アコンカグア【南北アメリカ大陸最高峰】と最果ての町
- GPS
- 296:00
- 距離
- 79.0km
- 登り
- 4,220m
- 下り
- 4,219m
アクセス |
利用交通機関:
バス
飛行機
【帰り】ペニテンテスーメンドーサーサンチアゴーウシュアイアーサンチアゴーNY−成田ー羽田ー福岡 |
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写真
感想
1.アプローチ 地球の裏側へ
12月25日 東京〜NY〜マイアミ
前日、福岡を発って東京入りしていた。早朝、T-CATを出発、11:30成田からNYへと飛び立った。
ブラジル遠征に行くサッカー四国ユースの選手が騒がしい。眠れずに窓の外を見ていると、オーロラが見えた。
9:35JFK空港に着陸。時差の関係で、時が逆戻りしている。トランジットで、いったん入国し、マンハッタンへ行った。クリスマスなので、まず、ロックフェラーセンターへ行き、巨大なツリーを見る。49Ave.、タイムズスクェア、ブロードウェーなどを見て回り空港に戻った。
17:00発のラデコ航空機は、定刻をだいぶ過ぎて飛び立った。
12月26日 マイアミ〜サンチャゴ〜メンドーサ
マイアミ空港で5時間待ったあと、0:30発。深夜なのに、ステーキの機内食がでた。サンチャゴの空港に11:00前に到着、空港でサンパウロ経由の先発隊と合流した。メンドーサへの乗り継ぎ便の定刻はすぎていたが、待っていてくれたらしい。
メンドーサは真夏の暑さだった。地球の裏側に来たと実感した。空港には、ここで民宿をやっている増田さんが迎えに来てくれていた。ホテルアコンカグアに入り、買い出し班、荷物の仕分け班、酒飲み班の3つに分かれた。
19:00に全員で増田園に向かった。増田園は1haの広さの土地に、民宿、ぶどう園、バラ園、温室などがある。庭にはアーモンドがなっていた。民宿もやっていて、植村直己、長谷川恒夫の遺品や、今井通子、三浦雄一郎の資料も展示してあった。その夜は、牛肉をブロックのまま炭火焼きするアサードとメンドーサワインで夜遅くまで盛り上がった。
12月27日 メンドーサ〜ペニテンテス(2,700m)
3台のワゴン車に分乗して、チリのサンチャゴへと続くアンデス越えの国道を走った。メンドーサを離れると、荒々しい乾燥した殺風景の中を道は続いている。徐々に、アンデスの白い峰々が近づいてくる。
3時間半ほどで、ペニテンテスのロッジに到着した。冬はかなりの積雪があるらしく、裏山がスキー場になっていて、リフトの支柱だけが頂上に連なっている。ここで、BCに直行する荷物とキャラバン中に使う荷物の仕分けをした。
2.キャラバン オルコネス谷を行く
12月28日 ペニテンテス〜コンフルエンシア(3,250m)
この国は、1時間待たされるのは当たり前のようだ。朝食も、迎えの車もそうだったし、これまでも何度かあった。日本人がせかせかしすぎているのかもしれない。
登山口までは車で1時間弱。途中にあるプエンテ・デル・インカ(インカの橋)に立ち寄った。インカの橋は、自然が作り上げた橋だ。川岸の鉄鉱石に含まれた鉱物質が沈殿してたまり、それが積もるにつれて流れの中央へとせり出し、橋の形になったそうだ。橋のたもとには温泉がわき出ている。古い石造りの建物があり、中にはたくさんの湯船が並んでいた。少し離れたところには、露天風呂もあった。
登山口のレンジャー・ステーション(2,920m)で、一人80ドルの登山料を払い、登山許可証とゴミ袋を受け取った。袋には番号がついていて、下山時登山中のゴミを持って下りたか確認するという。
いよいよキャラバンの開始。BCまでの荷物は、ウマとロバの一代雑種であるムーラが運んでくれる。1頭が約60kgの荷物を背中にくくりつけられ、黙々と歩く姿はたくましくもあり、少し哀愁を帯びても見える。
歩き始めてしばらくで、オルコネス湖のほとりに出た。湖というより池に近いが、高山植物が咲き乱れ、湖面にはアコンカグア南壁が影を落としていた。体調の悪いIさんと一緒にゆっくり歩き、コンフルエンシアに着いたのは14:30頃だった。ムーラが到着したのは15:30になっていた。テントの周りにはキツネがでた。
12月29日 コンフルエンシア〜南面ルート4,050m地点〜コンフルエンシア
ノーマルルートで頂上を目指すパーティーは、2日間のキャラバンでBCにはいるのが通常だ。しかし、我々は、高度障害予防のため、4日間かけることにしていた。それでこの日は、高度順応のためコンフルエンシアに滞在して、南壁が間近に展望できる南面ルートにトレッキングに出かけた。コンフルエンシアとは、川の合流点という意味で、南面ルートとノーマルルートである西北面ルートの分岐点になっている。
南壁は、3,000mの標高差で屏風のように立ちはだかっていた。とても人を寄せ付けないように見えた。
12月30日 コンフルエンシア〜イバネス(3,800m)
コンフルエンシアからしばらくは急登が続いたが、登り切ったところは清流が流れる草原だった。草やかん木は、とげを持ったものが多く、株の中央から外に向かって枯れが広がり輪状になった草が多く見られた。円形脱毛草と名付けた。
そこからは、デドス山を正面に見ながら、広くなったオルコネス谷の河原をひたすら歩く。河原の土砂は、白かったり赤かったり様々に色を変える。何度か徒渉を繰り返し、イバネスに着いた。
そこから上には植物はない。水場がないので、井戸を掘ったり、山裾のわき水を探したが、結局みんなの水筒の水を集めて夕食の雑炊を作った。
12月31日 イバネス〜ベースキャンプ(4,200m)
石がごろごろしたモレーンの中を歩く。1匹の犬がずっと後をついてきていた。コロンビア小屋と呼ばれる壊れた小屋の所から急登となり、その後起伏のあるサイドモレーンを登るとヘリポートにでた。さらに丘を回ると色とりどりのテントが目に飛び込んできた。プラザ・デ・ムーラスと呼ばれるノーマルルートのBCだ。
世界各地からの登山隊のテントが100張りほどあった。我々も、4張りのテントを建て、BCとした。
夕食は、年越しそばならぬ焼きそばで、ワインでBC設置を祝った。午前0時、花火の音とともに、新年を祝う歓声があちこちで上がった。
3.登山活動 荷上げと高度順応
1月1日 BC〜C1(5,240m)〜BC
雑煮で朝食をとったあと、いよいよ登山活動の開始だ。ここから上にはムーラは登らないので、荷物は人が担ぎ上げるしかない。17名の隊員全員の登頂を目指していたので、上部にも多くのテントや食料などを上げないといけない。平均年齢50歳に近い中高年登山隊の中でも、私を含む比較的若い7人は荷上げの主力とならざるを得ない。そこで、若手組は、自らを「ムーラ隊」と呼び、BCで若手組が寝る大型テントを「ムーラテント」と名付けた。
C1までは、ガラガラの急坂をひたすら歩く。5,000mを越えると未知の領域だ。整地してテント2張り建設し、BCへ下山する。登りは4時間以上かかったが、下りは1時間。
1月2日 休養日
強風で目が覚めた。C1のテントが気に掛かった。気分が悪くて少しはいた。
11:00に氷河の向こう側にある世界一高いところ(4,370m)にあるホテルへ出かけてみた。ゆっくり歩いて40分ほどだ。ランチを注文すると、ナポリタンにパン、スープが付いて15ドル、ワインが1リットル6ドルだった。宿泊は、素泊まりで15ドルからとなっていた。
この夜作戦会議が開かれ、全体を3班に分け、A班7人は6日に頂上アタック、私を含むB班5人は7日にアタック、C班4人はBC管理ということで行動計画が建てられた。
昼前から痛くなっていた歯が、夜には我慢できなくなり、眠れない夜を過ごした。
1月3日 BC〜C1〜デポ地点(5,710m)〜BC
B班5人は皆ムーラ隊で、C1までは快調にとばした。前回よりも1時間短縮できた。しかし、ここでIさんが気分が悪くなり、残りの4人でさらに上まで荷上げする。
5,300mから上は膝までのラッセルとなった。C2予定地まであと少しというところに荷物をデポして下った。16:00頃から吹雪になり、C1から下も真っ白になった。
BCに戻って、歯があまりに痛いので、診療所のテントに行った。吹雪の中30分待たされたが、歯の治療はここではできないということで、とりあえず強力な痛み止めを3日分もらって、めまいがするときはまた来いといわれた。診療費はタダだった。
医者から上には行かない方がいいといわれたが、ムーラ隊長のYさんから戦力が減るので登ってほしいといわれた。夕食はうまそうな肉じゃがだったが、痛くて食べられなかった。A班はC1泊。
1月4日 BC〜C1
歯の痛みを我慢しながらC1に登る。調子のでないIさん一緒にゆっくりと行き、皆から1時間遅れとなる。A班はC2まで荷上げしてC1に戻ってきた。
1月5日 C1〜C2(5,840m)〜6,000m〜C1
8:00C1発。途中、ニド・デ・コンドレス(5,400m)も平らな地形で、ここにC1を置いているパーティーも多い。10:30に2日前のデポを回収、11:30C2着。C2地点は、ベルリン小屋と呼ばれていて、小さな三角の小屋が2つと屋根のない壊れた鉄骨の小屋があった。近くの岩の上にはいくつかの十字架が立っていた。
12:00まで休憩していると、韓国隊の2人が上がってきた。1日でBCから頂上まで往復するという。すごいとしかいいようがない。さらに上まで高度順応に出かけた。6,000mまで登ったところでHさんとふたりでC2に下った。他の3人はさらに上を目指した。C2では、A班がテントを設営していた。A班は今夜はC2泊まりで、明日頂上を目指すことになっている。
14:00過ぎにHさんが気分が悪いといってC1へ下っていった。15:30に上部に行っていた3人が下ってきた。Sさんが高度障害でふらふらしている。少し休ませたあと、皆でC1へ下る。C1で、どうするか聞くとSさんとHさんはBCに下るという。19:00にふたりがBCへ下るのを途中まで見送りに行ったあと、夕食。
4.アタック 頂上に立つ
1月6日 C1〜C2
B班は3人になってしまった。7:00の交信で、A班のうちTさんは下山、Wさんは目の異常でC2に残り、他のメンバーで頂上へ向かうことを知る。
11:00C1を出発。12:00に下りてきたOさんとTさんに出会う。C2直前の急登が苦しい。13:00の交信では、SoさんがC2に戻って、Onさんと平田さん2人が登り続けていると知った。
C2についてしばらくすると、鬼木さんが下りてきた。途中まで快調に登っていたが、軽アイゼンしか持っていなかったため、下山時の安全を考慮して6,600mで涙をのんだという。
20:00ごろ、平田さんが元気な姿でC2に戻ってきた。17:45に登頂したという。平田さんは広島山の会に所属していて、この年還暦を迎えたのだが、日々のハードなトレーニングのためか強靱な肉体を維持している。加えて、技術面もすばらしい。登頂を祝福したあと、翌日のアタックに向けて眠りについた。
1月7日 C2〜頂上(6,969m)〜C2
A班のWさんの目も回復して、4人で頂上を目指すことになった。
アイゼンを持っていなかった者も、前日登頂した札幌中央労山隊から借りることができた。今回、出発前に色々資料を調べた限りでは、どの記録も夏のノーマルルートでは、アイゼンを使用していなかった。7,000m近い山に行くのに考えが甘いといわれればその通りなのだが、なぜか、アイゼンはいらないと思いこんでいたのだ。それが、100年ぶりの大雪の年に当たってしまった。
8:10出発。早朝の厳しい寒さを避けての、遅い出発時刻とした。25分歩いて5分休む、というペースで、トップを交代しながら登り続けた。6,300mのインデペンデンシア小屋までは、ジグザグに高度を稼いでいく。小屋から50mの雪壁を越えると西斜面に踏み換えて、長いトラバースルートとなった。傾斜も徐々に急になり、前を行く外国隊のペースも遅くなった。
高度のせいか、眠たくなりあくびが止まらない。
グランカナレーターの手前で、4人でツェルトをかぶり休憩した。ツェルトの中は暖かく、すぐに眠りに落ちた。
30分くらい寝たあと、グナンカナレーターに取り付いた。傾斜40度のクーロアールが延々と続く。苦しいが一歩一歩足を上げるしかない。だんだん意識が遠くなるのがわかる。深呼吸を繰り返しながら歩き続けて、ようやく南峰と本峰のコルについた。
そこでまたツェルトに入って休憩を取る。岩の上に腰掛けたが、足の間からは遙か下に取り付き点が見えた。落ちたら死ぬな、と思いながらすぐに眠りに落ちた。完全にバテていたが、ムーラ隊長のYさんから「もう下りるか?」と聞かれ、思わず「行きます!」と答えていた。
コルから頂上までは、近いようで遠かった。風が強くなり、雲も増えた。南壁側に踏み込まないように、慎重に稜線を登り続けると広い雪原に出た。その中で一番小高いところにアルゼンチンの国旗がついた古いピッケルと、雪の中に半ば埋もれたマリア様の絵額があったので、そこが頂上と知った。アメリカ大陸の最高峰の頂に立ったのだ。16:30だった。
ムーラ隊4人は、抱き合って喜び、写真を撮りあい、Yさんが担ぎ上げた1kgのフルーツ缶を食べたりしたのだが、高度障害のためか、ほとんど何も覚えていない。
目がかすみ、足ががくがくきていたので、下りはザイルで確保してもらうことになった。C2に着いたときは、ふらふらだった。20:00頃着か。
1月8日 C2〜BC
C2撤収後、9:30頃下り始める。C1は、すでにA班の手で撤収されていた。そこから見上げると、長いトラバースルートやグランカナレーターの取り付きの見覚えのある岩が見えた。その上には頂上と思われるピラミッド型の岩峰がそびえていた。C1から下は、安全地帯まで下りたという気のゆるみからか何度も転んだ。
13:00過ぎ、ようやくBCに到着。皆が拍手で迎えてくれた。
熱いスープやYさんが作ってくれた温麺を食べて、やっと人心地がついた。
2人の軍人がムーラテントを訪ねてきて、スペイン語の勉強をしていると、外は大雪となり、あっという間にプラザ・デ・ムーラスは銀世界になった。積雪は30cmにもなった。夕食は、ダニエルのレストランに行った。レストランといってもかまぼこ型のテントの簡単なもので、その日のメニューはカツレツだった。ビールとワインで、登頂の成功と登山活動の終了を祝った。
ムーラテントに戻る頃には雪もやみ、満天の星空が美しかった。
5.再びメンドーサへ
1月9日 BC〜ペニテンテス
朝、BCを撤収していると、マルティンと名乗るスイス人がやってきて、気分が悪いので下山するが、一人では心細いので一緒に下りたいという。
11:00BC発。1時間も歩くと雪もなくなり、だらだらとした道を歩き続ける。下りとはいえ、登りで4日かけた道のりを1日で歩いてしまうのだ。マルティンのペースに会わせてゆっくりと歩いて、登山口のレンジャー・ステーションに着いたのは20:00をすぎていた。
迎えの車のピストン輸送で、全員がペニテンテスのアイレンホテルに到着したのは、22:00をすぎていた。2週間ぶりの、本格的なレストランでの食事、シャワー、ベッド(寝袋ではない)は、登山の終わりを実感させた。
1月10日 ペニテンテス〜メンドーサ
荷物が3個届いていなかったが、個人装備はすべてそろっていたので、メンドーサへ向けて出発した。途中の町で昼食になったが、歯が痛くてヨーグルトとジュースですませた。
15:00前にメンドーサのアコンカグアホテルに久々に入った。ホテルでは増田さん母娘が出迎えてくれた。アルゼンチン入りした晩に歓迎会を開いてくれて、夜中まで飲んで騒いだのを思い出した。
21:00に全員で、町のレストランへ出かけた。店先では大きな牛肉のブロックが、ぐるぐると回転しながら炙られている。それを切り分けたのが運ばれてきた。厚さ5cmぐらいで450グラムというボリュームだ。日本でいえば、3人前といったところか。これで8ドルは安いと感じた。
1月11日 メンドーサ
午後、サン・マルティン公園に散歩に出かけた。とても広大な公園で、湖、森、バラ園のほかサーキットや競馬場、博物館まであり、とても1日では見て回れない。帰りに買い物をしようと思ったが、17:00まではシエスタでどの店も(銀行までも)閉まっていた。
16:30から、2台の車に分乗して、ワイナリー見学に出かけた。メンドーサには大小あわせて5,000近くのワイン工場があり、アルゼンチン産ワインの70%を産出している。多くはフランスに輸出され、フランスワインと名前を変えて世界中で愛されている。
日本でも有名なトラピチェワインの工場を訪れたが、そこだけで1億数千リットルものワインが貯蔵されている。直径36mで5百万リットル入るタンクもいくつもある。
12時頃残りの荷物が到着した。
6.世界の果ての旅
1月12日 メンドーサ〜サンチアゴ
この日、メンバーのうち7人が先に帰国し、残りは世界最南端の町へ旅に出た。
12:00の飛行機でサンチアゴへ飛んだ。サンチアゴ空港に迎えに来ているはずの車が見あたらず、声をかけてきた白タクでホテルニッポンへ向かった。このホテルは日本人経営で、1日遅れだが日本の新聞も読める。そして何よりうれしいことに、斜め向かいに日本食レストランがあった。さっそく、カツ丼を注文した。C1までの苦しい登りを歩きながら、念仏のように、「カツ丼食べたい」「かき氷食べたい」とつぶやいていたのだ。他の人もそれぞれ、刺身盛り合わせや天ぷらそばなどを食べていた。
夕食はダウンタウンのシーフードレストランに出かけた。サンチアゴは新鮮な海産物が多く、魚料理は日本人の口にあった。生演奏のバンドが、我々のため「スキヤキ(上を向いて歩こう)」を歌ってくれた。
また、チリの人はアルゼンチン人と違い、身長も低く、日本人並みに胴長短足で親しみが持てた。
1月13日 サンチアゴ〜ウシュアイア
早朝、空港へ行き、9:00の飛行機で世界の果ての町へ飛び立った。途中、プエルトモン、プンタアレナスに着陸し、そのたびに機内食がでた。プンタアレナスでいったん空港ビルで出国手続きをし、再びアルゼンチン領のウシュアイアに到着し、港の前にあるホテルアルバトロスに入ったのは、16:00だった。
ウシュアイアは、ビーグル水道に面したこぢんまりとした坂の町だ。どこか函館ににているが、町のすぐそばまで氷河が迫り、いつも強風が吹き荒れている。ここは、南極まで1,000km足らずの最果ての町なのだ。港からは、南極クルーズの船も出ている。
さっそく、翌日からのアクティビティーの情報を仕入れに、山内さんと町のツアーデスクに出かけた。
夕食は、タラバガニ料理を食べに行った。Hさんは、飛行機の中からずっと腹が痛いといってホテルで寝ていた。
1月14日 ウシュアイア
朝、Hさんの具合はまだよくなっていなかった。Yさんとタクシーを呼んで病院に連れて行った。注射を打って、薬局へ行き薬を買った。治療費は無料、薬代21ドル。その間、Fkさん、Mさん、Fjさんは氷河を見に、Ysさんは2日間の魚釣りツアーに出かけた。
15:00からのティエラ・デル・フエゴ国立公園ツアーを予約した。ところが、いつまで待ってもガイドが来ない。ガイドがマイクロバスでやってきたのは15:50を過ぎていた。
ウシュアイアの町から車で30分、ゲートを過ぎると、南極ブナやニレの原生林が広がっている。原生林といっても、強風のためかあまり背の高い木はなく、どれも大地に踏ん張っているというかんじだ。
渓流は、所々ビーバーダムでせき止められて池ができている。ダムの周囲には、ビーバーが切り倒したと思われる木の切り株がたくさんあった。いや、切り倒したというより歯で削り倒したのだろう。池の中を泳ぐビーバーの姿も見ることができた。
湖の畔にはカフェもあり、夏の午後の一時、のんびりとコーヒーを楽しんだ。
町に戻り、夕食は名物のシーフードの炊き込みご飯を注文したが、材料が入らなかったということで、ラム料理に変更した。
1月15日 ウシュアイア
8:00出航の遊覧船でビーグル水道へ出かけた。船は、双胴でガラス張りの窓が広く、明るくしゃれた感じだ。
しばらく進むと、小さな島に近づき減速した。その島にはシーライオンと呼ばれるアザラシの仲間オタリアが、コロニーを作っている。さらに、ウミウが立錐の余地もないほど島を埋め尽くしていた。
船はさらに東へとビーグル水道を行く。ビーグル水道は、幅が狭く、博多湾ぐらいの幅で延々と続いている。やがて、右側の窓に、世界最南端の村プエルト・ウィリアムスが見えた。
約2時間走ってペンギンの生息するゲーブル島に着いた。波打ち際から丘の上までびっしりとペンギンが立っている。ほとんどがマゼランペンギンで、ひとつがいだけジェントルペンギンがいた。よちよち歩くペンギンの姿は、いくら見ていても飽きが来ない。
ほかにもコンドル、オイスタキャッチャー、ドミニカガルなどの鳥も見ることができた。
14:00に桟橋に帰着。航空会社のオフィスにリコンファームに行ったあと、18:00から世界の果て博物館へ出かけた。
1520年、大西洋を南下してきたマゼラン一行は、ここ、フエゴ島にさしかかったとき、丘の上に燃えるいくつもの火を見つけ、「ティエラ・デル・フエゴ=火の国」と名付けたといわれている。その火は、原住民のヤーガン族やオーナー族のたき火だったのだが、彼らは、つい百年ぐらい前までは裸同然の姿で暮らしていた。博物館には、1880年代に撮られた彼らのその姿の写真や生活用品などが展示してあった。
1月16日 ウシュアイア〜サンチアゴ
長かった南米の登山と旅も、とうとう終わりを迎えようとしていた。パタゴニア最後の半日をのんびり過ごしたあと、15:30の飛行機でウシュアイアを後にした。空港では、南極ツアーに参加したという日本人カップルと出会い、いつか南極にも行ってみたいという気持ちがかき立てられた。
世界の果てから日本までの道のりは遠かった。サンチアゴで1泊、半日観光した後、飛行機を乗り継いで、大雪のニューヨークでさらに1泊。日常生活の待つ日本へ帰った。
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