1300年前の痕跡を探して(竈門連嶺を8座+1座)
- GPS
- 05:28
- 距離
- 17.9km
- 登り
- 689m
- 下り
- 691m
コースタイム
天候 | 快晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2022年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
登山道は8割方、道がありません。 昔の航空写真などで道のリサーチはしていたのですが、植林やAPUの建設によって原形をとどめていませんでした。 |
写真
装備
個人装備 |
長袖シャツ
Tシャツ
ソフトシェル
タイツ
ズボン
靴下
グローブ
防寒着
ゲイター
日よけ帽子
着替え
靴
予備靴ひも
針金
テーピングテープ
細引
ザック
ザックカバー
昼ご飯
行動食
飲料
地図(地形図)
コンパス
笛
計画書
ヘッドランプ
マグライト
予備電池
ポータブル充電機
GPS
筆記用具
常備薬
日焼け止め
保険証
携帯
時計
サングラス
タオル
ナイフ
カメラ
ストック
ビーコン
サバイバルシート
|
---|
感想
*どうやらカメラの設定が無限遠固定になっていたようです。超広角でとっているのであまり影響はないですがちょっとぼけ気味です。すみません。
大分に帰ってきて1週間経過。一応抗原陰性が確認したので、ぼちぼち再開しようと思います。
今日は長い間熟成していた、竈門山編。それなりに現地調査とか登山口探しも終わったので決行してきました。はじめにこの山の名前を知ったのは角川日本地名大辞典で、「竈門地域周辺にあると思われる山。いろいろな書物に登場するが場所不明。(要約)」と書かれていて、気になっていました。
調べれば調べるほど、資料間に矛盾が出てきて一時期放り投げていましたが、ついに点と点がつながったので、宿題の一解をここに書いておきます。
亀山
引用:大日本豊後国速見郡御越村大字内竈字亀山鎮座郷社八幡竈門神社境内之圖 明治三十年
抑八幡竈門神社 稱シ奉ルハ竈門荘竈門村亀山ニ齊キ奉ル所以ナリ
(訳:八幡竈門神社は竈門荘竈門村にある亀山に奉されている。)
姫山
引用:姫山メンヒル案内板
姫山メンヒルが中腹にあるピーク。
姫山遺跡は古代人の巨石崇拝による遺跡である。
近年ペトログラフが発見され紀元前500年頃の創造物と推定される。
現山頂には竈門一族の墓がある。
大観山(貴船城山)
鎮西八郎為朝が松の木を用いて築いた砦の跡地。昭和三十二年にRC造の天守が建てられた。
赤湯山
「赤湯山、岩垣荘野田村に在り。温湯有り。濶さ十余丈、純赤朱の如し。・・・(中略)然るに此湯近歳大いに衰へ、旧日の観なし。山の東南に寺あり。赤湯山長泉寺と曰ふ。」(豊後国志・角川日本地名大辞典)この「山の東南に寺あり。赤湯山長泉寺と曰ふ。」という文ですが、原文を探したところ、「其旁ニ寺アリテ赤湯山長泉寺ト曰フ。」と書かれており、東南という方角は存在しませんでした。恐らく誤植でしょう。
「竈門山、竈門荘内竈門村に在り。赤湯山と隣をなす。また湯泉を出す。」(豊後国志) 「(赤湯は速水)郡の西北のかたにあり。此の湯の泉の湯の穴、郡の西北のかたの竈門山にあり。」(豊後国風土記・角川日本地名大辞典)
琴平山(竈門金比羅山)
引用:大日本豊後国速見郡御越村大字内竈字亀山鎮座郷社八幡竈門神社境内之圖 明治三十年
境内之図に鞍谷?琴平社が建っていた。古い航空写真には内竈からの参道が確認されている。
宝城ヶ峯
引用:大日本豊後国速見郡御越村大字内竈字亀山鎮座郷社八幡竈門神社境内之圖 明治三十年
聖武天皇の神亀4年(727年)3月15年に、仲哀天皇及び応神天皇の神霊が、豊前の宇佐より竈門荘の宝城峯に降臨した。
扇山
引用:湯山の里風土記
扇山遺跡があったとされる。火山性高原の一角を占める十文字原と通称「扇山」といわれる舌状台地に位置している。十文字原は、高平山火山と更新世中期の鹿鳴越火山や西の台流紋岩に挟まれた高平山扇状堆積物がこれを覆っている。
御越山(尾輿ヶ峯)
引用:大日本豊後国速見郡御越村大字内竈字亀山鎮座郷社八幡竈門神社境内之圖 明治三十年
二神(仲哀天皇及び応神天皇)が降臨された日、宝城峯の山麓に白髪の老翁が現れ「自分は二神の従者、大神比義(おおがのひぎ)である。」と言った。村人たちは二神を迎え入れ尾輿峯に祀った。(もしかしたら地名の「大神」はここから来たのかも。)
王子山
フォローさん情報。出自不明。三角点名が王子山で地域名も王子山。
ここで、矛盾が生じるのは、赤湯山と竈門山の関係です。豊後国志の記述から赤湯山は石垣荘野田村にあり、竈門山と赤湯山は隣同士の関係のようです。また豊後国風土記からは、赤湯山の麓には赤湯(血の池地獄)があり、その源泉は竈門山にあるとされています。
さらに佐藤四信氏の「豊後風土記を研究」によれば「(竈門山は)赤湯山の北方に隣接し、地形が竈の如く窪地を形成してゐるので、斯くなづけたのであらう。(亀山随筆が引用先と思われる)」と書かれてます。
要約すると「赤湯は赤湯山の麓にあるけど、源泉は竈門山にあって竈門山は赤湯山の北にある。」ということになり、全く記述と地図が合致しません。最初は「北方に隣接」が誤植かなと思っていましたが、その後、井上通泰氏の豊後風土記新考に気になる記述を発見。
「𥞁洞随筆に速見郡竈門山は高山にあらず。竈門村のある處にして鶴見山よりは一里半許北にありて山の尾つづきなれども鶴見山に對へては麓と云べし。鶴見村の人家ある處よりは一里西にあり。」
「常足按ずるに風土記の比には廣く指して竈門山と云るを漸後にさす處も挾くなりて温泉の穴と山と郷を異にするにや。解の説今すこし委くてあらまほしきわざなり。」
つまり、「竈門山は鶴見連嶺の北部にある低山ある。」「豊後風土記のの記述に赤湯の源泉は竈門山にあると書かれているのは、かつて赤湯山を含めてこのあたりの山すべてを竈門山と総していたからである。しかし時代が進むにつれて竈門山を指す範囲が狭くなっていき、「竈門」といっても山、温泉、市街地がそれぞれ分けて考えられるようになった。(つまり、赤湯の源泉は赤湯山にある。)」とされる。
なるほど、これらの文章から考えるに、赤湯山は血の池地獄後ろの136mであることがほぼ確定であろう。さらにこの赤湯山の北方に値する山塊、現在のAPUが建っている山が竈門山であると考えられる。となると竈門神社境内の図から竈門山には名前のある峯が3つあり、それぞれが八幡大神が降臨した「宝城峯」、実際に祀られた「尾輿峯」、金比羅信仰の別系統の「琴平山」であると推定される。
それではなぜ、竈門山がその山域を縮小したかであるが、鎌倉時代の豊後国図田帳と江戸時代後半の豊後国誌から推測される。かつての豊後国図田帳によると竈門荘は「竈門荘八拾町 同弥勒寺領」とされ、内竈門、小浦、小坂、古市、里屋(亀川)、野田、平田、南北鉄輪とされていた。しかし、豊後国誌には野田、平田、南北鉄輪が石垣荘に編入され、竈門荘から姿を消した。この頃から赤湯山を含む竈門山の南部は竈門山から切り離され、別の呼び方になったと考えられる。
登山道自体は道を間違えていることもあり、ほぼほぼありませんでした。それに、宝城が峯への登りと下りは、航空写真を見てもらったらわかると思いますが昔は棚田だったこともあり、薮の中にいきなり切れ落ちていたりボーと歩いているとかなり危ないです。でも御越山(尾輿ヶ峯)だけは雰囲気もあり、ピストンであれば容易に到達できるのでおすすめです。このあたりは昔は家で囲まれていたのに・・・人がいなくなると荒れるのは早いですね。
ひとまず、歴史の山の別府編は終わりですかね。しばらく漢字は見たくないのでこのシリーズはお休みしますが、次は「頸ヶ岳」か「離山」でも探しに行こうかな。
*最後にいろいろと情報をいただいた、ゆみちゃんさんとsanjinさんありがとうございました。
体力 ★★☆☆☆
傾斜 ★★☆☆☆
不明瞭度 ★★★★☆
危険度 ★☆☆☆☆
薮指数 ★★★☆☆
岩指数 ☆☆☆☆☆
天気 A
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