新シリーズをスタートさせました!
まず訪れたのは、神奈川県横浜市にあります、野島公園です。
ここが、律令時代以前より武蔵国の最東南角でした。
江戸時代以前のここの地形は、今とかなり異なっていました。
まず、北(写真の地図では左下)にある運河は当然無く、
南は完全に海だったのでした。
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5/27 10:38
新シリーズをスタートさせました!
まず訪れたのは、神奈川県横浜市にあります、野島公園です。
ここが、律令時代以前より武蔵国の最東南角でした。
江戸時代以前のここの地形は、今とかなり異なっていました。
まず、北(写真の地図では左下)にある運河は当然無く、
南は完全に海だったのでした。
野島公園頂上
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5/27 10:44
野島公園頂上
野島公園頂上から北を見ます。
左手に僅かに見える海が平潟湾ですが、
当時はもっと広く、その奥に見える台地の手前まで全て湾でした。
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5/27 10:47
野島公園頂上から北を見ます。
左手に僅かに見える海が平潟湾ですが、
当時はもっと広く、その奥に見える台地の手前まで全て湾でした。
南側です。
野島公園は北から突き出た陸繋島。
南側に眼下に見える工場地帯は全て海でした。
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5/27 10:46
南側です。
野島公園は北から突き出た陸繋島。
南側に眼下に見える工場地帯は全て海でした。
全体を見渡してみます。
木々が生い茂り過ぎて地形が分かりにくいですね、、、
さて。ここは、武蔵国の東の端っこと言いましたが、
この南側の海沿いに、相模国との国境が引かれていました。
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5/27 10:47
全体を見渡してみます。
木々が生い茂り過ぎて地形が分かりにくいですね、、、
さて。ここは、武蔵国の東の端っこと言いましたが、
この南側の海沿いに、相模国との国境が引かれていました。
稲荷神社
さて。ここからスタート地点までワープします。
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5/27 10:55
稲荷神社
さて。ここからスタート地点までワープします。
夏島貝塚
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5/27 11:51
夏島貝塚
夏島貝塚説明板。
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5/27 11:52
夏島貝塚説明板。
海を越えて相模国側に渡って来ました。
ここが今回のスタート地点です。
現在の地図。
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海を越えて相模国側に渡って来ました。
ここが今回のスタート地点です。
現在の地図。
昔の地図と比較。
明治時代に於いては、この西側が横浜市と横須賀市の市境でした。
但し、律令時代は、夏島は武蔵国管轄だったかも?
まあ、とりあえずは、この市境を元に国境を歩いていく事にします。
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昔の地図と比較。
明治時代に於いては、この西側が横浜市と横須賀市の市境でした。
但し、律令時代は、夏島は武蔵国管轄だったかも?
まあ、とりあえずは、この市境を元に国境を歩いていく事にします。
海上より、武蔵国の(陸続き部分の)東端部である野島を見る。
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5/27 11:56
海上より、武蔵国の(陸続き部分の)東端部である野島を見る。
海上の国境は右に斜めに引かれているようだけれど、工場敷地内の為進めない。
左の道を、相模国本土に向かって歩いていく。
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5/27 11:57
海上の国境は右に斜めに引かれているようだけれど、工場敷地内の為進めない。
左の道を、相模国本土に向かって歩いていく。
夏島から海を渡って、相模国内の陸続きの場所までやって来ました。
岬の角であり、左手には烏帽子岩という岩があったそうです。
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5/27 12:01
夏島から海を渡って、相模国内の陸続きの場所までやって来ました。
岬の角であり、左手には烏帽子岩という岩があったそうです。
烏帽子岩跡の碑は、少し南側に置かれています。
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5/27 11:42
烏帽子岩跡の碑は、少し南側に置かれています。
貝山緑地
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5/27 11:38
貝山緑地
相模国の北端辺を西へ向かいます。
左手が少し台地になっているのがわかる。
しばらく、国境では無く相模国内を歩く事になる。
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5/27 12:07
相模国の北端辺を西へ向かいます。
左手が少し台地になっているのがわかる。
しばらく、国境では無く相模国内を歩く事になる。
この地点から、向かいの台地までの間の左手は入江でした。
無論、右側は全て海。
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5/27 12:10
この地点から、向かいの台地までの間の左手は入江でした。
無論、右側は全て海。
入江の北には、右手には、東西に細長い島が浮かんでおり、その西端が向こうに見えている。
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5/27 12:16
入江の北には、右手には、東西に細長い島が浮かんでおり、その西端が向こうに見えている。
野島の陸繋島が南に突き出ている関係か、
海上の国境は南に食い込んでいる。
その食い込んでいる部分は、この校庭内。
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5/27 12:21
野島の陸繋島が南に突き出ている関係か、
海上の国境は南に食い込んでいる。
その食い込んでいる部分は、この校庭内。
相模国から武蔵国を見る。
国境は野島の形に従って一度北方向に曲がる。
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5/27 12:23
相模国から武蔵国を見る。
国境は野島の形に従って一度北方向に曲がる。
この地点で国境は海上から陸地に上がり、この尾根上に進んでいく事になる。
国境であるこの尾根が、
左(東)の三浦郡と右(西)の江戸湾系の分水嶺となっている。
左は三浦郡から鎌倉郡ですが、
基本的に、相模国と武蔵国の国境は、相模湾水系と江戸湾水系の分水嶺に引かれているらしい。
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5/27 12:33
この地点で国境は海上から陸地に上がり、この尾根上に進んでいく事になる。
国境であるこの尾根が、
左(東)の三浦郡と右(西)の江戸湾系の分水嶺となっている。
左は三浦郡から鎌倉郡ですが、
基本的に、相模国と武蔵国の国境は、相模湾水系と江戸湾水系の分水嶺に引かれているらしい。
左手は段差。
道間違えたね、これは海沿いを進んでしまった。
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5/27 12:36
左手は段差。
道間違えたね、これは海沿いを進んでしまった。
尾根道はこちらを進む。
相模国の成立過程は、成務(13)期に、
既に成立していた相武国造(さがむ-,相模川流域)と師長国造(しなが-,酒匂川及び中村川流域)が合併したとされ、
その後、景行天皇(17)の子のヤマトタケルの子孫が領有した
鎌倉郡と三浦郡も合併し、ほぼ相模国の領域が決定した。
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5/27 12:39
尾根道はこちらを進む。
相模国の成立過程は、成務(13)期に、
既に成立していた相武国造(さがむ-,相模川流域)と師長国造(しなが-,酒匂川及び中村川流域)が合併したとされ、
その後、景行天皇(17)の子のヤマトタケルの子孫が領有した
鎌倉郡と三浦郡も合併し、ほぼ相模国の領域が決定した。
突き当たりが尾根の切岸。
本来は、徐々に登る普通の尾根がこちらまで続いて来ていた。
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5/27 12:43
突き当たりが尾根の切岸。
本来は、徐々に登る普通の尾根がこちらまで続いて来ていた。
切岸
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5/27 12:45
切岸
ここに、横浜市との市境がある。
向こう側に行けば武蔵国。
武蔵国の成立過程は不確定らしく。
知々夫国造は崇神(11)期に科野国造と同時期に成立していたものの、下流域は完全に手付かず状態。
当初、无邪志/胸刺とに分かれて国が存在していたが、
安閑(27)期(534年?)に笠原直使主(北部の領主)と、同族の小杵(南部の領主)が領国の覇権を争った武蔵国造の乱によって、
朝廷を味方につけた使主が勝利して国造となり、
武蔵国が統一され、
南部の土地の多くが屯倉として朝廷に献上された、7世紀には武蔵国が成立された。
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5/27 12:46
ここに、横浜市との市境がある。
向こう側に行けば武蔵国。
武蔵国の成立過程は不確定らしく。
知々夫国造は崇神(11)期に科野国造と同時期に成立していたものの、下流域は完全に手付かず状態。
当初、无邪志/胸刺とに分かれて国が存在していたが、
安閑(27)期(534年?)に笠原直使主(北部の領主)と、同族の小杵(南部の領主)が領国の覇権を争った武蔵国造の乱によって、
朝廷を味方につけた使主が勝利して国造となり、
武蔵国が統一され、
南部の土地の多くが屯倉として朝廷に献上された、7世紀には武蔵国が成立された。
尾根突端部の追浜本町一丁目公園
武蔵の一宮問題って、その時に北部が優先されたのかなーと思うのだけれど、どうなのかな?
大化の改新後に、国造ではなく、武蔵国司が派遣されるようになり、
和銅三年(710年)に武蔵国府が現在の府中に置かれたようです。
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5/27 12:48
尾根突端部の追浜本町一丁目公園
武蔵の一宮問題って、その時に北部が優先されたのかなーと思うのだけれど、どうなのかな?
大化の改新後に、国造ではなく、武蔵国司が派遣されるようになり、
和銅三年(710年)に武蔵国府が現在の府中に置かれたようです。
武蔵国側の野島がまだ見えている。
右奥は夏島。
この間に、武蔵と相模の国境が引かれている。
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5/27 12:48
武蔵国側の野島がまだ見えている。
右奥は夏島。
この間に、武蔵と相模の国境が引かれている。
尾根上の道
古くから毛野国と関係が深かった武蔵国は、
8世紀初頭では東山道に所属していたが、
次第に相模国と海路交通が活発になり、宝亀二年(771年)には東山道に移管され、
相模→武蔵→(安房/上総を経由せずに)下総を結ぶ幹道も整備されていくようになる。
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5/27 12:49
尾根上の道
古くから毛野国と関係が深かった武蔵国は、
8世紀初頭では東山道に所属していたが、
次第に相模国と海路交通が活発になり、宝亀二年(771年)には東山道に移管され、
相模→武蔵→(安房/上総を経由せずに)下総を結ぶ幹道も整備されていくようになる。
相模側の崖端部
ちなみに。
相模国府は、
国分寺が高座(海老名)にある事、
和名類聚抄(930年代)には大住郡(平塚)、
色葉字類抄(12世紀末頃)には余綾郡(大磯)とある事とから、移動した説があるのだけれど、
いずれも武蔵国の東海道への移管とは無関係の時代なんですね。
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5/27 12:52
相模側の崖端部
ちなみに。
相模国府は、
国分寺が高座(海老名)にある事、
和名類聚抄(930年代)には大住郡(平塚)、
色葉字類抄(12世紀末頃)には余綾郡(大磯)とある事とから、移動した説があるのだけれど、
いずれも武蔵国の東海道への移管とは無関係の時代なんですね。
ここもやっぱり尾根が切ってある事がわかる。
尾根上には上がれないので、ここで一旦武蔵国側に降りていく。
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5/27 12:53
ここもやっぱり尾根が切ってある事がわかる。
尾根上には上がれないので、ここで一旦武蔵国側に降りていく。
降りていく。
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5/27 12:54
降りていく。
すると、急崖にぶつかる。
明治時代に既にこの下のR16の原道はあるのだが、当時からこんな崖だったのか?!
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5/27 12:56
すると、急崖にぶつかる。
明治時代に既にこの下のR16の原道はあるのだが、当時からこんな崖だったのか?!
相模国側、雷神社
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5/27 12:58
相模国側、雷神社
雷神社から国境である尾根を見てみる。
尾根は、左は奥へと続いて行くが、右はどれだけ街道の為に切通してしまったのだろうか???
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5/27 13:00
雷神社から国境である尾根を見てみる。
尾根は、左は奥へと続いて行くが、右はどれだけ街道の為に切通してしまったのだろうか???
相模国側側面を進む。
国境は崖の上。
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5/27 13:04
相模国側側面を進む。
国境は崖の上。
国境を振り返る。
右は相模側。
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5/27 13:09
国境を振り返る。
右は相模側。
尾根上、奥は武蔵側。
ここではあまり高低差は分からないが、、、
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5/27 13:09
尾根上、奥は武蔵側。
ここではあまり高低差は分からないが、、、
どんどん標高を上げて行く。
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5/27 13:12
どんどん標高を上げて行く。
この地点で標高は50mを超えるが、
眼下の武蔵側、右背後の相模側ともに標高は凡そ僅かに7mしか無い。
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5/27 13:12
この地点で標高は50mを超えるが、
眼下の武蔵側、右背後の相模側ともに標高は凡そ僅かに7mしか無い。
どんどん登る。
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5/27 13:14
どんどん登る。
ここで住宅街を離れ、国境に沿ったと思われる遊歩道が現れる。
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5/27 13:14
ここで住宅街を離れ、国境に沿ったと思われる遊歩道が現れる。
しかし、ここでそのまま真っ直ぐ進むと相模側の尾根下に進んでしまうので、
国境沿いを離れて一度右の道へ進む。
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5/27 13:16
しかし、ここでそのまま真っ直ぐ進むと相模側の尾根下に進んでしまうので、
国境沿いを離れて一度右の道へ進む。
さらに登る。
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5/27 13:18
さらに登る。
標高は70mに達す。
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5/27 13:19
標高は70mに達す。
そしてついに山道に入る。
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5/27 13:19
そしてついに山道に入る。
ここ、、、
やばい、、、、
狭い。
整備が行き届いていない。
こうしてたまに視界が開けるが、
相模側は薮薮過ぎて何も見えない。
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5/27 13:20
ここ、、、
やばい、、、、
狭い。
整備が行き届いていない。
こうしてたまに視界が開けるが、
相模側は薮薮過ぎて何も見えない。
ばかりか、鬱蒼とし過ぎていて歩くのがかなり大変。
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5/27 13:21
ばかりか、鬱蒼とし過ぎていて歩くのがかなり大変。
かつてはハイキングする人も多かったのだろうか。
いまでは、殆ど誰も通らなそう。
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5/27 13:25
かつてはハイキングする人も多かったのだろうか。
いまでは、殆ど誰も通らなそう。
陰鬱な道が続きます。
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5/27 13:28
陰鬱な道が続きます。
通り過ぎた115ピークを振り返る。
登りたくありませんね。
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5/27 13:30
通り過ぎた115ピークを振り返る。
登りたくありませんね。
⚠️ここは分岐ではありません
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5/27 13:30
⚠️ここは分岐ではありません
分岐は、こっちまで来ること。
ここを左に、南に真っ直ぐ進めば鷹取山。
その西側は逗子葉山から相模湾に注ぐ田越川流域。
背後は武蔵国側の侍従川流域。
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5/27 13:32
分岐は、こっちまで来ること。
ここを左に、南に真っ直ぐ進めば鷹取山。
その西側は逗子葉山から相模湾に注ぐ田越川流域。
背後は武蔵国側の侍従川流域。
道が狭過ぎる……
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5/27 13:33
道が狭過ぎる……
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5/27 13:36
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5/27 13:39
今日は雨予報の為、傘を持参して来ているわけですが、
薮バリア用に活用します。
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5/27 13:45
今日は雨予報の為、傘を持参して来ているわけですが、
薮バリア用に活用します。
ここ、堀切っぽい。
古道が横切っているのか?
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5/27 13:49
ここ、堀切っぽい。
古道が横切っているのか?
と思った矢先、現在の峠道にぶつかります。
池子隧道というトンネルの真上です。
左に進むと池子から神武寺に、
右に進むと朝比奈と六浦の間の道に出ます。
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5/27 13:49
と思った矢先、現在の峠道にぶつかります。
池子隧道というトンネルの真上です。
左に進むと池子から神武寺に、
右に進むと朝比奈と六浦の間の道に出ます。
まずは左。
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5/27 13:50
まずは左。
八景苑が眼下に見えている。
比高は30mくらい。
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5/27 13:51
八景苑が眼下に見えている。
比高は30mくらい。
ここは、殆ど私有地か。
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5/27 13:52
ここは、殆ど私有地か。
国境沿いの尾根道は、私有地の為、この先は通れません。
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5/27 13:54
国境沿いの尾根道は、私有地の為、この先は通れません。
戻って六浦の住宅街に入ります。
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5/27 13:56
戻って六浦の住宅街に入ります。
迂回します。
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5/27 13:59
迂回します。
六浦バイパス南側
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5/27 14:05
六浦バイパス南側
一番奥に見えている山が国境尾根。
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5/27 14:06
一番奥に見えている山が国境尾根。
東朝比奈地区。
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5/27 14:12
東朝比奈地区。
千光寺。
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5/27 14:14
千光寺。
国境に復帰する為に再びこんな山道に入ります。
雨が強くなって来ています。
たるいわー。
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5/27 14:16
国境に復帰する為に再びこんな山道に入ります。
雨が強くなって来ています。
たるいわー。
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5/27 14:19
ここは米国と武蔵国との国境。
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5/27 14:21
ここは米国と武蔵国との国境。
古そうな階段状。
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5/27 14:22
古そうな階段状。
ハイキングコースの狭いなんでも無い所ですが、
GPSで確認すると、ここから国境の尾根が続いて来ている。
そして、よく見ると中に大きめの直方体の石碑があります。
薮すぎて中には入れません。
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5/27 14:35
ハイキングコースの狭いなんでも無い所ですが、
GPSで確認すると、ここから国境の尾根が続いて来ている。
そして、よく見ると中に大きめの直方体の石碑があります。
薮すぎて中には入れません。
朝比奈切通し分岐。
ここで、実は、
「「峠村」なる村落が江戸湾側にも関わらず相模国に属していて、
国境は分水嶺を離れて東に移っている」
という情報の下、
分水嶺を離れて、江戸時代以降に現れる峠村の境界を進んでしまった。
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5/27 14:38
朝比奈切通し分岐。
ここで、実は、
「「峠村」なる村落が江戸湾側にも関わらず相模国に属していて、
国境は分水嶺を離れて東に移っている」
という情報の下、
分水嶺を離れて、江戸時代以降に現れる峠村の境界を進んでしまった。
江戸湾側に位置している峠村の東境に沿うべく、
ここを北側に降りて行きます。
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5/27 14:42
江戸湾側に位置している峠村の東境に沿うべく、
ここを北側に降りて行きます。
かなりの急斜面を下る。
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5/27 14:44
かなりの急斜面を下る。
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5/27 14:46
宅地化されていて正確な尾根道はわからない。
右の方へ斜めに伸びているはず。
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5/27 14:47
宅地化されていて正確な尾根道はわからない。
右の方へ斜めに伸びているはず。
横浜市立朝比奈小学校
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5/27 14:50
横浜市立朝比奈小学校
国境はあの尾根の上。
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5/27 14:56
国境はあの尾根の上。
東朝比奈地区を突っ切ります。
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5/27 14:58
東朝比奈地区を突っ切ります。
東朝比奈三丁目にかつてあった尾根のピーク付近。
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5/27 14:59
東朝比奈三丁目にかつてあった尾根のピーク付近。
峠村の入り口辺りを見下ろす。
いま居る尾根全域と、
向こうに見える尾根のこちら側が相模国で、
向こうの尾根の北側と東に広がる平野が武蔵国。
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5/27 15:02
峠村の入り口辺りを見下ろす。
いま居る尾根全域と、
向こうに見える尾根のこちら側が相模国で、
向こうの尾根の北側と東に広がる平野が武蔵国。
右奥の尾根を降りて来た。尾根は相模国。
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5/27 15:08
右奥の尾根を降りて来た。尾根は相模国。
侍従川
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5/27 15:09
侍従川
「境地蔵」とも呼ばれる鼻欠地蔵
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5/27 15:10
「境地蔵」とも呼ばれる鼻欠地蔵
江戸時代には、ここが国境であった。
この西側と朝比奈切通しまでの領域が峠村と呼ばれたらしいのだが、
どうやらその地域内に集落が出来始めたのは戦国期が終わってからのようで、
天正検地によって峠村が成立し、それが鎌倉郡との関係が深かったからか相模国に属すようになったとの見解がある。
即ち天正以前にはきちんとした集落が存在しておらず、
まとまった村落が生まれたのは慶長期以降とのこと。
つまり、この地域が、中世時代に相模国側に属しているという形跡は無いという事か……?
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5/27 15:13
江戸時代には、ここが国境であった。
この西側と朝比奈切通しまでの領域が峠村と呼ばれたらしいのだが、
どうやらその地域内に集落が出来始めたのは戦国期が終わってからのようで、
天正検地によって峠村が成立し、それが鎌倉郡との関係が深かったからか相模国に属すようになったとの見解がある。
即ち天正以前にはきちんとした集落が存在しておらず、
まとまった村落が生まれたのは慶長期以降とのこと。
つまり、この地域が、中世時代に相模国側に属しているという形跡は無いという事か……?
「国境が分水嶺を離れて東にズレたのは江戸時代に入ってからなのかも知れない」
という情報を知らぬままこちらに来てしまいました。
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5/27 15:15
「国境が分水嶺を離れて東にズレたのは江戸時代に入ってからなのかも知れない」
という情報を知らぬままこちらに来てしまいました。
朝比奈北市民の森
この道はその江戸時代以降確認される国境に沿った道なのであるが、
地図をよく見ると、途中で通行止めなんですねぇ……
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5/27 15:19
朝比奈北市民の森
この道はその江戸時代以降確認される国境に沿った道なのであるが、
地図をよく見ると、途中で通行止めなんですねぇ……
こんな堀割の道です。
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5/27 15:21
こんな堀割の道です。
私有地である畑の横を通る。
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5/27 15:24
私有地である畑の横を通る。
しかし、行き止まり。
ここから先、どこにも行けそうに無い。
さっきの地図を見ると、直進する道が通行止めだけれど、
左に見える尾根に登ってから南に降りる道までは行けるように書いてあるように見えたのだけれど、
その分岐までも行けそうに無い。
こりゃ困った。
結局、元来た道を鼻欠地蔵まで戻る事にする。
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5/27 15:27
しかし、行き止まり。
ここから先、どこにも行けそうに無い。
さっきの地図を見ると、直進する道が通行止めだけれど、
左に見える尾根に登ってから南に降りる道までは行けるように書いてあるように見えたのだけれど、
その分岐までも行けそうに無い。
こりゃ困った。
結局、元来た道を鼻欠地蔵まで戻る事にする。
この辺りが侍従川の源流域。
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5/27 15:49
この辺りが侍従川の源流域。
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5/27 15:54
峠道。
この上で国境は交差している。
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5/27 15:55
峠道。
この上で国境は交差している。
この左奥が国境。
行き止まりとは書いていないから途中まで行けるのかも知れないが、
雨で体力も削がれているので、ここで撤退する事にする。
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5/27 15:57
この左奥が国境。
行き止まりとは書いていないから途中まで行けるのかも知れないが、
雨で体力も削がれているので、ここで撤退する事にする。
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