朝里岳-余市岳・奥手稲山〜ヘルベチア・ヒュッテ泊〜〈高校山岳部春山合宿〉
- GPS
- 104:00
- 距離
- 48.0km
- 登り
- 2,706m
- 下り
- 2,760m
コースタイム
【3月27日】ヘルベチア・ヒュッテ-P.930-ヘルベチア・ヒュッテ
【3月28日】ヘルベチア・ヒュッテ3:10-エリコ山(P.1096)-朝里岳-飛行場-1257コル-余市岳山頂-1257コル-飛行場-朝里岳-エリコ山(P.1096)-ヘルベチア・ヒュッテ
【3月29日】ヘルベチア・ヒュッテ(休養日)
【3月30日】ヘルベチア・ヒュッテ-夕日の沢の北の沢-奥手稲山頂上-800m台地-銭函天狗岳山腹-銭函
アクセス |
利用交通機関:
バス
|
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写真
感想
■『余市岳は再び征服された』
ー1976年度SNAC余市三山春合宿隊の記録ー
【序章】
夏の遠征が失敗に終わってからというもの、僕の心は山を離れかけていた。山なんか行きたくなかった。札幌や無意根へ行ったのも惰性だった。だから、冬合宿が中止になったり、風邪で積丹へ行けなくなった時など、正直言ってほっとしたぐらいだったのだ。
しかし、その頃から僕は、まだ解決しなければならない課題がある事を感じていた。そして春休みが近づくにつれてそれは大きくなっていった。“それ”は3月の余市岳だった。去年エリコ山までで断念して以来の僕の念願。よし、今年こそ。
しかし、それは執念というよりは、むしろ義務感に近いものだった。それも、いやいやで、ただ行きさえすればいい、という様な…。どうせ、また失敗さ、という気があったのだ。それでも福井氏の話もあり、小屋番も兼ねてという事でHelvetiaへ向かったのだったが…。
【第一章】
春合宿の初めを飾るにはあまりに不吉な前日からの雪。その降りしきる中、我々2人が桂岡から銭函峠へと出発した時には、すでに9時をまわっていた。
登山口からは、この雪のおかげで、春というのにスキーを着けても膝までのラッセル。なぜか重いザックや練習不足も加わって、展望台まででバテバテだが、雪は降り続くし、後続パーティも来るので、そんなに休むわけにはいかぬ。
後のパーティに追われるようにして来た我々だったが、峠手前で立って休んでいるとき、ついに追いつかれた。ところが彼ら、我々の後ろ30mまで来るとピタリと止まって待っている。スキーウェアを着、NevadaやMarkerの金具で春香へ行くらしい。
こちらも意地になってぢっとしていると、向こうも根負けしたかラッセルを始めたので、ほっとして見ていると、何と20m行ってもう一服している。
仕方なく我々が先に立つと、ついてくる。どこまでもついて来られては、と銭函峠の看板の真前で春香への矢印と反対へ直角に曲がる。
峠からはシールをはずすが全然滑べらない。やがて道がわからなくなり、仕方なく遠回りながら、雪に埋まった沢沿いに進む。細かい起伏の連続に前進もままならず、疲れる。2人とも怠慢に水を持って来ないので喉が乾く。
やっと大合流付近で道に出る。平らにはなったが、ここからはまだまだ長い。途中、橋の下で水にはありつくが、相変らずラッセルはきつい。何度も交代しながら行く。セカンドだと楽なのだが、トップに代わると、途端にへばる。その上、休み休みでないと、とても持たない。いいかげんいやになるが、投げ出す訳にも行かない。いつか着く事を信じて、ただ黙々と一歩ずつ前へ進むしかないのだ。
だんだん暗くなる。すぐ近くに見える送電線は行けども行けども近づかない。いったいいつまで歩けばいいんだ?
もう真暗。やっと夕日の沢を過ぎ、右側の沢を渡った所でいつのまにか後から来た3人のパーティに抜かれる。
道道に出たものの、5人の捜索にもかかわらずHelvetiaはなかなか見つからない。明かりは見えないから小屋番はいないようだ。僕が記憶をもとに(空き地が目印)やっと発見。19時過ぎ、ついに10時間に及ぶ死闘に終止符を打った。
ストーブは石炭になっていた。聞いてはいたが、何と風情がなくまた燃えの悪い事。
3人パーティはE・C・H(北大探検部)で、一人は西高OB。一昨年教生に来たという。そう言われて見れば見覚えがある。
ようやく小屋番、まむしの玉三郎なる人物現る。定山渓から5時間かけて来たとか。
【第二章】
昨日の疲れからか、起きたらもう9時。外は雪がチラチラ。
エリコ山までトレースをつけにE・C・Hが出て行く(中山峠まで縦走するそうだ)。
我々も余市は明日にして白井へ。外はいつのまにか晴れ。まっすぐP.930に取り付いてみるが、湿雪に悩まされP.930で断念。明日が思いやられる。
小屋へ戻ると、小屋番氏はすでにいず、やがてE・C・Hが帰ってくる。明日は何時?との彼らの問いに、古堂すかさず、2時起床・3時立の答え。向こうは3時起床・4時立との事。
午後はスキーの手入れをしながらラジオで大相撲。今日は千秋楽。結びの一番で北の湖が輪島を破って初の全勝優勝。そういや去年の春合宿の時は、優勝決定戦で輪島が旭國をはたき込みで破ったっけ…。
E・C・Hが明日の握飯をにぎる中、我々は早めにシュラフにもぐり込むが、なかなか眠れない。明日は念願の余市。いよいよだと思うと興奮してくる。成功するだろうか?いや、させなくては。失敗したら、今度いつ来られるともわからないのだから…。
【第三章】
不意に目が覚めた。何時だろう?まだ早いに違いない、と寝入ろうとするが、何だか心配になってきて起き上がらずにはいられない。だが古堂にきくとまだ0時10分。
つぎに古堂に叩き起こされたのは、1時50分だった。
朝飯のおじやは、調理時間、“げっぷ”の観点から雑煮に変更。実はない。
3時10分、真暗な中、ヘッドランプをつけて出て行く。寒くはない。涼しくて気持ちいい位だ。小雪が舞う中、平坦な道に黙々とE・C・Hのラッセルをたどる。クラストしていて歩きやすい。星がきれいだ。その広大な世界に比べれば、この暗い大地に取りのこされた、たった2人の人間は何とちっぽけな事か。しかし人間は、全力を出しつくし、自分の短い一生を“全宇宙”と信じて死んで行くしかないのか。
ラッセルは沢へと入って行く。僕のヘッドランプが明るすぎて歩きにくいとかで、尾根の取り付きで古堂とトップを交代。ラッセルの跡はちょっと滑るが、おとといの事を考えれば、やはり猛烈にありがたい。
やがて、後の地平線が気づかぬうちに赤く染まってくる。静かな夜明け。もうヘッドランプはいらない。今は太陽が僕らの行く手を照らし出す。
エリコ山頂直下でトレースは切れる。ここまでずいぶん手間どった。ラッセルに移るが、意外に埋まらない。スキーの表やシールにも銀パラをぬっておいたので、雪もつかない。ここから朝里までは未知のルート。陽が高く昇ってくる。空には雲ひとつない。我々はゆるく左にカーブを描いていく。
朝里岳に近づくと、雪がクラストしてきて全く埋まらない。そして、その実に平らで広い頂上まで来た時、飛行場の向こうに余市岳がポッカリと浮かび上がった。雪煙を上げる偉大な姿。全てを忘れる瞬間。これが見たかったのだ。
あとは余市岳をめざして飛行場を一直線だ。まぶしい。天気に恵まれたものだ。予想外?快適。先日のハードなラッセルなどすっかり忘れて、思わず走り出してしまう。
風が強くなったので、1257のコルでヤッケを着る。頂上付近には雲が広がってきた。急ごう。コルから見上げる尾根は急だ。古堂はシーデポしようと言うが、このまま行ける所まで行くことにする。取り付いてみると案外楽だ。ツボよりは全然いい。ごくゆるくジグを切って行き、上の方は直登する。シールがよく効いて、おもしろい様に高度をかせぐ。
上は雲の中。雪が降っていた。もう頂上は近い。思わず飛ばしたら古堂が遅れたので、ちょっと待って「頂上はどっちだったっけ?」ときけば「忘れた」とそっけない答え。そして「一番高い所でいいべや」。あたり前だ!! たしか右寄りの一番奥だ。左には学芸大の碑がある。
記憶をもとにたどると、ちょっと高い所に出る。雪がガリガリでシールがすべる。ここは頂上ではない。しかし後から来た古堂は「もうここでいい。ここが頂上だ」と主張。僕がもっと先へ進むと、「どこへ行くのよ!!」と怒り出す。それを振り切って進めば、一瞬の太陽に照らし出される白い小さなピラミッド。「頂上だ!!」。古堂も渋々ついてくる。
頂上には三角点の石が頭を出していた。なぜか自分でもわからず、その周りのクラストした雪を何回もストックでつきさす。視界0。ついにやったのだ。見えぬ白井に向ってクタバレをすると、頂上を後にする。帰えりに学芸大の碑の方を回わって行こうとするが、古堂の「危険だからやめれって!!」と舌打ちの前にあっさり断念。
尾根の上からはかかとを固定し、数m回転すると直滑降を試みる。ぐんぐんスピードが上がる。コルからちょっと登ってストップ。振り返る尾根には真直なシュプールがくっきり。ずいぶん高いところから滑ったものだ。
コルでアルパンを食ってP.1290の登りにかかると、こちらへ来るパーティがある。E・C・H?と思って見るが、違う。白井小屋から来たとか。P.1290から飛行場を見わたしてもE・C・Hは見えない。どうしたのだろう?やめたのか?死んだのか?それとも神隠し?などと冗談を言いながら行くと、やがて朝里のあたりに点が二つ三つ。確かに動いている。E・C・Hに違いない。彼らは平らな飛行場のゆるい起伏を浮き沈みしながら近づいてくる。そして真中で出会う。二、三の会話の後、「それじゃ気をつけて」とすれ違う。朝里の頂上から振返ると飛行場のはじに彼らが小さく見えた。
ここからはシールをはずし、斜面も広いので快適にすべろうと思うが、雪質が悪い。スキーがもぐって、その先数十cmの雪がつぎつぎと割れてなだれていく。回転も思うにまかせず、もっぱら滑降。古堂はなかなか降りて来ず、やがて真白になってやってくる。
下までくると、ヘルベチヤから来たらしいキャタピラの跡が、尾根を越えて暴徒(ボート)部コースの方へ消えている。どの上は雪がかたくしまっていてよく滑るので、それをたどっていく。平らになってからはスケーティングでHelvetiaまで行こうとするが、ついに高原橋の次の橋を渡ったところでストップ。そのままザックを降ろしてひっくりかえる。やがて古堂も来て、そこで昼飯。またもやアルパンを食う。
目的は達せられたのだ。午後はノートにいろいろ書いたりして、ぶらぶら。そして、その夜は何やら混沌として...。
【第四章】
目が覚めると気分が悪い。今日は休養日。大湊氏が来る日だ。ようやく昼近くなって起き出し、飯を食ったりしていると、予想よりはるかに早く大湊氏到着。カッターを脱ぎTシャツ姿。外はあったかい様だが、僕は寒気がするぐらいで、ストーブから離れられない。
湊氏の話によると銭函峠の登りは、土が出ていて、スキーを使えなかったとの事。先おとといの事が嘘のようで、うらやましい限り。
午後からはFMホームコンサートでBeethovenのSymphony 5、MendelssohnのViolin Concertoを聞きながら7ブリッジ。狭薄における、古堂の奇跡の大逆転負けが思い出されたが、今回は手がたく最多勝利を飾ったものの、やはり得点では大湊氏に次いで“二位”と手際の悪さを見せた。しかし、その勝ちっぷりは、いかにもずるい物があり、僕はそのずるさの前になすすべもなく完敗。一度も勝てず試合放棄。
夜は歌会。そのうち歌も尽き、ラジオからはJean-Luc Godardの映画“A bout de souffle”(1959)の主題曲がこぼれて来る。やがて、寒くなり、シュラフに入って「お休みなさい」。あしたは帰るのだ。
【第五章】
そうじも終えて、窓を一つ二つとしめていく。だんだん暗くなる室内。さようなら女神さん。今度はいつ来られることか。名残をおしむ一時。外から呼ぶ声にあわてて出る。
昨日までとはうって変わって、どんよりとした空模様。
夕日の沢より一本北の沢から奥手稲をめざす。去年と同じルート。シュプールは右の尾根に。我々はそのまま沢を行く。やがて左の尾根に上がる。
快調、去年ここで湿雪に悩まされて手間どったのが不思議だ。またシュプールに出合い、たどれば左の林に入って行く。頂上を通らず肩を巻くのかと思いきや、すぐ尾根に戻ったので拍子抜け。左に春香が見える。
○時○分、頂上。一瞬、雲の中に手稲の頂上がのぞく。シールをはずし、クタバレをし忘れて出発。銭天を目標に進む。木が多く、初めは、ぶつからない様、恐る恐るキックターンをしたりして行くので遅いが、やがて度胸がついて、木の間をすり抜ける様にノンストップ。しかし古堂は、プルークボーゲンなどをしながら優雅に(のろのろ?)やってくる。
800m台地の登りが終ると、斜面がぱっと開けて大スロープ。ちょっと登り、尾根の左側に出ると、銭天が見える。急な下りを降りて行くと、やがて笹につっ込む。ここで僕のスキーが滑らなくなり、あわや古堂と激突というシーンも。
ここから銭天へと雪ぴの出た尾根を登り、下りは木の間をぬい、下でまっていると、古堂がきた。と、彼の進路に木のつるがある。あっと思う間もなく、ひっかかり、スローVTRの様な感じで何と一回転。スキーははずれてしまった。でも、はずれなきゃどうなったかな?思わず爆笑!!
銭天の東側を行く。スキーが滑らないのをスケーティングでカバー。ルートは段々ひどくなり、かん木が密生していたり、土や石が出てきたり、また「危険」の看板まで出る始末。尾根はやせてくるので、おじけづかない様、考える間もなくどんどん突っ込む。
あとは、ゆるい林間を進めば銭天山荘に出、やがて最終人家。ここには、ジャージを着、卵ケースを持って走っていく人など、奇妙な人物がいて戸惑ったが、スキーをはずし、身体障害者施設「小さな村」を経てしばらく進めば、やがて国道に出たのだった。
【終章】
朝里岳から余市岳を見た時、それは僕の山岳部生活最良の瞬間だった。
僕の山への情熱は甦ったのだ。偉大なる余市岳の魔力!!
(札幌西高山岳部部報「熊笹」19号より)
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