榛名山麓(榛東村)にある黒髪山神社里宮
いくつかの神が合祀されております。
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11/1 8:10
榛名山麓(榛東村)にある黒髪山神社里宮
いくつかの神が合祀されております。
合祀された御嶽山神社
古手の石柱片が下あります。
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11/1 8:10
合祀された御嶽山神社
古手の石柱片が下あります。
右相馬山登山口の石柱
昭和二十八年とありました。
かつてはここが登拝道の起点でしたが…
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11/1 8:11
右相馬山登山口の石柱
昭和二十八年とありました。
かつてはここが登拝道の起点でしたが…
山麓から遥拝する黒髪山(相馬山)
現在は自衛隊の敷地なので行けません。
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11/1 8:20
山麓から遥拝する黒髪山(相馬山)
現在は自衛隊の敷地なので行けません。
なので林道に移動してここからスタートです。
オフロードの方々も準備をされていました。
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11/1 8:52
なので林道に移動してここからスタートです。
オフロードの方々も準備をされていました。
先ずは戻って、現在歩ける起点をチェックです。
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11/1 9:02
先ずは戻って、現在歩ける起点をチェックです。
物見塚守護神十二神と石祠
昭和57年とありました。残念ながら古道とは関係ないようです。
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11/1 9:02
物見塚守護神十二神と石祠
昭和57年とありました。残念ながら古道とは関係ないようです。
石柱と不明な石造物
信仰の香りはしますが、何でしょう?この辺りは新興宗教?のエリアなのでしょうか?
産廃置き場のような雰囲気のある敷地ですが、石柱が立っているのは違和感があるし…
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11/1 9:04
石柱と不明な石造物
信仰の香りはしますが、何でしょう?この辺りは新興宗教?のエリアなのでしょうか?
産廃置き場のような雰囲気のある敷地ですが、石柱が立っているのは違和感があるし…
怪しい石造物がありますが、これも古道とは関係が無さそう。
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11/1 9:08
怪しい石造物がありますが、これも古道とは関係が無さそう。
この辺りは役目を終えた石造物が集積されておりました。その一角に…
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11/1 9:09
この辺りは役目を終えた石造物が集積されておりました。その一角に…
手水鉢?
巨大な御嶽教の石造物があります。「當所 巌 十七八」とあり、ぐるりと一周造立者と思われる名前がありました。よく見ると下の台石にもずらりと名前が彫られていました。
「巌」はのちに重要な意味があることが分かりました。
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11/1 9:10
手水鉢?
巨大な御嶽教の石造物があります。「當所 巌 十七八」とあり、ぐるりと一周造立者と思われる名前がありました。よく見ると下の台石にもずらりと名前が彫られていました。
「巌」はのちに重要な意味があることが分かりました。
林道脇に踏み跡もありますが、林業のものかなと思いました。結局しばらく古道の痕跡は見つからず、林道を歩きます。オフロードバイクが何回か通りました。
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11/1 9:23
林道脇に踏み跡もありますが、林業のものかなと思いました。結局しばらく古道の痕跡は見つからず、林道を歩きます。オフロードバイクが何回か通りました。
途中には何となく掘割状の地形もいくつか散見できましたが、積極的に古道と断定できず。
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11/1 9:47
途中には何となく掘割状の地形もいくつか散見できましたが、積極的に古道と断定できず。
ガラメキ温泉が近くなる頃、ようやく石碑が現れました。
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11/1 9:55
ガラメキ温泉が近くなる頃、ようやく石碑が現れました。
馬頭尊
大正拾年とあり、100cmを測る。「竹 塩原」なども読めました。
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11/1 9:55
馬頭尊
大正拾年とあり、100cmを測る。「竹 塩原」なども読めました。
ガラメキ温泉
薬師如来と大黒天。いずれも明治期のモノです。
(詳細については過去レコ参照下さい)
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11/1 10:12
ガラメキ温泉
薬師如来と大黒天。いずれも明治期のモノです。
(詳細については過去レコ参照下さい)
源泉は以前来た時より、綺麗に整備されておりました。
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11/1 10:13
源泉は以前来た時より、綺麗に整備されておりました。
蓋を開けると80cmくらいの水深があります。
沢の流入があるので水温は冷たいです。
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11/1 10:15
蓋を開けると80cmくらいの水深があります。
沢の流入があるので水温は冷たいです。
ガラメキ温泉 上の祠
左の倒壊した石祠には「明治廿一年 ガラメキ温泉 箕輪本町」と造立者名がありました。その他に大小の庚申塔と薬師如来があります。
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11/1 10:20
ガラメキ温泉 上の祠
左の倒壊した石祠には「明治廿一年 ガラメキ温泉 箕輪本町」と造立者名がありました。その他に大小の庚申塔と薬師如来があります。
薬師如来
明治十五年、高さは54cmと小振りです。
台石にも銘文がありましたが、判読できず。
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11/1 10:21
薬師如来
明治十五年、高さは54cmと小振りです。
台石にも銘文がありましたが、判読できず。
少し移動して不動三尊です。前回は左の制娉狷源劼倒れているのに気がつかず再調査しました。
中:不動明王 明治四十年 90cm
左:制娉狷源 69cm
右:矜羯羅童子 77cm
左右とも「下室田町 祭主島方ひろ」とあり女性が造立者ということが判りました。
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11/1 10:49
少し移動して不動三尊です。前回は左の制娉狷源劼倒れているのに気がつかず再調査しました。
中:不動明王 明治四十年 90cm
左:制娉狷源 69cm
右:矜羯羅童子 77cm
左右とも「下室田町 祭主島方ひろ」とあり女性が造立者ということが判りました。
明瞭な黒髪山古道はここからとなります。
看板には「小野関三太夫清繁 書彫刻」とあり、雨乞いの祭祀である、お水貰いを行った聖地の案内が書かれています。小野関三太夫清繁は磨墨岩の磨崖仏を彫った仏師です。
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11/1 10:52
明瞭な黒髪山古道はここからとなります。
看板には「小野関三太夫清繁 書彫刻」とあり、雨乞いの祭祀である、お水貰いを行った聖地の案内が書かれています。小野関三太夫清繁は磨墨岩の磨崖仏を彫った仏師です。
途中には炭焼き窯跡
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11/1 10:53
途中には炭焼き窯跡
5m二段の滝
すぐ脇には沢が流れています。
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11/1 10:55
5m二段の滝
すぐ脇には沢が流れています。
看板には「大正十三年 旱魃至処井 水渇依雨乞 竜祈願」とあり、意味は『大正十三年、至る所の井戸がかんばつしてしまった。お水が欲しいので雨乞いを竜に祈願した。』と解釈しました。ここの水を汲み、井戸に捧げる祭祀が行われたと考えられます。農耕社会における龍神信仰(水分神)であり、山岳信仰の源流と言えるのかなと思います。
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11/1 10:58
看板には「大正十三年 旱魃至処井 水渇依雨乞 竜祈願」とあり、意味は『大正十三年、至る所の井戸がかんばつしてしまった。お水が欲しいので雨乞いを竜に祈願した。』と解釈しました。ここの水を汲み、井戸に捧げる祭祀が行われたと考えられます。農耕社会における龍神信仰(水分神)であり、山岳信仰の源流と言えるのかなと思います。
写真では??ですが、不動明王の線刻碑で、小野関三太夫清繁が彫ったモノかと思います。
高さは74cmを測り「明治六年十一月吉日」とあります。
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11/1 10:59
写真では??ですが、不動明王の線刻碑で、小野関三太夫清繁が彫ったモノかと思います。
高さは74cmを測り「明治六年十一月吉日」とあります。
黒髪山表口石柱 高さ163cm
左面「頂上迫石杭九本銕鎖十流四十間三尺納之 追加明治十五年十月銕鎖五流三十七間増加而納之」
右面「明治十四年辛巳年六月十日」
背面「○ 磔放誠講」
とあります(一部旧字)。表口石柱の造立に併せて丁目石や鉄鎖を整備したことがわかりました。
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黒髪山表口石柱 高さ163cm
左面「頂上迫石杭九本銕鎖十流四十間三尺納之 追加明治十五年十月銕鎖五流三十七間増加而納之」
右面「明治十四年辛巳年六月十日」
背面「○ 磔放誠講」
とあります(一部旧字)。表口石柱の造立に併せて丁目石や鉄鎖を整備したことがわかりました。
石柱の裏には不動尊と霊神碑がありました。
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11/1 11:05
石柱の裏には不動尊と霊神碑がありました。
不動尊
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11/1 11:06
不動尊
正一位稲荷大明神
むむ、これは両神山にも勧請されている神様ですね。
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11/1 11:08
正一位稲荷大明神
むむ、これは両神山にも勧請されている神様ですね。
不動明王の眷属である三十六童子と八大童子の碑が立ち並ぶ古道です。童子碑は四十一基確認できました。また途中には霊神碑などもあり、全部で五十基程ありますが、数が多いので主要なモノを取り上げることにします。
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11/1 11:09
不動明王の眷属である三十六童子と八大童子の碑が立ち並ぶ古道です。童子碑は四十一基確認できました。また途中には霊神碑などもあり、全部で五十基程ありますが、数が多いので主要なモノを取り上げることにします。
黒髪山不動明王
85cm
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黒髪山不動明王
85cm
摩利支天尊
64cm
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摩利支天尊
64cm
天山御嶽霊神
100cm「昭和六年」
古道はここで沢沿いに移るようです。
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11/1 11:15
天山御嶽霊神
100cm「昭和六年」
古道はここで沢沿いに移るようです。
黒髪山開祖 天巌根主神
160cm「開闢大先達 群馬郡上郊村 大正六年」などと読めました。天巌(雷)根(根源)の神と読めば、黒髪山大神を感じることができます。いずれにせよ大型の石碑であることから、その重要性が窺えます。
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11/1 11:18
黒髪山開祖 天巌根主神
160cm「開闢大先達 群馬郡上郊村 大正六年」などと読めました。天巌(雷)根(根源)の神と読めば、黒髪山大神を感じることができます。いずれにせよ大型の石碑であることから、その重要性が窺えます。
【閲覧注意】カモシカの骸
堰堤を高巻きした直後に発見し、一瞬で背筋が凍りました。
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11/1 11:22
【閲覧注意】カモシカの骸
堰堤を高巻きした直後に発見し、一瞬で背筋が凍りました。
如意輪観音線刻碑
85cm「昭和八年八月?」と読めました。
こちらも珍しいモノです。
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11/1 11:28
如意輪観音線刻碑
85cm「昭和八年八月?」と読めました。
こちらも珍しいモノです。
如意輪観音のすぐ先に霊神碑があり、その先が取り付きです。わかりづらかったですが、よく見るとテープや踏み跡がありました。
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11/1 11:35
如意輪観音のすぐ先に霊神碑があり、その先が取り付きです。わかりづらかったですが、よく見るとテープや踏み跡がありました。
藪が少しうるさい尾根を登ります。
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11/1 11:44
藪が少しうるさい尾根を登ります。
落ち葉とクマザサのミックスで滑りやすかったです。
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11/1 11:48
落ち葉とクマザサのミックスで滑りやすかったです。
踏み跡が薄くて分かりづらい箇所もあるので注意です。
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11/1 11:54
踏み跡が薄くて分かりづらい箇所もあるので注意です。
岩壁を右巻きします。
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11/1 12:05
岩壁を右巻きします。
右に回り込んだら急坂を詰めて支尾根に乗りました。
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11/1 12:08
右に回り込んだら急坂を詰めて支尾根に乗りました。
すると鎖が出現します。
鎖の次は岩登りがあり注意でした。
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11/1 12:12
すると鎖が出現します。
鎖の次は岩登りがあり注意でした。
○ 七合目石
高さ55cm
○發蝋盧蠅簾發里茲Δ任后
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11/1 12:17
○ 七合目石
高さ55cm
○發蝋盧蠅簾發里茲Δ任后
○ 放誠講
明治十四年とありました。
ずしりと重みがある鉄札のついた鎖場は以後数多く出現します。
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11/1 12:20
○ 放誠講
明治十四年とありました。
ずしりと重みがある鉄札のついた鎖場は以後数多く出現します。
鎖の根本は最強の支点になっております。
先にも同じような最強の支点がありました。
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11/1 12:23
鎖の根本は最強の支点になっております。
先にも同じような最強の支点がありました。
梯子が埋まりかけているので、予想以上に悪かったです。梯子無いと無理な斜度ですね。
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11/1 12:30
梯子が埋まりかけているので、予想以上に悪かったです。梯子無いと無理な斜度ですね。
○ 八合
石祠の部材もありました。
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11/1 12:34
○ 八合
石祠の部材もありました。
途中には崩落によってできた急ザレのトラバースなどあるので注意でした。
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11/1 12:36
途中には崩落によってできた急ザレのトラバースなどあるので注意でした。
不自然な石を見つけたので掘り返してみるところ、崩落したと考えられる、六角形の台石の破片がひっくり返っていました。
幅は85cmを測る巨大な台石です。造立者名もありました。
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11/1 12:42
不自然な石を見つけたので掘り返してみるところ、崩落したと考えられる、六角形の台石の破片がひっくり返っていました。
幅は85cmを測る巨大な台石です。造立者名もありました。
明治の年号が見える石碑片
これも土砂に埋まっていたものです。
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11/1 12:44
明治の年号が見える石碑片
これも土砂に埋まっていたものです。
南尾根に取り付きます。
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11/1 12:47
南尾根に取り付きます。
鉄梯子にも金石文がありました。
奉 発起人 なんちゃらかんちゃらと多くの名前がありました。
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11/1 12:49
鉄梯子にも金石文がありました。
奉 発起人 なんちゃらかんちゃらと多くの名前がありました。
こちらの鉄札には「フカン講 前橋市吉 講中」とあります。背面には「昭和弐年 先達」などとありました。
複数の講が整備に携わったことが判りました。
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11/1 12:54
こちらの鉄札には「フカン講 前橋市吉 講中」とあります。背面には「昭和弐年 先達」などとありました。
複数の講が整備に携わったことが判りました。
展望岩
下は切れ落ちているので注意です。
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11/1 13:00
展望岩
下は切れ落ちているので注意です。
秩父方面
富士山も見えました。
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11/1 13:00
秩父方面
富士山も見えました。
榛名山天狗山方面
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11/1 13:00
榛名山天狗山方面
水沢山越しの前橋市街地と赤城山
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11/1 13:01
水沢山越しの前橋市街地と赤城山
洞窟
人がギリギリ入れるサイズ感です。
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11/1 13:02
洞窟
人がギリギリ入れるサイズ感です。
山頂直下の霊神碑群
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11/1 13:04
山頂直下の霊神碑群
黒髪山神社
無事に登頂しました。まずは参拝です。
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11/1 13:07
黒髪山神社
無事に登頂しました。まずは参拝です。
相馬山 山頂
山頂は狭い広場に多くの石造物が造立されています。数が多いので主要なモノしか調査できませんでした。
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11/1 13:13
相馬山 山頂
山頂は狭い広場に多くの石造物が造立されています。数が多いので主要なモノしか調査できませんでした。
御嶽山座王大権現
120cmを測り明治十八年とありました。
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11/1 13:14
御嶽山座王大権現
120cmを測り明治十八年とありました。
大山祇神
132cm
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11/1 13:14
大山祇神
132cm
黒髪山大神(相馬大権現)
黒髪「くろかみ」は雷の意である「くらおかみ」という説が有力で、雷(厳槌)を司り雨を降らす龍神の化身と感じることができます。
高さは95cmと脇侍よりも小振りですが、中央にどっしりと構える出で立ち、鬼気迫る表情には貫禄があります。甲冑には相馬山らしく馬のレリーフが表現されています。
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11/1 13:16
黒髪山大神(相馬大権現)
黒髪「くろかみ」は雷の意である「くらおかみ」という説が有力で、雷(厳槌)を司り雨を降らす龍神の化身と感じることができます。
高さは95cmと脇侍よりも小振りですが、中央にどっしりと構える出で立ち、鬼気迫る表情には貫禄があります。甲冑には相馬山らしく馬のレリーフが表現されています。
相馬山 山名板
東尾根にはトラロープがあります。
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11/1 13:19
相馬山 山名板
東尾根にはトラロープがあります。
小休止のあと一般道で下山です。
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11/1 13:26
小休止のあと一般道で下山です。
三笠山刀利大神
木曽御嶽山五神の一神。
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三笠山刀利大神
木曽御嶽山五神の一神。
核心部の鉄梯子
ハイキングコースですが、なかなかハードです。
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11/1 13:38
核心部の鉄梯子
ハイキングコースですが、なかなかハードです。
八海山大神
木曽御嶽山五神の一神
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11/1 13:39
八海山大神
木曽御嶽山五神の一神
木食 泰賢行者之霊
近世御嶽信仰の開祖である普寛行者直系の弟子です。
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11/1 13:40
木食 泰賢行者之霊
近世御嶽信仰の開祖である普寛行者直系の弟子です。
相馬山登山口
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11/1 13:41
相馬山登山口
お次は磨墨岩です。
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11/1 13:49
お次は磨墨岩です。
行人窟
小野関三太夫の磨崖仏、不動明王、役小角三尊が祀られております。
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11/1 13:56
行人窟
小野関三太夫の磨崖仏、不動明王、役小角三尊が祀られております。
小野関三太夫の磨崖仏
以前より朱が濃くなっておりますね。
銘文は判読中です。
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11/1 13:57
小野関三太夫の磨崖仏
以前より朱が濃くなっておりますね。
銘文は判読中です。
磨墨岩上の迦楼羅天狗
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11/1 14:04
磨墨岩上の迦楼羅天狗
意波羅天
木曽御嶽山五神の一神です。
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11/1 14:06
意波羅天
木曽御嶽山五神の一神です。
榛名湖の展望
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11/1 14:07
榛名湖の展望
相馬山(黒髪山)
稜線歩きは振り返ると相馬山が展望できましたが、ジョーズ岩からの山容が良かったです。
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11/1 14:22
相馬山(黒髪山)
稜線歩きは振り返ると相馬山が展望できましたが、ジョーズ岩からの山容が良かったです。
ジョーズ岩
痩せた岩峰なので注意です。
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11/1 14:24
ジョーズ岩
痩せた岩峰なので注意です。
松之沢峠でスニーカーにチェンジして、ロードを下ります。
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11/1 14:35
松之沢峠でスニーカーにチェンジして、ロードを下ります。
十二神
ロード途中にありました。
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11/1 15:24
十二神
ロード途中にありました。
無事に周回しゴールです。
遅かったので、モトクロスの方が心配して下さっておりました。
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11/1 16:03
無事に周回しゴールです。
遅かったので、モトクロスの方が心配して下さっておりました。
montblanc55さん、こんにちは
黒髪尾根お疲れ様でした。
あの沢山の童子碑を41と数えられたことひとつとっても、なかなかできないことで、尊敬というか、これはもう、そういった調査の方なのではと、思ってしまいます。
私が歩いたときは、榛東村にお住まいの方に連れていってもらったので、ラクラクでしたが、単独行となると、崩落も進んでいるので、大変だったのではないでしょうか?
いつか、鷹ノ巣、相馬山のあと柏木山のある尾根を使って、周回したいものです。
その時は、montblanc55さんのレコを参考に、石仏、石碑等々、見てみたいと思います。
お疲れ様でした。
MUSICA001さん、こんばんは。
黒髪山へと続く古の登拝道、廃道という特性も相まって当時の状況を感じることができ、探検的興奮を覚えました。素晴らしいルートを提供してくださり、感謝です。
三十六童子、八大童子については制娉狷源劼扉砌四綟源劼篭δ未覆里如36+8−2=42となります。一つ見逃したことになりますが、倒れていたり折れていたりのモノもあったので、残り一つもおそらく付近にあるかと思います。(精査すれば状況は変わるかも知れません。)
黒髪山大神については、古来よりの龍神信仰に御嶽教が入っていく様子がわかり非常に興味深いです。
ルート的には取り付きと笹尾根のルーファイが少し難しかったですが、笹は榛名山においては織り込み済みなので笑。それから念のために持参したロープ類もあったので安心材料になりました。想定外に鎖と梯子が長かったので、スリングの簡易ハーネスぐらいはあった方がいいなと感じました。
私も鷹ノ巣山からのVRを密かに狙っておりましたが、今回、南尾根にキレットような崖が見えたので若干ビビっております汗
コメントありがとうございました。
このルート、里宮から物見塚の間、演習地ですが、30年位前は立ち入っても咎められませんでした。ワラビ採りや、ジムニーの走踏練習などにも入り込みましたけど、昨今はそうはいきませんね。
(演習地は迂回して)、七曲りからガラメキまでも、ブルドーザーで開削し直された工事用道路で、残念です。七曲りは簡易舗装がされていますものね。その先も脇に凹んだ旧道らしい所がありますね。ワタシもこちらが旧道か?と感じます。
石碑群の先、沢を渡って右岸が信仰のルートですが、工事用道路の行き詰まりの手前から、右側の沢筋に少々入り込んでみたことがあります。微妙に自然のままでないような、かつての踏み跡かとも思える部分がありました。気持ちが引かれましたが、突き詰めないでやめてしまいました。最近古い地形図を見たら、石碑群の沢筋からは、黒髪尾根ルートはなくて、東尾根途中へ出る道が記されているので、あそこに古道があり、(信仰の道とは別に?)主たる登山道はこちらだったのかな!と思いました。
ワタシの脚が持てば、こちらも辿ってみたいに道です。東尾根は、崩落があり危険になったので登山禁止ですけどね。(たまに事故がありますね。)
kurenai07さん、こんにちは。
榛名山《七つの森を抜けろ》レコ以来ですね。お久しぶりです。黒髪山の古道歩き共感していただけたようで、嬉しく思います。ただ残念なことにご指摘の通り、ガラメキ温泉付近から下はほとんど壊滅的な状況で、相馬原に至っては検証不可能なんですよね。
さて、早速古い地形図確認しました。確かにコレは興味深いところですが、現地を踏査してみないとわからないですね。いずれにせよ、谷ルートなので少々危険を伴うかも知れませんね。
最近はなるべく地元のお山(両神)を歩いているのですが、折に触れて榛名も歩いてみたいと思います。ありがとうございました。
当レコ参照していただけたとのとこ、光栄です。
支尾根の取り付きが不明瞭なんですが、取り付くと意外にわかりやすいというか、迷うところがなくなるんですよね。
無事の登頂おめでとうございます。お疲れ様でした。
気になっていることがあり、最近、スルス峠から、表口石標のあるこの地域(中河原)の旧道を辿ってみました。
気になったことは、地図によっては、表口石標の右岸に黒髪山神社と記されていること。
??と思い、確認してみたら、そこには石垣で囲まれた平地があり、背後に相馬山を抱き、ここにあったであろう社を拝むと、正に相馬山を拝むことになる位置・方角でした。
ここにあったらしい社と、麓の里宮や山頂の社との関係は?
付随して調べていたら、山頂の社は、榛東の黒髪山神社ではなく、「榛名神社」の管理下にあるらしい。
さらに、榛東の「黒髪山神社(里宮)」は、大正時代の「群馬郡誌」に記されていないんです。(国家保護を受けない修験系?の教派神道だからか?)
表口の各種石碑は、里宮と関係があることは明らかで、この地に社があったであろうことは納得できたのですが・・・。
もう一つは、このルートでは、六合目以下の石標が見当たらないこと。登り口は別にあったのではないか?とも思われます。
神社関係者に取材したり実地探索したりして、明らかにしてみたいと思います。
ちなみに、以前にお話しした旧地形図の破線の道(中河原の沢沿いを上り東尾根へ出るルート)は、信仰の登山道ではなく、伊香保方面とを結ぶ道だったのだろうと思います。
磨墨岩にも、小関三太夫の磨崖仏があり密かにその旧道も気になっていたのですが、放置になっていました。
石垣についてはどこなのか自分は実見していないのでわからないのですが、表口石柱付近にある写真25.26の石碑付近が、信仰上重要なところであるともとれ、なんらかの施設があったかもしれませんね。表口石柱や鎖の銘文から、登拝道の物理的な成立は明治十四年前後と考えられ、明治初頭辺りには先の雨乞信仰をベースとした開闢的な宗教上の儀式が行われたとも考えている今日この頃です。
六合目以下の石柱については、表口標柱の銘文に「頂上迫石杭九本」とあることから、本来は表口から頂上まで一合目から九合目に区切られていた可能性があります。表口以下については、往時はガラメキ温泉付近まで人が頻繁に入っていて、その道を踏襲しているために登拝道としては成立していないのかもしれません。
以降も、この付近の検索&探訪に踏み入っているのですが、磨墨峠下の「夕日河原」一帯の詳細な探索に集中していて、相馬山の信仰登山ルート(6合目以下)への疑問もそのままです。いつくか候補が絞れているので、近日、確かめたい!と思っています。表口の辺りは「中河原」と呼ばれていたようで、雨乞い碑の右岸の、整地され石垣で囲まれた所は「黒髪山神社の修験行者堂」があったようです。進駐軍が演習地として接収した時に取り壊されたと推測しています。(後で補償対象になっていますので)
蛇足ながら、少々下流(現行林道渡河点より上)に「湧宇の滝」という小規模な滝があります。
磨墨峠への道は、かつては高崎と榛名湖畔を結ぶ主要ルートで、荷駄を積んだ馬が行き交っていたようです。この「ルート検索」と峠の下の「夕日河原」と呼ばれた地区に現存している明治時代の石積堰堤(デ・レーケの堰堤)の確認をしています。この夕日河原地区は、広葉樹林の笹原で、道らしき凹地が入り組んでいて、なかなか味わいのある地区です。
[新しい疑問] 古地図をみると、古道では、峠から下りの取り付き口が、現在多くの人が入る位置とは違うらしい??
これは、来週辺りに入ってみるつもりです。
素晴らしい取り組みですね。
まず「夕日河原」なる地名も初めて知りましたし、その辺りは足を踏み入れたことが無いです。峠というからには下に古道があるのだろうと考えてましたが、現在は道らしき凹地が残るだけなのですね。
「修験行者堂」と補償対象の件、凄い情報ですね。何か文献があるのでしょうか?「湧宇の滝」というのは写真24の滝でしょうか?すると炭焼き窯跡とした写真23も、なんらかの宗教的な施設跡のような気もします。
さらに下流には不動明王三尊(写真21)があると思うのですが、そちらもなんだかんだで古道なのかもしれませんね。
来週歩かれるとのこと、また新たな発見があると良いですね。どうぞ気をつけてください。コメントありがとうございました。
「湧宇の滝」には、お立ち寄りになっていらっしゃいましたね😅「炭焼窯跡」も。
これは単に「炭焼窯」だったと思います。この辺りには、たくさんの窯跡があるそうです。(ワタシもここの他に、夕日河原地区に窯跡を2ヶ所確認しています) 幕末・明治期、繭・生糸の増産のため、養蚕に温屋式(家を暖めて蚕を飼う回数を増やす)を取り入れたため、木炭の需要が急増し、秣場が乱伐されたらしいです。
一昨日、家庭菜園作業の合間に、磨墨峠の下り口を確認するつもりだったのですが、県道28号線が通行止!仕方なく、白川河原(栗の木沢合流点、物見塚上・七曲り下)を起点に、ガラメキ道を途中から東隣の栗の木沢へ通じる道(今昔マップでは繋がっているのに現行地形図では途切れている)を辿ってみることにしました。途中の作業道に騙されて旧ルートから大きく外れて道なき峰を登り下りしたり、「熊かもしれない」黒い物が動くのを目撃したり、オニゼンマイの群生をコゴミ?と思ったり、自衛隊の演習地の最北西の出入口に至り覗き込んだりして、通常林業関係者しか入らない道を歩いてきました。(一部にバイクのタイヤ痕もありましたけど😲)
超マイナーなルートで、歩いた距離も短いながら、いろいろエキサイティングな経験ができました。
早速歩かれましたね。辿られたルートが今一つわからなかったですが、いずれにせよあの辺りは今昔マップでもいくつかルートが確認できました。
併せて現在は林業関連、あるいは堰堤の作業道もあり複雑怪奇な状況ですね。何度か歩かないと良くわからないかもしれません。
演習地の北西端、あそこはしっかりとした道、気になる石造物もあり、古道っぽい雰囲気を感じました。
だいぶ手は入っていますが、誰も歩く人がいないところを歩くのは勇気がいりますよね。今後ともどうぞお気をつけて下さい。それからまたなにかわかりましたらご教示下さい。お疲れ様でした。
前橋及高崎近傍17号(共17面)
大日本帝国陸地測量部/編 -- 大日本帝国陸地測量部 -- 〔1910〕 --
http://www1.library.pref.gunma.jp/winj/opac/switch-detail-iccap.do?bibid=1101492384
PDF版の該当地域を拡大して見ると、
上記の「行者堂」にあたる所に建物が記されています。
情報ありがとうございます。それにしても素晴らしい調査力ですね。この古地図を見ていたら、また歩きたくなってしまいます。
あんなに沢山の石碑や宗教施設が、全く埋まってしまうのはなんだか寂しいですね。
また機会を見て、榛名の古道歩きや探索してみます。ありがとうございました。
ワタシの調査力ではないんです😨(実際に歩いた所以外は!)
資料等は、ほとんどgooブログの「榛名古道」さんの受け売りです。「陸地地図」「今昔マップ」「行者堂補償について」も、この方から教えていただきました😁💦。
(「デ・レイケの堰堤」については、ワタシも「見守る会」の会員ですけど)😅。
「古の人がどんな思いで歩んだり、立ち入ったりしていたのだろうか?」と思いを共感してみたくて旧道を探ったり、辿ったりしています。
一時、遠ざかっていたのですが、今年から思いが再燃して、歩けるうちが華!と、半日ほどで、頻繁に立ち入っています。スルス峠下の古道がマイブームです。
これからも情報等、よろしくお願いします。
なるほど…と、私も色々と調べさせていただき、勉強させていただきました。
「古の人がどんな思いで歩んだり、立ち入ったりしていたのだろうか?」これこそがまさしく、歴史を感じる古道歩き、探索の醍醐味ですよね。
こちらこそ、また何かありましたらご教示下さい。それからお互いに、安全第一で楽しみましょう。ありがとうございました。
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