装束山と野根山街道中部
- GPS
- --:--
- 距離
- 10.9km
- 登り
- 456m
- 下り
- 438m
コースタイム
天候 | 晴れのち曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2014年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
室戸市羽根川を遡る羽根林道が野根山街道を横断し、野川林道に接続された模様は平成20年発行の地形図「奈半利」及び「入木」に記載された。但し、ヤマケイの新版「高知県の山」には既に記載済だったかも知れない。 その林道の街道横断地から旧藩林を往復した後、野根山山系最高峰の装束山から四里塚を往復するが、登山口との高度差は僅かで、大半のピークはコースが巻いているため、長い上りは殆どない。全コース、四国のみちとして整備され、道標も完備しているため、迷いそうな箇所も皆無。 [車でのアプローチ] この羽根林道登山口へは、その林道を起点から上って行く他に野川川沿いを遡る野川林道から羽根林道に入るルート、須川川沿いを遡って上部で野川林道に合流する須川林道ルート、蛇谷川を遡って無線中継所コース登山口下方で野川林道に接続する蛇谷林道ルートがあるが、いずれも長い未舗装林道を走行しなければならない。 [駐車場所] この登山口には駐車場が整備されてないので、登山口手前のカーブミラーの所か、登山口を越えた先の路肩に駐車するしかない。軽四車なら西側の登山口前に駐車できるスペースはあるが、他の登山者からは不評を買うだろう。 |
写真
感想
[羽根林道登山口から旧藩林往復+同登山口から四里塚往復]
羽根林道登山口に至るルートは、既述した通りだが、私は須川林道から野川林道に出るルートを選んだ。羽根林道ルート以外の全ての林道ルートを走行した結果、そのルートが最短であろうと判断したからである。須川林道については「森林軌道跡から野根山街道須川山へ 」で若干触れた。
まずは旧藩林を目指すが、登山口の標高が既に940m、旧藩林は900m超。登山というよりはハイキングである。
すぐ宿屋杉休憩所に着く。この宿屋杉は野根山街道中、随一の見所だろう。有名故、説明不要とは思うが、念の為解説すると、昭和9年の室戸台風で倒れて折れるまでは、胸高周囲16.6m、樹高32mを誇る県下屈指の巨木で、昔は幹の空洞部に五、六人ほどが宿泊できたという。折れた部分は南に倒れたままとなっており、コケに覆われている。
余談だが、大豊町の「杉の大杉」に次ぐ四国第二位の巨杉も野根山街道付近にある。それを巡る登山コースは後日、投稿予定(予定は未定)。
トイレを済ませ、先に進むとすぐ三里塚が現れる。街道の一里塚は皆、標石を立てている側の塚のみ、整備しており、道の反対側の塚は未整備となっている。この中途半端さはいかにも「お役所仕事」。
この三里塚付近に民話の解説板が放置されていた。字も読めなくなっているので、ここでそれを紹介したい。幕末から明治にかけて、北川村野川に要蔵という者がいた。この人物は幡多地方にいた「泰作さん」のようなおどけ話を言う変わり者。
要蔵さんが山仕事の帰路、この三里塚まで来た時、近くの藪の中で狼と猪が喧嘩をしていたという。そのうち、狼が猪の尻に噛み付いた。すると今度は猪も狼の尻に噛み付いた。しかしこんなものを見ていてもしょうがないと、要蔵さんは家路に着いた。
翌朝、要蔵さんが再び三里塚まで来ると、昨日の狼と猪が骨だけになって尚、噛み付き合いをしていたという。昔まっこう、猿まっこう。
旧藩林の所にも解説板が建てられている。これは藩政時代後期の土佐藩による杉の植林帯跡。街道の両側15間をお留山にして、伐採を禁止していたという。しかし大部分が明治以降、伐採され、道から西側に一部、残るのみ。直射日光があまり当らないせいか、巨木は殆どなく、スラッとしたスマートな木が多い。
旧藩林登山口へと下る道から分岐して、旧藩林を一巡できる短い踏み跡もある。
羽根林道まで引き返すと、今度は反対方向に進むが、こちらも起伏は緩く、歩き易い。
946mピーク先で北東方向が木の間越しに開ける箇所があるが、その方向に遠望できる尾根の鞍部が、展望が優れた熊笹峠。
地形図(入木)の破線道は終始、尾根上を走っているが、実際の街道はピークを避けて巻いている。無線中継所コース分岐も尾根上ではなく、コルにある。
熊笹峠はその名の通り、周辺が笹に覆われ、眺望が開けている。尚、県立牧野植物園学芸員によると、県下には現在、熊笹はないという。ではミヤコザサか?
熊笹峠から先の道沿いは、笹ではなく、両側がスズタケに覆われた道になっている。昔の人は熊笹とスズタケとは区別してなかったのだろう。
装束山分岐の少々手前には土御門上皇歌碑が建てられている。上皇は承久3年(1221)の承久の乱による連座で土佐に配流となったが、実際、上皇は罪には問われていなかった。しかし生真面目な上皇は身内が皆、処罰されるのに、自分一人、京で暮らすことはできないと、自ら進んで配流となった。幡多の御配所へ向かう道程で、この野根山街道を雪の降る中、僅かな供を従えて進んだ。その折、「浮世には かかれとてこそ 生まれけめ ことわり知らぬ 我が涙かな」と詠んだという。
また余談だが、宮内庁管理の上皇の火葬塚は徳島県鳴門市にある。しかし異説として、阿波市吉野町にも塚があり、祠が祀られている。
装束山分岐から2分弱で一等三角点峰・装束山(1082.9m)山頂。三角点の横には木造の展望台が設置されており、南方の展望が大きく開けている。しかし人っ子一人いないということは、やはりアプローチの林道の長さが影響しているのではあるまいか。
山の南東から980m独立標高点に派生する支尾根の基点に装束峠とお茶屋場の案内板が建てられている。地形図の峠名表記箇所からは500mほどずれているが、当然、案内板の方が正しい。
案内板からその支尾根方向には藩政期に敷かれた石畳が残っている。この石畳の突き当りが、土佐藩主の休憩所跡で装束を着替えたという場所なのだが、ベンチが設置された広場よりまだ奥に石畳は続いている。その踏み跡を進んでいくと、大木が二ヶ所ほどにある。休憩するには大木の木陰が必要だったのではないだろうか。
街道に戻り、東進を再開すると、ほどなく右手にお産杉の標柱が現れる。明治32年まで、その標柱の上に根元周囲5m以上の大杉があった。地上4mほどの所から幹が曲がって水平になり、そこに枝が何本も伸び、何人か横たわることができる位の広さがあったという。
天正3年秋、長宗我部軍が阿波に進攻した際、家臣の池田甚三郎は戦況を土佐に伝えるため、飛脚として野根山街道を走っていた。道中、甚三郎は、長宗我部軍の一員として阿波に入った元親の家臣の妻に会った。彼女は臨月で、そこで産気づいていた。甚三郎は女を幹が水平になった箇所に上げると、そこで出産させた。
すると血の臭いを嗅ぎつけ、狼たちが寄ってきた。狼は一匹の背中にまた一匹が乗る、という具合に杉を上ってくる。しかし甚三郎は片っ端から脇差刀で斬って蹴散らした。
そこで狼は「鍛冶屋かかに来て貰うしかない」と言って、一匹の狼が呼びに行った。しばらくして、一回り大きな、鉄鍋を頭に被った狼がやってきた。その鍛冶屋かかにも甚三郎は刀で斬りつけたのだが、鍋で防御されて斬れない。今度、甚三郎は真剣を抜き、思いっきり、鉄鍋ごと鍛冶屋かかを斬った。すると鉄鍋は割れ、鍛冶屋かかは悲鳴を上げ、他の狼ともども逃げて行った。
甚三郎は鍛冶屋かかの血のあとを辿って、佐喜浜まで下りてきた。血はその地の鍛冶屋の家へと入っていた。甚三郎は鍛冶屋の主人に妻の居所を聞くと、妻は怪我をして帰り、奥の部屋で休んでいるという。甚三郎が奥の部屋に入ると、妻は甚三郎にとびかかってきた。甚三郎が一刀のもとに斬り捨てると、やがて鍛冶屋の妻の姿は大きな狼に変わったという。床下からはその狼に食い殺された妻たちの人骨が多数見つかったという。
街道はお産杉跡の少々先から向きを北東に変え、下って行く。
平地になると右手に大木が現れ、加奈木の崩(つ)えの道標が現れる。加奈木の崩えは日本三大崩壊地の一つで、宝永4年と延享3年に崩落した記録があるが、大正6年から昭和39年にかけての治山工事によって、現在は自然に返っており、展望所から見下ろしてもただの藪があるだけで、街道の「がっかり名所」となっている。
確か、978mと935m独立標高点との中間ほどのコル手前に、蛇谷へ下る道の道標が立っていたと思う。しかし見下ろした限りでは道の痕跡は全くなく、廃道化している模様。その道は、森林管理署の施業図を見ると、岩佐関所の蛇谷登山口の西方に下りていたことが分かる。
そこのコルから下りになり、それが一旦平坦になった箇所に四里塚がある。四里塚から下りきった所が土佐の三大番所、岩佐関所跡だが、そこは後日、四国第二位の巨杉を巡った際、探訪した。その山行記録もまた機会があれば投稿したい。
尚、前述の鍛冶屋かかについてだが、その供養塚が現存している。室戸市役所佐喜浜支所の入口を入った左手隅。かじやかかの碑の背後にある小さな自然石が塚石。鍛冶屋屋敷はこの近くにあったようで、昭和末、塚石がこの地に移設された。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する