34.黒部五郎岳 「失われた時を求めて」
- GPS
- 32:00
- 距離
- 20.9km
- 登り
- 2,252m
- 下り
- 1,060m
コースタイム
8月14日(二日目):太郎平小屋−北ノ俣岳−黒部五郎岳山頂−黒部五郎小舎−黒部乗越−三俣山荘(小屋泊)
天候 | 一日目:曇り 二日目:雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2008年08月の天気図 |
アクセス | |
コース状況/ 危険箇所等 |
○今回は長丁場になりますので、全て小屋泊としました。 ○太郎坂は急登ですが、三角点から太郎平小屋までは緩やかな山道で歩きやすいです。 ○雨と霧で楽しみにしていた黒部五郎カールは残念ながら観れなかったです。 |
写真
感想
第34座 失われた時を求めて
いよいよ、この日がやって来た! 僕はこの日を期待半分、不安半分で待っていた。その中でも不安な要素のほうが多いのだが・・・・。その不安要素を箇条書きにすると、
○五日間に渡る長期縦走が出来るのか? その上、歩く距離が長い!
○全て山小屋で宿泊とはいえ、担ぐザックが大きく重たい!
○それ以前に、それだけの体力があるのか?
○今年は関東から関西にかけて大雨や落雷があるのだが、天気は大丈夫なのか?
○山小屋でちゃんと睡眠出来るのか?
その反面、好材料を求めるとしたら、
○スポーツジムでほぼ毎日、トレッドミルで10kmの距離を走り、週に3回は膝を鍛えるスクワットなどをしていること。
○今年は剣山、大山、八ヶ岳と登っており、登山の経験は一応積んでいること。
やっぱ、箇条書きで書くと不安要素が多いなぁ〜。
出発する一週間前からパッキングをしたのだが、70リットルのザックは予想以上に大きく重たくなっていた。これがもし、全てテント泊だったら、余計に重たくなるのは明白で、それを考えるとゾッとする思いである。それ以前に出発前日の11日にそのザックと登山靴を会社の更衣室に入れなければならないので、この作業をしなければならないのが、憂鬱であった。
8月12日、仕事が終わった後、その重たいザックを背負ってJR稲沢駅へ向かった。会社からここまで10分ほどかかるのだが、駅に着いた時には大粒の汗が流れていた。普通電車に乗って岐阜までいって、ここで特急しらさぎに乗って北陸本線で富山まで向かうのである。一見、遠回りに思えるが、このルートが結局早く富山に着くのだ。富山駅に着くと、駅前のラーメン屋で遅めの夕食を食べて、富山駅で駅寝をしようと思ったが、富山電鉄のプラットフォームを見たら立山行の電車が停まっていたので、この電車に乗って折立行のバスの乗り場がある有峰口までいくことにした。
この有峰口駅は無人駅で、無人の木造の駅舎があるだけである。外を出ると、バスが二台停まっていた。明日の始発のバスなのであろうと思われる。終電が出て久しいが、駅舎の灯りは灯されたままであった。自動的に灯りが消えるようになっているのか、誰かが来て灯りを消しに来るのか解らないが、取りあえず、駅舎の待合室のベンチを使って駅寝することに決めた。木造のベンチの上にエアマットを膨らませて敷き、シュラフカバーに包まって眠った。誰かが来て咎められるかも知れないと怯えながら・・・・。
意外なことではあるが、こうして駅寝をするのは初体験なのである。野宿を取り扱ったミニコミ誌を読んで、野宿をするのって勇気がいるなぁ〜なんて思ったりもしたが、まさか、僕自身が野宿をすることになろうとは思わなかった。浅く眠っているうちに駅舎の灯りはいつの間にか消えていた。ということは僕の駅寝を認めてくれたのかと勝手に解釈した。そう思ったら安心して再び浅い眠りについた。
結局は3時に起きてしまった。ということで寝ることを諦めて、エアマットとシュラフカバーを畳んでザックの中にしまった。この先、山小屋で寝られるかどうか不安もあったが、取りあえずはバスの中で寝られたら寝ようと思った。やがて、夜の帳が明け、朝を迎えた。そうしたら、とこからともなく、中高年の登山者の団代が次々と駅に向かって来るではないか! その数25人程である。その頃になるとバスの運転手や男の車掌も駅舎の事務室に入り乗車券を販売し始めた。僕も慌てて乗車券を求める行列に加わった。
ともあれ、何とか、バスに座って乗ることが出来た。始発電車を待たずして、座席の8割は登山者で占められた。程なくして富山から来た始発電車が来て、ここで降車した登山者が10人程いたが、満員寸前のバスを見て、
「え、もうこんなに乗っているの?」
というような顔をしていた。彼らはザックを後部座席に押し込め、補助席に座って、何とか全員座ることが出来たみたいである。こうして折立行のバスは出発した。
バスが走っている間、再び眠りについて、目が覚めた時には登山口の折立に着こうとしていた。バスの窓ガラスは曇っていて、時計の高度計を見たら1300メートルは超えていた。道理で窓ガラスも曇る訳だ。7時過ぎにバスは折立に到着した。登山口の折立は登山を始めようとする登山者、既に登山を終えた登山者で賑わっていた。僕はここで改めてパッキングをし直して、ストレッチをした後、8時に折立を出発した。こうして五日間に渡る落ちこぼれで泣き虫勇者の冒険の始まりとなった。
最初は太郎坂と呼ばれる坂を登ることから始まるが、歩き始めて早々に愛知大学遭難の塔があった。これは1963年1月、愛知大学山岳部13人が薬師岳で遭難した事件で、当時としては大量遭難事故として、大きく新聞に報道された。それを慰霊するために、犠牲者の13人にちなみ「十三重の塔」として建てられている。僕はその塔の前で犠牲者の冥福を祈ると共に、僕が安全に登山出来るよう祈り、再び登山道に戻った。
樹林帯のこの坂は、トレーニング不足のためか、大量の汗が噴出して止めどがなかった。その途中に大きなヒノキの木が生えていた。僕はここで休憩することにした。同じ場所で休憩していた中高年の女性登山者は、
「大きいヒノキの木ねぇ〜、(樹齢は)何年生きてきたのだろう?」
とヒノキの木を見上げながらいった。屋久島の縄文杉には遠く及ばないまでも、多くの時を重ねて来たことは間違いない。そして多くの登山者の往来を見守っていたに違いない。
9時45分に三角点ベンチに着いた。僕は時計の高度計の修正した後、しばらく休憩した。ベンチがあるのでたくさんの登山者がここで休憩していた。ここからは森林限界を越え、登山道も遊歩道といっても良い程に緩やかになっていて、気持ちの良い草原を歩いていく。
木道も敷かれていたり、石畳が敷き詰められたりと歩きやすいことこの上なしだった。しかし、ここまでの道を作るのに多くの時間と多くの人が費やされたのは間違いなく、本当に頭が下がる思いである。
12時30分に宿泊地である太郎平小屋に着いた。ここで多くの登山者が昼食を作ったりして休憩していた。僕も今日はここまでだからということで、自炊で昼食を作ることにした。今日はフリーズドライの白飯とレトルトのカレーを使ってカレーライスを作ることになった。レトルト食品は下界でも作り慣れているので、失敗なく出来上がって、小屋でビールを買って、山の上での最初の食事を味わった。食事が済んだところで、太郎平小屋に入って宿泊の手続きを済ませた。
手続きが終わって、スタッフに寝る場所を教えてもらった。八ヶ岳の赤岳天望荘と同じく蚕棚の下段の隅っこが僕の寝る場所だった。一人一畳、使って良いとのことで、盆休みなら一畳に二人、三人で寝ることは覚悟しなければならないと思ったが、思いの外、ゆったりと寝られそうだと思った。この部屋が宿泊する登山者で一杯にならないうちに、ザックからヘットランプや水など、必要なものをスタッフバックに入れて枕元に、パッキングもし直して、着替えて、汗で濡れたトレッキングタイツやアンダーシャツをハンガーに干して、乾燥室に吊るした。汗をボディペーパーで拭いた。五日間も風呂に入れないので、こういう時にボディペーパーを持っていくと重宝するのだ。
全ての準備が終わって、夕食までまだ時間があったので、ビールを買って、談話室で飲みながら、文庫本を読んで夕食の時間が来るのを待った。17時に食事の準備が出来ましたというアナウンスに応じ、食堂へと向かった。山小屋泊の最大のメリットはご飯と味噌汁がお替り自由という点である。僕は調子に乗ってご飯を三杯もお替りした。夕食も済んで、テレビで明日の天気を確認したが、低気圧が富山県周辺を停滞していた。少なくても、明日の天気は良くなさそうだ。とにかく、明日からは長い距離を歩くことになるので、19時頃に寝た。
8月14日、朝食は弁当で頼んであったので、談話室でそれと自炊で春雨スープとホットコーヒーを作って食べた。ちなみに弁当の内容は笹の葉でくるんだおにぎりで、ゴミが少なくなるように工夫されていた。それを平らげた後、夜が明けきらない4時30分に太郎平小屋を後にした。歩いていくうちに、空がだんだん明るくなったが、周囲は霧で包まれており、そのためなのか、モチベーションが上がらなかった。しかし、足元を見るとハクサンイチゲと思われるお花畑の向こうに雪渓が横たわっていた。今のところ、雨が降っていないのが救いであった。
北ノ俣岳を越え、赤木岳を巻いて、いよいよ黒部五郎岳も間近になって来た。霧でルートを見失わないように、慎重に登っていった。お花畑が少なくなって、やがて岩がゴロゴロした登りが始まった。いつになったら山頂の肩に着くのだろうと思いつつ登っていると、9時45分に山頂の肩に着いた。ここには5個程のザックがデポされていた。僕もここでザックをデポして空身で山頂を目指した。ほんの数分で10時5分に2839メートルの黒部五郎岳の山頂に着いた。周囲は霧で何も見えないが、今回登頂する三座のうち一座を登頂出来て、取りあえずは一安心といったところであった。
僕はこの山頂でここまで持って来た中日ドラゴンズの山本昌投手の200勝達成記念の手ぬぐいを広げて記念写真を撮った。8月4日にナゴヤドームでの読売ジャイアンツとの試合で、史上24人目の偉業達成である。その当時の年齢が42歳11ヶ月で、史上最年長での達成と共に、強打者揃いのジャイアンツ相手に完投したのだから、本当に恐れ入る。ここ最近は200勝を目前にしながらも、勝ち星が得られない試合が続いていた。僕も正直いって、200勝を目前にして引退なのかなぁ〜と思っていた。でも彼は諦めずに走り込みを続けた。諦めないで続けた成果は入団24年目にして、やっと大輪の花を咲かせた。余談が長くなったが、僕の日本百名山登頂がこの山で34座目、彼の背番号も34という偶然が重なった。彼が200勝を目前にしてもたついていたのは、ひょっとしたら僕が34座目を登るのを待っていたのかも知れないと思ったが、そんな訳ないよな?
この後はカールルートを選び、取りあえず黒部五郎小舎へ向かった。こんな霧だから、残念ながら黒部カールも見ることが出来なかった。再び樹林帯に入り、12時25分に黒部五郎小舎に着いた。僕はここのベンチを拝借して昼食のラーメンを作って、カロリーメイトと一緒に食べた。食べ終わって、しばらく食休みした後、再び登山を始めた。樹林帯の登り坂を必死に登った。その樹林帯を抜けると再びハクサンイチゲの白いお花畑の間を縫うようにして歩いた。やがて巻道分岐点の道標に着いた。ここから登れば三俣蓮華岳にいけるのだが、この頃になると小雨がぱらつき始めたので、必然的に三俣山荘へいく巻道を選んだ。
この巻道を歩いているうちに、雨が本降りとなった。その上、空からゴロゴロと雷の音が聞こえていた。その途中、岩場で登山道を見失った。僕は何を思ったのか、沢を登山道と勘違いして降りようとしていた。その入口まで来て、ハッと我に返り、岩にペンキの印がしてあるところまで戻った。雨具を叩くように降る雨と、獲物を狙う野獣のように、空から雷の音が続いていた。いつ雷が落ちるのか、恐れを感じながらも、地図とコンパスを取り出し、いくべき道を探した。そうしたら何故だか落ち着いて、登山道を見つけることが出来た。その後は、雪渓を通り抜け、ただひたすらに急いで登山道を早歩きで歩いた。そして16時に三俣山荘にたどり着いた。この日の登山時間は約11時間。地図上の時間よりも2時間オーバーしていたが、重いザックを背負ってここまで来たのだから、僕なりによく歩いたと思う。
三俣山荘は小さい山小屋なので、今度こそは登山者で一杯なのかなぁ〜と覚悟していたが、最低10人入れる大部屋に僕も含めて3人だった。その2人は若いアベックで、夕食後から就寝までの空いた時間に話したのだが、その人たちがいうには今回は天気が悪く、キャンセルする人が多かったらしいのだ。そうでなければ、盆休みという忙しい時期に、一人毛布一枚で済むなんて有り得ないというのだ。僕は霧と雨であんまり景色を眺めることが出来なかった不幸を味わったが、雨のお陰で登山者が少なくて良かったかもと思った。明日も最低9時間も歩かなければならないので、この日も19時頃に寝て翌日に備えることにした。
黒岳へ続く・・・・
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-55902.html
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