那須
- GPS
- 07:20
- 距離
- 11.5km
- 登り
- 915m
- 下り
- 915m
コースタイム
天候 | 快晴〜ガス |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2011年09月の天気図 |
アクセス |
写真
感想
(この日の記録が雑誌「岳人」2012・1号の応募紀行に採用されました)
グレートサミッツ国内編 NO,0
那須日光火山群
那須岳、四十年振りの再訪
夜中に高速のパーキングで仮眠して、明け方に現地に到着するという入山方法は、高速代を節約(深夜割引)するためと、直前の好天予報を逃さないためだ。ところがこの日は小雨が降っていた。しかも濃霧で山道の運転さえおぼつかない。〈明るくなったら登らずに帰ろう〉意気消沈して、また仮眠した。
夜が明けて目を覚ますと、不思議なことに上空は快晴になっていた。下界は雲海が広がっている。西から台風が来ているのに、寒気団の高気圧が強いから、こんな奇妙な天気になっているそうだ。夏山の天気などはすべて知っているつもりだったが、知らないことはまだまだ多過ぎる。
那須の茶臼岳に登ろうとしている。二度目だ。前回はかれこれ四十年前にことになる。小学生の林間学校で、みんなと一緒に登山したはずだ。けれど宿泊した温泉宿で幽霊騒ぎを起こしたことと、登頂の帰りに三斗小屋温泉に寄って疲れ果てたこと、覚えているのはそれくらいだ。でもいい経験だったと思う。その後この山は深田久弥さんの百名山の一つだということを知る。三斗小屋温泉は秘湯ブームの代名詞のような温泉にもなった。登り口の県営駐車場は、標高千四百辰鯆兇┐董⊂綛眞呂砲盪た涼しいところであり、今日のように雲海の上空でもあること。
私はこのおぼろげな記憶を、その後何度再確認したことか。〈子供のときに、あんな素敵な登山をしたんだぞ〉。今日は当時の記憶をもう一度確かめるために再訪した、正夢のような登山になった。
駐車場から登り始めて、ほんの一時間足らずで主稜線(峰の茶屋)に登れる名山など、他にどこかあるだろうか。物足りなさを感じる近さは、山全体が高原状ですでに標高が高い。蓼科高原や八ヶ岳のようだ。思い出した。このわずかな距離にも関わらず、三月にきた時には強風で何もできなかったことがある。
「峰の茶屋の強風は、世界的にも有名なものなのです」
全くの作り話なのだが、真に受けていた。
高校時代の部活で登山を始めたが、下界では間もなく桜が咲こうという時期でも、ここには雪洞が掘れる吹き溜まりがあり、峰の茶屋は地吹雪で辿りつくことさえできない。その断念の理由は自分たちの経験不足だと勘違いする。今でも全く変わらないガラガラした火山岩の道を、とぼとぼと戻っただけ。当時の顧問は、撤退する口実を強風のせいにしたのだが、いや裏返せば勇気ある敗退だった。
ところが今日は正反対に残暑厳しい九月。でも峠付近だけはやはり肌寒い。どうしてここだけは風が強いのだろうか。鞍部は風の通り道になっているとは言うが、明確な理由とは思えない。――峰の茶屋付近は、慣例的に強風が吹くと覚えておこう。
その峠(標高千七百)に登りつくずっと手前から、登山道は森林限界を超えていた。巨木はあっという間に無くなって、笹っ原になったかと思うと、すぐにガラ場になった。部分的にハイマツさえ生えている。
「風が涼しくて、景色がいいね」
と誰もが口にはするのだが、当時の小学生にとっても楽しい登行だったはずである。真夏なのに虫に刺されない。うっとうしい森林がない。見晴らしがいい。
どうして那須は、森林限界がこんなにも低いのか。溶岩流がすべての森林を焼き尽くしたなんて、冗談か本気か。火山特有の地形の不思議は、そこを歩いた者でなければ分からない。有史以前の何万年前に、噴火はすべての立木を押し流して、このあっさりした地形を作り出した。その風景は登山者の意欲を掻き立てる。
どこの山へ行っても、昭和の伐採と杉植林が多いのには、ほとほと気が滅入る。比べて原生林の山はいいのだが、ここより千辰睇弦發高いのに樹林地帯を抜けられない山もまた憂鬱なものだ。那須はそのどちらにも勝るだろうか。
北側斜面から頂上に向かうと、轟音が響いて噴煙が上がっていた。地肌は硫黄で黄色く変色している。間違いなく活火山である。
〈噴煙地帯は長居しないで下さい〉
と注意書きがある。
日本列島はこんな山が延々とつながっているのだ。温泉ブームは衰えることなく、日帰り温泉は各地にある。東日本の震災は不幸な出来事だったが、しかし火山列島である。浅間山が噴火したときに、東京の我が家にも火山灰が少し積もったことがあった。三宅島も噴火で被災した。そういう山に、私は当時も今も登っているのである。
間もなく頂上に出たが、鳥居があることも那須神社があることも、覚えがない。ただロープウェーへの下山標識を見たときに、〈僕はロープウェーを使わずに、自力で登頂したなあ〉と思い出す。
僕たちは小学時代のこの登山が少し自慢だった。中学に進学したときに、
「小学生で二千探蕕療仍海鬚靴燭鵑世茲諭
と吹聴したら、理屈っぽい同級生に、
「千九百辰了海蓮∪薛探蕕了海班集修靴堂爾気ぁ
茶臼岳は一九一五辰任△襦
登山とは運動能力の優劣よりも、偏差値や屁理屈を持ち出して登る者がいる。よく言えば豊富な趣味や知性だ。今の私にしても老いても現役登山者なのだから、体力よりも知力が優先すると思いたくなる。いやそれこそが登山の根底にあるのだろう。
結婚して登山から離れていた時期に、二人の子供が雪遊びをしたいと言い出して、手短な那須を思い出した。小学生時代の宿舎だった懐かしいはずの大丸温泉に泊ったものだが、このときは山を見上げることさえしなくなった。それよりも雪道でFR車のスタッドレスタイヤの食い付きがいいとか悪いとか、興味は全く別の方にあった。いつ見上げても、観光用のロープウェーが目立つ山に、嫌悪感さえもあった。皇室の避暑地であり登山基地であることも、自分には不向きと思える。ただ子供にちょうどいい程度の積雪だし、それは太平洋側の山だからね、と。
さらに時間が経って、子供二人はとうに成人して実家を離れた。以降私は雪の季節に山スキーばかりしているが、那須のすぐ北側の甲子温泉の麓を、弾丸のトンネル道路が開通して、只見の豪雪地帯にも簡単に入れるようになった。その道路を行き来していたある日、那須に寄り道したわけだ。茶臼岳の岩稜火山に雪が被って夕日に怪しく光っていた。それが昨年のことだった。
〈地吹雪にあっさり撤退させられた遠いあの日と、さらに遠い子供の頃にみんなで騒ぎながら登った淡い記憶〉
登山口の峠の茶屋から茶臼岳まではほんの二時間ほどだった。たったこれだけの登行に、私の登山人生の大半が集約されているような気になっていた。歩きながらずーっとぼんやり考えていた。遠い登山の記憶があることは、私の人生も幸せだったからだろうか。地吹雪の日には撤退して、澄み渡った快晴の日に登ればいい。子連れが足かせで登れなかったのならば、次には一人でぶらっとくればいい。いいと思ったときがダメで、ダメだと思ったときがいい日になることもある。次の登山もまた、それを繰り返していくさ。
この日有り余る時間と雲海上空の好天に、多くのハイカーと一緒にさらに三本槍まで往復して下山した。遠い記憶が、手の届く身近な所へ降りてきたような幸せな気がした。
(従前の記録)
明け方は雨とガス。天気予報にも無視されて、明るくなって雨なら帰ろうと思っていたが、なんと快晴。台風が停滞して、天気がおかしいが、よかった。
一般道で茶臼に登る。小学生の時に登ったはずだが覚えていない。噴煙が上がっている。峰の茶屋まで戻って朝日岳に行く。さらに三本槍。どんなにとがった山かと思ったが、平ヶ岳より平らで驚いた。なぜ槍? きた道を戻る。
県営駐車場は行楽で大混雑していた。
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