龍門山《関西百名山》
- GPS
- 06:42
- 距離
- 17.4km
- 登り
- 1,104m
- 下り
- 1,099m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2010年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
下山口:JR和歌山線名手駅 |
写真
感想
青春18切符の残り回数丁度の参加者がありロスなしの一人当たり2,300円で交通費を賄えた。JR和歌山線粉川駅に降り立つと、いつも遠路京都に駆けつけるO野さんが今日は一番近く橋本から下り列車で先着していた。準備を整えN田リーダーを先頭に早速出発した。先ずは登山口まで4.2劼麓崙擦鯤發。龍門橋で紀ノ川を渡る処では龍門山を始め今日の縦走する山並みが望め、快晴の空の下、期待が高まる。龍門橋南詰すぐの所には龍門の湯があり車での登山なら利用できそうだが今日は粉川には戻らない。
竜門橋を渡り南に直進し荒見の集落を抜けると傾斜が強くなり、果樹園内の簡易舗装の道となった。地形図と違い、一寸違和感を覚えながらも指導標の指し示す方向に進んで行った。見晴らしの良い道で紀ノ川や対岸の紀泉山脈が随所で視界に入ってきた。1時間程歩き田代ルートの登山口に達すると狭いスペースに車が4台止められていた。しかし今日のルートは中央ルート、谷渡りの林道トラバースで3本の谷を越し漸く中央ルートの登山口に達した。
登山口で早速ミッション1:「明神岩までの所要時間を予想」を行い、高低差300m余り、距離約900mの概ね尾根歩きの条件で予測し、夫々35分から60分の予想タイムが出揃い登山道へと入って行った。登山道には数日前の寒波で降った雪が残っていた。アイゼンを付ける程ではないので急登路を慎重に歩を進めると、「明神岩50m」の指導標が現れた。
明神岩は龍門山の谷に突き出した大岩で北側の紀ノ川越しの展望が素晴らしい。すぐ近くに“風穴”と呼ばれる穴があり傍に林檎や餅などの供え物が置かれていたが一体どういう意味なのだろう? 野生動物の餌になりよろしくない筈だが・・・そしてこの辺りは和歌山県の天然記念物「キイシモツケ」が咲く。5月中旬から6月中旬にかけて咲くバラ科の植物で「紀伊下野」と書く。
地図に従って先の踏み跡を進むと枝が被さり藪漕ぎ状態となってきた。先頭を行くN田Lの判断で引き返し明神岩の手前の分岐に戻った。この間10分くらいのロスが出たが大したことはない。龍門山北西尾根を登り続け稜線に達すると勝神峠(かすかみとうげ)からの道が合流した。女性の姦しい話し声が聞こえてきた、山頂が近いようだ。回り込んで龍門山(756m)山頂に達すると前面に広がる素晴らしい展望が待っていた。そして姦し娘の声の主は中高年の小母ちゃんグループだった。
ミッション1の結果は休止時間を除いて丁度30分。皆の予想時間に達しなかった。いつもの傾向としてどうしても長めの所要時間を予想してしまうようで、一番近かったのはK藤さんの35分だった。時刻も12時を過ぎ、まずは昼食タイムにして雪の斑に残る広場に思い思いに腰を下ろした。最高所に3等三角点「龍門山」があり、ここにも山頂標識が立っていた。
昼食の後はミッション2:「和泉葛城山を山座同定」とミッション3:「燈明岳を山座同定」を行う。いずれも紀泉山脈にあり、紀ノ川を挟んで向かい側にある山だ。和泉葛城山は山頂域まで林道が達し南斜面が草原状になっている。方向が一致し同定成功。一方の燈明岳はその東7卍の処にある南に張り出した山で、奥まったところに電波塔のある三国山から畑山、神野山と連なってきた一番南の山と特定し、ミッションは無事終了した。
今例会のサブタイトルは「南北朝の城跡を訪ねて」になっている。ここ龍門山山頂付近は龍門山城の跡で延文5年(1360年)南朝方の塩屋伊勢守の軍勢3,000余騎が立て篭もり北畠入道道暫の軍勢3万余騎に攻められたと云う「龍門山の戦い」が行われた処だ。この他小飯盛山や飯盛山にも南北朝時代の城跡(砦程度)があったらしい。平らになった山頂部は650年前の土木工事の跡かと想像を掻き立てられた。
山頂を後にし、稜線を東へと縦走すると標高700m地点に案内板に“磁石岩”とある。磁気を帯びた大岩で試しにコンパスを合わせると、あらぬ方向を指し示した。成程強力なものだ。700mの低山ながら先日来の寒波で最大で2冂度の積雪があり、凍結はしていないが足元には注意が必要、鞍部は田代峠(638m)で中央ルート登山口の手前にあった田代ルート登山口から続く道が合流した。田代峠から飯盛山を示す指導標があり「ヤブひどし」と付記されていた。皆藪漕ぎへの“期待” ? を高め登り返して行くがまだ問題は無い。730mの小ピークの北端を掠め鋭角的に北へと折れ曲がった。ここから飯盛山までは地形図にも登山道の表記はない。いよいよ藪かと緊張が走るが至って歩きやすい道が続いていた。
登り返して小飯盛山(652m)に達すると4等三角点「飯盛」が迎えてくれた。傍らの枝に小さな山名プレートが吊るされ“小飯盛山”をアピールしていた。次の神路峰(こうろみね603m)は北側に林道があり一行は巻いて通過してしまいそうになったので、Y本TCは一人で斜面を這い上り立ち寄ることにした。そうするとK藤さんとO崎さんも興味を示し付いて来た。山岳会のモノ好きは私だけではなかったようだ。上空に送電線が通り、鉄塔付近から先を行く一行が伐採地の斜面を行くのを見つけた。「ホ、ホ、ホイ」とコールし手を振りあった。
先を急ぎ飯盛山(746m)の登りに掛ると最後の山は標高差170m程あり登り応えがある。半ばで一行に追いつき山頂に到ると山頂には2等三角点「飯盛山」が置かれているが展望は得られなかった。この山頂も嘗ての飯盛城の跡で小広い平坦な地形が辛うじて痕跡と言えるのだろうか。ここは朝敵とされた北条高時が立て篭もり建武元(1334)年3月楠木正成に攻め滅ぼされた処だ。
今日の縦走はここまで、次の鞍部から麻生津集落へと下る予定だが、明瞭な分岐路の見出せないまま前方に“お城”の姿が見え隠れしてきた。オッと、これは地形図に城跡マークのあるところだ。これは行き過ぎているとY本TCが元来た道を偵察に走るが、道形は有るか無しかで、とても突っ込めるヤブではなかった。こうなれば麻生津峠まで進むしかない。飯盛城の前で暫し休憩し、案内板を見ると史実に基づいた城ではなく、神路原神社(こうろばらじんじゃ)の“親神殿”で要するに宗教施設だ。こからはしっかりした舗装道路で1.7卻發い橡秬個兎修謀った。予定コースより1〜2厖省に歩くことになるが車道歩きで予定時間は大して変わらないだろう。途中4階建てのホテル飯盛山荘の前に差し掛かった。うらぶれて朽ち果てた展望台を見るにつけ、てっきり廃墟かと思っていたが後日iタウンページにしっかりと電話番号も出ていたのでまだ営業していたようでびっくり! 薬湯釜風呂に1,300円で入浴できるとあった。周辺には怪しげな教会や別荘らしき建物の跡が散在している。一軒だけは人がいるようだったが、総じて寂れたリゾート地の様相だった。
麻生津峠には広場があり弘法大師云々の十一面観音が安置された真新しいお堂があり、裏手にはトイレも設置されていた。ここからは名手駅に向けての下り道だが、これは麻生津道と云って紀ノ川沿いの大和街道を分岐して高野山への参詣道である。簡易舗装の狭い道で斜面を直線的に下るので勾配はかなり急だ。由緒ある歴史の道だけあって沿道にはお地蔵さんが沢山祀られている。中には“ハイタ地蔵”なるものもあり「排他」、「入った」など珍説を挙げてみるが「歯痛」が正解のようだった。2.5万図ではかなり入り組んでルートはややこしそうだったが、適所に指導標があり迷うことなく下山させてくれた。
果樹園の見晴らしのいい道で、紀ノ川対岸の紀泉山脈、振り返れば今日歩いてきた稜線、異様に目立つのは、やはり飯盛城とホテル飯盛山荘だった。麻生津橋まで来て“麻生津”が「あそうづ」ではなく「おうつ」と読ませることが分り「それは読めないよ!」、そう云えばこの辺りは難読地名が多い、通ってきた集落“赤沼田”も「あかんた」だし“勝神”も「かすかみ」だった。
麻生津橋を渡るころ時間が微妙になってきた。駅まであと1.2辧∀族了垣の時刻まであと16分だ。ローカル線は1本逃せば後は長い。でも何とか乗れそうだ。国道24号線の信号待ちで伸びきった隊列が纏まって、和歌山線の踏切を渡ろうとする頃、遮断機が閉まり和歌山行きが前を通り過ぎた。ホームは跨線橋を渡らなければならない。諦めかけたが上り電車と行き違いで早く入ってきたようだ。駆け込むように電車に乗り込み反対方向の奥野さんと行き分かれ帰路に着いた。女性陣は帰宅を急ぎ男性陣だけが大阪駅で反省会をして解散した。
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