太神山《関西百名山》
- GPS
- 06:36
- 距離
- 22.5km
- 登り
- 761m
- 下り
- 596m
コースタイム
天候 | 小雨一時曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2012年06月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
下山口:信楽高原鉄道紫香楽宮跡駅 |
写真
感想
夜半は激しく降ったようだが帝産バスでアルプス登山口バス停に着く頃には小降りとなっていた。雨具を着てO崎さんを先頭に天神川沿いの車道を歩き始めた。今日はほぼ全コース東海自然歩道で車道の方が多い。2卍歩くと右手に迎不動の祠がありその傍らには公衆トイレもあった。少し先に駐車場があり巡回に来たパトカーが折返して行った。此処が事実上の登山口で駐車している車もありそうなものだが此の天候のせいで1台もなかった。鎧ダムへの分岐点でもあり、渡渉して支流を遡ると鎧ダムに到り堂山(384m)に繋がる。鎧ダムは堆砂でほぼ埋まりダム湖には殆ど水はない。今日は鎧ダムへは行かず太神山を目指した。
この先は軽車道(一本線)が続き橋を渡り地形図ではヘアピンカーブの地点から徒歩道(点線道)が分岐し川沿いに行くが、車道の方に「←太神山」の表示があった。此の道はとんでもない方に行ってしまっているのだが・・・以前来たことがあるK嶽さんは「歩道は途中で行止りになる」と云うので軽車道を進んだ。そうすると2つ目のヘアピンカーブの処で登山道が分岐し安心した。川を見ると大きな堰堤が出来てきて、此れがルート変更となった原因だと分かった。
堰堤の先で対岸に渡り、地図にある道に復すと湖南アルプスの名にし負う地形、花崗岩の脆い層の登山道となった。右手は矢筈ヶ岳(562m)の稜線、こちらもアルプス的な所が見える。中不動の祠を左手に見てその先には自然の岩に彫られた泣不動があった。別に泣いている表情でもなく、どうして泣不動と云うのだろうか? その先で矢筈ヶ岳への道が分岐するが、「崩落のため通行止め」との表示があった。その傍らには誰かが書き加えた「矢筈ヶ岳までは行けます」の文字。矢筈ヶ岳も今日は行かない。真すぐ進むとやがて鳥居形の門、二尊門は結界の入口のような趣で優しい表情で手を合わす矜羯羅(こんがら)童子と頬杖をついた制多迦(せいたか)童子が迎えてくれた。
不動寺は太神山山頂域にある比較的規模の大きなお寺であるが常時人がいるのかどうか・・・此のお寺の凄いのは本堂、急な石段を登ると大岩に寄り添うように、事実屋根は大岩と一体になり清水の舞台の如く、10mもあろうかと云う柱の上に乗っかっている。貞観元年(859)創建の本堂は国の重要文化財となっており、当時重機も使わずに良くこんな所に建てたものだと感心させられた。電灯もない本堂は薄暗く、丁度住職がお勤めの最中で低い読経の声が聞こえて来た。本堂が寄り添っていた大岩は神仏習合の時代は御神体として崇められていた磐座だ。その隙間を縫い胎内くぐりをして太神山(600m)山頂に到った。展望はなく沢山の山頂標識に囲まれて2等三角点「不動山」があった。10m程先には奥の院の祠がある。寺務所前の休憩舎で休憩を取り思い思いに昼食やおやつを食べた。O崎さんから北陸土産の白海老の煎餅が皆に振舞われ賞味した。
今日のミッション1は「不動寺から県道までの所要時間を予測で夫々47分から65分の予測を立て出発した。すぐ右手に林道が分岐し此の道を4匆爾辰拭F暫翔団Г發覆横に広がってお喋りをしながら進み田代川を渡ると県道に飛び出した。ミッションの結果は56分で55分を予想したO崎さんが1分違いで最も近かった。
此処からは県道の舗装道路を歩き田代川を遡る。1卍行くと三筋の滝が樹林越しに見えた。下までは行けないのが残念だ。遊歩道があり対岸に渡り500mほどの間谷の道を歩いた。再び車道に上がりミホミュージアムへの道を左に分け田代集落に到ると東海自然歩道は左に分岐した。此処からミッション2「歩速計測」を行う。林道に出会うまでの1.352劼鯀瓩い隼廚人から順に約30秒間隔で出発し自分のペースで歩き所用時間を計った。ルートは途中に峠越えがあり延べ106m登り、45m下降するコースで時速は4.06〜6.01/hの範囲内だった。
計測歩行の最後で林道出合が見えた処に木橋があり、桃谷川を渡るが傾いていて、しかも濡れているので足を滑らす人が続出した。この後は単調な林道歩きが続き316mの標高点の位置で此の林道と別れ自然歩道らしくなり、やがて民家が見え出すと信楽町黄瀬の里、信楽焼の釜元らしき家もあった。大戸川を渡ると東海自然歩道の標識があり右を指している。此れはおかしい、真っ直ぐに丸太階段があり、階段の上にはフェンスが張り巡らされている。様子を見に上がってみると鹿除けで「通り抜けできる」と書いてあった。コンパスの方向が正しいので扉を開け中に入ると、信楽焼の窯に使うのであろう薪が丁寧に積み上げられ覆いをされた列が幾つもあった。恐らく紫香楽宮跡のエリアに入っているのだろうが樹林帯で道が幾つも分岐し分り辛い。北側に出てしまったようで遠回りで紫香楽宮跡に達した。
紫香楽宮は、聖武天皇がこの地に大仏を造ること発願し離宮を営んだのが最初で天平17年(745)1月に恭仁京から都が遷された。しかし畿外に置かれ臣下の賛同が得られなかったことや天災が続いたことから同年5月には早くも平城京に遷都となった。この遺跡は甲賀寺の寺域で実際の宮があったのはもう少し北の宮町地域であるらしい。なお宮名は遷都により甲賀宮と称したとの説が有力。宮跡には甲賀寺の金堂、講堂、五重塔などの礎石が残っている。金堂の跡には紫香楽宮(神社)が祀られていた。
駅への道は一寸複雑で、ミッション3に「紫香楽宮跡から駅までの歩行ルートを書き込む」を設定した。時計を見ると14時44分、調べて来た時刻表によると15:03に貴生川行がある。900m程なので余裕で行けると思っていたら宮跡を出て直ぐに道を間違えてしまい南に進んでしまった。国道307号線に出て300mも余計に歩くことになり若干焦った。
信楽高原鉄道列車衝突事故は今の紫香楽宮跡駅の直ぐ北側で平成3年5月14日に発生した。事故現場に最も近い国立療養所紫香楽病院(現独法紫香楽病院)は多数の負傷者が運ばれ、ごった返していた。21年前の忌まわしい事故は忘れえない。
その病院の前を通り14:59駅に到着、列車は直ぐに来た。信楽の友人宅を訪問するため下りに乗ると云うF松さんに見送られ高原列車は紫香楽宮跡を後にした。貴生川、草津と乗換えはスムーズで守山に住むH野さんまで含めて京都に足を伸ばし反省会をした。今日は来月12日から留学のため渡米するO崎さんの壮行会でもあり河内長野へ帰るO野さんも含めて皆残ってくれた。O崎さんは舞鶴在住にも拘らず関西百名山シリーズにはよく来てくれた。日本に居なくなるのは寂しい。1年後に帰国後すると関西で働くと云うのが心強い。仕事を辞めてまで勉強しに行くとは何というエネルギーだろう。頑張れ!
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