音羽山《関西百名山》



- GPS
- 07:25
- 距離
- 13.9km
- 登り
- 1,237m
- 下り
- 993m
コースタイム
- 山行
- 6:16
- 休憩
- 1:09
- 合計
- 7:25
天候 | 晴後曇後小雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2011年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 タクシー
下山口:桜井市多武峰の談山神社からタクシーで近鉄大阪線櫻井駅 |
写真
感想
音羽山登山口の下居(おりい)までは桜井からバスが日中1時間に1本程度あるが30分ほど先なのでタクシーに分乗した。Y川さん、N路さん、D口さんの3人が歩荷ポイントに挑戦し、バス停で計量し規定の女性15圓鬟リアして歩きだした。寺川(滝谷川)を渡り南音羽の集落が途切れ、谷間の林道となり観音寺へと続く。バス停から標高差300m余りの高所に音羽山善法寺がある。その山号からも知れるように清水寺の開祖延鎮僧都が霊感を得て堂宇を建立とある。奈良時代には観音信仰の霊場として音羽百坊と称される程の規模を誇ったそうだ。またこの寺は談山神社の丑寅、鬼門にあたり、藤原鎌足自作の梅の木の観音像を祀ったのが始まりとも言われている。いずれにしても現在は本堂と千手千眼観世音菩薩が祀られた眼病霊験の寺として、地元に信仰されている。
観音寺からは登山道となり谷筋を進んだ。地形図では途中から尾根道になっているが、実際の道は谷筋をそのまま進み音羽山から張り出す北尾根の小ピークとの鞍部に乗り上がった。急登続きで歩荷挑戦者には試練の坂だ。稜線に上がると傾斜は落ち着きだらだらと音羽山(852m)山頂に到ったが、残念ながら展望はない。木立の向こうに経ヶ塚山のもっこりした姿が覗いている。地図ではすぐなのに「結構遠そう」という悲観的な感想もあったが実際のところは大したことはなかった。歩荷課題は此処で達成、皆でポイント認定を祝って拍手を贈った。死重に詰めていた水を捨て皆と同じ身軽になったが中路さんは登山靴を渡され余り減量できなかったようだ。
N路さんとD口さんには此処から読図講習を始めた。S字に屈曲した尾根を下り鞍部からは、約100mの急な登り返しで経ヶ塚山(889m)に到った。山頂にはその名の如く経塚の石塔があり信仰の山であったことが窺える。此処も展望は得られないが山頂から少し南に行ったところに若干開けたところがあり次の熊ヶ岳や台高山脈の高見山を望むことができた。熊ヶ岳は音羽三山(音羽・経ヶ塚・熊)の最高峰で標高は904mある。杉の植林が続きここも山頂展望はなくそれこそ音羽“散々”な状況だった。
熊ヶ岳から700mほど南に行ったところに反射板のあるピークがあり傍らに4等三角点「熊ヶ岳」が置かれていた。電波の入り側と出側の木が電波の妨げにならないように開かれ北東方面に伊那佐山、北西方向の大和盆地の中に耳成山が浮島のように見通せた。昼食休憩を取るが、風が通り寒くてゆっくりできず20分ほどで切り上げ出発した。
朝は気持ちよく晴れていたがだんだん雲が広がってきた。南に下りきった処は大峠で桜井市八井内と宇陀市の宇陀川上流にある宮奥ダムを結んでいる古道が越える。此処でミッション1:「竜門岳分岐までの所要時間を予想」を行う。距離は1.1辧⊂さなアップダウンが続く特徴のない稜線歩きで18分から33分と予想された。辿り着いた結果は23分で、Y本TCの24分が一番近く、2分違いのK領L、3分違いでK城さんが続いた。
続いてミッション2:「P725の位置特定」を頭に置いて、地図と地形を見ながら歩くことになった。しかしこのミッションはかなり高難度で、展望のない植林帯を蛇行する稜線でそれほど顕著なピークもない。このミッションを今日の読図講習の修了試験として、生徒の二人は地図を見ながらリーダーの次を歩いた。途中にある明確なポイントは4等三角点「三津」(790m)で此れは登山道上にあり難なく探し出せた。このあとはベテラン会員にも難題で、三角点から30分余り歩いたところで木の間越しに見える竜門岳にコンパスを合わせ、現在位置を割り出した。もう1点目標物が見えると精度が高くなるのだが樹林帯では仕方がない。多くの人が直下を鹿路(ろくろ)トンネルが通る辺りではないかと云うことになった。南に進み乗り上がったピークで先頭から「ここでは?」との声がありGPSで答え合わせをするとドンぴしゃり、P725は間違いなく特定された。そしてN路さんとD口さんはみごと読図ポイントをGETした。
あやふやだった大峰の位置は帰って調べると真南に当たるので一寸イメージが違った。大峰は重畳たる山脈で南北に連なるが真北から見ると当然幅は狭い。下り切った鞍部には「細峠」の表示、地形図に記載がなく越える道も描かれていない。現地ではしっかりした道が越えて松尾芭蕉の句碑まで備わっていた。歩いてきた稜線の指導標にあった「細峠」の表示を訝しがっていたがやっとその謎が解けた。
地図では稜線歩きで竜在峠に到るはずだったが、稜線の北側を巻く道となり、急斜面で地盤脆く崩壊しロープの張られた危険な処が幾つかあった。結局地形図に書かれた竜在峠は通らず、鹿路集落への分岐点に短絡竜在峠までは300mの位置、嘗ては旅籠も有ったそうで、今は東屋が登山者を迎えてくれた。案内によると江戸時代の国学者本居宣長はここを通って吉野に行ったとか・・・
登山道は北北西に進路を変え冬野集落へと向かい、途中に金剛山がバッチリ見られるポイントがあった。冬野集落は良助法親王(りょうすけほっしんのう)の墓がある他、僅か3戸の集落だがすごく長閑で趣があった。民家の軒先を掠めるように抜けて行くと再び登山道となり多武峰(とうのみね)へと下った。多武峰は山ではなく地名で桜と紅葉の美しい談山神社(たんざんじんじゃ)があることで知られる。西の外れに西大門跡があり「下乗」の表示、傍らには“女人禁制”の石碑があったが今は昔。雲が厚くなりパラパラしだしていた空は本格的な雨となり雨具を着るが着た途端に雨は小降りになった。
此の神社、元は藤原鎌足を祀り、子の僧定恵が開いた妙楽寺という寺だったが明治2年廃仏毀釈により建物はそのまま生かし神社となった。此の地は西に下れば飛鳥の里で、飛鳥板蓋宮の裏山といった位置にあり、伝説では中大兄皇子と中臣鎌足が大化の改新の密議を凝らした処が神社裏山の談山(かたらいやま566m)であるという。更に其の奥の御破裂山(ごはれつやま618m)は国家に不祥事があると鳴動したと言われ過去に35回の記録があるとか(最新は1607年)。此れが史実であるとすれば内実は不祥事ではなく単なる地震ではないだろうか。現に1607年は関ヶ原と大阪の陣の狭間の時期で特段の事件は記録されていない。御破裂山山頂は藤原鎌足の墓となり、ピークには登れないが裏手に回ると大和盆地が一望できる。
拝観料(500円)を払っているので、下山後神社を参拝したが本殿は工事中だった。バスの時間まで1時間もあるので受付でタクシーを呼んでもらい桜井へと向かった。受付の小母さんは「だんさんじんじゃ」と言っていた。「たんざん」じゃないの?
タクシー効果は大きく予定より1時間も早く帰路に着くことができた。京都まで戻り駅前居酒屋で有志4人で反省会を行い、何か知らないが大いに反省した。
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