槍ヶ岳【遭難救助で北鎌沢へ】
- GPS
- 56:00
- 距離
- 28.8km
- 登り
- 3,531m
- 下り
- 3,397m
過去天気図(気象庁) | 2002年08月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
写真
感想
友人Yの母親から「息子が山から帰ってこない」という電話をもらった。
「どこの山に行ったんですか?」とお母さんに尋ねても、計画書を家に置いていってなく、ただ北アルプスの縦走というだけで、どのルートかもわからない。
とりあえず、翌日まで連絡を待つことにして、その夜は捜索に同行してくれそうな仲間を当たった。
翌朝になっても、何の連絡もない。異常だ。
夏の北アルプスの稜線では、1日も歩けば必ず公衆電話のある山小屋にたどり着く。帰宅が遅れる連絡ができないわけがない。
もし、稜線からの滑落などの事故が起きたとしても、大混雑の夏山で目撃者がいないというのも考えにくいが、遭難の可能性が濃厚なのは間違いない。
Yさんの家へ行き、まず、お母さんから警察に届けてもらったが、「山では予定が1日や2日延びることはよくあることです」と、真剣にとりあってもらえなかった。
それから、手分けして立ち寄りそうな山小屋に片っ端から電話をかけて消息を追うことにした。
すぐに、8月3日に徳沢園のキャンプ場に泊まっていたことがわかった。しかし、その先の足取りがつかめない。
そうこうしているうち、行程を書いたメモが見つかった。
それには、徳沢〜蝶が岳〜常念岳〜大天井岳〜貧乏沢〜北鎌沢〜北鎌尾根〜槍ヶ岳〜北穂高岳〜奥穂高岳〜西穂高岳〜上高地
という長大な縦走が計画されていた。
普通に歩いて6日間はかかる縦走路で遭難しそうなところといえば、貧乏沢から槍ヶ岳の間そして奥穂高岳から西穂高岳までの稜線だ。
いずれも積雪期には2,3回歩いたことがあるが、夏場がどういう状況になっているかわからない。
すぐに槍穂に詳しい東京在住の仲間、H君に連絡した。そして貧乏沢か北鎌尾根の独標付近での滑落がもっとも可能性が高いという認識で一致した。
奥穂高岳〜西穂高岳の稜線も、一歩間違えば危険だが、槍ヶ岳から奥穂高岳間の山小屋やキャンプサイトに宿泊の記録がないことで、とりあえず除外した。
そして、H君も捜索の協力を快諾してくれた。
すぐにでも現地に飛びたかったが、どうしても急ぐ仕事があり、同僚に代わりにやってもらうにしても、電話で引き継ぐことが困難だったので、翌月曜日の朝、一度職場に顔を出す必要があった。
Yさんの家族も、月曜の午後でないと出発できないということなので、一緒に車で現地へ向かうことにした。
福岡からは、Yさんのお母さんと弟さん、私と登山仲間のYo君の4人。現地で東京からのH君と落ち合うことになった。九州道、中国道、山陽道、東名、中央、長野道と高速を走り豊科警察署に到着したのは、8月13日の朝になっていた。
すぐに、警察署の裏手の会議室に通され、事情を聴かれた。
そして、捜索隊を出してもらうように頼んだが、長大な行程のどこで遭難したか特定できない以上、人員は割けないと断られた。
では、せめてヘリコプターで貧乏沢と北鎌尾根だけでも捜索してくれと依頼したら、すぐに手配してくれ、10時頃にヘリコプターが飛ぶことになった。
警察と長い打ち合わせをしている間に、ヘリコプターからは見つからなかったという連絡が入った。
(しかし、このときの捜索があとで大きな運命を左右する出来事につながるのだが・・・このときは知るよしもない)
正直、絶望感が漂った。警察の協力はこれ以上あまり望めそうもない。かといって、民間のヘリコプターを飛ばすとなると、かなり高額の費用がかかる。
地上からの捜索隊を地元の山岳会などに依頼して編成するのはさらに莫大な費用がかかる。
私、H君、Yo君の3人で地上から探すしか残された道はなかった。
しかし、広大な北アルプスで、ひとりの遭難者を見つけ出すのは、太平洋で小舟を探すようなものだ。
しかも、登山道の近くで遭難したのなら、登山者によってすでに発見されているはずなので、道から離れた広範囲を探す必要がある。
すぐに、一番近い一ノ沢登山口へ向かった。
登山口に着いたのは、すでに昼過ぎになっていた。貧乏沢への下降地点の近くの大天井ヒュッテまでは、8時間はかかる。
ヒュッテに到着したときは、すでにあたりは真っ暗だったが、無理を言って泊めてもらい夕食も作ってもらった。
翌8月14日の朝は日の出前に出発して、夜明けとともに貧乏沢を下りながら捜索を開始した。
枝分かれした小沢や、足を滑らせそうな斜面を丹念にのぞき込み、大声で名前を呼び続けた。
の痕跡も見つけられずに、沢の3/4程下ったところで休憩し、今後の捜索方針を検討することにした。
北鎌尾根は岩稜で見通しがいいので、尾根上から転落した場合、その後通った登山者に発見されないというのは可能性が低い。
生きていたとして、登山ルート上の人に声が届かないはずはない。
したがって、北鎌尾根より、ほかを探した方がいいんじゃないか、という意見がでた。
ここは、遭難者の気持ちになって考える必要がある。
もし、北鎌尾根で大怪我をした場合、どのような行動をとるだろうか。
じっとして、誰かが通りかかるのを待つ、これが正解だろうが、多少なりとも歩けるとしたら、上へ登るより下るほうを選ぶのが心理ではないか。
ならば、貧乏沢を登り返すより、道は悪いが水俣川沿いに湯俣温泉方面へ下山しようとするだろう。
そして、そのルートは(何回も通ったが)、吊り橋や桟道が壊れた箇所が多く、川に転落する危険が多い。
ということで、方針を変更して水俣川沿いを捜索することにした。
すでに時刻は10時近かった。
そのとき、何の気なしに正面にそびえる北鎌尾根のほうを眺めていたHくんが、
「あそこに何か光ってないか?」といいだした。
「どこ?どこ?」
彼の指さす方向を眺めても、何も見えない。
「ほら!独標のピークの真下!」
双眼鏡を取り出して覗いてみると、ようやく銀色に反射する物体が見えた。
双眼鏡でみても、ほんの点にしか見えない。
上空は、雲が強い風に勢いよく流れ、太陽が隠れてしまうとそれも目立たなくなる。
「あれ、銀マット(テントの床に敷く保温、防水のためのマット)じゃない?」
「うん、銀マットを振ってるみたい」
代わる代わる双眼鏡を覗きながら、だんだんそれが遭難者が救助を求めているのに違いない、という気がしてきた。
「よし、あそこに行ってみよう」
と、地図に大体の場所を落としてみたが、手前の支尾根がいくつも重なって見え、正確な場所が特定できない。
最初、独標の真下の斜面に見えたが、どうも、その手前の尾根の上にあるようにも見える。
たぶん、北鎌沢の右俣と左俣の間の尾根じゃないか、ということになり、そこへ向かうことにした。
そこまでは、直線距離にして3勸幣紊△辰拭
そして、県警のヘリコプターにその場所を捜索してもらうために、一番若くて足の速いYo君に、大天井ヒュッテまで空身で走ってもらい、電話で要請してもらうことにした。
残ったH君と私とで、3人分の荷物を背負い、天上沢の出合へと下降し始めた。
すぐに光るものは手前の尾根の陰になって見えなくなった。
振り返ってみると、目撃した地点は貧乏沢で、唯一銀色に光るものが見えるポイントだった。
少し上でも下でも見えない。もし、あれがY君が送る合図だとしたら、あの場所で休憩したことは幸運だった。
天上沢まで下ると、対岸にベースキャンプを設営した。
そこで、ヒュッテで作ってもらったお弁当で腹ごしらえしたあと、救助に必要な装備だけを持って北鎌沢へと急いだ。
北鎌沢の出合には、水俣乗越から降りてきて、これから北鎌沢右俣を登り、北鎌尾根を槍ヶ岳へ向かう登山者に会った。
遭難者がいるかもしれないので、周囲や痕跡に気をつけてもらうことを依頼すると、その人は快く引き受けてくれた。
北鎌沢を少し登ると、右俣と左俣の分岐になる。
右俣は、まっすぐ北鎌尾根に突き上げていて、急傾斜だが特に危険なところはなく、北鎌尾根を目指す一般的なルートになっている。
それに比べ、左俣はSの字に屈折し、上部は急な岩場になっていて困難なルートで、あまり通る人はいない。
H君は、以前、北鎌尾根登はん中に肩を脱臼して、左俣を下降した経験がある。
先ほど光るものが見えた地点へ行くには、左俣を詰めて、途中から右側の尾根へ取り付くのがいいように思えた。左俣に入ると、たくさんの大きな岩が谷を塞いでいた。
岩を乗りこえ滝を登り1時間ほど登った地点で、ようやく右側の尾根に取り付けそうな場所に出た。
左俣の本谷は、雪渓になって大きく左にカーブしている。
そのかなり上部に、ひとりの登山者がゆっくりと後ろ向きに下ってきていた。
「おーい」とコールしても、返事はない。
私とH君は、右側の急な草付きの斜面をよじ登っていった。
尾根に出ても視界は開けず、人が歩いたような痕跡も見つからない。
大声で「おーーい、やまだーーーー」と名前をコールして歩いた。
その時、下の方から
「おおーー」という声が聞こえた(ような気がした)。
耳を澄ますと、確かに声が聞こえる。
H君と私は、走るように斜面を下った。
といっても、急な岩場なので、なかなか思うように進まない。
再び左俣本谷に降り立った。
「おーい、Yかーー?」とコールすると、
「yamatabiー?」と私の名前を呼んできた。
間違いない、Y君だ!
それは、先ほど雪渓の上部にへばりついていた登山者だった。
1時間は経っていたが、全然進んでいない。
「そこを動くなー。今助けに行く!」
アイゼンやピッケルは持ってきていなかったので、壁のようながちがちの雪の斜面を慎重にステップを刻みながらY君のいる場所まで登った。
そこで、ザイルを体に結びつけて、H君はそのまま上部の安定した場所まで登り、肩がらみで確保した。
私は、下からサポートした。
ようやく安全な場所まで降りて、抱き合って喜んだ。
Y君はかなりやつれていて、左膝を中心にかなりケガをしているようだった。
「yamatabiが助けに来てくれると信じていた。夢に出てきたぜ」
「来るのが遅くなって、すまん。よく頑張ったな」
要請したはずの県警のヘリコプターはやって来なかった。
しかたなく、ベースキャンプまで歩いてもらうことにした。
幸い、ケガは骨折などではなく打撲と擦り傷で、腫れも引いてほぼ治りかけていた。
テントの前までたどり着くと、Y君は倒れるように座り込んだ。
そして、安堵のためか照れたように笑った。
Y君は、1つ残っていた弁当を平らげると落ち着いた様子で、次のように遭難時の様子を話し始めた。
8月4日に徳沢園を出発して、長塀尾根を登り始めたが体調が悪く、常念小屋まで行く予定を蝶ヶ岳で切り上げた。
5日は調子がよく、前日の遅れを取り戻して常念岳、大天井岳を越えて、貧乏沢を下り北鎌沢の出合でテントを張った。
そして、問題の6日、夜明け前、まだ真っ暗な中ヘッドランプを付けて北鎌沢を登り始めた。
少し前方には別の登山者が登っていた。
その登山者は、一般ルートの右俣ではなく、左俣へと入っていった。
あとを付くように歩いていたので、知らないうちにY君も左俣へと足を踏み入れてしまった。
周囲が明るくなって、ようやく間違いに気が付いたが、先行者もいるし、登れそうな気がしてそのまま登り続けてしまった。
谷は雪渓となり、しだいに急傾斜になっていく。
雪渓は、ずたずたになっていて、シュルンド(雪渓の下を雪解け水が流れ、雪が陥没した穴)がいたるところで口を開けていた。
隠れたシュルンドを踏み抜いて転落すると命取りになるので、左側の岩場の斜面に逃れた。
そして、岩場を登っているときに、足を滑らせ左膝を強打してしまった。その日はもう歩くのは困難だ、と判断した彼は、岩棚でビバークをした。
翌7日、雪渓まで降りて下山しようとしたが、足の踏ん張りがきかず、雪渓で滑落してしまった。
前日痛めていた足を、さらに悪化させてしまった。
そこで、下山をあきらめて、岩棚の落石を避けられるくぼみでビバークして、登山者が通りかかるのを待つことにした。
季節は真夏なので、寒さに凍えることはない。
しかし、問題は食糧だった。
テント泊だが、軽量化のために基本的に食事は山小屋で食べることにしていたので、
そのとき持っていた食糧は、約1日分、それに飴やチョコレートといった非常食だけだった。
いつ登山者が通りかかるかわからないので、食事は少しずつ大事に食べて、食いつないでいくことにした。
そして、エネルギーを消費しないように、できるだけじっとして体力を温存した。
水は、雨が降ったので、岩を伝う雨水を集めて補給した。
辛抱の日々が続いた。
空腹に耐え、風雨に耐え、痛みに耐えた。
持っていた地図の裏に日記を書きつづって孤独に耐えた。
遭難してから8日目、1機のヘリコプターが貧乏沢の上空にいるのが見えた。
そして、それはだんだん近づいてきた。
赤いジャケットを大きく振り、救助を求めた。
パイロットの顔がわかるくらいまで近づいてきたので、
「助かった!」と思ったが、ヘリコプターはしばらく旋回したあと、遠ざかって行った。
絶望感だけが残った。ただ、足のケガはかなり治っていた。腫れも引いて、なんとか歩けそうになってきた。
こうなったら、自力で下山するしか残された道はない。
食糧も底をついていた。
今度、滑落してケガをしたら、もう助からないだろう。
次の日に下山する決心をして、準備を始めた。
手頃な枝を見つけて、ナイフで先を尖らせ、ピッケルの代わりになるものを作った。
同じく靴のビブラム底のパターンを、アイゼンのように尖らせ、雪に少しでも食い込むようにした。
翌14日(遭難から9日目)、最後の希望を持って、またヘリコプターが来るかもしれないと、合図を送る準備をした。
前日10時ごろ来たので、同じ時刻、今度は光るもので合図をしようと、銀マットを広げて太陽に反射させて待っていた。
その時の反射光を私たちが目撃したわけだが、そのことを知らない山田君は、もうヘリコプターは来ない、とあきらめて下山を始めた。
そして、慎重に雪の斜面をステップを切りながら下っているとき、私たちのコールが聞こえたのだった。
それにしても、Y君の体力や精神力の強さは、すばらしかった。
9日間もほとんど食事もとらず、ひとりでじっとしていたら、私なら衰弱してしまうか、精神に異常をきたすに違いない。
しかし、彼は食事をとると、すっかり回復した様子で快活に笑った。
ベースキャンプで1泊したあと、どのように下山するかが問題だった。
ヘリコプターの要請に行った横田君は、朝になってもベースキャンプに帰って来なかったし、ヘリコプターが来る気配もなかった。
携帯電話は持っていたが、このあたり一帯は通話圏外で、連絡のとりようがなかった。
天上沢からは、水俣川をそのまま下るのが一番近いが、途中危険な場所も多く、徒渉も何度かしなければならない。
あとは、貧乏沢を登り返すか、水俣乗越へ登り槍沢から上高地へ下山するかである。
どのルートをとっても、丸一日歩かなければ登山口には着かない。
Y君にその体力が残されているのか。ケガが悪化しないだろうか。
しかし、朝になるとY君は、
「大丈夫!歩ける」と言った。
「荷物は持たなくていいから」と言っても、
「自分の荷物は自分で持つ」と言う。
Yo君は、昨夜大天井ヒュッテに泊まったに違いないので、合流するため貧乏沢を登り返すことにした。
長く急な登りは、つらいものだった。Yo君の荷物も分担したうえに暑さとの闘いであった。
しかし、Y君と一緒に下山できる喜びが疲れを吹き飛ばした。
貧乏沢を2/3ほど登ったとき、Yo君と合流できた。
彼は、ひとり増えているのを見て、
「え!見つけられたんですか?」と驚いた。
大天井ヒュッテに到着すると、小屋のご主人はじめ、滞在している登山者みんなが拍手で迎えてくれた。
さっそく、電話でY君の弟の携帯電話に連絡をした。
「見つかりました!」と言うと、
なぜか暗い声で
「そうですか・・・」
あとで聞いた話だが、豊科で待機していた家族や職場の上司は、絶望感に支配されていたようだ。
警察との話の中でも、死体が発見されなかったときの死亡認定の手続きなどが話し合われていたらしい。
そんな中での「見つかりました」だったので、てっきり死体が見つかったと勘違いしたようだ。
大天井ヒュッテから表銀座縦走路を燕山荘まで、そこで休憩をして、長い長い合戦尾根を下り、登山口の中房温泉に着いたときは、あたりはもう真っ暗だった。
さすがにクタクタだった。
十分に回復していないY君の方がもっと辛かっただろうが、泣き言一つ言わず、遅れずに歩いている姿には、感服させられた。
登山口には、Y君の弟さんが車で迎えに来てくれていた。
そのまま、豊科のホテルに入り、シャワーを浴びると、Y君の家族が夕食に招待してくれた。
夜も更けていたが、祝杯を挙げごちそうを食べ、美酒に酔いしれた。
翌朝、豊科警察署に報告とお礼に行った。
そこで、警察の報告書作成のために長々と事情を聴取された。
ついで、松本空港にある長野県警航空隊にあいさつに行った。
13日に捜索のためにヘリコプターを出動してくれたことが、翌日私たちが発見するきっかけにもなったわけだ。
なぜその時に発見できなかったかを訊くと、岩稜地帯で低空で捜索するのは困難で、危険も伴うので時間をかけて虱潰しに探すわけにはいかない。
火を焚いて煙で合図をしてくれれば見落とすことはないのだが、という返事だった。
一番いいのは、車に備えてあるような発煙筒を携帯して、ヘリコプターが近づいたら合図することらしい。
松本駅で、長野の親戚にあいさつに行くというY君の家族、そして東京へ帰るH君と別れて、JRで福岡への帰途についた。
最後に、遭難の原因、救出の要因などをまとめてみたい。
遭難の原因を含めて、遭難者のY君には非難されるべき点がいくつかあると思われるので列挙してみる。
|影塙圓任鰐桔鼎箸盪廚┐訥溝腓塀珍計画をたてた。(自信はあったのだろうが)
⇔閏藺陲坊弉莉颪鮹屬い討い覆った。
事前に、非常の場合の救助を誰にも依頼していなかった。
ぅ丱螢─璽轡腑鵐襦璽箸砲發かわらず、装備が貧弱だった。(ロープや簡易アイゼンぐらいは持つべきだった)
ゥ襦璽箸魍稜Г擦困法安易に先行者のあとをついていった。
Ε襦璽抜岼磴い傍い付いた時点で、すぐに引き返さなかった。
結果として、福岡を夕刻に出発して、45時間後には救出に成功した。それも、たったの3人で。
その間、ほとんど無駄な行動はなく、まっすぐ遭難地点に向かったといっても過言ではない。
もちろん、遭難地点が最初から分かっていたわけではない。
分かっていたのは、全長50km近い行程のどこかで、何らかのアクシデントがあったらしい、ということだけだった。
それにもかかわらず、救出に成功した要因としては、いくつかの必然と幸運があった。
.吋をしたあとのY君の行動が冷静だった。ケガが回復するまで、食糧もない中9日間も動かず救出を待つことは、なかなかできるものではない。
Y君の体力、精神力が強靱だった。
私にはY君の技量が分かっていたので、捜索範囲を絞り込むことができた。
3人とも北鎌尾根周辺には何度も入山していて、ルートや地形が分かっていた。
チ案ヘリコプターが来た同時刻に、Y君が反射光の合図を送り、ちょうどその時、それが見える唯一ともいえる場所で休憩したという幸運な偶然。
無事、戻ってきて、最終的には笑い話ですませられたが、遭難を引き起こしたときの家族の悲しみや、周囲への影響を考えると、登山をする人間として、多くの教訓を得た出来事だった。
コメント
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遅いコメですが‼️
素晴らしく的確な救助活動、どんな登頂成功レコより登山する者の参考にになります✨
今度から発煙筒持っていきます‼️(^^)
とにかく無事発見救助出来てホントに良かったですね...♪*゚
お疲れ様でした🙇♂️
ずいぶん前のことですが、久々に思い出しました。
単独でバリエーションルートに行くときは、ぜひ発煙筒を持って行ってください。
ヘリのお世話にはなりたくないですけどね
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