パタゴニア パイネ

- GPS
- 344:00
- 距離
- 161km
- 登り
- 7,323m
- 下り
- 7,423m
過去天気図(気象庁) | 2011年01月の天気図 |
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アクセス |
写真
感想
パタゴニア・パイネ
2011年1月10日〜2月14日
○全体のながめ
パイネは南米チリの南緯50度あたり。樺太付近の緯度だが、風が強く、フィヨルドと海面まで伸びる氷河のあるサムザムしい土地。19世紀あたりまで西洋人の本格的入植もなされず、毛皮狩猟の先住民が暮らしていた世界の果てだ。パイネ山塊はその中心。直径25km、大雪山くらいの規模に3000m前後の山が氷河を載せている。最高峰パイネグランデ3050mの西側に、パイネの顔、ロス・クエルノス(つの)、アルミランテ・ニエト2668m、その北側にはラス・トーレス(塔)の標高差1000mの花崗岩のワインボトルが三本立っている。今回はこの一周80kmを一週間かけて反時計回りトレッキングして、最後に、数日で登れそうなアルミランテ・ニエトをアタックする計画。山域へのアプローチは氷河湖上の船、発動機付きゴムボート、野越え山越え騎馬行もあり。この地の馬文化、ガウチョ(羊飼い)の暮らしぶりも訪ねる。全行程40日。ディレクトールはフリーランスのマサさん(56)、南米付き合い30年超の人格者。カマラグラフォは山岳取材しか能のない米山(46)とヨコ(37)。現地通訳兼手配師はトールさん(37)在サンチアゴ8年のとても真面目なスペイン語使いで、スペイン語やチリ文化のことを何でも教えてくれた。全行程一緒のトレッキングガイドは、ルイス・ナニョス(29)、ブエノスアイレスの歯科学生でプンタアレナスに夏休み帰省中。
○遠い道のり、さらに遠くなる話ばかり
1月10日午後の便で成田発。アトランタで例外的大雪、乗り継ぎ便が欠航し、翌日11日のサンチアゴ便になる。そのサンチアゴ便も席に座ったまま2時間半遅れ出発。12日サンチアゴについて現地通訳コーディネーターの猪瀬トールさんと合流。国内LAN航空便でプンタアレナスへ向かう。が、当地ではいまガス値上げ反対闘争で、パロ・ヘネラール(ゼネスト)中とのこと。途中経由地のプエルトモントでおろされ7時間待機。その後深夜プン
タアレナス着22:30→0:30。ところが空港廻りはデモ隊のバリケード封鎖で、車が市内へ入れないという。ドイツ人観光団は市内までの10kmを歩くと、鼻息荒く出撃していった。
空港の片隅で眠る支度をしていたら、誰がどう工面したのか市内行きのバスが出るという。300kgの荷物を慌てて積み込み、バリカーダまで。ここで押し問答ののち後退。闇の中焚き火を見ながらぼ〜っとしていると、裏口からトヨタのトラックが現れ、これに荷物を積み替え、ダート道から市内へ。ようやくコボ・デ・オルノス(ホーン岬)ホテルについたのが午前4時半。成田離陸からここまで、なんと12+6.5+24+2.5+9+4+2+6.5+
2+4=72.5時間かかった。日本発の便でお隣になった、アルパインツアー社のトレッキングガイドの水津幹雄さん一行も、ブエノスアイレスに向かったはずだがなぜかこのホテルに。あちらから、パイネに入れなかったとのこと。水津さんはセロトーレ西面の凄い登攀をしたクライマーで、パタゴニア通のお方。このツアーでは10人ほどのお客を山麓トレッキングにお連れする予定とのこと。耐久機上移動で読書が捗った。ツヴァイクの伝記「マゼラン」、「アメリゴ」、福島安正中佐の「単騎遠征」。やる気充血、奮起満々。
○プンタ・アレナスで5日間ほげほげ過ごす。
ガス値上げ反対!No al alza del gas! があちこちに書いてあり、市内の店は閉まり、車がマゼラン(マガジャネス)州の旗と黒い旗を掲げてパラパラ警笛ならして走っている。市内の観光客はすべて足止め、ヒマそうだ。飯食って歩き回って眠るだけ。おかげで時差ぼけの修正にはなったが風邪も引いた。
ここチリ南端のマガジャネス州は、フィヨルド地形のため北部と陸路で繋がっていない離れ小島なので、燃料代の補助など優遇措置が20%あったが、それが無くなる事になりそれでこうなった。観光シーズンなので収入に響き、当局に強いPRになるらしい。パイネ山麓観光団などはお気の毒だ。パイネのホテルはすべて前払いでお金が戻らない。このストの町だけ見て帰る羽目になった。料金は65万円とのこと。
よる10時まで日が暮れない。宿からはマゼラン海峡が見える。町は船の時代に羊毛の輸出で栄えた。今は観光だけだ。そんなところも、坂の上から見下ろす眺めも、函館にそっくり。対岸のティエラ・デル・フエゴは差し詰め下北半島にそっくり。1914年パナマ運河開通でこの街もさびれた。いま人口14万人。スーパーで求めたチリ産ワインは安くてうまい。日本で買う値段で求めたら、3倍くらいの値打ちではなかろうか。食べ物は至って簡単。変化のあるものはあまり食べない。肉、付け合わせ、コングリオ(白身魚)。魚介がうまいとはいうけれど、日本に比べれば少ない(比べる物ではないけれど)。トマト、コリアンダーのテブレというソースがおいしい。パンに載せたり肉に載せたり。メキシコにもあったサルサと同じ物。パンは全体にぱっさりしていてあまりおいしくない。でもワインがうまくて最高。
5日目、大司教が仲介役でストの交渉がされる。その大司教の家の前に張り番している地元マスコミを見た。地の果てまで来てこんな物見るなんてなあ、とヨコとサムい思いをする。そろそろ終結しそうだ。
おかげで読書捗る。フリッチョフ・ナンセンのフラム号航海記再読。革命的発想のスマートな計画を発案し3年もかけた北極圏漂流探検記。智と肉体の最高傑作。終章「その夢は来た。そして過ぎ去った。だがこの夢なくしてなんの人生であろうか」には落涙した。
○プエルトナターレス〜船でセラーノ川を行く
ストもほぼ収束。バリカーダも交渉すれば通れる様になり、「観光ではなく、取材でござる」と言い張り、車で3時間北のプエルトナターレスへ。車道脇にはグアナコ(駱駝みたいな鹿みたいな四つ足)、ニャンドゥー(駝鳥に似た二つ足)、フラミンゴ(ご存知桃色の鷺)など多し。ナターレスはパイネの登山基地で4万人程の町。ここで今後の日程を建て直す。
観光船+ゴムボートを一気にし、騎馬行軍を一日減らして長距離にし、予定通りここから行程をスタートすることに決める。これまでは案じても仕方が無かったが、ここが案じ時だ。
ナターレス港は、フィヨルドの海水が繋がっていて、ここから観光船でフィヨルドの奥へと進む(3時間半)。スト開けの第一便で欧米人観光客30人と共に奥へ進む。ラテン男のルイスが船の添乗員バイトの美人女子学生4人と大いに盛り上がっているので僕も混ぜてもらった。でも、チリなまりの英語、凄くわからん。
氷河の垂れ下がるフィヨルド湖はUltima Esperanza(最後の希望)。16世紀のスペイン探検隊がこのあたりを踏査中、この入江が海へ抜けるか最後の望みを託した由来らしい。この時代の探検記は邦訳されていないが、地元の船頭兼カニ取りの素潜りオヤジでさえ読みこんでいる。トールさんに、いつの日か翻訳をと愁訴する。
観光船の終点から発動機付きゴムボートで、びゃ〜〜っとセラーノ川を遡る(行程56km)。曇天。蛇行の両岸はパタゴニアっぽい南極ブナの疎林や野生の脱走馬なんかもいる。
水鳥(カイケン)が逃げる。ティンダル氷河も遠望。数メートルの滝があるのでそこで乗り換え、しばらく行くと、ガスガスの雲の中にパイネの看板風景、ロス・クエルノスの威容が現れた。遂にパイネと対面だ。終着はプエブリート・セラーノ(セラーノ村)といわれる宿数軒のあたり。ゆったりしたコテージ風。ここからは朝焼けのクエルノ、そしてアルミランテ・ニエトを初めて拝見した。格好よい三角の山容だ。氷河湖との風景は、銭湯画にふさわしいほどきまっている。パイネ山塊は大雪山ほどだが、それを囲むこうした無人に近い原野、湖沼地帯は北海道(それ以上)くらいの広がりがあるところが全然違うのだ。
○騎馬行軍十三里
遂に憧れのウマの背長距離行。日本でこれができるところは無い。先日読んだ、吾が郷土松本出身の福島安正中佐の1892年ベルリン→ウラジオストック単騎シベリア遠征記は1年半。
記録のヤマ場を朗読して気分を盛り上げる。パイネの前景は長さ20kmもある氷河湖が二つも三つも入り組み、大きな木の生えない緩やかな丘陵が続く。ここを延々50km以上、二日をかけてウマで進もうという趣向。野を越え丘を越える度、パイネが形を変え、広大な水面が姿を見せるのだ。数百頭のグアナコの群れに吾ら騎馬隊はなだれ込み、ドカドカと並走するという一幕には夢の様な思いもした。
然し乍ら一日11時間の馬上行は尻に対する圧迫が猛烈で、日の終わりにはほとんど皆尻を摩っている始末だった。福島将軍の偉業を、身を以て知る。騎乗術というのは全く以て馬次第。躾の良い馬ならば乗り手の経験は関係ない事が分かった。途中撮影準備中、馬4頭に逃げられたり、ヨコが馬上で横枝に当たり眼鏡を壊したりというのもあり。
通常はパッカンパッカンのペース。やや遅れをとったり道草食って(文字通り)の埋め合わせでパカポコパカポコのペースになると、尻が痛い。その上の、パカランパカランのペースになるとこの躍動感、馬との一体感は爽快。馬丁の男は拍車を付けた長靴にベレー帽というのがお決まりのスタイルだ。皆埃っぽいけど良い男ばかりだ。デジカメ撮影は容易だが、750は背負うわけにいかず、膝上にというわけにもいかず、一頭の馬の背に縄で縛り込むのだが、この荷造りが付けるのにも解くのにも10分はかかるので、頻繁にとはいかなかった。そこが難点。ペオエ湖、サルミエント湖、ノルデンショルト湖、アスール湖、パイネ湖と超え、遂に馬を放つ。
○徒歩トレッキング峠超えまで
時計でいうと2時の辺りまで馬、そのあと三日かけて11時の方角の最高点エル・パソ(峠)を超え四日かけて長大なグレイ氷河脇を8時まで下り、4時の方角の終点ラス・トーレスホテルまでの一回りが一週間。
パイネ湖畔キャンプ場で、トレッキングのガイドですと、セルヒオ(32)を紹介される。
ガイドが変わるのを初めて聞いて一同驚く。ルイスは以降食事当番兼運搬ポーター頭に。
学生バイトなどのポーター6人を紹介される。セルヒオのラグビーチームの部員とのこと。若々しい17、8歳。しかし200kgはあろうかという荷物、人数が足りないのでは。この先二つ先のキャンプまでは馬が運ぶから大丈夫とは言うので一応任せる。
通称南極ブナ(コイウエ、レンガ、ニレと三種ある)や、刺だらけの低灌木マタバロスなど、セルヒオに名前を聞きながら進む。曇天で風が強いかと思えば雨、陽光。これが10分おき、時に同時に起こる。雨と日差しが同時に。天気予報は誰も気にしないし、くるくる変わるからかえって気楽だ。雨はそのうちやむ。虹もよく出る。この辺りは山麓トレッキングでも最も人の少ない辺り。一周コース一週間をする人はほとんどいないので道もかなり不明瞭だ。パイネ湖西端の、沢の渡渉点が増水していて、パンツ一丁で渡る一幕あり。
水かさはへそ下くらいで、こけたらやばいレベル。今回初の緊張シーンとなる。
ディクソンキャンプには山小屋あり。二段ベッド、シュラフ持参だが、食事は立派。便所もきれい。ガト・ネグロ(黒猫印の安ワイン)1リットルパックを500円くらいで売っていてラッキー。学生人夫たちにふるまう。
ペロスキャンプではテント泊。コイウエの森の中だ。ここでもビールが買えた。
○峠越えエル・パソ
一周コースで最高点の峠はパイネ山塊の北西端。標高1241mで樹林限界を超えている。氷河末端モレーンのガレ山をたくさんの若者が登ってくる。日本と違ってこのあたりに中高年はすくない。あきらかに素人風も多いが若者が一生懸命登る姿はいいなあ。トールさんによると、チリ国民でパイネに来るような人は相当裕福な人が多いとの事。たしかに皆着ている服がノースフェイスとか上等ではある。峠手前で猛吹雪に変わる。
山初心者のトールさんが遅れだしていたので雪の中待っていたが、ずいぶんスピードが落ちていた。
セルヒオが抱えながら前進、峠を越えてひたすら標高を下げる。雪つぶてで目も開かず道は分かりにくいが、40mおきくらいに棒が立ててある。ニレの樹林に入ったところで休み、トールに飲食させる。シャリバテに低体温のようだったが、まあ峠は越えた。
下るにつれ視界が利き、長大なグレイ氷河が姿を見せる。幅8km、長さは数十kmというところ。カラコルムのバルトロと違い落石も乗っていない美しく青い氷河だ。
樹林の中のエル・パソキャンプにつくとエラい事が判明。きょうの行程、やはりポーターが荷物を運びきれず、半分近くをロス・ペロスに置いて来たという。事前には「できる」といってもその場になってできないという。やっぱり任すんじゃなかった。丸投げは駄目だ。結局ポーターの人数をケチったというわけだった。キャンプ場に寝袋を借りたりして一晩過ごす。
○グレイ氷河探索
幅8km、長さ地平線までという長大なグレイ氷河。末端は氷河湖に浸水。エル・パソキャンプから標高差200mの岩壁帯を下って氷河に降り立つ。一般ルートではない。氷河は10年前に比べ3kmほど後退している。氷河に簡単に降りられるルートは、今は無い。セルヒオの案内で氷河の上をあちこち歩く。ヒマラヤの懸垂氷河と違って、ここは谷底で平らなのでヒドゥンクレバスがない。安心して歩ける。氷を少し掘ると、輝く青色。氷河上
を流れる水流が谷を穿ち、青い渓谷があちこちに出来上がる。今日はこれまでに無い晴天で、まぶしい限り。
この日のクランポンとピッケルやハーネスは届いていないので、ルイスのを借りた。ルイスとポーターはその置いて来た荷物を取りにもう一度ペロスを往復。翌日からの行程は流しのポーターを新しく捕まえたりして凌ぐという。なんとも予定を立てない連中だ。
○氷河左岸を下りパイネグランデの麓まで
次のキャンプグレイまでは7人+流しのポーター2人でなんとか撮影機材を運んだ。氷河左岸の中腹を登ったり降りたりして何度もガレーを超え、コイウエの森を歩いて高度を下げていく。赤く丸い実のトゲトゲ植物やスミレの仲間、真っ赤な頭のマゼランキツツキも撮った。野生動物はプーマ以外あまり逃げない奴が多く撮りやすい。ヨコが用意した18倍の望遠レンズも軽くて重宝だ。この辺りまで来ると氷河を見るため登ってくるトレッカーが増える。老若男女各国さまざま。
グレイキャンプからパイネグランデホテルまでも、植物、動物、コンドルを撮りながら行く。そういう動きに退屈しているのか、気分屋のセルヒオがなんだか不機嫌で逆キレしたりしている。パイネグランデホテルはこれまでの一周コースにない上等なホテルで、上高地なら小梨平まできたかという雰囲気。この湖畔からは馬も船も使える、一応ポーター問題はこれで解決。
○人通りの多い「w」コースをラス・トーレスホテルまで
このあたりは、パイネ一周ではなく、南半分を「w文字」型に歩く4,5日のコースになるので、手ぶらのトレッカーも増えてくる。初めて韓国や日本人のトレッカーも少々あうようになった。パイネグランデやクエルノの麓を通るので絵になるところも多い。珍しいも欠かさず撮りながら前進。蚕棚の山小屋風のクエルノ小屋に一泊。学生バイトのポーター諸君の素性など、葡萄酒飲みながら聞く。フエゴ島出身で13歳からプンタアレナスに来
ている者もいる。下北→函館という感じか。日本人代表として親しみ深く交わる。
ここからラス・トレースホテルまでも鳥や花を撮りながらトレッキング街道を行く。クエルノスはやはりある程度離れた方が絵にはなる。が、近づいた姿もまた面白い。毎朝出発は言っておいた予定より1時間や2時間は遅れる。セルヒオの支度待ちだ。特に悪気もなくこういう国だし、日も長いので、どうのこうの言わず読書して待つことにしている。このあたりで読んでいたのはリンドバーグの大西洋横断飛行記。ラス・トーレスホテルは10日前に騎馬で出発した立派なホテル。これにてパイネ山塊をくるりと一周した。セルヒオもうれしそうだ。
○アルミランテ・ニエト山東峰(2640m)アタック
トレッキングで一周したパイネ山塊の西半分が主峰のパイネグランデ(大パイネ・3050m)。その東側の大きな塊がパイネチコ(小パイネ)とも呼ばれアルミランテ・ニエトのある山彙。ニエトの北側には千メートルの瓶三本立てたようなラス・トーレス、すぐ西はパイネの顔のクエルノスがある。ニエトは、急峻なパイネの中では一番「普通に登れそうな高峰」として計画された。が、事前に聞いていた登山計画は、現場でセルヒオに聞く話とはルートも、日数も全然違っていた。その理由は、多分この山はあまりガイドも登らないので、詳しくなかったということだろう。パイネのガイドはトレッキングの世話がほとんどで、後はビッグウオールクライミングの連中が世界中から登りに来るだけで、ふつうに登れそうなパイネの高峰に来る人はほとんどいないようだ。地元のトレッキング会社もそこに雇われたセルヒオも、結局アルミランテ・ニエトのルートを正しく把握していなかったようだ。
日程が詰まっているので、トレッキングを終えて休みなしでラス・トーレスホテルから半日でアタックキャンプに移動、セルヒオの示した案、この天場からの日帰りロングアタックの支度をする。登り8時間、下り4時間とのこと。撮影入れて15時間はいるだろうか。北面のガリーを登って主稜線に出たら岩壁50mで一回アンザイレンする。その後岩稜と雪面を伝い山頂へ行くという。セルヒオは二度登っているという。ここでルイスが知り合いだという、若いガイド・マウリシオ(29)が加勢に来た。3時起き、4時発の予定で寝る。
一日目: 夜半からすごく風が強いので、行くのをやめる。上がればやむかもしれないし結局天気は良かった。たぶんみんな疲れていたのだろう。この日はラス・トーレスの麓まで行き、モレーンの上に登って、トーレス撮影に没頭した。アルミランテの登行ルートも見える範囲で見分する。トーレスの超人ルート、「ライダーズインザストーム」のラインをマウリシオに教わる。ドアーズの1969年のナンバーだ。みんな鼻歌を始める。
二日目: 米山、ヨコ、マサ、セルヒオ、マウリシオで、750とビンテン持って突撃。
4:30発、5:30樹林限界でトーレス展望観光コースと分かれる。10:00、稜線に続く雪のガリーの下、岩でガレガレの末端を登るうち、セルヒオが遅れる。やる気がなさそうだ。
クランポンに履き換えたところで、危ないから自分はいけない、みんなで行ってくれという。登場人物が変わるのが困るのでなんとか説得したかったが、全然やる気がないので別れる。そもそも、彼の靴はトレッキングシューズだ。クランポンが合わない。メインガイドのこの態度には唖然とするが、マウリシオがいるので前進する。氷のガリーは取り付いてみると結構な傾斜で30~45度ほど。標高差300m、距離500mほど。ザイルをい
ちいち出してはいられないが、滑ったら止まらない。剱沢の長次郎雪渓の上の方が長くなった感じ。
標高2170mのコルで核心部の岩壁を見上げる。残置のフィックスザイルがある。視界が500mほどで時折小雪。登頂いくだけならいけるが、撮影できないと意味が無いので時間待ちをする。気温0度前後、風はあまりない。小さな雪庇を利用してイグルーを作る。3人しゃがんで入れるのを40分ほどで仕上げるが、最後の整形段階でへまをして屋根が崩壊し
た。残念、まあ風よけにはなる。12時半、再登を誓い下る。長い氷の斜面は結構疲れる。
マウリシオは一回滑落して10mほどでたまたま止まる。マサさんはこの日ずいぶん膝にきたようだ。16時半アタックキャンプ帰着。
三日目: マサさんはきのうの場所までが足の限界、とのことで、アタックは米山、マウリシオで行くことになった。カメラはチビカメ。ヨコは朝まで迷ったが、強い希望があったのと、登場人物二人いたほうが良いので加えた。二人と三人では、時間読み、動き方など、変える必要があるのでいろいろ組み立て直す。マウリシオの寝坊で、5時半発。8kの750カメラをやめたのでスピードが出る。前日より一時間早いペースで、コルに到着
11:00。マウリシオが岩壁をトップで行く。50mいっぱい。途中で一か所ギャップがあるがそれほど難しくはない。とはいえ落ちたらやばいピッチ。マウリシオはビレー点を3ヶ所とっていた。こういうところは念入りだが、ピトン類などは手ぶら。ここで、朝すごいスピードで登って行ったスーパークライマーが降りてきた。山頂手前の雪稜まで行ったがまだ時間
がかかりそうなので帰ってきたという。そこがめざす東峰山頂ではないかと推測する。残地の凍ったフィックスロープにプルージックを巻きつけてするすると降りて行った。見かけた登山者は、この男ただ一人。
岩壁の上も延々緊張箇所は続いた。岩稜を右に巻き、下の見えない急なルンゼをクランポンの前爪とピックを刺して70mほどまた上がり、稜線に戻るとやや広い雪面。このまま楽勝とはいかず、その雪面も急傾斜になってきて、こちこちに凍った長い斜面に岩とのミックス、時折強風とガスが吹き、南山麓の地平線までの大草原と湖群が垣間見える。あっちのほうがアルゼンチンだ、とマウリシオ。ミックスの急なルンゼから再び岩稜に乗
り、少し安定した所で15時半。標高2700m付近と思われる。帰りも全く緊張が解けないルートだ。人数も3人だからここらが潮時だろう。引き返しを決める。先はガスが時々飛んで、岩、雪のルートがまだしばらく続く。難易度は分からないが、すぐに終わるとは思われなかった。帰路、岩稜からミックス氷斜面への入口が見つけづらく絶壁の行き止まりをクライムダウンしかける。眼下1000m空中何もなしの非常に怖いところだ。雪面の傾斜が緩んだところで、三人そろっての引き返しシーンを撮る。この辺り、視界が利き、ラス・トーレスがほぼ同高度で臨まれ、その右のかっこいい山、フォルトレーサやカテドラールが姿を見せた。
慎重に下った。下りの方が難しい。コル帰着18時過ぎ。日没は22時だ。コルからのガリー500m、ヨコはすべて大事をとって後ろ向きバックステップで降りた。時間はかかるが確実な方法だ。けれど、これはこれで疲れる。安全圏のガレ場を降りていくと、植生の生える薄緑の台地でルイスがお茶とチョコレートを持ってお迎えに来てくれた。熱いスープを頂いた。キャンプには日が暮れる22時ころ帰着。登り10時間下り5時間半だった。こ
の日の撮影はすべて登りながら撮る、つぶやき撮影でほとんど休みなし。三脚はスチル用の簡単なものを一回だけ使った。デジカメはファインダーを開くと自動でスタンバイになり、声も良く録れる優れたもの。作業服の大きめの胸ポケットに入るので安定する。こういうドタバタアタックの撮影には十分と感じた。
アルミランテ・ニエトの可能性について。標高2300あたりの平らな雪面にイグルーを作り、二日かければ余裕の撮影山行ができるだろう。ただし、ロープなしで急な雪面を荷揚げできるメンバーが数人必要。しかしパタゴニアには、クランポンを使うレベルの山登りの行動および生活技術が洗練されたガイドは、いないのかもしれないという印象を受けた。山岳班のエキスパートカメラマンならばガイドなしでもいける山だと思うが、長く緊
張を強いられる難しいルートだと思う。ヨコは今回こういうのが初めてだったはずだが、最後まで確実にこなした。度胸がついたと思う。この日の天候は無風、氷点下4度ほど。
日中ガスも多かったが15時以降は視界が利いていた。
○山麓風物
二週間ぶりに一休みして終日コロンブスの第一回目の航海記を読み、ラス・トーレスホテルから車で行けるところで山の姿を撮影する。朝焼け撮影の朝、ルイスと運転手マルセロが寝坊して撮り損ねるなどもあったが、全体に好天が続き、アルミランテ・ニエトの姿はじめクエルノス、グランデなど、湖沼との遠景など良くとらえた。動物も撮り易い。グアナコ、ニ
ャンドゥー、スカンク、フラミンゴ、キツネ。山麓のガウチョ(馬乗り)たちの暮らしぶりでロデオ大会(セロ・カスティージャ)や3000頭の羊を追う姿(セロ・ギド)など撮影。パタゴニアはスペイン人が発見してから200年ほど、使い道がなくてほとんど入植も無かった不毛の地。羊の放牧といってもそう草は生えていないから、すごく広い面積が必要なのだ。地平線のあたりまでがうちの牧場です、とセロ・ギドのお姉さんは言った。
19世紀になってからブラウン・メネンデスという牧場王が柵を囲い、先住民は行き場をなくした。北米、北海道、ロシア極東、すべてこの時代が同じだ。
ガウチョは髭を生やし、ベレー帽、ブーツ、日焼け顔。言葉が通じないうちが仲良くできるというもの。ボタという革の葡萄酒入れから空中に飛ばして葡萄酒を飲み、羊の丸焼きを食べる。一番うまいのはアバラのところだそうだ。マリオという毛刈り職人はスーパーマリオにそっくりだった。1943年製という羊の毛刈り工場のメインエンジンは、水冷式
のスピットファイヤ戦闘機の爆音みたい。マンチェスターからの輸入品とのこと。
○空撮
14万人の大都会プンタアレナスに戻り、空撮の打ち合わせ。二日あった日程も、ヘリの機体不調とのことで、チャンスは1日ぽっきりに。浮いた一日は郊外にマゼランペンギンを撮りに行く。
空撮は、一度片道2時間のパイネ公園管理事務所で着陸しそこでジャイロスタビライザーを床に取り付け、現場空撮の後そこではずして扉を閉めて帰る段取り。途中のプエルトナタレスで往復とも給油する。機体はユーロコプターBO105。
横田が何度も稽古したスタビライザーの組み立ては完ぺきだ。20分程で組み立てる。床に銃座を据え付け、機関砲の構えだ。前は通訳のトールさんと機長マルセロ。後ろに撮影のヨコとアシストの米山。
今日のパイネは残念ながら標高2000m以上は雲の中という感じだ。時間待ちも考えたが、ひとまず飛ぶ。アルミランテの東側まで行き、Uターンして右サイドのカメラ側を向けてわりと遠めに山塊を回る。トーレスのある谷やアルミランテ・ニエトの登山ルートの方へは、気流が乱れて入れなかった。そのままグレイ氷河の方へ回り込むと日が射し晴れている。
懐かしの青いセラック帯の上を低空飛行してくれた。いったん現地で着陸。時間待ちをする。トールさんもヨコも気持ちが悪いそうで、弁当を食わない。なのでカメラマン交替して、二度目のフライト。待っても山の雲はどかず駄目そうなのでウルティマ・エスペランサの入り江までもどってセラーノ川を船で登っていく映像の低空・川の上カットを撮る。トールさんが通訳してくれるのでマルセロは注文通り飛んでくれる。撮影飛行にはナショ・ジオもやっていて慣れているそうで、コロンビアのゲリラの掃討ヘリも運転したと言っていた。二人ヘリ酔いしたので「日本からサムライが二人減った。ロストサムライ。おまえだけラストサムライ」とダジャレを賜る。山の天気が悪く残念だったが、できる範囲でできることはすべてした。
○陽気な皆さんと食事 まとめ
ガイド会社ヤマナの社長ミゲルの自宅は函館でいえば二十軒坂の上、海峡を見下ろす良いところで、プンタアレナス住民の多くの移住元、チリ中部チロエ島の名物料理、肉や海産物の煮込み料理(ちゃんこ鍋風)を頂く。ミゲルはスペイン語で何を話しているのかわからないけれど話するのを見ているだけで面白い男。若い奥さんの料理の腕前に深く感嘆を伝える。チリ
のスペイン語は早口の上、Sを抜くのであまりスペイン語に聞こえない。ピングー語のようだ。グダグダの酒飲み会話ながら、トールさんが全部訳してくれて、山あり谷ありの工程の話、両国の世相風俗の話など続いた。セルヒオが帰ってしまった話やポーターが足りなかった話などはミゲルも遺憾と、謝意を述べた。登山計画やアルミランテ・ニエトの難易度が事前の話と全然違うことについては、「山頂に行く計画だと認識していなかった」
と述べたのでそういうことかと納得がいった。やっぱり有名ではない、情報のない山にラテン系の人と行く時は、こっちで自分で調べなきゃだめだなあ。調べようもないけど。それはともかく最初から最後までずっと一緒だったガイド、ルイスは器用で賢く気立ての良い陽気な働き者だった。毎朝、調子はどうだいと声をかけてくれ、冗談を欠かさない好漢だった。荷揚げ計画などは甘かったけれど、汗水垂らしてよく働いてくれた。深くお礼を言った。飛行機トラブル、ゼネスト、パンツで渡渉、馬逃げる、メガネ壊れる、ガイド逃亡、ルート立て直し、運転主寝坊およびパンク、ヘリ不調、運転手腹痛で救急車・・・と数々のモンダイが起きたが大体すべて解決。撮るべきものは撮った。問題解決の充実感は大きい。これぞロードムービーの醍醐味だと思うよ。
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