七尾城山=「雪の七尾城址」〜城山展望台=「スノーシューハイクならず」
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- GPS
- 04:01
- 距離
- 12.1km
- 登り
- 452m
- 下り
- 452m
コースタイム
- 山行
- 3:15
- 休憩
- 0:46
- 合計
- 4:01
能越道七尾城山IC近くの駐車場(ICから800mほどの距離)からの山行スタートです。車で城山線を上がれば、あまり歩かずに、城趾や展望台を巡れますが、麓から歩いて城山を巡りました(都合により、二の丸と三の丸は省略しました)。
(開始):交差点「城山」の駐車場−七尾城史資料館−< 大手道 >−小屋場−高屋敷跡−蔵屋敷跡−赤坂口(※1)−長坂−七曲り−時鐘跡−番所跡−「袴腰」手前の分岐点−安寧寺跡−沓掛場−樋之(とよの)水−寺屋敷跡−調度丸−桜馬場−遊佐屋敷跡−本丸−(城山神社)−桜馬場−調度丸−本丸北駐車場−< 南大吞1号線(黒崎線) >−城山展望台駐車場(展望台口)−百間馬場(採草地)−城山展望台(※2)−城山展望台駐車場(展望台口)−< 南大吞1号線(黒崎線) >−本丸北駐車場−< 城山線 >−カフェ「J,Road」−料理旅館「七尾城」−交差点「城山」の駐車場:(帰投)
※1:実質的な登山口になります。一応、山道なので気を付けて歩いてください。
※2:実質的な山頂で、三等三角点「小松原」があります。また、市内から山を見上げると、展望台のある場所が、山頂として認識されます。ただし、「七尾城址」を目標とした山行であれば、本丸にある『城山神社』の位置が頂上と言えるのかも知れません。
天候 | 快晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2017年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
七尾城山は、私の近所の山です。「城趾めぐり」と、山頂付近の積雪を期待して「スノーシューハイク」をしたいと考えました。先週、雪の日が続いていたので積雪のため、山頂周囲の車道のが通行止めになり、車道がゲレンデ状態になってると踏んでいました。しかし、予想が外れて、あまりスノーシューの出番がありませんでした。 ___【 日本五大山城の一つ「七尾城」 】___ 戦国の世、能登畠山氏の居城でしたが、上杉謙信に奪われたのち、織田軍の前田利家らにより奪い返されましたが、廃城になりました。地形を巧みに利用した曲輪(城郭)跡が残されています。 ※:島根県益田市七尾町に、同名の七尾城がありました。石見「七尾城」城趾です。 ___【 何度もおこなわれた「七尾城の戦い」 】___ 調べた事柄を、覚えやすく簡単にしてみました(その分、内容に正確さがありませんが)。 −−−< 第1次七尾城の戦い >−−− 天正4年(1576年)9月、『織田信長』との対峙を前提として、『上杉謙信』が自ら大軍を率いて、隣の越中に攻め込んで来ました。勢いのまま、11月には能登に侵入。七尾勢(畠山軍だが、実権は重臣たちが掌握)は城に籠城。上杉軍は七尾城下の天神川原に布陣しました。しかし七尾城は難攻不落の城、攻めあぐねていました。年が明けた天正5年3月、『北条氏政』が北関東に出兵して来たため、対応に追われた『謙信』は、本国(越後)帰国しました。 −−−< 第2次七尾城の戦い >−−− 天正5年(1577年)7月、北条軍が北関東から兵を引いたため、上杉軍が再び能登に向け出陣。今度は、七尾城の南に位置する「石動山城」を本陣としました。七尾勢は、能登各地の城を放棄して、全軍を以て籠城。不運にも城内で疫病が蔓延した上、上杉勢の調略により、親謙信派であった『遊佐続光』らが、親信長派の『長続連』を裏切ったため、ついには落城。要請を受けた織田勢の援軍(柴田勝家)が能登に向け、加賀に侵攻していましたが、「加賀の一向宗」によって阻まれ間に合いませんでした。 −−−< 七尾城の戦いの「その後」 >−−− 七尾城陥落から1週間あまり過ぎた頃。柴田勝家が率いる織田軍が、加賀の手取川をようやく越えた所で、上杉軍に攻撃され惨敗(手取川の戦い)。それから半年ほどは、七尾城を中心に能登一円を上杉勢が確保していた。しかし、不運はお互い様です。天正6年(1578年)3月、謙信が亡くなり、お家騒動が勃発したため、上杉勢は能登から撤退。七尾城は、織田勢の手中に入りました。天正9年(1581年)には『前田利家』が「七尾城」に入っています。さらに、天正10年(1582年)6月3日、「本能寺の変」が勃発するわずか18日前、越中の「魚津城」が落城し、越中も織田勢の支配下なりました。ところが、『織田信長』が本能寺の変で自害したため、謙信の後を継いだ『上杉景勝』は越中と能登を奪回しようと反撃を開始。上杉勢にかくまわれていた元畠山家重臣『温井景隆』らが、石動山衆徒と連合し、七尾城を再び奪取。織田軍を迎え撃つため、「石動山」の南に位置する「枡形山」に『荒山砦』を築きました。しかし、秀吉の『中国大返し』があったため、予想外に早く織田軍(前田利家・佐久間盛)が責め返してきたため(荒山合戦)、結局、七尾城を巡るいくさは、織田勢に軍配が挙がりました。「七尾城」に居城していた『前田利家』は、本能寺の変のあった年(天正10年)の内に、所口村(七尾)に平山城である「小丸山城」を築きました。その7年後の天正17年、「七尾城」の歴史が終焉しました(廃城)。信長亡き後の天下は、豊臣の物に。慶長5年(1600年)10月の「関ヶ原の戦い」を経て、徳川幕府の時代になり、「加賀・能登・越中」は加賀藩の領地に収まりました。 −−−< 能登畠山の重臣たち(登場人物) >−−− 「七尾城の戦い」から「荒山合戦」までの出来事に登場し消えていった武将たちです。 ● 長続連(ちょうつぐつら) 能登国鳳至郡穴水城主です。『遊佐続光』らに裏切られる前までは、能登畠山氏の最重臣かつ七尾勢の最有力者でした。親信長派として七尾勢をまとめ、「七尾城の戦い」の総指揮を執っていました。落城する前に、援軍を要請するため、息子の『長連龍(ちょうつらたつ)』を安土城の織田信長の許に派遣ししています。間に合いませんでしたが、生き残った息子の子孫は代々、加賀藩の家老として使えました。 ● 遊佐続光(ゆさつぐみつ) 能登珠洲郡を有した能登畠山氏の重臣です。元々、親謙信派でした。初めは、『長続連』に従っていましたが、「第2次七尾城の戦い」で、上杉勢を城内に招き入れ、長一族を殺し七尾城を上杉勢に明け渡しました。謙信の死後、織田軍が攻め込んでくると、息子の『遊佐盛光』とともに降伏しましたが、長一族虐殺の罪は許されることなく処刑されました。 ● 温井景隆(ぬくいかげたか) 能登畠山氏の重臣、湊町の輪島を所領していました。「第2次七尾城の戦い」で、『遊佐続光』と協力して、長一族を殺害。一旦、上杉勢に落ちた「七尾城」が、織田軍に攻められ、織田方に落ちたため、越中に逃亡、上杉勢にかくまわれることに。「本能寺の変」を契機に、再び「七尾城」を奪うも束の間、前田利家らの反撃にあい死亡した(荒山合戦)。 ● 三宅長盛(みやけながもり) 能登畠山氏の家臣で、『温井景隆』の実弟。兄と同じく、上杉勢の調略を受けて、寝返った。結局、兄とともに「荒山合戦」で討ち死にしました。 ___【 アクセス 】___ 金沢方面からは「のと里山海道」を北上/富山方面からは『能越自動車道』を北上〜することになります。 −−−< 「のと里山海道」からのアクセス >−−− 〆巴札襦璽函Ч事中の道路があり、カーナビでは案内されないルートです。 『のと里山海道』の上棚矢駄ICで下り、「県道46号志賀田鶴浜線」を北上、中能登町瀬戸(大槻との境)で右折し、「県道298号七尾鳥屋線」に入り道なりに進むと、国道249号線に突き当たる。右折して「国道249号線」を東に進むと、『藤野北』交差点で「国道159号線」に突き当たる。交差点を直進すると「県道177号城山線」に入る。約1km進んだ所で、駐車場のある『城山』交差点に到着します。 ◆”當未離襦璽函Дーナビで案内される可能性大です。 上棚矢駄ICを通り過ぎ、『のと里山海道』をさらに北上し、徳田大津JCTで七尾方面に進行(国道249号線)。『小島西』交差点を左折、公立能登総合病院の前を通過して、道なりに進むと、,汎瑛佑法愼L酲漫抔鮑硬世如峺道177号城山線」に入る(以下は同上)。 −−−< 「能越道」からのアクセス >−−− \勝紛眤方面)から『北陸自動車道』を進んで来られた場合 小矢部砺波JCTで、『能越自動車道』に入り、北上し、七尾城山ICで下ります。『市道矢田郷81号線』を西に800mほど進むと、駐車場のある『城山』交差点に到着します。 ◆‥譟壁抻格面)から『北陸自動車道』を進んで来られた場合 小杉ICで降り。富山県道58号線+57号線(南郷大橋で接続)を通行して、高岡ICで『能越自動車道』に入るのが最短ルートです。ただし、新しく出来た部分があるため、古いカーナビだと案内されないルートかも知れません。小矢部砺波JCTまで進んで、『能越自動車道』に入る方が無難です。 ___【 周辺の国道・県道・市道 】___ ● のと里山海道 千鳥台出入口(内灘町)から穴水インター(穴水町)までの無料の自動車専用道路です。徳田大津JCTから以北は、輪島市まで延伸予定の能越自動車道(国道470号)と路線が重複しています。金沢と能登を結ぶ幹線道路です。通勤と観光の2つの機能を備えた「能登の大動脈」的な道路になっています。 ● 能越自動車道 小矢部砺波JCTから輪島インター(未完成)までの高規格幹線道路(国道470号線と兼用)です。七尾インターの部分で、輪島方面への延伸工事が中断しています。将来的には、徳田大津JCTと七尾インターとの間がつながると、「のと里山海道」と「能越道」が接続されたことになります。 ● 石川県道177号「城山線」 戦後の食糧難を解消すべく、開拓された道です。起点は、藤野町北交差点。終点は、七尾城址(本丸北駐車場)前です。路線延長は約4.8Km。下記「農免道路」との交差点「城山」から、本丸前(本丸北駐車場)までは、この路線を通り、車で15分ほどです。 ● 市道矢田郷81号線 地元での通称は「農免道路(※)」です。七尾市北東部の大田町から南西方向に、市南部の若林町まで通じています。城山の北西側山麓を通る道です。「城山線」とは、城山交差点で交わります。 ※:農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業で造られた道路の事です。揮発油税を免除したのと相当分の財源をあてているので、農林漁業用に免税されて出来た道路=農免道路〜となりました。 ● 市道南大吞(みなみおおのみ)1号線 通称は「黒崎線」です。「城山線」の終点である本丸北駐車場から灘浦の黒崎町(南大吞地区)までの山岳を通る道です。藤野町から黒崎町までの城山越えルートは、「城山線」+「南大吞1号線(黒崎線)」となります。積雪時には、南大吞1号線(黒崎線)の部分が通行止めになる可能性があります。 ___【 七尾城山の山頂はどこ? 】___ 『県道177号城山線』が『市道矢田郷81号線(農免道路)』に交わる所の「城山」交差点が、城山の入り口(登山口)となります。車道(城山線+黒崎線)を車で登れば、七尾城址そばの「本丸北駐車場」および、展望台のある山頂(※)直下の「展望台駐車場」まで歩かずに行けます。 もし、七尾城の登城路であった古道『大手道』を登山するコースを辿るなら、本丸跡にある「城山神社」が頂上(標高300m)となります。七尾城址のある峰(本当は尾根部分?)は松尾山とも呼ばれていたらしいので、本丸跡は「松尾山山頂」とも言えるかも知れません。 それでも、山麓の七尾市街から、七尾城山を見上げると、「城山展望台」のある場所(標高380m)が、山頂に見えます。その展望台の横には、三等三角点「小松原」が設置されていることからも、山頂は展望台のある場所と言うことになります。 もう一言、城山の山体の最高所は、山頂(展望台)の南東約1.3kmにあります。標高413mです。城山最頂点とでも呼びましょうか。その場所は民有地になっていて、周囲も含めて林業公社が、杉の植林をしています。 ___【 ルートの周囲にある三角点 】___ ● 三等三角点「小松原」:標高379.47m、城山山頂(※)の「城山展望台」近くに所在します。 ※:山城「七尾城」城趾をめぐる登山コースでは、七尾城趾の本丸跡を頂上として目指すことになります。 ___【 周辺の関連施設 】___ ● 七尾城史資料館 ・所在地:七尾市古屋敷町、城山線と農免道路の交差点「城山」の近くに位置します。専用駐車場あり。 ・開館時間:9:00〜17:00 ・定休日:毎週月曜(祝日の場合は翌日) ・冬期休館:12月11日〜3月10日(予約があれば開館可) ・料金:大人200円 ● 懐古館「飯田家」 ・所在地:七尾市古屋敷町、「資料館」の隣に位置。 ・開館時間:9:00〜17:00 ・定休日:毎週月曜(祝日の場合は翌日) ・冬期休館:12月11日〜3月10日(予約があれば開館可) ・料金:大人200円 ● 城山展望台 標高380mの城山山頂に所在します。広場やトイレ、駐車場が備わっています。展望台(山頂)の600m手前の市道沿いに「展望台駐車場」がありますが、積雪が無ければ、展望広場そばの駐車場まで車で行けます。七尾になぞらえた「七角形の展望台」です。七尾湾を一望できる、絶景スポットです。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
___【 コースの状況等 】___ ● 殆ど危険な箇所はありませんが、「二の丸」と「三の丸」に上がる階段が急勾配です。 ● 古戦場なので、落ち武者の噂が?霊感の強い方は注意が必要かも(たぶん都市伝説)?? |
その他周辺情報 | ___【 コース近くの温泉 】___ ● Pasta&Cafe「J,Road」 住所は、七尾市矢田町21号鉄砲山。城山の中腹に位置します。城山交差点から「城山線」を約1km登った所です。呼び名は「ジェイロード」です。お店から景色が良いです。午後7時閉店しますが、七尾の夜景が格別です。 ・営業時間:午前11時00分〜午後7時00分 ・定休日:毎週火曜 ・その他:パスタランチがお勧め。 ● 料理旅館「七尾城」 住所は、七尾市矢田町19号鉄砲山。「J,Road」と同じく、城山の中腹に所在。「J,Road」よりも「城山線」の250mほど下です。こちらも、展望露天風呂からの眺めが良いらしい。 ・泉質:内湯と展望露天風呂(人工ラジウム風呂) ・その他:1泊2食の宿泊だけでなく、日帰り宴会のプランのあります。 ● ランチ喫茶「花うさぎ」 住所は、七尾市桜町。七尾港の西側に位置します。桜川の河口にある「恵寿総合病院」の100m東に位置します。ランチ・喫茶・弁当(宅配あり)には、値段以上の物があります。 ・営業時間:月〜土のお昼時間 ・定休日:毎週日曜祭日 ・その他:定食を選ぶと、サイフォン式のコーヒーが100円になります。 |
写真
‐綯矢駄IC−県道46号線−県道298号線−国道249号線−県道177号城山線(残り1km)
徳田大津JCT−国道249号線−県道177号城山線(残り1km)
七尾城山IC−矢田郷81号線(残り0.8km)
交差点「城山」からのスタートです。まず、旧道の『大手道』から登り始め、「七尾城址(本丸)」に登頂(1峰目)。次に車道を歩き、展望台(三角点所在地)に登頂(2峰目)しました。帰りは「城山線」を歩いて下り、交差点「城山」に帰還です。
実は、展望台(山頂部分)や七尾城址(本丸)は、ここからでは近すぎて見えません。この山行終了後に、離れた場所から見上げてみます。ところで、日本には[城山]と呼ばれる峰が千座くらいあるかも?
ここから、『城山線』登ると、本丸北駐車場まで3.7kmで、その駐車場から0.3km歩くと「本丸」です。一方、旧道(大手道)を通るルートだと、「本丸」まで2.3kmです。うちわけは、『大手道』の赤坂口(実質的な登山口)までは1.0kmmで、赤坂口から「本丸」までが、山道の1.3kmです。
〜から振り返りました。この交差点から、七尾城山ICまで、約0.8kmです。一方、七尾ICからここまで、約3kmですが、そちらからのアクセスは想定外です。なぜなら、現時点では、七尾ICが能越道の終点になっているからです。
町道を200mほど進むと、古道(大手道)に入ります。ちなみに、「大門道」と呼ばれる古道もありましたが、『県道城山線』が開拓されたおりに消失してしまいました。
凝視すると首が痛くなります。資料館、飯田家、展望台、本丸〜の4本柱があります。旧大手道=3kmと表記されたいますが、二の丸と三の丸を経由しない『直通ルート』(後出します)だと2.3kmです。
法性山「妙圀寺」(ほっしょうざんみょうこくじ)。石碑の右奥に入った場所に妙圀寺跡があります。1490年(延徳2年)、ここ赤坂口に開山されましたが、1615年(慶長20年)に小島町(山の寺寺院群)に移転されました。お寺では現在も、畠山氏一族および七尾城の戦いの戦死者のための供養がなされています。以前、山の寺を巡りました〜
● 能登国 山の寺寺院群「瞑想の道」
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-796263.html
このような石積みが三箇所以上あります。登山道を示すケルンとは違う性質のものです。かねてより、落ち武者の亡霊のうわさのある山道です。古戦場(七尾城の戦い)なので、戦死者を弔う気持ちが込められた石積みです。小石で出来ていますので、大風があるとすぐ崩れてしまいます。なんだか、『賽ノ河原の石積み』を思わせます。
「ショウジョウバカマ(猩々袴、メランチウム科ショウジョウバカマ属)」のものです。4月になると、紅紫の花が群生します。「シライトソウ(白糸草、メランチウム科シライトソウ属)」のロゼットと区別が難しいですが、「ショウジョウバカマ」はここのような低山でも生育します。
〜に相当します。赤坂口が登城口で、登城路の終点が、大手口(大手門)になります。今はなき『大手門』は温井屋敷と西の丸の間(桜馬場の手前)くらいにあったらしい(不詳)?
〜の方(東方向)を眺めました。眼下には「木落川」が流れていますが、見えません。東隣の尾根を登る『県道177号城山線』の一部が見えています。この後、山頂(展望台)を制覇した後の復路は『城山線』を下る予定です。
イチイ科カヤ属。「カヤ(榧)」の多雪地型変種です。
他属である「イヌガヤ(犬榧、イチイ科イヌガヤ属)」の多雪地型変種が、「ハイイヌガヤ(這犬榧)」である事と対をなしています。『カヤ属』の枝(葉のつく枝)は茶色ですが、『イヌガヤ属』の枝は緑色なので、区別が付きます。
左=「直行ルート」/右=「三の丸・二の丸経由ルート」です。「直行ルート」だと、本丸まであと500mほどですが、「三の丸・二の丸経由ルート」だと、倍以上の距離(歩き方によるが?)になります。
〜順に見ると〜七尾西湾−三ヶ口瀬戸・屏風瀬戸−能登島−大口瀬戸・小口瀬戸〜となります。今の時期=「七尾の冬の味覚」は、牡蠣です。七尾西湾沿岸では、牡蠣の養殖が盛んです。
七尾南湾と西湾の境の海峡を「屏風瀬戸」と呼びます。そこに架けられたのが、能登島大橋です(完成は1982年)。奥にみえる橋は、中能登農道橋(ツインブリッジのと)です。1999年、西湾と北湾の境の海峡(三ヶ口瀬戸)に架けられました。
七尾港の「玄関ポーチ(埠頭)」は、「海の道(七尾南湾)」に突き出ています。七尾湾に浮かぶ能登島は、ひょうたん型をしています。『ひょっこり能登島』がキャッチコピーになっています。
和倉温泉と中島町は、七尾西湾に面しています。手前の七尾市街は、中心部(七尾駅や市役所のある場所)より西側の地区です。都会のような大型オフィースビルはございません。大きな建物のほとんどが、学校、病院、ショッピングセンター、パチンコ店〜などです。
眼下に見える高架路は、『能越自動車道』です。七尾ICで終点になっていますが、徳田大津JCTで『のと里山海道』と合流して、輪島市まで延伸される予定です。能登総合病院の東西に、病院東ICと病院西ICが造られる見通しです。
本来の「袴腰(はかまごし)」とは、袴の腰にあたる部分のことです。袴腰に台形の腰板を入れるので、台形に見えるこの場所のことを、『袴腰』と呼ばれるようになったみたいです。さて、袴腰の入り口に「三の丸」に上がる階段がありますが、スルーします。
尾根部分ですが、20mほど細長く平になった場所です。沓(くつ)を掛けた場所ですが、掛けたのは人間の物(靴)ではありません。馬の沓(木の皮などで作られていた)です。人馬で登って来てここで、馬を繋ぎとめ休ませていたのでしょう。
紅白のアンテナが印象的な「NHKラジオ中継放送所」。大きな煙突の「大田火力発電所」。輸入材木関連の企業が集まる「七尾港貯木場」。ちなみに、貯木場=(海上の)貯木池+(陸上の)貯木場〜となっています。
七尾市の北東部に位置し、七尾南湾の小口瀬戸に突き出しているのが『崎山半島』です。「伊掛山」がよく見えます。その山頂には、二等三角点「沢野」(標高252.15m)があります。かって日露戦争の時は、伊掛山山頂にロシア艦隊を見張る監視所が造られていました。
上杉軍との『七尾城の戦い』で戦死したものを、ここで弔っていたのでしょうか?今あるこの「大塚」は、3年ほど前に、造られた物です。伐採された木枝と泥土を集め、固めて塚にしたみたいです。
〜で「本丸」に向かいます。石段を登った先が、『搦め手口(裏口)』に相当します。『大手門』は「西の丸」と「温井屋敷」の間あたり(桜馬場の手前)にあったらしい?
〜が見事です。城砦の石垣としては、珍しい構造です。どこか、愛媛県宇和島にある『石垣の段々畑』のような面影も??最上段の上には、桜馬場(さくらのばんば)があります。
〜国指定史跡にに指定されました。天正5年(1577年)9月、七尾城を落とした『上杉謙信』が、漢詩を読んでいます。[ 霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征 ]〜という七言絶句=いわゆる『十三夜の詩』です。
城山の麓にある建設会社の大工さん達が、この階段を造っているそうです。正面にどんと構えた『本丸の石垣』は、木落谷の方向(北北西方向)に睨みを効かしいます。
谷の向こうに、城下町の七尾が見下ろせます。町の中心部は元々、『所口村』でしたが、畠山氏が『七尾』と改称しました。加賀藩の時代では、「所口」の名に戻されています。明治になり、「七尾町」、昭和に入り「七尾市」に変わり発展してきました。
〜が東の空に見えます。山頂には、三等三角点「小松原」(379.47m)がありますが、最高所ではありません。城山最高所(P413m)は、展望台の南東約1.3kmに位置します。その最高所は民有地で、周辺部分も含めて、石川県林業公社が造林を営んでいます。
〜が少しだけ見えています。本丸の南東1kmほどの所で、『南大吞1号線(黒崎線)』から『林道城石線(東山3号線)』が分岐(起点)しています。『林道城石線』は〜城山−石動山−原山(芹川原山分)〜と結んでいます。
虎口(こぐち)とは、狭い出入口(小口)のことです。枡形(ますがた)とは、城郭の出入口に方形の空間を設けて、侵入してきた敵を殲滅する仕掛けです。城郭の外側に突き出た物を外枡形。内側に造られた物を、内枡形と呼びます。ちなみに、「西の丸」の直下(九尺石のあたり)には、内枡形があったらしい。
〜九尺石−温井屋敷跡−二の丸−三の丸〜と続きますが、今回は省略します。私の以前のヤマレコ記録があります。
● 日本百名城の「七尾城山」に登る〜五大山城の一つ「七尾城址」〜
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-762091.html
「本丸」と「長屋敷跡(長殿丸)」との間が、鞍部になっています。この鞍部の奥(南側)に『大谷』、背後(北側)に『木落谷』と『烏帽子谷』があります。残念ながら、「長屋敷跡」に上がることは出来ません。
野も山も みなうづもるる
雪の中に しるしばかりの 杉の村立(※)
※:[村立≠ソンリツ]〜ではありません。『村立=群立ち/叢立ち(ムラタチ)』の意。
〜のは、16世紀前半でした。最盛期を過ぎた後は、幾度かの内紛があり、ついには、上杉謙信により滅ぼされました(第2次七尾城の戦い:天正5年=1577年)。
〜です。三ヶ口瀬戸に架けられた「ツインブリッジのと」は、正式には『中能登農道橋』です。一方、屏風瀬戸に架けられた「能登島大橋」は『石川県道47号七尾能登島公園線の橋』になります。
〜振り返りました。15台くらいは停められます。山城ブームで観光客は増えていますが、ここが、満車になるのは『城山祭り』の時くらいです。七尾駅からの出発で、[戦国の名城「七尾城」探訪コース]と銘打った〜観光タクシーのプランもあるみたいです。
ここ本丸北駐車場が『県道城山線』の終点です。正面のトイレから上の道路は、『市道南大吞1号線(通称:黒崎線)』になります。ここから1.2km登るとトイレ付の「展望台駐車場」があり、さらに600m登ると「城山展望台」です。
七尾市の四大祭り(奇祭)が紹介されています。\椎雕廖覆擦い呂さい)=通称:でか山、向田の火祭り(こうだのひまつり)、石崎奉灯祭(いっさきほうとうまつり)、い熊甲祭(おくまかぶとまつり)=別称:枠旗祭り(わくばたまつり)
〜からは待望の雪道です。実は、この先(上)にも、トイレと駐車場があります。500mほど上がると左右に分かれて、『展望台広場』(左手)と『駐車場+トイレ』(右手)があります。
現地より展望台まで約580m/標高▲387m〜と表記されています。しかし、山頂に所在する三等三角点「小松原」の標高は、国土地理院の『基準点成果等閲覧サービス』で調べると[379.47m]です。案内図が作られたときよりも、城山が7mも低くくなったのかな?
その1:七尾城の築城時期?=守護館が、府中(現七尾市本府中町)から、山岳に築城された七尾城に移されたのが、大永6年(1526年)頃らしい。
その2:白米の伝説?=七尾城の戦いで、籠城が長引いた七尾勢は、水不足をごまかすため、白米を滝の様に流し落とし、押し寄せている敵軍を欺こうとしたという。
その3:上杉謙信はなぜ七尾を攻めたか?=織田信長と対決する為に能登を押さえておく必要があった。謙信率いる本隊は、越中から津幡に入り、口能登を縦断して、七尾城下の天神川原に布陣。2つの別働隊があり、1つは海路から珠洲に上陸、もう1つは石動山に向かい「石動山城」を築城。
その4:難攻不落の七尾城はなぜ落ちたか?=家臣たちの間では、上杉派、織田派、一向一揆派などがさくそうして結束できなかった。落城のひきがねは、「遊佐続光(ゆさつぐみつ)」が裏切って上杉勢を城内に引き入れたこと。
残念ながら、ここで『すみました』。雪が少なすぎて、シュー(沓)をぬいでしまいました。スノーシューハイクのつもりで登って来ましたが、450mほどで中止です。
その5:山城としての特徴は?=いくつもの尾根(数は七つあるのか?)をうまく利用して城郭を構成しています。くしくも、仇敵「上杉謙信」の居城『春日山城』と似通っいます。
その6:家系図は?=足利幕府の管領「畠山基国(はたけやまもとくに)」の次男「満慶(みつよし)」が、能登畠山家の初代になります。能登(七尾)に在国するようになったのは、3代「義統(よしむね)」の時かららしい。
〜ですか??下の展望台登り口のものは、展望台から600も離れているのに「展望台駐車場」です。ここ(上)の駐車場は何と呼べばいいのか?展望台広場百間馬場横駐車場?→かんたんに『山頂駐車場』ということにさせてください。思うに、地名や場所を表す呼称には明確さがほしいです。平成の市町村合併以来、日本の地名が、崩壊しかけています(混乱しています)。ちなみに、トイレの横のアンテナのある施設は「七尾市防災行政無線城山中継所」です。
「城山展望台」は、能登畠山氏の庶流(分家)である松波畠山氏の十八代当主にあたる方が建立したものです。七尾の七つの尾根に因んだ七角形の城砦(展望台)になっています。
〜の七つの尾根〜があるそうですが、いくら地図を見ても、どの尾根も同定出来ません。七尾城は、「松尾城」と呼ばれていたこともあったらしいから、七尾城址の城郭が並んでいる尾根が『松尾』尾根なのか?また、七尾城本丸のある峰は、『松尾山』とも呼ばれていたらしい?
石動山山頂には、大御前(おおごぜん)のお社が建っています。詳しくは、私のヤマレコ記録で〜
● 石動山パノラマ曼荼羅ハイキング
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-654108.html
右後方には、中能登町などがある「邑知潟地溝帯」が見えます。その地溝帯の西側が、遠くに見える『眉丈山丘陵』です。今いる場所(城山)は、地溝帯の東側で、『宝達丘陵』の石動山山系になります。
〜こちら(石動山山系)を眺めました。2016年10月の撮影です。
● 中能登「眉丈山丘陵」縦走〜「雨の宮古墳群」探訪をかねて〜
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-981582.html
『ひょっこり能登島』のことです。あ”!オーブ(光球)が画面に映り込んでいる。ここも心霊スポット?ですが、風が強く屋根に積もった雪が、吹き飛ばされていたみたいです。
今回は、ダメでしたが、条件が良ければ、後立山連峰の北部(白馬三山より北側部分)が見えます。ここから南東約1.3kmに、「城山最頂点(最高所)」があります。ここ展望台(城山山頂)の標高は380mですが、城山最頂点は413mです。
能登島大橋の架かる「屏風瀬戸」から七尾西湾沿いに〜和倉村(現・和倉温泉)−徳田村(田鶴浜)−熊木村(中島)がありました。大橋の手前に見える七尾の中心地は、所口村(※)でした。前田利家が上杉勢を追い払った後、所口村の近くの高台に、小丸山城(現・小丸山公園)を築城しました。※:七尾市の原型になった村。
七尾北部(中島町)の名峰「虫ヶ峰」と、志賀町の能登富士こと「高爪山」が見えます。「虫ヶ峰」には10基の風力発電は立ち並んでいます(虫ヶ峰風力発電所)。石川県内には、風力発電所が73基ありますが、うち72基までが能登半島に所在します(加賀地区は内灘町の1基のみ)。
南湾と西湾の境界(屏風瀬戸)に「能登島大橋」。西湾と北湾の境界(三ヶ口瀬戸)に「ツインブリッジのと」です。七尾市の北端(穴水町との境界)に位置する「別所岳」が見えていますが、大橋から見るとよりきれいに見えます。
〜下ります。ここから、出発地の交差点「城山」まで、約5.5kmの下り坂です。もし車道にも大雪が積もっていたら、スノーシューを楽しみながら下山できたかも?
〜に移行します。『南大吞1号線(黒崎線)』は本丸北駐車場の所で、『城山線』と接続しています。〜というか、1本の同じ道にしか見えません(明確な境界線がありません)。
〜が少し間隔を開けて並んでいます。『開拓道路完工碑』と『戦没船員之碑』です。開拓道路とは、今歩いている『県道城山線』のことです。後者は、太平洋戦争に従軍した船乗りたちを悼む碑です。当時、七尾港も軍港でした。七尾港の出入り口(大口瀬戸と小口瀬戸)を、米軍が空から機雷を投下して封鎖していました。
昼間は「ひょっこり〜ひょうたん島(能登島)」が目立ちますが、夜になると、すごいんです。暗闇に沈む能登半島をリング台(指輪台)のようにして、七尾の街が輝きます。
東側(画面右手)に七尾城山ICがありますが、氷見方面の出入り口しかありません。七尾城山ICから七尾IC方向に入ることも、七尾IC側から来てここ七尾城山ICで降りることも出来ません。
能越道のそばに降りてきました。城山の北側を横断する能越道は、まるで七尾城の防壁であるかのように見えます。実祭、遺構があります。七尾城史資料館のある古屋敷町に『総構え』がありました。総構えは、城の外郭をなす防御設備で、空堀と土塁で出来ていました。
この写真は、先ほど、城山展望台から見下ろした写真です。城下の適当な場所から、七尾城山を仰ぎ見ることにしました。県道298号線が、国道249号線に合流する辺りに移動します。
上がってきた坂道を振り返りました。国道249号線が、県道177号城山線の方向に伸びています。国分西−国分−藤野北−城山〜と交差点が続きます。また、右前方にある信号(国分西交差点)を右に入ると、県道298号線です。県道298号線を直進すると、県道46号線に合流し、そのまま進むと上棚矢駄インターで『のと里山海道』に接続出来ます。
ラジオの中継アンテナ(北陸放送七尾放送局)がある方向に「七尾城山」が見えます。北東方向には、崎山半島(七尾の崎山・大呑地区)があり、崎山半島の名峰『伊掛山』が見えました。
以前、徒歩にて崎山半島を一周しました。
● 伊掛山・崎山半島〜半島の中の半島を一周〜
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-779102.html
〜をラインマークしてみました。この城山のように日本の低山は、雑木林に覆われているのが基本です。戦後開拓されて『城山線』が通っている周囲は、人工林(杉の植林)に侵食されてされています。
〜の特定は、大方の市民は出来ていません。送電鉄塔の位置関係と尾根の形状で判断出来ます。「二の丸」の森と「本丸」の森が重なっていますが、冬場は、木の葉が少ないので判別がしやすくなります。二の丸の森は、落葉樹(モミジ)なので、まばらな林に見えます。一方、本丸そばの桜馬場と西の丸には、常緑樹(杉)が繁っているので、すこし尖った森に見えます。
「花とウサギ」の店ではありません。ビジネスマン・主婦・暇人たち御用達〜ランチ喫茶弁当の『花うさぎ』〜さんです。今回の山行後、こちらの「いなりうどん(※)」を頂きました(※:「きつねうどん」の事です)。〜以上でしたが、以下に4枚の付録写真を付けました。
〜がきれいに見渡せます。『パノラマ展望台』のある峰は、石動山(大御前)の東に位置しています。一度、パノラマ展望台に上がったことがありますが、富山湾側がよく見下ろせましたが、七尾湾側は少ししか見えませんでした。
装備
個人装備 |
ザック
スノーシュー
ストック
キャップ
グローブ
軍手
ロングスパッツ
スマートホン
GPS
一眼レフデジカメ
予備電池
ストームジャケット
タオル2本
水0.5L
|
---|
感想
___【 良かったこと 】___
● 冬の晴れ間に恵まれ、城趾や展望台からの眺めが良かった。
● 例年より積雪少なく、効率良く、登山(城趾と山頂めぐり)が出来た。
___【 悪かったこと 】___
● 思ったほど、山に積雪がなく、スノーシューハイクにはならなかった。
● 「二の丸」と「三の丸」をスルーしてしまった。どちらも、曲輪に登る階段が急勾配で、雪があると怖いと思った。
● 今回、展望台からは、後立山連峰(特に白馬三山)のお姿を拝見できなかった。
___【 最後に 】___
私の地元の山と山城(城趾)なので、七尾城のことに興味があり、以前もヤマレコに記録をアップしています。前回と今回、有志の方々が集まる『七尾城山を愛する会』のホームページからたくさん勉強(参考に)させて頂きました。お世話になり、ありがとうございます。これからも、ちょくちょく、本丸に上がらさせて頂きます。
___【 七尾市内の山行記録のリンク 】___
私は近年、市内のあちこちを探検(探訪)しています。記録がありますので、ご興味があればどうぞ。
● 能登国 山の寺寺院群「瞑想の道」
2016年01月15日
https://yamare.co/796263
前田利家は、七尾で初めて城持ち大名(小丸山城)になりました。西の守り(奥能登に対しての防御)として寺院群を構築しました。往時、29ヵ寺集まっていました。現在も残されている16ヵ寺を巡りました。
● 伊掛山・崎山半島〜半島の中の半島を一周〜
2015年12月13日
https://yamare.co/779102
七尾の北東部(崎山・大呑地区)にある崎山半島の名山です。「伊掛山」登山とともに、崎山半島内の集落めぐりを完遂しました。
● 日本百名城の「七尾城山」に登る〜五大山城の一つ「七尾城址」〜
2015年11月10日
https://yamare.co/762091
今回の15ヶ月前に、郷土史を学びつ城山の山行記録しました。(※:今回と内容が重複していますが、自分的には繰り返しにより理解が深まりつつあると思います)。
___【 七尾城の記録を追加しました(追記) 】___
幾度となく迷い道に苦しみながらも、登山道や古道(登城道)を精査しました。
● あゝ七尾城 (その二)〜城域を囲むように一周〜
2018年12月16日
https://yamare.co/916536
● あゝ七尾城 〜古道を辿る=大谷川を遡るルート&小松原道を登る〜
2018年10月18日〜11月01日
https://yamare.co/1615114
g-okabeさん、こんばんわ。
はじめまして!
七尾城址というと、山を歩き出す前、
山城を巡っている時に訪れた場所です。
ちょうど、三月くらいだったでしょうか。
まだ雪の残る時期でした。
その当時、小谷城址や観音寺城址、関東の山城なども歩きましたが、
私の中では、七尾城址が別格でした。
視界の効く日には、目の前の日本海が何とも言えませんよね
史実など詳しいレコでしたので、改めて、心に留まりましたよ。
はじめまして! fujimonさん、おはようございます。
見ていただいてありがとうございます。
滋賀に、日本中世五大山城のうち2つもありますね。そう〜「観音寺城」、「小谷城」。私はまだ、この2城とも未体験です。近江(滋賀)は、能登(七尾)からそう遠くないので、一度は訪れてみたいと思います。
私いつも〜たくさんの写真と長たらしい文面をアップしていますので、全部見るの(読む)のは苦痛に感じるやも知れません。日記や備忘録も兼ね、自分が学習したことの記録(学習帳)みたいにヤマレコを利用しています。
これからも、よろしくお願いします。では、また
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