基山《九州百名山》
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- GPS
- 03:40
- 距離
- 13.8km
- 登り
- 577m
- 下り
- 578m
コースタイム
天候 | 曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
帰着:JR鹿児島本線基山駅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
大半が古代基肄城址のエリアでよく整備されている |
写真
感想
JR原田(はるだ)駅から歩き出しバイパス道と九州自動車道の高架をくぐり左手に養鶏場を見て耕作地の果てで道が途切れ登山道になったかと思ったが這い上がると林道があった。林道から分かれ登山道に入り谷筋を少し進むと左側に折り返すように進んで尾根に取り付いた。峠に達すると枝の赤テープに「←萩原山 天拝山→」と書かれていた。どちも予定にない山で地形図に出ていない(或は範囲外)ので少し混乱したが方向的には左だろうと萩原山方面に進んだ。明瞭な登山道だが予定ルートを少し外れているようだ。萩原山(315m)山頂に達すると4等三角点「萩原」が設置され、山頂標識も掲げられていた。地形図の範囲外で現在地の確認に少々戸惑った。
この先道は地形図に描かれた登山道があり明瞭だったが一部ショートカットは薄い踏み跡を辿った。登山道に復すと北帝城址の石碑があり、また天拝山への指導標があった「←北峰(北帝)」の表示に従い尾根を登って行くとに乗り上がると北峰(北帝)の標識があった。展望は利かないが福岡・佐賀の県境尾根が南に続き基肄城址の土塁線で防火帯のように10m幅位開かれた尾根が続いている。南に下って行くと女性が一人登ってきた。現在位置が分からなくなっているようで尋ねられたが、遠来の客に城跡の遺構の位置などは地形図に載っているものしか分からない。基山に向かっているつもりが逆に来たようで、後先になりながら防火帯の稜線を進んだ。
基山(きざん404m)山頂域は7世紀の基肄(きい)城址で付け根から山頂にかけては草原状で広い城跡が感じられる。660年唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済の再興のために663年に援軍を送ったが白村江(はくすきのえ)に敗れ逃げ帰った。大和朝廷は唐・新羅の侵攻を恐れ西日本各地に防禦の為の山城を作った。百済の亡命貴族が作った朝鮮式山城は日本書紀にも記載されているが、同時期に作られた神籠石式山城は記録にはなく遺構のみが確認されている。九州では大宰府防衛のため大野城や水城が築かれ、最前線の対馬には金田城が築かれた。
展望台に方向指示板があり、脊振山(1,055m)、九千部山(847m)や三郡山(936m)、英彦山(1,199m)等が示され、雲の掛かった英彦山以外は確認できた。山頂には1等三角点「防住山」が大岩の祠の前に設置されていた。遮るもののない山頂からは筑後川流域の市町が見渡せた。この山には希少種のオキナグサが自生し、山頂域のほんの狭いロープで囲われた所に可憐な花を咲かせていた。
山頂域を歩き回り城跡を堪能して西側に広がる草スキー場のゲレンデを西へと下り九州自然歩道となった車道を西へと進んだ。小ピークを回り込む処で南の尾根に取り付き契山を目指した。北の肩に乗り上がると伐採地で展望が利き九千部山を望むことができた。九州自然歩道からこの尾根にかけて地形図には送電線が書かれているが現地では見つからなかった。南に少し下ると契山(403m)山頂で4等三角点「契山」が置かれていたが展望は得られない。鞍部まで戻り東の谷へと下って行った。何度か渡渉があったが全て橋が渡され全く問題なく下ることができた。苔生しているが石垣の確認でき嘗てはしっかりした峠道だったのだろうか。標高200mで登山口に達し、後は車道歩きで基山駅に達し登山を終えた。午後から雨の予報だったが降られもしなかったのは僥倖だった。
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