01吉備真備公園駐車場
小田郡矢掛(やかげ)町にある吉備真備(きびのまきび)公園の駐車場を利用し、出発点にしました。「日本の歴史公園100選」にも選定された所です。
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01吉備真備公園駐車場
小田郡矢掛(やかげ)町にある吉備真備(きびのまきび)公園の駐車場を利用し、出発点にしました。「日本の歴史公園100選」にも選定された所です。
02吉備大臣宮
駐車場前の鳥居を三つくぐると、吉備大臣宮があります。吉備公館址と称され、吉備公ゆかりの屋敷跡とみられる土塁に囲まれた「だんのうち」と呼ばれる平地があり、奈良時代の瓦片が出土したとされています。
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02吉備大臣宮
駐車場前の鳥居を三つくぐると、吉備大臣宮があります。吉備公館址と称され、吉備公ゆかりの屋敷跡とみられる土塁に囲まれた「だんのうち」と呼ばれる平地があり、奈良時代の瓦片が出土したとされています。
03囲碁発祥之地記念碑
遣唐使として長安に渡り、日本の政治、文化、軍制の発達に大きな功績を挙げた吉備真備は在唐中、唐の囲碁名人と対局し、知恵をもって勝った説話があり、日本における囲碁の開祖として伝えられました。
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03囲碁発祥之地記念碑
遣唐使として長安に渡り、日本の政治、文化、軍制の発達に大きな功績を挙げた吉備真備は在唐中、唐の囲碁名人と対局し、知恵をもって勝った説話があり、日本における囲碁の開祖として伝えられました。
04吉備真備像
80mの石敷参道の正面に、上下二段になった基壇を造り、古代中国で皇帝が五穀豊穣を祈った天壇の形式とし、上壇中央に総高6.45mの吉備真備(きびのまきび)の銅像が安置されています。
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04吉備真備像
80mの石敷参道の正面に、上下二段になった基壇を造り、古代中国で皇帝が五穀豊穣を祈った天壇の形式とし、上壇中央に総高6.45mの吉備真備(きびのまきび)の銅像が安置されています。
05吉備真備公園白梅
吉備真備公園の西側にあります。4分咲きくらいでした。
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05吉備真備公園白梅
吉備真備公園の西側にあります。4分咲きくらいでした。
06吉備真備公園白梅&紅梅
白梅と紅梅のコラボです。縁起物に映ります。近くではツバキ「侘助」が咲き始めでした。藤棚もあり、四季折々の花が楽しめそうです。
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06吉備真備公園白梅&紅梅
白梅と紅梅のコラボです。縁起物に映ります。近くではツバキ「侘助」が咲き始めでした。藤棚もあり、四季折々の花が楽しめそうです。
07吉備真備公園ツグミ
元々、あまり警戒心が強くないので、我々の前で堂々と採食行動を行っていました。動画にも撮りました。
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07吉備真備公園ツグミ
元々、あまり警戒心が強くないので、我々の前で堂々と採食行動を行っていました。動画にも撮りました。
08小田川福頼橋より
カルガモ&コガモ
警戒心が強いので、人が近づくとすぐに飛んでいきますが、たまたま、小田川の福頼(ふくより)橋の上から、カルガモ(左端)とコガモをこっそりと観察することができました。動画も撮りました。
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08小田川福頼橋より
カルガモ&コガモ
警戒心が強いので、人が近づくとすぐに飛んでいきますが、たまたま、小田川の福頼(ふくより)橋の上から、カルガモ(左端)とコガモをこっそりと観察することができました。動画も撮りました。
09猿掛山平林登山口
小田川沿いを東に歩いていると、「猿掛城跡登り口」という道標があり、ポストの中に概要と略図が描かれた案内が入っていました。一部いただきました。
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09猿掛山平林登山口
小田川沿いを東に歩いていると、「猿掛城跡登り口」という道標があり、ポストの中に概要と略図が描かれた案内が入っていました。一部いただきました。
10猿掛城跡大手道入口
案内板に従って細いアスファルト道からコンクリート道、土道と進み、金属製の小さな橋を渡ると、大手道入口まで来ました。弘法大師像?が見えます。もう一つの搦め手(からめて)道は現在は廃道となっているようでした。ずっとジグザグ道なので、傾斜が急な割に楽に上ることができます。最初は階段状の道で、たまに小石が転がっています。
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10猿掛城跡大手道入口
案内板に従って細いアスファルト道からコンクリート道、土道と進み、金属製の小さな橋を渡ると、大手道入口まで来ました。弘法大師像?が見えます。もう一つの搦め手(からめて)道は現在は廃道となっているようでした。ずっとジグザグ道なので、傾斜が急な割に楽に上ることができます。最初は階段状の道で、たまに小石が転がっています。
11猿掛城跡寺丸跡
延徳4年(1492年)、守護細川勝久が猿掛城を急襲した際、城主庄元資(しょうもとすけ)は退避しましたが、永く庄氏を支援していた香西五郎右衛門一統は孤軍奮闘した末、城中にて切腹して果ててしまいました。庄元資は香西五郎右衛門一統の功績を讃え、その慰霊のためにこの寺丸を築き、位牌堂を建てて冥福を祈ったとされています。動画も撮りました。
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11猿掛城跡寺丸跡
延徳4年(1492年)、守護細川勝久が猿掛城を急襲した際、城主庄元資(しょうもとすけ)は退避しましたが、永く庄氏を支援していた香西五郎右衛門一統は孤軍奮闘した末、城中にて切腹して果ててしまいました。庄元資は香西五郎右衛門一統の功績を讃え、その慰霊のためにこの寺丸を築き、位牌堂を建てて冥福を祈ったとされています。動画も撮りました。
12猿掛城跡大夫丸跡
天文2年(1533年)、庄為資(ためすけ)は一族の庄実近を猿掛城の城代として置きました。天文22年(1553年)に三村元親軍と庄為資軍が激突しましたが、毛利元春の調停により、三村家親の長男の元祐が庄為資の養子となり、猿掛城主として入城しました。城代の庄実近は城の北側の郭へ退隠し、この郭を大夫(たゆう)丸と称したといわれています。
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12猿掛城跡大夫丸跡
天文2年(1533年)、庄為資(ためすけ)は一族の庄実近を猿掛城の城代として置きました。天文22年(1553年)に三村元親軍と庄為資軍が激突しましたが、毛利元春の調停により、三村家親の長男の元祐が庄為資の養子となり、猿掛城主として入城しました。城代の庄実近は城の北側の郭へ退隠し、この郭を大夫(たゆう)丸と称したといわれています。
13猿掛城跡大夫丸跡列石
大夫(たゆう)丸は約180坪の広さがあります。庄実近隠居砦の痕跡らしき石が見られました。動画も撮りました。ここを過ぎると分岐があり、東は真備(まび)町側の登山道、直進は新設された西登山道のようです。直進しました。
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13猿掛城跡大夫丸跡列石
大夫(たゆう)丸は約180坪の広さがあります。庄実近隠居砦の痕跡らしき石が見られました。動画も撮りました。ここを過ぎると分岐があり、東は真備(まび)町側の登山道、直進は新設された西登山道のようです。直進しました。
14猿掛城跡六の丸跡
ここから猿掛城の主郭部です。この六の丸から南方向に向かって、一の丸(本丸)まで6壇からなる郭が連なります。動画も撮りました。
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14猿掛城跡六の丸跡
ここから猿掛城の主郭部です。この六の丸から南方向に向かって、一の丸(本丸)まで6壇からなる郭が連なります。動画も撮りました。
15猿掛城跡五の丸跡
この五の丸辺り(六の丸北)から四の丸、三の丸にかけての東側に馬場として調練場があったとされています。
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15猿掛城跡五の丸跡
この五の丸辺り(六の丸北)から四の丸、三の丸にかけての東側に馬場として調練場があったとされています。
16猿掛城跡四の丸跡
本来「四=死」を連想させる四の丸は設けないのですが、ここにはありました。向かって右に見える土塁のような切岸状態の上部は三の丸跡です。動画も撮りました。
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16猿掛城跡四の丸跡
本来「四=死」を連想させる四の丸は設けないのですが、ここにはありました。向かって右に見える土塁のような切岸状態の上部は三の丸跡です。動画も撮りました。
17猿掛城跡三の丸跡
約760坪と最大の面積を誇る三の丸の東には大手門跡、中央に大井戸跡、西には御長屋跡や三段になった倉庫跡があります。
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17猿掛城跡三の丸跡
約760坪と最大の面積を誇る三の丸の東には大手門跡、中央に大井戸跡、西には御長屋跡や三段になった倉庫跡があります。
18猿掛城跡三の丸跡より
北西方面
三の丸より北西方面を展望すると、茶臼山や矢掛町の集落が一望できました。動画も撮りました。
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18猿掛城跡三の丸跡より
北西方面
三の丸より北西方面を展望すると、茶臼山や矢掛町の集落が一望できました。動画も撮りました。
19猿掛城跡二の丸跡
戦国時代以降は一郭(本丸)を主とし、二郭(二の丸)以降を従とする構成が一般的となりました。本丸前の最後の砦ですが、意外と狭い所でした。
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19猿掛城跡二の丸跡
戦国時代以降は一郭(本丸)を主とし、二郭(二の丸)以降を従とする構成が一般的となりました。本丸前の最後の砦ですが、意外と狭い所でした。
20猿掛城跡本丸跡
本丸は約300坪の広さで、南端は深い堀切により弥高山系と完全に分離され、その掘りあげた土により本南端は土塁を築いて三日月形に囲まれています。動画も撮りました。
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20猿掛城跡本丸跡
本丸は約300坪の広さで、南端は深い堀切により弥高山系と完全に分離され、その掘りあげた土により本南端は土塁を築いて三日月形に囲まれています。動画も撮りました。
21猿掛城跡本丸跡より
北東方面
本丸からは左に妹山(せやま)や右に真備(まび)町妹(せ)集落が見えます。
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21猿掛城跡本丸跡より
北東方面
本丸からは左に妹山(せやま)や右に真備(まび)町妹(せ)集落が見えます。
22猿掛城跡堀切
本丸の南背後を土塁と大堀切、側面には畝状竪堀群と大きな竪堀が設けられています。ここを上り下りするのにロープを利用しました。ここを過ぎるとロープは必要なく、歩きやすくなりました。
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22猿掛城跡堀切
本丸の南背後を土塁と大堀切、側面には畝状竪堀群と大きな竪堀が設けられています。ここを上り下りするのにロープを利用しました。ここを過ぎるとロープは必要なく、歩きやすくなりました。
23弥高山八十八カ所道標石
「☞へんろ道」
ここには「弥高山四国88ヶ所霊場」の遍路道の道標がありました。すぐ東に311m峰があり、分岐点になっています。遍路道沿いに南南東に向かいました。
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23弥高山八十八カ所道標石
「☞へんろ道」
ここには「弥高山四国88ヶ所霊場」の遍路道の道標がありました。すぐ東に311m峰があり、分岐点になっています。遍路道沿いに南南東に向かいました。
24弥高山八十八カ所
49番浄土寺
浄土寺は空也上人の姿がいまに残る寺です。後に弘法大師がこの寺を訪ねて、真言宗に改宗したとされています。愛媛県の同寺は66坊の末寺を持つほど栄えました。一方、このお堂は周辺に瓦が散乱し、今後が少し心配な状況でした。木の間のきれいな土道を抜け、遍路道から外れて弥高建設の所からアスファルト道に入り、コンクリート道を北上して弥高開拓三角点名「金山」<写真25>に向かいました。
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24弥高山八十八カ所
49番浄土寺
浄土寺は空也上人の姿がいまに残る寺です。後に弘法大師がこの寺を訪ねて、真言宗に改宗したとされています。愛媛県の同寺は66坊の末寺を持つほど栄えました。一方、このお堂は周辺に瓦が散乱し、今後が少し心配な状況でした。木の間のきれいな土道を抜け、遍路道から外れて弥高建設の所からアスファルト道に入り、コンクリート道を北上して弥高開拓三角点名「金山」<写真25>に向かいました。
25弥高開拓三角点名「金山」
右折する道をスルーして北端まで行ってしまい、雑草地を横切ってモミジがたくさん植えられた一角を通り抜けて三角点に向かいました。弥高(やたか)開拓のフラットな頂上に水道施設があり、その少し北に目立たないようにして、標高301.5mの三角点(点名:金山)がありました。
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25弥高開拓三角点名「金山」
右折する道をスルーして北端まで行ってしまい、雑草地を横切ってモミジがたくさん植えられた一角を通り抜けて三角点に向かいました。弥高(やたか)開拓のフラットな頂上に水道施設があり、その少し北に目立たないようにして、標高301.5mの三角点(点名:金山)がありました。
26沙美アルプス&塩飽諸島
弥高開拓を通るコンクリート道からは南方面の眺望が効きます。瀬戸内海に浮かぶ塩飽(しあく)諸島や倉敷市の南岸近くにある沙美(さみ)アルプスがよく見えます。遥照山が木々の間からわずかに見えたので、アスファルト道に入り南西に進んでみましたが、よく見えなかったので引き返し、東から南西方面の動画を撮りました。
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26沙美アルプス&塩飽諸島
弥高開拓を通るコンクリート道からは南方面の眺望が効きます。瀬戸内海に浮かぶ塩飽(しあく)諸島や倉敷市の南岸近くにある沙美(さみ)アルプスがよく見えます。遥照山が木々の間からわずかに見えたので、アスファルト道に入り南西に進んでみましたが、よく見えなかったので引き返し、東から南西方面の動画を撮りました。
27 弥高山八十八カ所
千手観音像
弥高建設の所から東方面に進むと、途中から砂利道になり、不意に千手観音像が現れました。この辺りからまた遍路道で、木の間や竹林の中の土道は石仏ロードでした。千手観音は観音の中でも功徳が大きく、観音の中の王という意味で蓮華王と呼ばれることもあります。阿修羅や金剛力士などの二十八部衆を配下にしています。このエリアではたくさん見られました。
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27 弥高山八十八カ所
千手観音像
弥高建設の所から東方面に進むと、途中から砂利道になり、不意に千手観音像が現れました。この辺りからまた遍路道で、木の間や竹林の中の土道は石仏ロードでした。千手観音は観音の中でも功徳が大きく、観音の中の王という意味で蓮華王と呼ばれることもあります。阿修羅や金剛力士などの二十八部衆を配下にしています。このエリアではたくさん見られました。
28弥高山八十八カ所
46番浄瑠璃寺
小さなお堂は外側は少し傷んでいました。行基菩薩が、奈良の大仏開眼に先立ち仏教宣布のため伊予に来られた時、讃仏修業の適地として伽藍を建立したとされています。弘法大師が四国霊場の一つに加えました。
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28弥高山八十八カ所
46番浄瑠璃寺
小さなお堂は外側は少し傷んでいました。行基菩薩が、奈良の大仏開眼に先立ち仏教宣布のため伊予に来られた時、讃仏修業の適地として伽藍を建立したとされています。弘法大師が四国霊場の一つに加えました。
29ピンク色の梅
瓦が散乱した土道からアスファルト道に出ました。開花したピンク色の梅の花とつぼみとのコントラストに癒されます。
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29ピンク色の梅
瓦が散乱した土道からアスファルト道に出ました。開花したピンク色の梅の花とつぼみとのコントラストに癒されます。
30 弥高山八十八カ所
44番太賽寺
中央の弘法大師像には「天保三年」(1832年)と刻まれていました。太賽寺(だいほうじ)は百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりといわれています。後に弘法大師が来て、天台宗から真言宗に改宗されたそうです。ここからさらに南東に向かう土道の入口がわかりにくく、少し迷いました。
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30 弥高山八十八カ所
44番太賽寺
中央の弘法大師像には「天保三年」(1832年)と刻まれていました。太賽寺(だいほうじ)は百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりといわれています。後に弘法大師が来て、天台宗から真言宗に改宗されたそうです。ここからさらに南東に向かう土道の入口がわかりにくく、少し迷いました。
31 弥高山八十八カ所
番外善光寺
アスファルト道に出て少し南西に進んだところにありました。番外って?ちなみに、西国三十三箇所という近畿地方と岐阜県にある観音菩薩の霊場があり、番外霊場として3つ、さらに結願後は長野県にある信州善光寺にお礼参りをするそうです。
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31 弥高山八十八カ所
番外善光寺
アスファルト道に出て少し南西に進んだところにありました。番外って?ちなみに、西国三十三箇所という近畿地方と岐阜県にある観音菩薩の霊場があり、番外霊場として3つ、さらに結願後は長野県にある信州善光寺にお礼参りをするそうです。
32白梅
この1本だけでしたが、ほぼ満開で見応えがありました。
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32白梅
この1本だけでしたが、ほぼ満開で見応えがありました。
33ジョウビタキ♂
やや開けた環境を好み、1羽で行動することが多い野鳥です。オスはこのように鮮やかな色をしています。「バカビタキ」と呼ばれるほど警戒心がなく、こちらを観察しに近寄ってきます。あっちこっちせわしなく場所を変えながらのぞき込んでくるので、案外、写真が撮りにくいです。
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33ジョウビタキ♂
やや開けた環境を好み、1羽で行動することが多い野鳥です。オスはこのように鮮やかな色をしています。「バカビタキ」と呼ばれるほど警戒心がなく、こちらを観察しに近寄ってきます。あっちこっちせわしなく場所を変えながらのぞき込んでくるので、案外、写真が撮りにくいです。
34淡いピンク色の梅
アスファルト道から砂利道に入りました。古木なのか、つぼみは少なく咲き始めでした。梅の花はピンクと白の中間ぐらいがもっとも可愛く見えます。東に延びる落ち葉道を進みます。
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34淡いピンク色の梅
アスファルト道から砂利道に入りました。古木なのか、つぼみは少なく咲き始めでした。梅の花はピンクと白の中間ぐらいがもっとも可愛く見えます。東に延びる落ち葉道を進みます。
35 弥高山八十八カ所
40番観自在寺
観自在寺は第一番札所より最も離れていることから四国霊場の裏関所と呼ばれています。「從是伊豫國」(これより伊予国)と刻まれた石碑が建っていました。明治時代のもののようです。さらに東に進むと、38番金剛福寺の石仏があり、少し開けた場所から南方面に瀬戸内海が少し望めました。そこで行き止まりだったので引き返しました。
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35 弥高山八十八カ所
40番観自在寺
観自在寺は第一番札所より最も離れていることから四国霊場の裏関所と呼ばれています。「從是伊豫國」(これより伊予国)と刻まれた石碑が建っていました。明治時代のもののようです。さらに東に進むと、38番金剛福寺の石仏があり、少し開けた場所から南方面に瀬戸内海が少し望めました。そこで行き止まりだったので引き返しました。
36弥高山八十八カ所
子安地蔵尊
分岐を右折し、落ち葉道を北東に進みました。橋を渡ってすぐに大きな石仏がありました。よく見ると、左腕に子どもを抱えています。周辺は幅数十cm程の小さなせせらぎが、やさしい音を立てており、癒されます。
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36弥高山八十八カ所
子安地蔵尊
分岐を右折し、落ち葉道を北東に進みました。橋を渡ってすぐに大きな石仏がありました。よく見ると、左腕に子どもを抱えています。周辺は幅数十cm程の小さなせせらぎが、やさしい音を立てており、癒されます。
37弥高山八十八カ所石仏
台座の石碑には「佛界」という文字が彫られていました。周辺には石段や低い石垣が残っており、かつて小さなお寺があったように思えます。細道を通り竹林を抜けてアスファルト道に出ました。
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37弥高山八十八カ所石仏
台座の石碑には「佛界」という文字が彫られていました。周辺には石段や低い石垣が残っており、かつて小さなお寺があったように思えます。細道を通り竹林を抜けてアスファルト道に出ました。
38弥高山八十八カ所
33番雪蹊寺
雪蹊寺は四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院です。また、南学発祥の道場といわれ、江戸初期の住職、天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍しました。いったん遍路道から離れて大正池の西側を通るアスファルト道を北上します。
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38弥高山八十八カ所
33番雪蹊寺
雪蹊寺は四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院です。また、南学発祥の道場といわれ、江戸初期の住職、天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍しました。いったん遍路道から離れて大正池の西側を通るアスファルト道を北上します。
39道竜大権現拝殿&磐座
すぐ側に幅30cm程の沢が流れ、磐座(いわくら)らしき岩が背後にありました。詳細は不明ですが、水の神様を祀っているのでしょうか。
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39道竜大権現拝殿&磐座
すぐ側に幅30cm程の沢が流れ、磐座(いわくら)らしき岩が背後にありました。詳細は不明ですが、水の神様を祀っているのでしょうか。
40道竜大権現赤い岩盤の沢
見ての通り、鉄分が多く含まれており岩盤が真っ赤です。近くに金山という山名があるなど、鉄山が多いのでしょう。動画も撮りました。
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40道竜大権現赤い岩盤の沢
見ての通り、鉄分が多く含まれており岩盤が真っ赤です。近くに金山という山名があるなど、鉄山が多いのでしょう。動画も撮りました。
41道竜大権現本殿&ミニ鳥居
とても小さい鳥居が6つ並んでいました。少しほっこりとさせられるシーンでした。
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41道竜大権現本殿&ミニ鳥居
とても小さい鳥居が6つ並んでいました。少しほっこりとさせられるシーンでした。
42白梅に埋もれるメジロ
メジロが我々の存在に気が付き、微妙に木の枝や梅の花に隠れながら、吸蜜しているようでした。写真真ん中より上部にかすかに写っています。動画も撮りました。しばらく粘りましたが、これ以上は無理でした。
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42白梅に埋もれるメジロ
メジロが我々の存在に気が付き、微妙に木の枝や梅の花に隠れながら、吸蜜しているようでした。写真真ん中より上部にかすかに写っています。動画も撮りました。しばらく粘りましたが、これ以上は無理でした。
43白梅ズーム
行く先々で梅の花が見られました。今日は花見も堪能できました。コンクリート道から土道に入り弥高山頂上三角点<写真44>に北からアプローチすることにしました。
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43白梅ズーム
行く先々で梅の花が見られました。今日は花見も堪能できました。コンクリート道から土道に入り弥高山頂上三角点<写真44>に北からアプローチすることにしました。
44弥高山頂上三角点
私有地の中にあるのか、近くに来るにつれ、道がよくわからなくなり、斜面を上がったり、私有地らしき道の中を歩いたりし、やっとのことで見つけました。写真に写っているオブジェが目印です。このすぐ東には土道があり、コンクリート道からアスファルト道に出られました。遍路道に戻りましたが、ここからはいくつか脇道をスルーしてショートカットし、アスファルト道を進みました。
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44弥高山頂上三角点
私有地の中にあるのか、近くに来るにつれ、道がよくわからなくなり、斜面を上がったり、私有地らしき道の中を歩いたりし、やっとのことで見つけました。写真に写っているオブジェが目印です。このすぐ東には土道があり、コンクリート道からアスファルト道に出られました。遍路道に戻りましたが、ここからはいくつか脇道をスルーしてショートカットし、アスファルト道を進みました。
45弥高山八十八カ所
65番三角寺
三角寺は小林一茶が寛政7年(1795年)に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠まれただけあって、樹齢300〜400年の桜が爛漫となる名所です。「従是讃岐国」(これより讃岐国)と刻まれた石碑が建っていました。
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45弥高山八十八カ所
65番三角寺
三角寺は小林一茶が寛政7年(1795年)に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠まれただけあって、樹齢300〜400年の桜が爛漫となる名所です。「従是讃岐国」(これより讃岐国)と刻まれた石碑が建っていました。
46白梅&菜の花
そろそろ、菜の花が見られるようになりました。特にここは菜の花がたくさん咲いており、梅の花とのコントラストがきれいでした。61番香園寺の石仏から土道を上りましたが、すぐにアスファルト道に合流しました。再び土道に入り西へ向かいます。
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46白梅&菜の花
そろそろ、菜の花が見られるようになりました。特にここは菜の花がたくさん咲いており、梅の花とのコントラストがきれいでした。61番香園寺の石仏から土道を上りましたが、すぐにアスファルト道に合流しました。再び土道に入り西へ向かいます。
47弥高山八十八カ所
59番国分寺
国分寺は天平13年(741年)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したといわれています。その後、藤原純友の乱や源平合戦など相次ぐ罹災で4度消失し、再建されました。
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47弥高山八十八カ所
59番国分寺
国分寺は天平13年(741年)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したといわれています。その後、藤原純友の乱や源平合戦など相次ぐ罹災で4度消失し、再建されました。
48弥高山八十八カ所岩場より
猿掛山
国分寺横が展望岩となっており、最初に辿った猿掛山<写真20>が目の前に見えました。動画も撮りました。
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48弥高山八十八カ所岩場より
猿掛山
国分寺横が展望岩となっており、最初に辿った猿掛山<写真20>が目の前に見えました。動画も撮りました。
49弥高山八十八カ所岩場
岩場の上は簡単に立つことができ、展望のみならず、隠れた休憩スポットとしても利用できます。ここで行き止まりだったので引き返しました。この西側にある地形図上の破線の道に入りたかったのですが、気づかずスルーしてしまいました。アスファルト道に出てすぐのところでGPSの電池を交換しました。南下し、「右五十三番」の道標石に従って土道に入り、竹林を歩きます。
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49弥高山八十八カ所岩場
岩場の上は簡単に立つことができ、展望のみならず、隠れた休憩スポットとしても利用できます。ここで行き止まりだったので引き返しました。この西側にある地形図上の破線の道に入りたかったのですが、気づかずスルーしてしまいました。アスファルト道に出てすぐのところでGPSの電池を交換しました。南下し、「右五十三番」の道標石に従って土道に入り、竹林を歩きます。
50弥高山八十八カ所
53番円明寺
円明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されています。キリシタン禁制の時代、この地方には信者が多くいて、寺では隠れ信者の礼拝を黙認していたようです。
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50弥高山八十八カ所
53番円明寺
円明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されています。キリシタン禁制の時代、この地方には信者が多くいて、寺では隠れ信者の礼拝を黙認していたようです。
51弥高山八十八カ所石仏群
円明寺前に並んでいた石仏群です。背景の竹藪の前に並ぶロケーションが絵になっていました。きれいな土道をどんどん北西に進み、猿掛城跡堀切<写真22>の南北のロープ場を通り、猿掛城跡六の丸跡<写真14>を過ぎてすぐの分岐から小石が転がった落ち葉道を真備(まび)町側に下りました。アスファルト道に出る直前の分岐で左に行ったため、真備町の登山口よりも少し西に出たようです。
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51弥高山八十八カ所石仏群
円明寺前に並んでいた石仏群です。背景の竹藪の前に並ぶロケーションが絵になっていました。きれいな土道をどんどん北西に進み、猿掛城跡堀切<写真22>の南北のロープ場を通り、猿掛城跡六の丸跡<写真14>を過ぎてすぐの分岐から小石が転がった落ち葉道を真備(まび)町側に下りました。アスファルト道に出る直前の分岐で左に行ったため、真備町の登山口よりも少し西に出たようです。
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