比叡山《関西百名山》
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- GPS
- --:--
- 距離
- 11.4km
- 登り
- 829m
- 下り
- 794m
コースタイム
天候 | 曇り後晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2014年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
下山:叡電八瀬比叡山口駅 |
写真
感想
JR湖西線比叡山坂本駅で全員が揃った。最終回と云うことでシリーズ最大18名の参加者となった。ミーティングの後、N尾さんを先頭に歩き始めた。真っ直ぐ西に伸びる道の左手に京阪坂本駅を見る頃から延暦寺の里坊の並ぶエリアとなった。天台寺院の独特の雰囲気を醸し出していた。里坊は、座主や修業を終えた老僧が寒気の強い山上の生活を避けて住んだ所で、最盛期は80余の里坊があったそうだ。中でも滋賀院門跡は天台座主の住居として最も格式が高く、現在の座主も住んでおられるという。
この道の突きあり日吉神社の鳥居のある所を左に曲がり比叡山高校の南側にケーブル坂本駅・日吉東照宮の指導標を見つけ右折、ケーブル駅から車道で高度を稼ぎ日吉東照宮に立寄った。日光東照宮の雛形となった権現造りは此処が発祥とされ国宝に指定されている。祭神は徳川家康の他に日吉大神、豊臣秀吉が祀られている。門を入るには拝観料200円が必要で5人だけが参拝した。
東照宮の階段を下り無動寺道に入った。この道は叡山千日回峰行で歩かれるコースの一部で、この途轍もない荒行を2度も達成した酒井雄哉師が昨年9月に亡くなったのは記憶に新しい。無動寺道は、最初林道だがやがて整備された登山道となった。裳立山への道はこの無動寺道から何処かで分岐しなければならない。昭文社登山地図には記載がなく、ネットの記事と地形図の間にも乖離がある。明瞭な道がある筈だがはっきりしないので今日のミッション1に「裳立山への登路を地図に書き込む」を設定した。此れが結構難解で樹林帯で現在地の把握が難しい。ましてやお喋りしながら歩いているとお手上げだ。
修行の道らしく沿道に祠や石仏を見て、「浄刹結界跡」の石碑も現れた。嘗ては霊域として女人禁制だったのだろう。やはり地形図の点線道とはずれているようだ。2地形図の平成26年の最新版と旧版でもかなり違っている。旧版地図では尾根に取り付いているが、新版地図は山腹を巻くようになっている。新版地図に近いようだが谷に50mも下り登り返すと云う所はなかった。標高約385mで「紀貫之墳墓從是西北九町」の石柱が現れ明瞭な道が分岐していた。広い場所があり暫く休憩し、無動寺道を離れ裳立山へと登って行った。尾根を直登する道ではなく裳立山の東側山腹に付けられた道は裳立山の北北西500m程の処で稜線に乗り上がった。折り返すように南下し裳立山(595m)山頂に到着した。木立の中で展望は得られなかった。
裳立山山頂には山頂を示すものは何もないが紀貫之の墓があり花が供えられていた。紀貫之は平安時代の歌人で小倉百人一首にも和歌が収録されている。やはり紀貫之と云えば「土佐日記」で有名だろう。延長8年(930年)1月土佐守に任官し現地赴任し、承平5年(935)2月帰任した、この間の紀行を纏めたものだ。土佐国府のあった南国市はこの縁で今でも墓参に訪れ、記念碑が立ち並んでいる。昼食休憩を取り、山頂標識がないので墓前で記念撮影をした。
昼食後は根本中堂を目指し分岐へと引き返した。稜線を進むとドイツ人ブルノ・ベッオールドのお墓がある。権大僧を追贈されているが天台宗と関係があったのだろうか。お墓のピークの先の鞍部で丁度坂本ケーブルが走って来るのが見えた。此処が“もたて山”駅で、珍しいケーブルカーの途中駅で乗客がいないと停車しない。此処で下りる場合は発車前に申し出なければならない。此処から乗る場合は両端の駅を発車するまでにインターフォンで延暦寺駅にお願いしておかなければ止まらない。乗務員は乗っているが運転していないので致し方ない。此処で止まればもう一方の車両は“ほうらい丘”駅で止まっていることになる。それから地形図は“もたて山駅”の位置を誤っており、登山道から40〜50m下ではなく、尾根の括れの位置が正しかった。
線路沿いに歩き延暦寺駅に達すると無動寺道が南側から合流した。大乗院や辯天堂を通ってきた修行の道だ。駅前からは展望が素晴らしく蓬莱山、三石山(さんごくやま)、そして琵琶湖、その向こうには沖島や奥島山の島影が見えた。その先の展望は霞んで難しい。展望を楽しんだ後は根本中堂に向かった。車道歩きでドライブウェイの駐車場からの道と合流する所に料金所があり拝観料を徴収していた。根本中堂を拝観し時間調整をしようと思っていたので進入しようとすると係りの人が追いかけてきて料金を求められた。4人だけが550円を払って参拝した。堂内の奥まった処に伝教大師が灯したという不滅の法灯があり3基の灯籠に入れられ1,200年の間灯し続けていた。ただし信長の比叡山焼き討ちで一旦消滅し、山形県の立石寺(山寺)に分灯されていたものを移し復活したのだと云う。
余り待たせては悪いので根本中堂だけを見て大講堂の横の路上で待つ皆に合流した。此処でミッション2:「根本中堂から大比叡山頂までの所要時間を予想」をすると28分から50分までの予想が出た。阿弥陀堂の前から大比叡を仰ぐことができた。結構高い、東塔の裏側から登山道に入り標高差130mを登った。山頂域は民放の電波塔があり、西端の小高い所が大比叡(848m)山頂となっていた。1等三角点「比叡山」があるが展望は得られなかった。さてミッションの結果は25分15秒で皆の予想より早かった。最も近かったのは田辺さんと東野さんの28分だった。
予定時刻よりかなり早いので30分休憩した。山頂写真を撮り、車道に下りると直ぐにドライブウェイの山頂駐車場に入った。南北の展望が良く北の方には横高山、水井山が望め、大原の里越しに翠黛山、焼杉山、峰床山、皆子山などが見えた。南側は比叡平の住宅と如意ヶ岳、その後方には音羽山が望めた。大比叡と対を成す四明岳(838m)は山頂域がガーデンミュージアムとなり、1,030円の入場料が必要なので北側の車道を巻いて通過した。フェンスの向こうはシャクナゲが綺麗だった。
比叡山には嘗て人工スキー場があった。平成14年に廃止されてゲレンデはカヤトの広場と化し、建物は荒廃が進んでいた。ケーブル駅に行くまでに八瀬への下山路がある筈だ。辻野さんが怪しげな赤テープのある処で立ち止まっていた。随分荒れているのでどうかと思い先に進んだがロープウェイを越えそうになりやはりさっきの所が八瀬への分岐と確信した。先頭は離れて随分先に行ってしまった。コールしても聞こえそうにもないので奥野さんが呼び戻しに行ってくれた。この道は廃道然としておりミッション3:「八瀬下山路の地図との照合」が意義を成しそうだ。
分岐に入りトラバース道を進み、一つ目の尾根の張り出しを越えるとコンクリートで固められた水路の横断となった。水がないので問題は無いが倒木があり上か下で迂回する必要があった。2つ目の尾根の出っ張りを下降するとアーチ形の入口のある建物が朽ちていた。一体何の施設だったのだろう。
しっかりした道となったが余り歩かれていないのは明らかだ。下り続けて標高約550mに達すると十字路で、尾根の続きの道と東塔方面の道が交わり左折し八瀬への道を進んだ。尾根を2つ越え、上部で越えた水路の谷の北側尾根に乗った。谷に近づき橋で横断し、やがてケーブルの線路が近づくとケーブル八瀬駅に達した。川遊びの家族連れで賑う高野川を渡ると叡電八瀬比叡山口駅に到着した。時間調整しながら来たが予定時刻より17分早やかった。そして八瀬への下山路は2.5万図の新版が近かったようだ。
叡電に乗り出町柳に着くと感謝の集いの会場に30分繰り上げを依頼し、鴨川河原を歩いて向かった。かなり気温が上がったようだが爽やかな風が吹き抜け心地よい。感謝の集い会場は高瀬川源流の“がんこ二条苑”で嘗て山形有朋の別荘“第二無鄰菴”であった建物、庭がそのまま使われており満足度が高い。山行に参加しなかった西田さんもJoinし開宴、100座完登を祝した。
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