南米最高峰 アコンカグア
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- GPS
- 711:03
- 距離
- 80.1km
- 登り
- 4,640m
- 下り
- 4,895m
コースタイム
- 山行
- 0:00
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 0:00
- 山行
- 23:12
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 23:12
- 山行
- 23:27
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 23:27
- 山行
- 23:26
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 23:26
- 山行
- 23:52
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 23:52
- 山行
- 23:42
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 23:42
- 山行
- 3:05
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 3:05
- 山行
- 1:11
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 1:11
- 山行
- 6:54
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 6:54
天候 | 12/27-1/2 晴れ、1/3- 吹雪 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2015年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
バス
飛行機
メンドーサBT―ペニテンテス BUTTINI 700円程度(4時間) ペニテンテス―オルコネス インカ社の送迎(ムーラを用いない場合はプエンテ・デル・インカから車道を3km歩きます。) |
コース状況/ 危険箇所等 |
●オルコネス〜コンフルエンシア(標高3400m) ハイキングコース。特に登っている感じもしない荒野の道を行く。コンフルエンシアには水場あり。ムーラを利用している場合には各社の水場やトイレを利用できる。 ●コンフルエンシア〜ミラドール(標高4000m) コンフルエンシアから東寄りに進んでいくと、やがて一気に登り、その後は荒野をアコンカグア南壁に向かって進んでいく。ミラドール〜プラザ・フランシアの道は不明瞭だが、適当に進めそうではある。 ●コンフルエンシア〜プラザ・デ・ムーラス(標高4380m) ひたすらの荒野を17km進む。途中何度か渡渉があり、増水時は確実に足が濡れる。川は基本泥水(気温が低いときは綺麗なことも)。快晴時は灼熱で体力がかなり奪われる。プラザ・デ・ムーラスに近づいてくると漸くまともに登り出す。プラザ・デ・ムーラスではムーラを利用していれば水は貰えます。トイレもあり。ムーラを利用していない場合には綺麗な水の獲得に苦労する模様。 ●プラザ・デ・ムーラス〜プラザ・カナダ(標高5050m) ザレザレの急登。道は幾通りもつけられていて、選択を誤るとザレ度が高まる。基本最初の方は右寄りに登っていった方がいいような気がした。下山時は体力があれば、ザレを滑って下って行けるので速い。カナダでは雪を溶かして水を作る。雪は少ない。 ●プラザ・カナダ〜ニド・デ・コンドレス(標高5580m) この辺りから雪渓が微妙に出てくるが、アイゼンはいらない程度だった。この区間は道の錯綜度は減るが、やはり複数道はつけられている。傾斜はあまりなく、すんなりとニドまで行けてしまうことでしょう。ニドでは雪を溶かして水を作る。雪は豊富。 |
その他周辺情報 | ペニテンテスにはいくつかの宿があるが、どこのシャワーもまともにお湯が出ない。プラザ・デ・ムーラスにあるインカ社のシャワーは15分10ドルだが、好評でした。自分は利用していません。 |
写真
プラザ・デ・ムーラスとアコンカグア南壁方面プラザ・フランシア方面の分岐点。ここでまずはチェックインをして、翌日にメディカルチェックを受ける必要がある。
ここがBC。ここまではムーラに荷物の殆どを持ってきてもらえる。ここにはレストランもシャワーも、まさかの画廊もある。つまり長い道のりを来たわけではあるが、まだ登山が始まっているとはいえない。到着時のSpO2は87。
感想
12/24
成田発。シカゴ、マイアミ経由でチリのサンティアゴへ。実は初の海外なので色々と分からないことばかり。
12/25
マイアミで飛行機の出発が遅れたために、サンティアゴ13時発メンドーサ行きのバスに乗れず、サンティアゴ22時発の夜行便に乗ることに。座席はCamaという、飛行機でいうビジネスクラスばりの席にしてもらう。追加料金はまさかの500円だった。南米の長距離バスは基本的に普通の席でも日本より広く快適。
サンティアゴでは8時間ほど暇だったので、とりあえずWi-Fiが使えそうなマックなどを探す。しかし、マックとか以前にどこの店も開いていない!海外ではクリスマスとなるとこうなってしまうのか!と思わされる。結局バスでしばらくいったところにあったマックだけは開いていたので、そこでしばらく過ごさせてもらうことにする。
因みに南米では殆どのところで英語は通じない。簡単な単語すら、数字すら通じない。旅行案内所ですら通じないことも多い。空港の受付や高級ホテルの受付くらいでしか通じないであろうことは覚悟しておくべきだろう。
12/26
夜行便で早朝メンドーサに到着。その後ユースホステルにチェックイン。この日はインカ社でムーラを雇って(ここでインカ社に入ると同じく訪ねていた単独者3人が全員日本人だったのは笑った)、それにより割引を受けての入山料の支払い。その後、観光協会で登山許可を得る。
メンドーサでは闇両替が盛んで(ドルに価値があったらしい)、この一週間前に来ていれば恐らく入山料が2/3くらいで済んだのだが、一週間前に突然1日に38%のペソ安となり(アルゼンチン政府がドルの規制を緩和)、公式レートと闇レートが全く変わらなくなってしまった(なおも闇両替のおじさんたちはたくさんいた、でもそのうち職を失うだろう)。入山料も11月に決定するはずであるが、この年はドルでムーラなし944ドル、ムーラあり800ドルと決定し、ペソ払いの場合は暴落したせいか固定ではなく日々変動性になっていた。つまりペソで払う意味はゼロ。ムーラと合わせて920ドル(ムーラは2人で1つ雇ったので1人120ドル)もの大金を消費することとなってしまった。
ユースホステルにはアコンカグアのガイドをしている人がたまたま来ていて、今年はかなり厳しいようだと聞かされる(恐らくエルニーニョの影響。
12/27
メンドーサを出て路線バスでインカ社の待つペニテンテスへ向かう。物価は同じくらいだが、バスは非常に安く、180km乗って66.2ペソ(日本円で600円くらい)。
10時45分、ペニテンテスに到着し、インカ社の送迎で登山口のオルコネスへ。オルコネスでは許可証を見せてから入る。ここでゴミ袋をもらう。これを返さないと罰金。下山でムーラ利用の場合には各社が勝手に渡してくれます。因みに以後、レンジャーとドクター、各ムーラ提供会社の一部の人くらいには英語が通じます。
11時55分、いよいよオルコネスから歩き出す。最初はずっと荒野の中を行くので登山という感じはしない。何よりとにかく暑かった。2時間半歩いて最初のキャンプであるコンフルエンシアに到着する。チェックインは忘れぬように。
この日ドクターにメディカルチェックは翌日の18時まで受けさせないと言われる。つまりコンフルエンシアに2泊しなくてはならないことになる。翌日の6時に受けられる人もいるのに、ここで何も見ないまま差をつけられるのは謎だったが、彼の許可なく進むと罰金なので仕方がない。ただ天気が1/3以降悪そうなので、こうなるとかなりギリギリとなってしまう。ここで出会った先ほどの日本人3人も同じような感想だった。
コンフルエンシアでは日本人下山者1人+2人に出会う。1人は天候悪くニドで5泊もしての登頂となったようだ。2人のうち1人も一旦ニドからムーラスに戻ったりと色々経ての登頂。彼が登った日に他に登った人はいなかったようだ。12月末から天候がよくなってきたが中旬あたりまでの天気は最悪だったようで、そこまでの登頂率は7%だったらしいなどと聞かされる。
12/28
コンフルエンシアで2泊することになったのでこの日はアコンカグア南壁を見に、ミラドールへ向かう。初の標高4000m越えだったが調子はよかった。アコンカグア南壁は流石に日本の山とはスケールが全く違った。ここで英気が養われる。
18時のメディカルチェックは問題なく通過。僕が朝にもメディカルチェックはやはり受けられないのかなどと聞いたため、ドクターには「あの素晴らしい景色を見て欲しかったんだということを理解してくれ。」などと言われてしまう。
12/29
8時6分、コンフルエンシアを出て灼熱の中18km先のプラザ・デ・ムーラスへ向かう。長い道のりではあるが、荷物が殆どなかったため調子はよかった。
CTより大分速い5時間半で、13時43分、プラザ・デ・ムーラス到着。すぐにチェックイン。ムーラスより上で使うウンコ袋をもらう。これは下山時にレンジャーに見せないと罰金。頑張って便をしようとしている人がいるが、中身が入っている必要は実はない。到着直後のSpO2は87だった。同行者は半分のところまではいいペースだったが、その後一気に遅れ、到着したのは僕の1時間半後の15時10分。日本の山を含めても最初に登った山はキリマンジャロ、次に登った山はモンブランとおかしな経歴で、「俺なんだかんだ登れちゃうから」といつも強気だが、珍しく弱音を履き始めた上に到着してすぐに寝てしまう。起きて計ったSpO2は68しかなかった。完全に死んでいる値である。その後79まで回復するが、やはり低い。結局翌日SpO2は80台に戻るが、ドクターに肺から変な音がすると言われて登頂を断念。登山を開始せずして下山することになってしまう。
12/30
同行者が敗退したため一人で荷揚げ。最初カナダまでの予定だったが、調子がよかったため、ニドまで行ってしまう。8時46分にプラザ・デ・ムーラスを出て、標高差700mの急坂を登り、11時6分にカナダに到着。初の標高5000m越えだ。今のところ高山病症状はないが、やはり息切れはしやすい。時折深呼吸もしながら進んでいく。11時28分にカナダを出て、13時半にニドに到着。ニドはとても広々としていて風もあまりない。カナダをスルーする人が多いのもわかる気がする。
ニドに6泊分の食料をデポして、ムーラスまで1時間半でサクサクと下山。高山病症状は寝ているときに出やすいというが、この日の夜は前夜と標高が変わらないにもかかわらず少しだけ頭が痛くなった。
12/31
1/3以降の予報はやはり最悪。1/2までに登るしかない。後3日間?普通なら高度障害が起きて無理だろう。天気さえ持つのであればこの日は休息日として翌日から徐々に標高を上げ、最低でも5日間くらいはかけて登るべきである。でも天気相手では仕方がない。僅かなチャンスにかけ、1人で重たい4人用テントを背負って上がっていく。しかし、登り始めた瞬間から猛烈な寒気と発熱。辛い。辛すぎてカナダまでで諦めてしまう。この日はカナダにテント泊。しかし、ニドに荷揚げした食料を当てにしていたため、食料をあまり持っておらず、明らかなエネルギー不足に。ザックにアルゼンチンで買った巨大サラミが入っていたから食べるが、これが臭い、まずいで最悪。その後この感じが3日間は付きまとい、更なる気持ち悪さを招くことになる。
1/1
朝から寒気、発熱が続く。頭が痛いわけではないが、発熱で更に呼吸がきつくなる。もう一旦下山したい気分だが、下山したらニドまで荷物取りに戻ってこれない気がしたので、気合でニドまで上がっていく。荷揚げのときはカナダから2時間半だったニドだが、この日は4時間もかかってしまう。ニドまで上がると日本人3人のうち2人がテントを張っていた。もう一人はコレラまで上がったらしい。やはり翌日アタックするようだが、僕はとてもじゃないがそんなに気分が盛り上がる状況ではなかった。ここで辛くても水を作りまくらなかったのも、今後更なる不調を招いた理由となっているだろう。
1/2-3
何をしていたか覚えていないが、ずっとテントの中にいた。昼は異常に暑い。何も食べる気がしない。別日程でニドまで上がっていた中央大学の2人組にテントの外から色々と言われる。多分一度も出ていないから中にいないと思われたのだろう。「何で一人で4人用テント張ってるんだよw」は俺もどうしてこうなったって思ってるよwって心の中で突っ込んだ。やはり1人用テント×2の方がよかったかな。
1/3の昼ごろ、このままでは死ぬと思い、下山を決意。でも身体が重く撤収に下山にも時間がかかりそうなので、翌日下山することにする。因みに1/3は吹雪。やはりとても登れる状況ではなかった。
1/4
12時5分、ニド発。やはり4人用テントを撤収するだけで数十分はかかっていたように思う。近くに張ってあった日本人のテントは風でなぎ倒されていた。結局この人は1/2には登頂できず、1/5以降の登頂にかけて一旦ムーラスまで下山したらしい。そうしているうちにテントが風で倒されてしまったのだろう。因みに同じ日に入山した人で登頂できたのは恐らく一人。コレラまで上がっていた日本人だ。この方もコレラの時点でもう辛かったらしいが、頭を痛めながら気合で何とか登り切ったようだ。凄い。
登りのときと違ってカナダまでは雪が多くのところに積もっている。ただよくしまっていたので、アイゼンをきかせながらカナダまでは何とか下っていくことができた。ただ吹雪いていたので道がよく分からなくて少し苦労した。
カナダから先はザレ。道の判断をミスって急坂に入ってしまい、尻をついて転んでからはしばらくザレの上で荷物が重すぎて上手く立てない状況が続く。結局徐々に滑るように下って何とか突破。ただやはり荷物が重すぎて、しかもエネルギーも不足しすぎていてふらふらに近い状態。そこを通りがかったアルゼンチン人の2人組に助けられる。1人には荷物を持って頂き、もう1人には肩を貸して頂いた。本当に涙が出た。そうこうして16時35分、何とかプラザ・デ・ムーラスに下山。直後にメディカルチェックを受けるが、やはりSpO2は高い値が出る。12/31-1/1の寒気は高度障害とはまた別の理由か?あそこから悪夢は始まったが、何とか無事にBCまで降りてこれてよかった。
この日はとにかく食べまくった。水も飲みまくった。高山では水はもっと意識的に飲まないとダメだなと勉強になった。ただ今回はそれ以前に身体が動かなくなってしまったのだが。夜はどういう経緯かパーティに参加。中々楽しかったです。
1/5
登頂できた日本人の雇ったムーラに便乗させて頂き、共に下山。長い道のりだったが、調子はもう悪くなかった。天気はまだ悪く、雨や雪も断続的に降った。ペニテンテスでは同じ宿に泊まった。お湯はちょうぬるくて凍える。近くにあった高級そうなホテルでもお湯は出なかったらしい。
1/6
ペニテンテスでもう一人の日本人とも合流して3人でメンドーサへ。もう1人はまだ挑戦中だが、結局天気がずっと悪くてダメだったことが日本に戻ってからわかった。この日の朝からお腹の調子が悪くなり、水下痢しか出なくなる。当然お酒は楽しめなくなった。
メンドーサでは有名店でステーキを食べたが、こちらのステーキはどこで食べても恐らく味は変わらない。高級肉を使っているわけではなく、分厚さが変わるだけ。味付けは特にない。塩胡椒のみ。ここは僕も気に入るところだが、メンドーサのスーパーで買った分厚いステーキ肉を自分で焼いたのとあまり変わらなかったのは残念。
1/7
日本人1人とは別れ、もう一人の登頂できなかったおじさんとサンティアゴへ。ホテルは2泊取ったが、まさかのミスってダブルルームでとっていて、受付に笑われ、これは複雑な問題だ、どうしようといった顔をされ、結局無料でスイートルームに変更に。とてもいいホテルだった。
1/8
この日は世界遺産のバルパライソを観光した。夜はホテル近くのSUSHIと書いた店でGOHANという謎の海鮮丼のようなメニューを頂く。寿司のつもりらしいが、ご飯はそもそもがまずい上に酢飯ではない。ご飯の上にはアボカドとバターものっていて気持ち悪く、残してしまった。
1/9
この日はサンティアゴ市内観光。サンクリストバルの丘の動物園と頂上、サンタルシアの丘に寄って、夜はrestaurant japonで海鮮丼の食べ直し。因みにおじさんとはこの日別れました。サンティアゴには日本人経営の寿司屋がいくつかあって、特にここは評判がよかった。実際とても美味しく鉄火丼(板前さん側からの提案)を頂かせてもらいました。チリも魚は美味しいので、上手くやれば美味しい寿司を出せると思うんですけどね。板前さんに聞くとサンティアゴでSUSHIを出している店(チリ人経営)が多いのは現地人が生魚に全く抵抗がないからだそう。
1/10
帰国日。サンティアゴ市内を散歩しつつ、モネダ宮殿やたまたまやっていたKIMONO展やSAMURAI展に立ち寄って、ホテルからタクシーで空港に。22時過ぎに出発予定だったが4時間前に到着。のんびりと飛行機を待っていると、出発30分くらい前になって突然欠航に。この後手続きが色々大変でしたが、新たな航空券とホテル2泊分(超レイトチェックアウトのため)、ホテルまでのタクシー券とディナーとランチ券をもらい、26時に漸くホテルに。高級ホテルでした。疲れ果ててしまったのでこの日は爆睡。実際大変だったのは全乗客の航空券やホテルを一人ひとり取っていた空港の受付の方でしょうけど・・。僕はうまいところに並べたから25時過ぎには空港を出れたけど、人によっては27時くらいまでやってたんじゃなかろうか。
1/11
ホテルで超長々とランチなども頂きながらのんびりとして18時40分に出発。この日はちゃんと欠航にならずにサンティアゴ23時発ヒューストン行きの便に乗れました。
1/12-13
ヒューストンで乗り継ぎ、20日ぶりに日本に帰ってきました。
今回は経験不足もありましたが、エルニーニョの影響で天候が安定せず登頂とはなりませんでした。しかしながら得られたことは多くありました。今回の経験を次に繋げられたらなと思います。
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