《巨摩山地》身延-【富士見山、御殿山、十谷峠】-新倉


- GPS
- 29:27
- 距離
- 24.6km
- 登り
- 1,968m
- 下り
- 1,691m
コースタイム
- 山行
- 7:10
- 休憩
- 0:40
- 合計
- 7:50
天候 | 一日目 晴れ 二日目 晴れのち高曇り少し雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2015年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
自転車
04:30 自宅 04:45 町田 04:56、JR横浜線、2270円 05:21 八王子 05:35、JR中央線 06:19 大月 06:23 07:12 甲府 07:16、JR身延線 08:13 甲斐岩間 復路(あ) 13:50 新倉 14:11 早川町乗合バス600円+200円(荷物代) 15:05 下部温泉 15:19 JR東海、身延線、特急券650円+2590円 16:02 甲府 16:28 JR東日本、中央線、普通 16:50 塩山 17:05、JRホリデー快速ビューやまなし号・新宿行 18:15 八王子 18:19、JR横浜線 18:45 町田 18:55 19:10 自宅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
身延の日向の上の薮は、道無し。△428の西のコルから西は、道あり 十谷峠から茂倉までの道は所々不明瞭。地図読み不可欠。違う尾根を下ると下部ほど傾斜が急で危険。本文参照。 雪は1600m帯の北側のみ残雪、アイゼン持って行ったけど使わず、残雪も最大で膝くらいの沈み込みがあった。御殿山の下りからスパッツ付ける |
写真
装備
個人装備 |
スコップ+鋸 1 a:鋸、忘れ
アイゼン(靴は軽登山靴) 1
その他冬山宿泊個人装備 1組
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共同装備 |
ツエルト 1
オプティマス小型No.96 1 燃料は本体のみ
鍋セット 1
ザイル6mm×10m 2
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感想
元祖「駅から入山キング」のアラゲンさんしかつきあってくれなそうな、巨摩山地横断山行。茂倉(もぐらと読むのは現地で知った)に下山したかったのと、(旧中富町の)富士見山中腹の集落群を足で歩いてみたかった。
一日目:甲斐岩間から富士見山
甲府駅4番ホームの身延線にて始発で東京から来たアラゲンさんと待ち合わせ、巨摩山地を見ながら甲斐岩間まで。ハンコの街六郷から川向こうに富士見山が聳えている。富士川を渡河して、国道を横切り、和紙の郷西島の路地裏を歩いて回る。古い家、神社。車の多い国道をぬけて夜子沢へ入るとほっとする。
日向から北の尾根に登る。シカ柵を超えてから地図にあった道は不明瞭で元耕作地を登って行くと△428に登ってしまった。竹やぶの倒木原で暫く往生するが、コルに出ると良い山道になる。両側の沢には集落があり、この尾根上はむかし桑や麦の耕作地だったようだ。今は杉林だが石垣が組んである。顕著な細い尾根のところで三角点△543.2と明治14年の日蓮宗の碑があった。身延山が近いから。両側は断崖で、足元には沢沿いの集落が見える。
そのすぐ先で突然、舗装道路の終点が現れる。これをたどると青少年自然の家という、ピカピカの施設、その先が空中都市「原」の集落。古いかぶと造りの屋根の集落の一本道の坂を登る。途中には縄文遺跡と、寺、それに大銀杏があった。サクラはこれから咲くところ。畑にいた老人に水を汲ませてくださいと頼むと、上の登山口近くの脇に水が流れていると教わる。道脇の水路が勢い良く流れ、原を潤しているところがあった。△点687.2のところ。横には祠と墓。嘉永年間の文字。平須登山口にはバス停があるけど身延の役場前からで鉄道とは繋がらない。こうして歩いても楽しい。
富士見山登山道は稜線まで樹林帯の2時間半。途中標高1030m付近に倒壊した小屋跡あり、その裏に、塩ビパイプで建てた鳥居と念力大国の祠あり。甲斐駿河相模一円からの熱心な寄進あり。樹間から先の原集落始め、中腹に点在するマチュピチュのような空中都市群が見える。「窪」「樅(もみそ)」「萩」「矢細工」と、どれも訪ねたい名前ばかり。
稜線に出た1627から南となりの1639が、富士見山見晴台と云って、ひとまずの山頂だ。行程中、唯一展望の利くところだ。岩峰になっていて、周囲の薮も払ってある。ザックを置いて、更に南の最高点を往復する。稜線に出てから初めて残雪がある。北側斜面に残っているだけだ。富士見山三角点ピークは樹林の中だが富士山がかろうじて見えた。
見晴台に戻って夕暮れまで過ごし、南アルプスや富士山、それに早川の富士川二股付近の灯りがつくのを眺める。きょうは登山者にあわなかった。
アラゲンさんのオプティマスブラスストーブで少し残っていた残雪を溶かして餅入りトムヤムクンスープ。二人ともブラックニッカポケット瓶だった。18時前、毛無山の上に大沢崩れをこちらに見せた富士山が茜色に。今日は無風で気温も高く、富士でも山頂アタック日和だったろう。
二日目:御殿山から十谷峠、茂倉へ。
快晴だが気温は高かった。ツエルト一枚でちっとも寒くない。富士山の左から日が昇る。南アルプスの3000mラインが赤くなった。稜線を北に向かう。1627のすぐ北に念力大国神社の祠あり。この先、雪が潜るのでスパッツを着ける。残雪に隠れ、道は不明瞭になるが合成樹脂の看板はとぎれとぎれに続く。1638東のコル近くにあるカツラのように見えたひこ生えのサワグルミは、12本サワグルミと書いてあった。あとで茂倉で聞いた話だが、平成3年頃にこの峠道を整備したようだ。
御殿山は今山行の最高峰。樹林の中だが相変わらず樹間からは悪沢や笊が見える。残雪の残る北側斜面を辿って十谷峠へ。峠には車道が通じているが、工事中の雰囲気。ここの標識で茂倉を「しげくら」ではなく「もぐら」と読むのを知った。登山道は茂倉まで40分と書いてある。なあんだ、整備されているのか、と思ったが、やっぱりそうではなかった。荒れていると聞いていたので警戒しながら地図を確認しながら降りて行ったのだが、間違えた。道が尾根を二本トラバースして三つ目を下るのだが、二つ目の尾根を下ってしまった。三つ目が難しそうだったのでそっちを気にしていて早まった。標高差で100mほど下って、地形の違いに気がついて1360まで登り返す。二本目と三本目の間の沢には水が流れていてそこに標識もあった。水場から三本目の尾根にかけてのトラバース道は崩壊で崩れ、不明瞭な箇所が二、三ある。踏み跡を辿ると地形図のラインとは違う線を辿って・1104北にあるゲジゲジマークの崩壊地(茂倉で聞いたら「御前崩れ」というらしい)を横切るところで行き止まり。御前崩れは地形図よりも崩れが上に上がっている可能性がある。戻って登り返して上を巻こうと登って行くと踏み跡があって1200mの傾斜の無いラインから北側へ超える事ができた。その跡は尾根上に茂倉沢まで踏み跡が続いていた。
茂倉集落に入ると、ネパールのトレッキングを思い出すような風景に泣けてくる。木造家屋が段々になった土地に、所狭しと出窓を伸ばして小さな路地がある。中心の神社を過ぎた三叉路に老婆が3人、杖を持って種まき帽子を被って腰を下ろしていた。「どこ登って来た」「道どうだった」、一人は山好きで昨年は北岳〜農鳥を縦走したという昭和14年生まれだった。一通り話したあと、彼女の家に上がり込んでお茶をごちそうになった。
径一尺はあろうかという黒光りの大黒柱、壁に作り込みの大きな仏壇、外観に寄らず凄く造りの良い家なのが、ネパールのタルケギャン村を思い出す。
以下、おばあさんの話。忘れたくないので筆記。平成3年に十谷峠の自動車道が開通したとき、脇の登山道(それまでの旧道)も整備して標識も付けた。自動車道は中富側で崩壊し、数年で通れなくなった。茂倉から峠までは今でも通れる。昔はあの水場で水汲んで、山頂まで食べ物を運んでみんなで食事もした。もっと前はやはり旧道を辿って中富へ抜け、甲斐岩間の駅まで歩いた。今回の我らの行程だ。
茂倉の集落は昭和47年(1972)年に郷土史編纂したとき、550年の歴史があると聞いた。15世紀、室町時代だ。昭和11年に集落全滅の火事があってお寺も焼けてしまい、それ以前の記録は無い。茂倉には昔小学校の分校があったけど4年生までで、5年生からは片道5キロ標高差500mの下の小学校まで毎日通った。手ブラで行くなと、往復何か持たされた。集落の周辺で見た杉林の中の石垣は全部麦畑だった。新倉までの道路脇の急な茂みの中もどこもかしこも石垣が組んであった。麦のおかげで敗戦のころも食べ物に困らなかった。昭和40年頃まで茂倉沢の標高670付近に茂倉鉱山があった。石膏や銅を採った。そこで働く人も多かった。60軒以上あった。今は20軒。旧正月のお祭りと、春分の日のお祭りは、平成17年を最後にこどもも若者もいなくなったのでやめた。前は男だけでした作業も今は婆様のほうが多くなった。先週の春分のお祭りも、みんなで集まっただけの簡単なもので終えた。3人のこどもは甲府盆地の昭和町のほうなどに住んでいる。お父さん(ご主人)はお祭りをやめたころから病気で笛も吹けなくなってしまった。3年前になくなった。ここへはお嫁に来る人はいないから、私もみんなもここの生まれだよ、と云った。おとといはここから見る富士見山に夕日が当たってとてもきれいだった。
ここからバス停まで歩いて1時間。途中、鉱山の降り口まで一緒に見送りに来てくれた。万歩計で、歩くのが楽しみだと。この道、毎朝通学で歩いたのだし。
一時間ほど歩いて下った早川本流沿いの新倉(あらくら)は神社から集落に入った。忠霊碑があったので裏を見る。裏には大抵出征兵士の戦没地が書いてある。この小さい集落からも10人ほど徴兵されて帰らなかった。サイパン、ラバウル、北支山東、洞庭湖湖畔、比島ピナツボ山麓、レイテ、台湾沖、千島。ここも斜面に古い集落。川沿いの広い平地には古く良い建物は無い。簡素なものか、新しいものばかり。昔の人は水の来るところに決して家を建てなかったのだろう。老人に声をかけられて、少し話した。10年以上前、渡辺謙がTVドラマで撮影に来たよ、今じゃ大スターだ、と、うれしそうに教えてくれた。人がへって寂しいね、と云った。「さっきこどもの声を聞きましたよ」「お彼岸の一週間遅れの墓参りにとおくから孫が来たんだろう」
バス停でバスが来るまで20分ほどある。アラゲンさんに菓子パンをもらう。山を下りたバス停前の商店でバス待ちビール、というのがお気に入りの手だが、お店は一軒も開いていない。遠くでさっきのこどもの声。白い車がこどもを載せて通り過ぎる。東京のナンバーだった。おばあさんが一人いつまでも見送っていた。
バスが来た。バスは助かるなあ。下部温泉まで載って、早川沿いは櫻が少々、若葉の新緑も少々。この季節は本当にすてきだ。下部温泉駅前で、珍しく土産のモナカを買う。おばさんが作ったというので。
列車に乗ってしまえば甲府はあっという間だ。アラゲンさんは中央線を普通列車で上って行った。
yoneyamaさんから、お誘いを受けたのが、先週の火曜日(3月24日)、日帰りでは3回ほど、ご一緒させていただいたが、今回は一泊ということで、日帰りでは意識しないような事も、考える必要がありますね、普段はほとんど一人で歩いているので、好きな時に、好きな分だけ休めるし、歩けるだけ歩けるという気楽さが、ありますが、yoneyamaさんと歩く分には、山とは関係ない路地裏を散策したり、歩くペースも付かず離れずに行くことが出来て良かったです、食事の事も、普段の山ではインスタント中心な私では、役に立たないので、すべてお任せさせていただきました。雪を溶かして水作る事を想定していなかったので、燃料はストーブの容量のみしか持って行かなかったので、燃焼時間の心配をおかけいたしましたが、無事に翌朝の調理が出来て良かったです。
残念ながら、今回のような山村集落は消えゆく運命にあるのかも知れませんが、少しでも長く存続して欲しいと思います。もちろん外から見るのとは想像も出来ない?、実際に生活している人には、もちろん大変な不便や苦労などがあるのでしょうね
個人的には、前日の夜、寝る前にヨーグルトを食べすぎたせいか、ずっとお腹の調子が良くなかったです。急降下は無かったのですが、夜、夜半過ぎに外に用を足しに行きました。おかげで、満天の星空と天の川を見ることが出来ました(笑)食事後、私が用を足して、テントに戻ってみると、すでにyoneyamaさんは、物音ひとつ立てずに寝ていました。例のポリゴンネストって奴らしいです。三季節用くらいの大きさぐらいしかありません。私は冬用の化繊(昔のモンベル?)ですが、一回り大きいです。当日の気象通報を録音したのですが、天気図は書きませんでした。起床時間も決めなかったのですが、なんとなく明るくなってきた5時前くらいに起きたような気がします。私、お腹の調子が良くないので、コーヒー飲めませんと言ったので、朝、起きたらお茶でも飲みましょうかと言うので、ストーブ外に置いてあったので、持ってきて、取っ手来た雪に水も混ぜてお湯を沸かします。朝食は、早茹でパスタ、一袋150g X 2です +袋物のスープで味付け、ジャガイモ、ネギ、にんにく?も入れていたような?。ちょっと多かったけど、茂倉まで、何も食べずに済みました(笑)
また、機会がありましたら、行きましょう!
コメント
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おはようございます。
この辺は鉱物採集でうろついたところです。しかし「茂倉鉱山」は名前を知っていただけで行けなかったです。
お二人が国道からまず入られた沢は「夜子沢」ですが、もう少し遡ると「石膏産出地」として町の天然記念物になっている大岩があります。茂倉鉱山も石膏ならきっと同じ鉱脈ですね。
青少年自然の家のあたりから北に向かうと「大塩」という集落があり、これも本当にいい風情の小さな部落で記憶に残っています。
だんだんこういう集落も減ってしまうんでしょうね。
「茂倉」と聞いて南アルプス市の「六科(むじな)」を思い出したpasocomでした。
鉱山の話が出たとき、山師のパソコさんの噂になりました。地図で見ると大塩、良さそうなところですねえ。集落の外れの沢が、やけに崩壊地が多いのは石膏岩層のせいなのかな。
もぐらは、「ぐら」ではなくて「も」にアクセントをつけないといけないと、厳しく云われました。
泣けました。
歴史ってのは自分で歩いて触れて現実味を持ちますね。
リアルで行けず無念。
山間台地の小集落は甲斐国?身延?の特徴なんでしょか?
滑川の集落もあと10年早ければ話聞けましたね。
山間集落、山裾は、社会がどん底で食えない時代は、盆地部よりも生き易い場所だと思います。流通が文句無い時代にはわからなくなるけど、災害時には、都市部ではトイレするにも困るけど、山間はなんとか食えるし薪もある。平和な時代が続きすぎて、いまは最後の困窮時代(昭和20年代)の生き残りなのだと思います。いずれまた山間部時代が来るかもしれないと思っています。
ばあさまはラーメンも食べるか?と云ってくれました。お礼状書きます。
戦時中に不死身にかけて多くの人が願掛けに登ったそうです。聞いた話ですが、忠魂碑を見てすぐに思い出しました。
「山梨百名山」という本だったかな、むかしは平須峰とか、地元の集落の名前が見る方からのそれぞれの名前だった、富士見は新しい名前のようだとありました。山の名前にも歴史的変遷があるみたいです。不死身願掛けの話もありました。
忠霊碑は昭和30年前後に各地にかなり建ちましたね。大事な事は石に刻んでおかないと。都市部にはないけど、これがあるところは共同体の歴史を偲べます。今生きている遺族は出征を見送った弟や妹世代までですね。
石に刻んだ読みにくい文字を読む方法、ペットボトルに片栗粉を入れて持って行って、文字のところに手でゴシゴシやると、凄く読み易くなります。水をかければ戻ります。郷土史家のおじさんに教わりました。
pasocomさん、ihara1990さん、jinzaemonさん、コメントありがとうございます。yoneyamaさんが、青森に居た時に、何度かコメントし合って、実際に会うまでにも、何か似たところがあるなぁと感じてはいたのですが、今回二人だけで山行ってみると、路地裏散策やら、石碑見物とか、遺跡見学とか、興味ある部分が、同じだと感じました。が、やはり歳はほんのちょっとしか違わないけど、やはり、数々の難関を越えてきた人は違いますね、私の日数的には沢山、山歩いているけど、中学生の○ターベーションみたいなもので、一人で楽しんでいるに過ぎません。やはり、どれだけ人と関わっているのかが、人生の深みを増すのだなと、思いますし、登山も同じで、どれだけ沢山の人と関わって山に登るかが、山の楽しさや、深みを増すのだろうと思います。茂倉のおばちゃん達との会話も、話の引き出し方が、凄いですね
歴史のある家は、線香の匂いがする。母の実家に行くと同じ匂いがします。あと、居間中にいっぱい張ってあった命名「」の紙が素晴らしいかったですね。古い電話の横にカーバイト・ランプが置いてありました!昔鉱山で使っていてのでしょうか。本当に素敵なお宅と、お人柄のおばちゃんでした。あ、そうそう、お茶や、生姜湯?、お新香、の他、さらにお茶、お饅頭 X 2なども手土産に頂いてしまいました。ありがたいことです。
もう一度、yoneyamaさん、食事とテント持ってもらって、ありがとうございました。
yoneyamaさん、araigengaさん、こんばんは。
私も6年半前に挑戦した道。楽しく読ませて頂きました。
日向から平須への破線道。
私が行ったときは、どこだかわからず車道を迂回していました。
「まさかこんな民家の路地みたいな道ではないだろうなあ・・・」なんて思って見過ごしたところが山道入口だったようです。勇気出して突入してみればよかったなあ・・・。
「もぐら」
私も現地へ行くまでは「しげくら」と思っていました。
十谷峠の「茂倉→40分」の標識。
あれを見ると安心して油断しちゃいますよね。
ガレ付近で道を見失ったときは焦りました。
そして、あのガレは「御前崩れ」と呼ばれているのですね。
当時、わからなかったことが、このレコで色々と判明しました。
楽しい記録、ありがとうございました。
まれさんの記録を拝見して、茂倉への山越えストーリーを描いて計画しました。
日程を二日とって、不明瞭な尾根でも時間に追われて焦らないようにしました。
日向から平須へもやはり考えていたのですね。あのあたりの山麓集落は、歩いてみて本当におもしろかったです。
まれんべさんの計画は発想が見事で感心して拝見しています。
長い記録読んでいただきありがとうございます。
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