記録ID: 6858353
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ハイキング
房総・三浦
相武国境①峠←金沢
2024年05月27日(月) [日帰り]
![情報量の目安: S](https://yamareco.org/themes/bootstrap3/img/detail_level_S2.png)
体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 04:05
- 距離
- 15.2km
- 登り
- 389m
- 下り
- 327m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 3:53
- 休憩
- 0:11
- 合計
- 4:04
11:55
97分
スタート地点
16:01
ゴール地点
過去天気図(気象庁) | 2024年05月の天気図 |
---|---|
アクセス |
写真
新シリーズをスタートさせました!
まず訪れたのは、神奈川県横浜市にあります、野島公園です。
ここが、律令時代以前より武蔵国の最東南角でした。
江戸時代以前のここの地形は、今とかなり異なっていました。
まず、北(写真の地図では左下)にある運河は当然無く、
南は完全に海だったのでした。
まず訪れたのは、神奈川県横浜市にあります、野島公園です。
ここが、律令時代以前より武蔵国の最東南角でした。
江戸時代以前のここの地形は、今とかなり異なっていました。
まず、北(写真の地図では左下)にある運河は当然無く、
南は完全に海だったのでした。
この地点で国境は海上から陸地に上がり、この尾根上に進んでいく事になる。
国境であるこの尾根が、
左(東)の三浦郡と右(西)の江戸湾系の分水嶺となっている。
左は三浦郡から鎌倉郡ですが、
基本的に、相模国と武蔵国の国境は、相模湾水系と江戸湾水系の分水嶺に引かれているらしい。
国境であるこの尾根が、
左(東)の三浦郡と右(西)の江戸湾系の分水嶺となっている。
左は三浦郡から鎌倉郡ですが、
基本的に、相模国と武蔵国の国境は、相模湾水系と江戸湾水系の分水嶺に引かれているらしい。
尾根道はこちらを進む。
相模国の成立過程は、成務(13)期に、
既に成立していた相武国造(さがむ-,相模川流域)と師長国造(しなが-,酒匂川及び中村川流域)が合併したとされ、
その後、景行天皇(17)の子のヤマトタケルの子孫が領有した
鎌倉郡と三浦郡も合併し、ほぼ相模国の領域が決定した。
相模国の成立過程は、成務(13)期に、
既に成立していた相武国造(さがむ-,相模川流域)と師長国造(しなが-,酒匂川及び中村川流域)が合併したとされ、
その後、景行天皇(17)の子のヤマトタケルの子孫が領有した
鎌倉郡と三浦郡も合併し、ほぼ相模国の領域が決定した。
ここに、横浜市との市境がある。
向こう側に行けば武蔵国。
武蔵国の成立過程は不確定らしく。
知々夫国造は崇神(11)期に科野国造と同時期に成立していたものの、下流域は完全に手付かず状態。
当初、无邪志/胸刺とに分かれて国が存在していたが、
安閑(27)期(534年?)に笠原直使主(北部の領主)と、同族の小杵(南部の領主)が領国の覇権を争った武蔵国造の乱によって、
朝廷を味方につけた使主が勝利して国造となり、
武蔵国が統一され、
南部の土地の多くが屯倉として朝廷に献上された、7世紀には武蔵国が成立された。
向こう側に行けば武蔵国。
武蔵国の成立過程は不確定らしく。
知々夫国造は崇神(11)期に科野国造と同時期に成立していたものの、下流域は完全に手付かず状態。
当初、无邪志/胸刺とに分かれて国が存在していたが、
安閑(27)期(534年?)に笠原直使主(北部の領主)と、同族の小杵(南部の領主)が領国の覇権を争った武蔵国造の乱によって、
朝廷を味方につけた使主が勝利して国造となり、
武蔵国が統一され、
南部の土地の多くが屯倉として朝廷に献上された、7世紀には武蔵国が成立された。
尾根突端部の追浜本町一丁目公園
武蔵の一宮問題って、その時に北部が優先されたのかなーと思うのだけれど、どうなのかな?
大化の改新後に、国造ではなく、武蔵国司が派遣されるようになり、
和銅三年(710年)に武蔵国府が現在の府中に置かれたようです。
武蔵の一宮問題って、その時に北部が優先されたのかなーと思うのだけれど、どうなのかな?
大化の改新後に、国造ではなく、武蔵国司が派遣されるようになり、
和銅三年(710年)に武蔵国府が現在の府中に置かれたようです。
尾根上の道
古くから毛野国と関係が深かった武蔵国は、
8世紀初頭では東山道に所属していたが、
次第に相模国と海路交通が活発になり、宝亀二年(771年)には東山道に移管され、
相模→武蔵→(安房/上総を経由せずに)下総を結ぶ幹道も整備されていくようになる。
古くから毛野国と関係が深かった武蔵国は、
8世紀初頭では東山道に所属していたが、
次第に相模国と海路交通が活発になり、宝亀二年(771年)には東山道に移管され、
相模→武蔵→(安房/上総を経由せずに)下総を結ぶ幹道も整備されていくようになる。
相模側の崖端部
ちなみに。
相模国府は、
国分寺が高座(海老名)にある事、
和名類聚抄(930年代)には大住郡(平塚)、
色葉字類抄(12世紀末頃)には余綾郡(大磯)とある事とから、移動した説があるのだけれど、
いずれも武蔵国の東海道への移管とは無関係の時代なんですね。
ちなみに。
相模国府は、
国分寺が高座(海老名)にある事、
和名類聚抄(930年代)には大住郡(平塚)、
色葉字類抄(12世紀末頃)には余綾郡(大磯)とある事とから、移動した説があるのだけれど、
いずれも武蔵国の東海道への移管とは無関係の時代なんですね。
ハイキングコースの狭いなんでも無い所ですが、
GPSで確認すると、ここから国境の尾根が続いて来ている。
そして、よく見ると中に大きめの直方体の石碑があります。
薮すぎて中には入れません。
GPSで確認すると、ここから国境の尾根が続いて来ている。
そして、よく見ると中に大きめの直方体の石碑があります。
薮すぎて中には入れません。
朝比奈切通し分岐。
ここで、実は、
「「峠村」なる村落が江戸湾側にも関わらず相模国に属していて、
国境は分水嶺を離れて東に移っている」
という情報の下、
分水嶺を離れて、江戸時代以降に現れる峠村の境界を進んでしまった。
ここで、実は、
「「峠村」なる村落が江戸湾側にも関わらず相模国に属していて、
国境は分水嶺を離れて東に移っている」
という情報の下、
分水嶺を離れて、江戸時代以降に現れる峠村の境界を進んでしまった。
江戸時代には、ここが国境であった。
この西側と朝比奈切通しまでの領域が峠村と呼ばれたらしいのだが、
どうやらその地域内に集落が出来始めたのは戦国期が終わってからのようで、
天正検地によって峠村が成立し、それが鎌倉郡との関係が深かったからか相模国に属すようになったとの見解がある。
即ち天正以前にはきちんとした集落が存在しておらず、
まとまった村落が生まれたのは慶長期以降とのこと。
つまり、この地域が、中世時代に相模国側に属しているという形跡は無いという事か……?
この西側と朝比奈切通しまでの領域が峠村と呼ばれたらしいのだが、
どうやらその地域内に集落が出来始めたのは戦国期が終わってからのようで、
天正検地によって峠村が成立し、それが鎌倉郡との関係が深かったからか相模国に属すようになったとの見解がある。
即ち天正以前にはきちんとした集落が存在しておらず、
まとまった村落が生まれたのは慶長期以降とのこと。
つまり、この地域が、中世時代に相模国側に属しているという形跡は無いという事か……?
しかし、行き止まり。
ここから先、どこにも行けそうに無い。
さっきの地図を見ると、直進する道が通行止めだけれど、
左に見える尾根に登ってから南に降りる道までは行けるように書いてあるように見えたのだけれど、
その分岐までも行けそうに無い。
こりゃ困った。
結局、元来た道を鼻欠地蔵まで戻る事にする。
ここから先、どこにも行けそうに無い。
さっきの地図を見ると、直進する道が通行止めだけれど、
左に見える尾根に登ってから南に降りる道までは行けるように書いてあるように見えたのだけれど、
その分岐までも行けそうに無い。
こりゃ困った。
結局、元来た道を鼻欠地蔵まで戻る事にする。
しかし、この関ケ谷バス停は、
一日に、朝6時台の一本きりしか無い。
即ち、次回、このバス停からスタートする事は不可能って事だ。
じゃあ次回は何処から歩き始めるかって事だけれど、
峠村の情報を考慮すると、やっぱり朝比奈切通しの尾根道を歩いた方が良さそうかなぁ。
六浦駅からなら、繋げるかも知れない。
次は、晴れている時に来よう、、、。
相武国境②野庭関←朝比奈峠 - 2024年06月04日 [登山・山行記録] - ヤマレコ https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6883906.html
一日に、朝6時台の一本きりしか無い。
即ち、次回、このバス停からスタートする事は不可能って事だ。
じゃあ次回は何処から歩き始めるかって事だけれど、
峠村の情報を考慮すると、やっぱり朝比奈切通しの尾根道を歩いた方が良さそうかなぁ。
六浦駅からなら、繋げるかも知れない。
次は、晴れている時に来よう、、、。
相武国境②野庭関←朝比奈峠 - 2024年06月04日 [登山・山行記録] - ヤマレコ https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6883906.html
感想
相模国と武蔵国の国境を、南から歩いて行くシリーズです。
とはいえ、山間部のうち草戸から雲取山までは以前に歩いているので、
今回のシリーズでは再度歩く予定はありません。
さらに、都県境はともかく、
相模国と甲斐国との境までは歩く予定は今のところ考えておりません、、
(だからこそ、「武蔵国境」のタイトルを冠していないのだけれど。)
で、すでに相模と武蔵の国境の西部は歩いているので、
西側から南下していっても良かったのだけれど、
現在の境界である境川を下っていく事と、天正検地以前の国境の、近似ルートを予定しているので、
ならば、分水嶺を歩く事を先にして、
そして折り返して境川下りを続けて実施しようと考えています。
多分、このシリーズで、今回が一番ハードな道程だったんじゃないだろうか💦
4時間歩いて全体の2割程度しか進めなかったのでは?
(とりあえずの目標地点は大戸)
次回はちゃんと、晴れている時に歩こう、やっぱり、、、
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