日陰名栗山・雲取山・天祖山
- GPS
- 30:05
- 距離
- 30.4km
- 登り
- 2,524m
- 下り
- 2,523m
コースタイム
東日原BS 6:55 - 八丁橋7:35 - 下降点7:50 - 尾根に乗る8:10 - 1247mピーク9:21,9:28 - 巡視路10:13 - 石尾根合流11:20 - 日陰名栗山11:27,11:42 - 峰谷(赤指尾根)分岐12:13 - 七ツ石山12:41.12:50 - ブナ坂13:03 - 奥多摩小屋13:32 - 避難小屋14:40,14:54 - 雲取山15:00 - 雲取山荘15:26(泊)
4/30
雲取山荘5:00 - 大ダワ5:15 - 芋ノ木ドッケ6:00,6:05 - 長沢山7:27,7:40 - 板小屋の頭8:08 - 天祖山分岐 8:16 - 梯子坂のクビレ8:44 - ナギ谷の頭(1671mピーク)9:08 - 天祖山9:25,9:42 - 大日神社10:57 - ロボット雨量計10:59 - 巡視道分岐11:09 - 尾根を外れるところ11:21,11:28 - 登山口11:52 - 東日原のラーメン屋さん12:50
天候 | 4/29晴れ・暑かったっす。 4/30曇り・ちょうど良かったっす。 |
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過去天気図(気象庁) | 2012年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
13:30東日原発、奥多摩行き。増便でました。それでも立ちあり。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
・下降点から反対の尾根に乗るまで。 通っちゃダメよんの標識の横から入ります。788mの左を巻いて尾根に乗ると下の方に吊り橋が見えます。ちょっと頼りない道を下って吊り橋を渡ると、またちょっと頼りない道をジグザクに上がって尾根に乗ります。この道、浮き石を落としたり、自分を落としたりしないようにご注意を。 ・1247mピークまで 巡視路はどこかで尾根の左に回り込むハズ。ここから直登か?を2回位ハズしました。巡視路も左(東側)の斜面をジグザグに結構登っているようです。下部の方は直登するよりも巡視路を辿る方が楽。下の方は尾根もそれ程広くはなく、尾根筋を追うのは簡単です。巳の戸沢の反対側、八丁山・お伊勢山が高度の良い指標になるでしょう。八丁山と大体同じ高度に達すると1247mピーク。 ・石尾根まで この先は広い尾根で、どこでも上がれそうな感じになります。やや西より気味に登る。これまた、ヒルメシクイから鷹ノ巣山の稜線が良い高度指標となるでしょう。ヒルメシクイよりやや低い所で巡視路を横切る。ちょうど林班界標46|47の所に上がりました。その先辺りからスズタケが段々濃くなります。場所によって背丈ぐらい。踏み跡は幾つかあるようですが、樹林の向こうに日陰名栗山が何となく見えているので、方向に迷うことはないと思います。石尾根に飛び出せばいきなり大展望。日陰名栗のピークは西に5分ほどの所。 ・雲取山荘まで 高丸山に登る直前で、巻き道を尾根道合流します。高丸山と千本ツツジの間でも合流します。高丸山は巻きました。(巻いたことが無かったので) 七ツ石山->雲取まで、お肌の曲がり角をとっくに過ぎた私にはアツすぎる日差し。小麦色のお肌が好みの方にはお勧めの天気でした.....。この辺、稜線上はほとんど日陰が無いです。ちょっと焼けました。 雲取山の北側はまだ凍結・溶けてドロドロ箇所ありです。一回滑ってお手つき。尻餅はつきませんでしたが....。ご注意を。アイゼン無しで行けました。 まぁ、人がいっぱい。さすがGW。 ・天祖山への分岐まで 桂谷の頭付近は木の根に注意です。 通常の縦走路は板小屋の頭の北側を巻きますが(巻きましょうの指導標あり)、今回は登ってみました。それ程困難なく上がれました。ピークには天祖山方面へ踏み跡あり。そちらでも行けると思います。水松山方面への降りも容易でした。 ・八丁橋のちょっと手前まで 梯子坂のクビレまで、ユルユル降り。困難なところはありません。梯子坂からナギ谷の頭(1671mピーク)までは急登。それを過ぎると天祖山山頂までは広い尾根を緩やかに登ります。広いところの常か、それ程明澄な道ではなかったですが、登る分には問題ないかと。 天祖山から結構先(1400mより下くらい)まで広い尾根で、それ程踏み跡が明瞭ではありません。少なくとも石尾根などの明瞭な道ではないです。赤テープでかなりマーキングされているので、迷うことはないと思いますが、もし無ければちょっとしたバリの降りって感じ。広めの尾根なのでどこへでも降れる要素があります。ガスが濃い日や雨の時は苦戦するかもしれません。何カ所かコース外の所にもテープを見かけたので、盲目的に信じない方が良いと思います。下部は道は明瞭でした。 下部の水場は今にも涸れそうなくらいちょぼちょぼ出てました。 ・最後、登山口に降りるところ 最後に尾根を外し林道に降りるところ。まず、右に向かって日原->(この先急斜面注意!)の表示あり。尾根を右に外してルンゼの上部をジグザクに降ります。ここもちょっと嫌な感じです。で、そのルンゼ状を下の方の急傾斜になる直前まで降り、左の支稜に乗ります(足元注意の表示あり)。ここが文句なく悪い。ここも浮き石を落としたり、自分を落としたりしないようにご注意を。落ちたら命も落としかねません。支稜に乗った後、少し支稜に乗って降り(ここもちょっと嫌らしい)左のルンゼ状の所を降ります。 乗り越す前の最初のルンゼを林道から見上げると「こりゃ落ちたらただじゃ済まんな」でした。天祖山は一般ルートですが、点線ルートにしてもそれ程おかしくないと思います。上部の広い尾根の降りや最後の崖っぷちは、悪天候の時は命懸けになりかねないように思いました。転落死亡事故や明後日の方向に降りて転落事故が発生しているのも肯けるような道でした。ご注意あれ。 |
写真
感想
自分の全ルート表示を見るに、日原谷のトレースが薄い。特に天祖山を踏んでいないのは不本意。ここをなんとかしようと出かけてきました。一般ルートの天祖山は降りに使うことにして、登りはどこから?ですが、結局、八丁橋を起点にぐるりと回るのが良かろうと思い、登路はヤケト尾根にしてみました。ヤマレコ内ではヤケト尾根が大流行ですなぁ。僅か二日の間に三人とは....。さすがに、世間では「通ってくださるな」の看板の所を登る好き者がそうそういる訳もなく(誰にも会わず)、また長沢背稜も辿る人は少ないですから、七ツ石山-雲取山荘を除いて、余り人にも出会わない、静かな山旅となりました。
登り尾根->石尾根->雲取山人気はすごいですなぁ。七ツ石山からグッと人が増えます。ブナ坂では会社の人と出会ってビックリ(あっちもビックリしたようですが...)。奥多摩小屋のテントサイトはテントが満開。ヤマレコの最近山で会ったかもリストも満開。あんなに人が一杯じゃぁ、登り尾根は私にゃ無理だな。
初日はピーカンで、暑がりの私にはチト。Tシャツ一枚でウロウロ。おかげで笹藪で腕に傷が少々。日焼けで少し赤くなってます。まったくGWからこの格好では、真夏はどんなカッコで登るのやら。う〜〜む。翌日は曇りで、Tシャツで歩き始めましたが、チト寒い。芋ノ木ドッケで上に登山シャツを着てちょうど良くなりました。私には気温的に翌日位の方が良いようです。
金副隊長の「奥多摩登山考」。雲取山荘で売ってませんでした。町の本屋さんで見つからず、確か雲取山荘は売ってたはずと思い登ったのですが、少し遅かった見たい。売り切れちゃった見たいです。残念。
天祖山は思っていたよりもハードな山と見受けました。主な稜線から外れるため、辿る人が少ないのでしょう。石尾根などの登山道に比べれば、遙かにトレースが薄いです。その割に尾根は広めなので、明後日の方に降りていく可能性もあると。晴天時は問題ないですが、悪天候時は要注意かな。最後の事故の多い登山口への降りも、なるほどなーと思えるような所。点線ルートでもおかしくないんじゃないかと。心得の無い方がウッカリ入って事故になる可能性は、ヤケト尾根より天祖山の一般ルートの方が高いんではないかと思います。どんなルートだろうと登山は自己責任ですから、行かれる方はご注意を。
七ツ石神社の手前にあった石の横の石碑を読解中。う〜〜ん。解らん。笑ってやってください。頭の番号は行数です。(GWは天気も悪そうなので、是の読解で遊びます。解ったら随時update)
一行目:當邨七石権現社前有斧手石"[注釈]俗曰○○屋(?)来由未詳"文政
当村の七ッ石権現社前(シャゼン)に斧手石有り。(俗に○○○と曰(イワ)く。由来未詳)
當...当の旧字。ここは「まさに〜すべし。」という再読文字ではないと思う。
邨...村。
来由...いわれ、由来。なんだ、斧手石の由来は未詳なのね。
二行目:年間村社子四五軰徒轉倒(丙or而?)埓撲(?)落渓邊○
「文政年間(1818~1830年)、村社子、四五の輩(トモガラ)、徒(イタズラ)に転がし倒し、而(シコウ)して将(マサ)に渓辺(ケイヘン)に撲落(ボクラク)せんとす」って感じかな?最後の一文字が解らん!
軰...輩の俗字。
徒...ここはイタズラにだと思うが...。
轉倒...転倒。轉は転の旧字。
将...将の旧字。「まさに〜せんとす。」と読む再読文字。だと思う...。
撲落...崩れ落ちること。乱れ散ること。
渓邊...谷川のほとり。邊は辺の旧字。
三行目:而止于岸下(?)不動年(?)久矣自来(?)以降○流(?)疫(?)
而(シコウ)して岸下に止(トド)まり、年(トシ)久(ヒサ)しく動かず。これより以降......
そうしたら、どこかの岸の下で止まって動かなくなった?
それ以降疫病がはやって?
于....場所を示す助字。音読みはウ。訓読では読まないのが普通。だと思う....。ここで干(カン)はありえないっしょ。
四行目:病者多是故氏子同志(?)起信願再(?)欲安(?)置(?)○
病者多し。是故(コレユエ)に氏子.....
病人が多くなった?是故に氏子の同志を募って○の願いを立て、○○○と欲した?五行目頭の"跡"から考えて、元に戻そうとしたってこと?
五行目:跡(?)於茲流疫退散病者日命(?)○為(?)今(?)○元治元
於(オ)いて茲(ココ)に流疫(リュウエキ)退散し、....
そうしたら、疫病が退散した?それとも、前文からの続きで、疫病を退散させようと思い元に戻そうとの意か?
六行目:三月卒(?)化四方假有志(刀or力?)○素(?)願(或ot成?)(施or就?成就っぽい気がするが)也
元治元年三月ホニャララ(わから〜〜〜ん。多分、願いが叶ったお礼に何かをしたと書いてあるんじゃないかとは思うんですが.....。それとも元治元年三月にみんなで力を合わせて担ぎ上げ、成就したってこと?)。
卒...終わりの意か?三月の終盤ってこと?
假...仮の旧字。
七行目:寄付浄財人刻著七(?)石以為後世之記云○
浄財を寄付し、人(名)を刻(キザ)み七石に著(アラワ)す?。後世の記に云うと以為(オモエラク)?ここも最後の一文字がぁ。
以為...おもえらく。〜と思う。
この話を伝えたいから、寄付を募ってこの石碑を作ったんだよん。って言ってるんでしょう。
八行目:元治元甲子九月 (王or玉)隠(?)撰
元治元年(1864年)甲子の歳九月 ○○撰す。
○○は人名。多分"号"、おそらくは鴨沢のお坊さん。この時代、地方の知識人と言えば、大抵は和尚さんですから。
明治元年は1868年です。
安政五年(1858年)から3年ほど、コレラが全国規模で大流行したらしいです。
文久二年(1862年)にはしかが武蔵の国で大流行したらしいです。
斧手石を動かしたせいで、そうなったらしいです。結構強力です。
なので、動かすと次は、H5N1型新型インフルエンザが来るかも知れません。エボラ出血熱かもしれません。
動かすのはやめましょう。
ってことを言ってるんだろうか?
二行目以下はない知識と漢和辞典のフル回転で読んでますが、誤りはあるでしょう。そう言えば、大学時代のドイツ語で「ホームでは発車のベルが五月蠅いほどに鳴り響いていた」という独文を「窓辺で雀がチュンチュン五月蠅く鳴いてて...」と訳した奴がいたが....。俺も二の舞か?
P.S.
80記録くらい書いたが、こんなに推敲した感想は初めてだ....。
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