戸隠山〜高妻山
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- GPS
- 14:40
- 距離
- 15.6km
- 登り
- 1,340m
- 下り
- 1,336m
コースタイム
天候 | 快晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2009年10月の天気図 |
アクセス | |
コース状況/ 危険箇所等 |
長野市街から現地へ行くと、いろは坂みたいな道を通る。 現地には一不動小屋のし尿問題ポスターが貼られていて、どうも山全体が臭い。 戸隠岳の鎖場は緊張する。 高妻稜線の五地蔵山の先、六弥勒山から牧場へ新道が切り開かれて(赤ペンキマーク)、とても下り安いショートカットになっている(正し、牧場からの登り口は分かりずらい、標識なし)。 |
写真
感想
戸隠山の稜線から下を覗き込むと、戸隠神社奥社のトタン屋根が、今日は快晴だから日光に反射してキラキラ光っていた。周囲はまだ紅葉には少し早いと思われるが、ミズナラの広葉樹だろうか、ブナもある、濛々とするほどの豊かな広葉樹に囲まれた奥社は、雪国の神社ならではだと楽しい気分になる。
徳川家が大事にした江戸の名刹は、日光杉並木もそうだが、この奥社に通じる道も、スギ並木にした。実にセンスがないと思うのだが、こんな雪国に人工的なスギ林は、すでにもう幹がすかすかになって、倒壊する時間待ち状態になっている。いつも時代でも、ブナ、ミズナラの広葉樹が、保水豊かな森の木々だと断定したのは実は昭和も遅くなって平成の時代といってよく、過去広葉樹は邪魔者雑木とされてきたのだから、日本人の自然保護感覚はどうしようもなくずれている。
天台宗の寺は、上野の寛永寺とか、日光の寺とか徳川は格式を持って祭ったのだが、長野の善光寺だけは庶民の天台宗の寺として、当時は伊勢参りか、富士山登山の富士講か、牛にひかれて善光寺にいくかが、江戸庶民の生涯の楽しみだった。その当時も戸隠の寺は善光寺の末端寺修験の場として栄えていた。
明治になって、明治政府はインチキ家業を始めたのだが、戸隠の坊主を追っ払って神社にしてしまった。祭るのは明治天皇=神様というわけである。私のクラブの先輩は、昭和10年頃の子供の頃に、埼玉から近所住民の代表に選ばれて、まだ少年年齢なのだが大人に交じって、善光寺を参拝して、さらにこの戸隠の奥社まできて、講(こう・神社の檀家)の札を頂いてきたという。それが埼玉の地元も毎年の行事だったというわけだ。長野市内からこの奥社までくるのは、条件が良ければ日帰りであるいは泊りがけの往復徒歩だったが、標高1200mまでくれば、雷に遭遇したり、台風に遭遇したが、神社に参拝に行くだけなのに、ひどい登山になったと少年の記憶の中にある。天皇制の軍国時代には、神社祭りを国民の義務にしたわけだ。
高妻山の方から戸隠を眺めれば、こんな低くて鬱蒼とした山などは何の興味もあるまい。剱岳から黒部別山を眺めた時と一緒の失望感だけである。しかしまあ、戸隠は東側も開けた土地で、こちらから眺めた岩場は比叡山に匹敵した修験の場だったのだろうと思われる。戸隠のその岩の鎖場をたどると、それは登山というよりも、平安の昔からの坊主の修験を体験したような気分になる。
私が膝の手術する前の思い出の戸隠です。
写真に写っている小屋で、私は膝の痛みに耐えて、稔君は高妻山へ、モースピードで登って来ました。あれから戸隠も行ってません^^
膝は痛くなってからじゃないと、気がつかないみたいです。私もテーピング登山ですが、スピードが誰よりも遅くて、世界一遅くなってやろうと、膝を労わっています。ハムストリングの筋肉付けて、膝痛を克服しましょう。それが人生です。
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