記録ID: 21368
全員に公開
積雪期ピークハント/縦走
日高山脈
ペテガリ岳、ルベツネ岳、ヤオロマップ岳、コイカクシュサツナイ岳、1839峰
1988年12月28日(水) ~
1989年01月08日(日)


- GPS
- 272:00
- 距離
- 41.2km
- 登り
- 2,776m
- 下り
- 2,793m
コースタイム
12月28日快晴:静内(6:30)→ペテガリ山荘(タクシー16960円)(8:30-9:05)→西尾根標高1290C1(14:30)
12月29日ガス後晴れ:C1(6:30)→コル(8:30)→ペテガリ岳(10:40)山頂にイグルーC2
12月30日晴れ時々ガス:停滞C2=C3イグルー補強工事
12月31日雪風:停滞C3=C4夕方低気圧直撃
1月1日快晴:イグルーC4(6:40)→ルベツネ岳(9:10)→1599(13:20)→1599西のコルC5(14:00)
1月2日雪やや風:停滞C5=C6弱い低気圧通過
1月3日快晴無風ー16度:C6(6:30)→1569(8:00)→ヤオロマップ岳(10:00ー10:35)→コイカク(12:50)イグルーC7
1月4日雪風:視界悪しー16度:停滞C7=C8
1月5日ガス風ー15度:停滞C8=C9
1月6日晴れ地吹雪:ー6度:C9(5:45)→ヤオロマップ(7:00)→1839峰(9:20ー30)→コイカクC9=C10イグルー(12:50)
1月7日晴れ風:コイカクC10イグルー(8:50)→尾根末端(10:30ー11:00)→札内ヒュッテC11(13:40)
1月8日晴れ:札内ヒュッテC11(8:30)→トッタベツ林道ヒッチハイク(9:30)
12月29日ガス後晴れ:C1(6:30)→コル(8:30)→ペテガリ岳(10:40)山頂にイグルーC2
12月30日晴れ時々ガス:停滞C2=C3イグルー補強工事
12月31日雪風:停滞C3=C4夕方低気圧直撃
1月1日快晴:イグルーC4(6:40)→ルベツネ岳(9:10)→1599(13:20)→1599西のコルC5(14:00)
1月2日雪やや風:停滞C5=C6弱い低気圧通過
1月3日快晴無風ー16度:C6(6:30)→1569(8:00)→ヤオロマップ岳(10:00ー10:35)→コイカク(12:50)イグルーC7
1月4日雪風:視界悪しー16度:停滞C7=C8
1月5日ガス風ー15度:停滞C8=C9
1月6日晴れ地吹雪:ー6度:C9(5:45)→ヤオロマップ(7:00)→1839峰(9:20ー30)→コイカクC9=C10イグルー(12:50)
1月7日晴れ風:コイカクC10イグルー(8:50)→尾根末端(10:30ー11:00)→札内ヒュッテC11(13:40)
1月8日晴れ:札内ヒュッテC11(8:30)→トッタベツ林道ヒッチハイク(9:30)
アクセス | |
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コース状況/ 危険箇所等 |
5年目3年生同士のたいぞうと組んで、最強の2年班で中部日高の計画を作ろうと言うことになった。一方、5年目4年生同志の岩瀬とじじいが組んで山岳部では久しぶりの正月の剣岳パーティーを作った。そういうわけでこの年の5年目は二年班を二つも作った。この他にも三年目がリーダスタッフの二年班もあり、活況の冬だ。 冬のペテガリは山岳部員の憧れだ。だがペテガリから北、コイカクシュサツナイまでの稜線は日高でもっとも奥深く、エスケープの無い2日間を過ごさなければならない。逃げ道のない場所に冬テントで泊まる計画は、1979年の知床遭難でテントを潰され3人が疲労凍死した事故以来、山岳部では10年間避けられてきた。だがそんな場所はいくらでも在る。避けていては、マンネリの山行から出ることはできない。結局この冬、リーダー二人の豊富な日高経験と、準備山行のがんばりで、久しぶりにペテガリ〜コイカクの計画を検討会で通した。だが、山行の貫徹は、計画ではまったく予期しなかった新兵器、イグルーによって成功した。これを機会に僕は、積雪期の山行にイグルーを欠かさないようになった。僕にとっては大転換の山行になった。 年の暮れに静内駅で眠ってから入山。ラッキーなことに林道には雪がなく、タクシーはペテガリ山荘に横付け。長大な西尾根のラッセルのためスキーを用意したが尾根取り付きで使わずに早くも捨てる。ツボ足のほうが軽くて楽だ。しかもトレースあり。中ノ岳がカッコ良く見える標高点1290の上で冬天を張る。快晴、運は良さそうだ。 翌朝、一番でトレースの主、弘前大の連中とすれちがう。ペテガリ往復で帰るそうだ。最後のコルからひたすら登り、南隣の中ノ岳の高さをいつしか越えて、ピークに躍り出る。今夜は天気が良いはずなので、ここまであがってきて翌日ののっこしの様子を伺う。ここに冬天を張る予定だが、ためしにイグルーを作ってみようという事になった。そうはいっても積雪は寂しく、ところどころ地面が露出していた。だがザックを降ろしてあたりを探せば、吹き溜まりにはけっこう雪がある。表面がクラストしていて、ブロックにして切り出すとそのまま使える雪もある。39を見ながら時間をかけて、けっこう大きく広々としたものが出来上がった。恐る恐る一晩寝てみると、透き間風が寒くて大変寒い目にあった。 しかしこの夜はディックがワインまで運び上げてきた、チーズフォンデユーというスイス料理に、初のイグルー泊まりを祝う。次の1955ピークでの天場がいわゆる逃げ場のない問題の天場だ。だから低気圧を迎えて閉じこめられないように、2日先まで天気が良いと見込んで出発する方針だ。このため翌日、日中は晴れているのにこのペテガリピークで停滞した。そしてその夜はここで低気圧を迎え撃つ事になるので、イグルーの壁を二重に補強した。これで透き間風はおろか、嵐の音も聞こえないほど、がんじょうな要塞になった。安心なのだがその代わり、炊事をするとその熱がこもって天井のでこぼこから一晩中しずくがぼたぼた垂れてびしょ濡れになった。結局イグルーの穴はふさぎすぎず開けすぎずにしておくのが正解なのだが、それが分かるのはもっと経験を積んでからだ。 日高で2日連続の晴天をこの時期に望むのは、現実的ではない。イグルーという無敵に近いテントを手に入れた今、1599での停滞を恐れるのはナンセンスだ。進めるときに前進し、嵐の時にはイグルーの中で低気圧の通過を待つ。その作戦で十分行ける。風の強い寒い朝、年越し三泊したイグルーを後に、カールの縁を歩きだす。いよいよ主稜線だ。Bカールの上では雪稜がとんがり帽子になっていた。 イグルーを使って、テントでは不安な白い地帯を粘りながら進むという革命的山行はこうして始まった。始めは予定になく、次第に手探りで。回数を重ね、イグルー作りもうまくなっていった。ペテガリは、イグルーを教えてくれた記念すべき山だ。 Cカール上のトンガリ帽子雪庇をスタコラと越えて、いよいよ日は高く登り、行く手の39峰をギラギラと照らしだす。6月には一面のハイマツだった緩斜面は、強風のためにガリンゴリンに凍り付きクラストしていた。ルベツネ岳の最高点から1599への下り口が鋭いナイフリッジになっていて、バランスを崩せない所だ。トップの切るバックステップもアンザイレン無しで通過する。1599の手前のピークを巻いて下降し始めるあたりから「これぞ日高」のズボズボラッセル。カンバの枝がザックにからんでうるせえ。1599に這い上がると、海草の絡まる海から岩樵にやっと飛び乗った気分。ここは晴れ晴れとしたピークだ。 ヤオロマップへの途上でイグルー天場を作る。ここはペテガリ山頂とは違い吹きだまりのため深い雪。天井の滴に懲りたので、でかいイグルーを作って中にテントを張ってはどうかという事になった。確かに完璧なのだが構築するのに時間がかかる。幅は広くない稜線だ。そぎ落ちる斜面は歴船川とサッシビチャリへの奈落だ。逃げ場のないこの天場だが、低気圧を迎え撃つのに心強いイグルーがある。2日目は停滞し、イグルーの補強に専念していたが、専念している間に低気圧は真上を通って行ってしまったようだ。たいした低気圧ではなかったようだ。ここから見上げるヤオロマップは、ヤオロマップ川の盟主にふさわしい、堂々たる風格を持っている。 翌日は朝日に輝くヤオロマップに登っていった。僕たちが最低コルのあたりを歩いていると、ちょうどヤオロマップの山頂付近を石橋たちのパーティーの3人が39にむかって歩いているのが見えた。コールが届き、たがいを確認する。虹の様に色を変えるガスの上に聳えたつヤオロマップ。この山はここから眺めるのが一番美しい。ヤオロマップ川の方に張りだした雪庇に気を付けながら、切れ落ちた稜線を階段のように登っていった。途中、とんがり帽子のように発達した雪稜が現われたが。跨ぐようにしてこれを越え、山頂にたどり着く。ルベツネを過ぎてからここまでの稜線は、中部日高の主稜線の中でも低いため、やっと穴の中からはいずりあがってきたような感じがする。その解放感。行く手の札内川源流の山々に視線は釘付けになった。 ヤオロマップの名は、高校生の頃写真集で知った。そのひびきの良さに加え、日高の襞のついた白く細い稜線の写真の、異国情緒にしびれた。高校生に感動を伝えるような写真を撮れたらいいと今になって思う事がある。ヤオロマップからコイカクまではひとっ飛びだ。コイカクの山頂に三つ目のイグルーを作る。ここは明瞭な尾根を下れば樹林帯に至る、もはや「閉じこめられる天場」ではない。中部日高の主稜線を、何はともあれ超えてきた。戻る格好で39峰のアタックを残すのみだ。 中部日高の主脈に足を踏み入れるのは長年山岳部ではなかった計画で、このところの遭難続きのレベルダウンからの脱却を示唆していた。力強い2年班で冬の日高の経験を積むことが出来なかった僕自身にとってもこれは夢の山行だった。勝因は、イグルーだ。暫く忘れ去られてきたイグルーを積極的に利用した。そもそもイグルーは北大山岳部の先達が1943年のペテガリ岳厳冬季初登の時にもこの同じコイカクのピークに作り、ここから往復17時間のラッシュアタックをかけた記録がある。 コイカク山頂のイグルーも中に冬テントを張って、39アタックの機会を待つ。3日間、ナナシ沢から立っていられないほどの風が吹き続けた。イグルーはじっと待てばよい。強風は全く応えない。これがテントなら根負けだ。4日目になってやっと行動可能な天候が巡ってきた。気長に待っていた我々もムックリと起き出で、朝焼けを予感させる群青色の空の下、アイゼンを付け始めた。凍りついた雪面に小便を放っていると、天皇危篤のためディックが冗談で持ってきていた特大の日の丸が、嵐でとんでどこかへ行ってしまっていた。ラジオからは皇居周辺が慌わただしいとのラジオニュース。ああ、昭和時代もいよいよか、などと話して39アタックに出発する。 ヤオロマップを越えたあたりで朝日が鋭角に尖った39を金の色に染める。僕は盛んにシャッターを切った。この山は自分の使いなれたオリムパスが故障していてディックにかりたペンタクスだった。後から気がついたのだが、フィルムの装填をしくじっていて、巻き上げがすべて空回りしていた。ヤオロマップの頂上で、入れ替えたときに地吹雪だったので焦っていたのだ。だからこの冬の39アタックの写真は無い。だが失われただけにその一枚一枚の構図や色合いが記憶の中に焼きついている。たいぞうがトップで細い雪稜を腰まで潜ってラッセルして進んでいくディックと三瓶がその後に続く。前衛峰への細く急な登りは、日高有数の難所であるが、それを楽しむ余裕が僕たちにはある。次第に国境稜線から離れて行くため、23峰や、カムエクが大鷲の羽根を広げるが如く、白い三角を美しく伸ばし始める。両側に出る、判断の難しい雪庇をぬって至る山頂はあの尖った姿にふさわしく、狭かった。夏でさえ、そう簡単に人を登らせないこのピークは、気品があって素晴らしい。 誰もいないピークに一番乗りで駆け上がるのが好きだ。仲間がのぼってくるまでの時間、ピークと僕との対話がある。息を切らした僕をピークが迎えてくれる。その静かな時間を39でも暫し味わった。夕張、羊蹄山、トムラウシ、ニペソツが見えた。最後に登ってきたたいぞうが、「おれが昭和最後の39登頂者だぜ!」。 名前も満足についていないこの山が、中部日高の最高峰で、しかも最も美しい山だ。その名前もつかない迂闊さが、北海道らしい。高さの起伏の少ない日高山脈の写真は、素人目に見ると、どれがどの山なのか判らない。だがそんなときにはこの山が一番の目印になる。主稜線から離れているため目立ちやすい上に、その前衛峰を従えた姿は秀逸だ。北のナナシ沢、南のサッシピチャリ沢共に深く直上している姿が素晴らしい。 帰り道はニセヤオロマップあたりから猛烈な強風が吹き始め、身体を傾けたままコイカクのイグルーに帰った。ペテガリ以来2週間近く、すべてのピークをふんずけて、満足した我々は翌日札内川へ降りていった。なお4泊したイグルーはちっとも補強しなかったため下山の朝、5日目には、どてっぱらに大穴が開いていた。 コイカク沢の谷間の中から見上げると、今まで見た中で一番美しいコイカクがあった。断崖のように聳えたつ東面は、かつて北大山岳部がペテガリの厳冬季初登頂をめざして、この谷で多くの犠牲者を出したときの、魔の山の面影をチラリと見せた。 |
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