魔堂があり、閻魔大王に仕えた奪衣婆像と合わせてみることができます
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2/18 13:05
菩薩坐像の横には、「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めた閻魔像を納めた閻魔堂があり、閻魔大王に仕えた奪衣婆像と合わせてみることができます
太宗寺の創建は慶長元年(1596)頃とされ、寛永六年(1629)内藤家五代正勝の葬儀を行い、六代重頼から寺地の寄進を受けて、以後内藤家の菩提寺となったとか
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2/18 13:06
太宗寺の創建は慶長元年(1596)頃とされ、寛永六年(1629)内藤家五代正勝の葬儀を行い、六代重頼から寺地の寄進を受けて、以後内藤家の菩提寺となったとか
境内には、信州高遠藩主であった譜代大名内藤家の墓所があります。三基の宝篋印塔の中央が第五代当主正勝の墓、右は十三代頼直、左は内藤家累代のもの
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2/18 13:08
境内には、信州高遠藩主であった譜代大名内藤家の墓所があります。三基の宝篋印塔の中央が第五代当主正勝の墓、右は十三代頼直、左は内藤家累代のもの
境内西隅に建つ不動堂。江戸時代のものとされる銅造・総高243僂了案月不動像が安置されています
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2/18 13:10
境内西隅に建つ不動堂。江戸時代のものとされる銅造・総高243僂了案月不動像が安置されています
不動堂横には塩かけ地蔵尊。自分の痛むところを地蔵にあてはめ、その部分に塩をかけて祈願するということでお地蔵様は塩に埋もれていました
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2/18 13:11
不動堂横には塩かけ地蔵尊。自分の痛むところを地蔵にあてはめ、その部分に塩をかけて祈願するということでお地蔵様は塩に埋もれていました
旧街道を進み、靖国通りを左折すると正受院。入口には木造奪衣婆像が鎮座。江戸初期のものと云われるが詳細不詳
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2/18 13:29
旧街道を進み、靖国通りを左折すると正受院。入口には木造奪衣婆像が鎮座。江戸初期のものと云われるが詳細不詳
正受院の梵鐘は、江戸鋳物師の製造技術が頂点に達した時期の宝永8年(1711)に鋳造されたものとか
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2/18 13:21
正受院の梵鐘は、江戸鋳物師の製造技術が頂点に達した時期の宝永8年(1711)に鋳造されたものとか
お隣は文禄3年(1594)の創建といわれる成覚寺。内藤新宿の遊女(飯盛女、子供ともいう)が亡くなると、当寺に葬られたことから「投げ込み寺」とも呼ばれたとか
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2/18 13:28
お隣は文禄3年(1594)の創建といわれる成覚寺。内藤新宿の遊女(飯盛女、子供ともいう)が亡くなると、当寺に葬られたことから「投げ込み寺」とも呼ばれたとか
内藤新宿の遊女たちの供養のため共同墓に建てられた子供合理碑。万延元年(1860)に口入れ屋山口屋崇七が中心となり、内藤新宿の旅籠屋が建立したものとか
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2/18 13:26
内藤新宿の遊女たちの供養のため共同墓に建てられた子供合理碑。万延元年(1860)に口入れ屋山口屋崇七が中心となり、内藤新宿の旅籠屋が建立したものとか
入口近くには、玉川上水への入水自殺者供養を目的に寛政12年(1800)建立された旭地蔵や、江戸時代中期の狂歌師・戯作者恋川春町(1744~1789)の墓がある
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2/18 13:27
入口近くには、玉川上水への入水自殺者供養を目的に寛政12年(1800)建立された旭地蔵や、江戸時代中期の狂歌師・戯作者恋川春町(1744~1789)の墓がある
新宿一丁目北交差点から旧街道に戻り、新宿中学校と天神小学校の間の道を進む
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2/18 13:37
新宿一丁目北交差点から旧街道に戻り、新宿中学校と天神小学校の間の道を進む
新宿中学校を過ぎると、右に東大久保富士といわれる天保十三年(1842)築造の富士塚がある
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2/18 13:39
新宿中学校を過ぎると、右に東大久保富士といわれる天保十三年(1842)築造の富士塚がある
富士塚の横は児童公園となっていた
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2/18 13:41
富士塚の横は児童公園となっていた
隣には安貞ニ年(1228)創建といわれる西向天神社。徳川家光が鷹狩りの際に社殿修復のために金のなつめの茶入れを下賜したことから「なつめ天神」とも呼ばれる
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2/18 13:43
隣には安貞ニ年(1228)創建といわれる西向天神社。徳川家光が鷹狩りの際に社殿修復のために金のなつめの茶入れを下賜したことから「なつめ天神」とも呼ばれる
境内には藤圭子のデビュー曲「新宿の女」の歌碑もあった
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2/18 13:44
境内には藤圭子のデビュー曲「新宿の女」の歌碑もあった
西向天神社と大聖院の間の石段坂は山吹坂。大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになったとか
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2/18 13:45
西向天神社と大聖院の間の石段坂は山吹坂。大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになったとか
大聖院。創建年代は不明ながら、中世には春日部にあり本山派修験不動院と号し、当地へ移転後は西向天神社の別当として天台宗本山派の江戸番所を勤めたとか
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2/18 13:45
大聖院。創建年代は不明ながら、中世には春日部にあり本山派修験不動院と号し、当地へ移転後は西向天神社の別当として天台宗本山派の江戸番所を勤めたとか
境内駐車場隅には紅皿の墓。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して道灌に山吹の一枝を捧げた女性だとか
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2/18 13:46
境内駐車場隅には紅皿の墓。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して道灌に山吹の一枝を捧げた女性だとか
大通りに出て右に進むと、二又路の真ん中に抜弁天厳島神社。源義家が後三年の役で奥州へ向かう途中、この地に戦勝祈願のため安芸国の厳島神社を祀ったという
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2/18 13:52
大通りに出て右に進むと、二又路の真ん中に抜弁天厳島神社。源義家が後三年の役で奥州へ向かう途中、この地に戦勝祈願のため安芸国の厳島神社を祀ったという
境内が南北に通り抜けできるため、または義家が後三年の役で苦難を切り抜けたため、通称「抜弁天」と呼ばれ信仰されたとか
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2/18 13:53
境内が南北に通り抜けできるため、または義家が後三年の役で苦難を切り抜けたため、通称「抜弁天」と呼ばれ信仰されたとか
抜弁天交差点を北上して戸山公園の箱根山へ。標高44.6mの箱根山に登頂し、戸山公園サービスセンターに自己申告すれば登頂証明書がもらえるそうです
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2/18 14:06
抜弁天交差点を北上して戸山公園の箱根山へ。標高44.6mの箱根山に登頂し、戸山公園サービスセンターに自己申告すれば登頂証明書がもらえるそうです
箱根山通りから都道に出て穴八幡宮へ。康平五年(1067)、源義家がこの地に兜と太刀を埋め、八幡神を勧請したのが穴八幡宮の始まりという
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2/18 14:22
箱根山通りから都道に出て穴八幡宮へ。康平五年(1067)、源義家がこの地に兜と太刀を埋め、八幡神を勧請したのが穴八幡宮の始まりという
お隣は放生寺。寛永十八年(1671)の創建で、穴八幡宮の創建に尽力し、徳川家光より光松山放生会寺の寺号を賜ったとか
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2/18 14:33
お隣は放生寺。寛永十八年(1671)の創建で、穴八幡宮の創建に尽力し、徳川家光より光松山放生会寺の寺号を賜ったとか
都道を西に進み、学習院女子大の門を過ぎて北の路地に入り、早稲田通りを渡ってっ巣鴨信用金庫横の路地に入ります。路地の角には小さな道標があります
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2/18 14:48
都道を西に進み、学習院女子大の門を過ぎて北の路地に入り、早稲田通りを渡ってっ巣鴨信用金庫横の路地に入ります。路地の角には小さな道標があります
最初の一方通行の道が茶屋町通り。江戸時代この付近に旗本の馬術訓練場があり、見物客が多かったために地元の農家が茶屋を開いていたとか
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2/18 14:53
最初の一方通行の道が茶屋町通り。江戸時代この付近に旗本の馬術訓練場があり、見物客が多かったために地元の農家が茶屋を開いていたとか
すぐ横には高田馬場跡の説明板もあり、馬場は寛永十三年(1636)に作られたもので、穴八幡宮に奉納するため催された流鏑馬などが行われたとあります
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2/18 14:54
すぐ横には高田馬場跡の説明板もあり、馬場は寛永十三年(1636)に作られたもので、穴八幡宮に奉納するため催された流鏑馬などが行われたとあります
堀部安兵衛の高田馬場の決闘における事績を顕彰する堀部武庸加功遺跡之碑が水稲荷神社にあるというので寄ってみましたが碑は見つからず。甘水園にあるようです
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2/18 14:59
堀部安兵衛の高田馬場の決闘における事績を顕彰する堀部武庸加功遺跡之碑が水稲荷神社にあるというので寄ってみましたが碑は見つからず。甘水園にあるようです
水稲荷神社。当初は富塚稲荷または将軍稲荷と呼ばれたが、元禄十五年(1702)に大椋の下から湧出した霊水が眼病に効能があるとされ社号を水稲荷と改称したとか
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2/18 15:00
水稲荷神社。当初は富塚稲荷または将軍稲荷と呼ばれたが、元禄十五年(1702)に大椋の下から湧出した霊水が眼病に効能があるとされ社号を水稲荷と改称したとか
旧街道に戻り、北に上ると左手に黒塗りの山門。これは亮朝院の鐘楼門で、裏手からは元禄十五年(1702)に鋳造された銅造141.5僂麟霈發鮓ることができた
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2/18 15:11
旧街道に戻り、北に上ると左手に黒塗りの山門。これは亮朝院の鐘楼門で、裏手からは元禄十五年(1702)に鋳造された銅造141.5僂麟霈發鮓ることができた
亮朝院は四代将軍徳川家綱の代から将軍家祈祷所となり、将軍家から崇敬を集めた。こちらの七面堂は天保五年(1834)に建築されたものとか
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2/18 15:15
亮朝院は四代将軍徳川家綱の代から将軍家祈祷所となり、将軍家から崇敬を集めた。こちらの七面堂は天保五年(1834)に建築されたものとか
都電荒川線の走る新目白通りを渡り、面影橋で神田川を越えます
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2/18 15:19
都電荒川線の走る新目白通りを渡り、面影橋で神田川を越えます
橋のたもとには面影橋由来の説明板がある
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2/18 15:22
橋のたもとには面影橋由来の説明板がある
橋の先には山里の碑。これも紅皿伝説にちなんだもののようですが、この碑は貞亮三年(1686)に建立された供養塔を転用したものだとか
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2/18 15:23
橋の先には山里の碑。これも紅皿伝説にちなんだもののようですが、この碑は貞亮三年(1686)に建立された供養塔を転用したものだとか
少し先、街道左手に高田総鎮守氷川神社。創建は貞観年間(859-877)に大宮氷川神社から勧請されたもので、六歌仙の一人・在原業平(825-880)も参拝したとか
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2/18 15:25
少し先、街道左手に高田総鎮守氷川神社。創建は貞観年間(859-877)に大宮氷川神社から勧請されたもので、六歌仙の一人・在原業平(825-880)も参拝したとか
向かいには室町時代の開山とされる南蔵院。境内南側には延宝年間から明治・大正造立の庚申塔や馬頭観音、六地蔵などの石造物がずらりと並んでいた
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2/18 15:27
向かいには室町時代の開山とされる南蔵院。境内南側には延宝年間から明治・大正造立の庚申塔や馬頭観音、六地蔵などの石造物がずらりと並んでいた
さらに先には目白不動・金乗院。創建は天正年間(1573〜1592)と推定されている。門の右手にあるのは不動明王像で享保六年(1721)のもののようだ
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2/18 15:32
さらに先には目白不動・金乗院。創建は天正年間(1573〜1592)と推定されている。門の右手にあるのは不動明王像で享保六年(1721)のもののようだ
本堂前には倶利伽羅不動庚申があり、不動明王の化身とされる竜が剣に絡みついた姿が描かれていた。造立は寛文6年(1666)。アップの写真を撮り忘れたのが残念
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2/18 15:39
本堂前には倶利伽羅不動庚申があり、不動明王の化身とされる竜が剣に絡みついた姿が描かれていた。造立は寛文6年(1666)。アップの写真を撮り忘れたのが残念
境内には今まで目にしたことのない「つば塚」も。寛政十二年(1800)造立の刀剣の供養塔とか
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2/18 15:39
境内には今まで目にしたことのない「つば塚」も。寛政十二年(1800)造立の刀剣の供養塔とか
宿坂道を上り、都道を渡って鬼子母神表参道へ
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2/18 15:44
宿坂道を上り、都道を渡って鬼子母神表参道へ
鬼子母神大門のケヤキ並木に入ります。ケヤキ並木は、
古いもので樹齢400年。現在では若木を補いながら江戸の旧観維持に努めているそうです
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2/18 15:50
鬼子母神大門のケヤキ並木に入ります。ケヤキ並木は、
古いもので樹齢400年。現在では若木を補いながら江戸の旧観維持に努めているそうです
鬼子母神堂には室町時代の作と伝わる鬼子母神尊像が祀られ、今も安産・子育の守り神として人々の信仰を集めている。拝殿・相の間は元禄十三年(1700)の建築とか
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2/18 15:54
鬼子母神堂には室町時代の作と伝わる鬼子母神尊像が祀られ、今も安産・子育の守り神として人々の信仰を集めている。拝殿・相の間は元禄十三年(1700)の建築とか
左手の大イチョウは現在、樹齢約700年ということです
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2/18 15:54
左手の大イチョウは現在、樹齢約700年ということです
境内南東には古社武芳稲荷。今は新築遷座されていますが、古来この地が稲荷の森と称されていた頃の幾百年の名残を伝えているとのこと
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2/18 15:55
境内南東には古社武芳稲荷。今は新築遷座されていますが、古来この地が稲荷の森と称されていた頃の幾百年の名残を伝えているとのこと
鬼子母神を北に抜けると立派な髭題目碑。台座に威光山と刻まれており、これから向かう法明寺のもの
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2/18 16:00
鬼子母神を北に抜けると立派な髭題目碑。台座に威光山と刻まれており、これから向かう法明寺のもの
髭題目碑の左の道を進むと突当りが法明寺。弘仁元年(810)に真言宗の威光寺として開創。正和元年(1312)に日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めたそうです。
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2/18 16:03
髭題目碑の左の道を進むと突当りが法明寺。弘仁元年(810)に真言宗の威光寺として開創。正和元年(1312)に日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めたそうです。
境内の梵鐘は寛永二十二年(1645)に鋳造、享保十七年(1732)に再鋳されたもので、曲尺、枡、天秤、算盤等の江戸時代の庶民生活を表す用具が描かれた貴重なもの
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2/18 16:05
境内の梵鐘は寛永二十二年(1645)に鋳造、享保十七年(1732)に再鋳されたもので、曲尺、枡、天秤、算盤等の江戸時代の庶民生活を表す用具が描かれた貴重なもの
法明寺を出て、墓地の間の細道を本日のゴール池袋駅に向かいます
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2/18 16:10
法明寺を出て、墓地の間の細道を本日のゴール池袋駅に向かいます
細道の途中、威光稲荷堂。知る人ぞ知るレアなパワースポットということでご挨拶。本日のウォーキングの締めとしました
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2/18 16:11
細道の途中、威光稲荷堂。知る人ぞ知るレアなパワースポットということでご挨拶。本日のウォーキングの締めとしました
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