大平宿・摺古木山
- GPS
- 56:00
- 距離
- 5.4km
- 登り
- 415m
- 下り
- 403m
アクセス |
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感想
赤木沢から大平宿・摺古木山へ
1999年年8月10日(火)
9時のバスで立山駅から富山を経由して広島に帰るNakaと別れて東谷の道を金木戸沢に向かう。ゲ-トの先のトンネルを出たところで正面に加賀白山を見る。あまりの迫力に思わず見とれてしまいかねない危ない場所だ。
金木戸沢の下流部は双六谷と言う。沢沿いに3kmほど走ると林道の終点で、そこに2台の車が停めてあり、1台のワゴンには東京の某山岳会の2人パ-ティ-による4泊5日の周到な双六谷遡行計画書が、表から見えるように張りつけてあった。なるほど、こうしておけば何かのときに他者にも行動がわかり手が打てるわけだ。
金木戸沢の情報は京都労山自然保護部長で私と親交があるS氏からOga宛にファックスを送ってもらい、それをコピ-してきて貰った。その情報は大阪わらじの会の茂木完治・吉岡章両氏が著した『沢登り読本』によるもので、大阪わらじの会の創始者・初代代表で、労山の『山と仲間Books・沢登りの勧め』の著者でもある中庄谷直氏の文に誘われて小形と2人で破間川遡行を企てたと言ういきさつがあった。権威のある会で信頼できる情報である。
入渓点は8kmも先で、沢に入るにはそこまで林道を歩かなくてはならない。行けば帰る気になれない距離で前進あるのみになるが、この後私達には大平宿を訪ね、木曽駒ケ岳に登るという目的があった。
Ogaのタイムリミットは14日中に帰広なのでパスして大平へ向かうことにする。
風呂に入りたかったのでR158,白骨温泉経由で奈川温泉に抜ける“上高地・乗鞍線”というススーパー林道は夜間通行禁止で通れず、やむなく県道26号から奈川温泉に入る。何が何でも温泉に入ろうと決めて奈川で日帰り入浴の温泉宿を探したが、時間が遅いからと軒並み断られた。
温泉の入口近くに民宿があった。釣りと温泉に関しては絶対に諦めないOgaがダメもとでと持ち前の粘りを発揮して頼み込みOKをとってきた。
露天風呂の薄暗い裸電球の光が闇にのみ込まれるその向こうから渓流の音が聞こえる静かな山合いのひなびた一軒宿だった。何年か前,登山の終わりに入った岩手山麓の温泉に似た感じがしたが、その時登った温泉と山の名が思い出せない。
思いがけず入浴できて後はねぐらを探すだけとなる。6km走って野麦峠方面と木曽福島方面の分岐点を右折し、2〜3km走った所でキャンプ場と書いた釣り掘りを見つけてその駐車場を借りる。
8月11日(水)
4:30起き。6:00発。同30,野麦峠。小雨。お助け小屋を復元したものや茶屋,資料館などがあったが時間的にまだ無人。特に注意を惹かれるものはなかったが、旧野麦街道を歩くコ-スに興味を持った。高山から岡谷まで、工女達が歩いた足跡を辿って雪の野麦街道を歩いてみたいと思う。
高根村でR367,木曽街道に入り、日和田高原から開田高原を経て木曽福島に向かう。木曽福島からはR19に入り南木曾から妻籠宿を抜けて木地師の里に着く。薬師岳で会った三河のOさん達から勧められた所だったので立ち寄って木の器や工芸品を見学する。
圧巻は直径1m50cmの大盆。木の香りには、鼻の奥をツンと通り抜けて、頭の中の余分な雑念を追い出し、すっきりさせてくれるような作用がある。さっぱりした気分で大平宿に向かう。
大平宿
あまり見通しのきかない、細く曲がりくねった道を2kmほど登ると大平峠に着く。峠には歌人斎藤茂吉が大平峠を越えて飯田に向かった時に、自分が主宰した歌集『アララギ』と同じ名前のあららぎという名の里を望んで感嘆し、後に『大平峠』と題して詠んだ17首の歌を歌集『暁紅』に収めたいきさつと、その中の代表的な歌が数首記された碑があった。以下はその碑文。
「近代詩歌の最高峰と言われる斎藤茂吉が、木曽福島,王滝の旅を終えて三留野宿ゆた旅館に一泊し、飯田に於けるアララギ歌会に出席するために秋深まるこの峠を越えたのは昭和11年10月18日であった。
この時、紅葉する大自然の壮大な美にうたれてつくった17首の歌が『大平峠』と題されて歌集『暁紅』に収められている。『大平の峠に立てば天遠く 穂高のすそに雲しづまりぬ』『目のまへをそびゆる山に紅の かたまりいくつ清けくなりつ』『ここにして 黄にとほりたる もみぢ斑(ふ)の檜山を見れば言絶えにけり』 あららぎの里を望み、その地名に茂吉が編集・発行者として精魂を傾けた歌誌アララギの名を重ねた深い思いが詠われている。『ふもとには あららぎといふ村ありて 吾に哀しき名をぞとどむる』」
1台の車が停まっている他に行き交う車もない。ひっそりと静かなたたずまいの峠から北東方向,木の間越しに集落が見える。それがあららぎの里なのだろうか。碑文を手帳に書き写して大平宿に向かう。
廃村の宿場跡
大平高原キャンプ場などの標識を見送って10分ほどで大平宿に入る。宿の入口近くには土産物屋があり、道を挟んでその反対側に民宿かと思わせる大きめの総2階建ての家があって、その前の広い駐車場に車が2台あった。
その先から左奥に向かって車留めのある道があり、奥には古い学校の校舎のような建物,さらにその奥に大きな屋根つきのキャンプ場の炊事棟が見えた。車留めの先には大平宿利用者専用の駐車場があり、道はそこで左に直角に曲がるのだが、直進する道もあった。
直進する道は車両進入禁止で、入口の左側に古い旅篭のような建物があり、同じような建物がその奥にもいくつか見えた。
進路に沿って左折すると左側に“中央アルプス縦走路入口”という標識があって舗装された道が林の奥に伸びている。右手に“水道屋”と書かれた旅篭風の建物があり、小川にかかる橋を渡ると“三河屋”という建物があった。
そこを通り抜けると道が上り坂になってそこから先にはもう何もない感じだった。つまりそこで大平宿は終わりなのだ。『えっ! もう終わりなの!』と驚く。最初の家からそこまで200mあるかないかなのだ。
引き返して三河屋の前にある張り紙を見ると“三河屋”という屋号や“平入りづくり”という標示と共に“この家を利用したい方は○○に電話して予約して下さい”という案内があり、飯田市内の電話番号が書いてあった。
先ほどの交差点まで戻って車を停め、宿場の中を歩いてみると200m程の道の両側に“からまつ屋”から始まって“つつみ荘”“紙屋”“下紙屋”“深見荘”“大蔵屋”“八丁屋”等、大小10戸あまりの宿屋が並んでいて、それぞれに屋号と“平入りづくり”か“切妻づくり”かの区別が標示してあった。ほぼ中間地点にはトイレやまき小屋なるものがあり、お月見広場と呼ばれる空き地の手前には庚申塚と斎藤茂吉の歌碑があった。
これらの建物は、そのほとんどが江戸時代の建物で、別の場所から移築されたものではなく、当時のままの姿で保存されているものらしかった。建物は古く、使うには不便が予想されるが、その不便さをむしろよしとする人達が好んで利用しているようだ。
何もない宿場町のぬけがらのような所であるが、ただそのたたずまいを愛し、泊まって喋って旧交を温める人あり、高原の林の中でハイキングやキャンプを楽しむ人あり、斎藤茂吉が愛したアララギの里を中心とした文学散歩に訪れる人あり、またそこを拠点に木曽路を歩くもよし、中央アルプスの登山基地として摺古木山や木曽駒ケ岳に登るもよし、自分達の研修会を開くもよしと、どのような使い方もできる所ということらしい。
こうして、歴史あるこの建物群と往時を偲ばせる静かな宿場町の雰囲気を愛することを旨とする人々に好意的に使われることによって、利用しながら保存すると言うのが大平宿の意義なのだろう。
その主旨はよく分かるが、床は大丈夫なのだろうか? 屋根は漏らないのだろうか? と言う心配もあり、一度使ってみないと何とも言えない気がする。
一番奥の家から道路に沿って見取り図を書きながら入口まで来ると、そこには見取り図と宿泊申し込み書のついた立派なチラシが置いてあった。わざわざメモすることはなかったわけだが、これで一通り大平宿のアウトラインが掴めた。あとは今夜の塒を探すだけとなる。
投宿
先刻ちらりと見えた学校の校舎らしい建物とその奥の炊事棟を見に行く。建物は飯田市教育委員会管理の建物で、屋根つきの立派な炊事棟は相当の人数が一度に利用できるほど広く、水道をひねると水が出た。
『使用する場合は○○へ連絡せよ』との標示に従って、飯田市教委へ電話して炊事施設だけ借りようと思い、1台だけある公衆電話の方へ行こうとすると、Ogaが、『入口の家は民宿ではないけど泊めてくれるらしい。宿泊者が1人いて『1人より仲間がいた方がいいから泊めてもらってはどうか,多分泊めてくれるはずだ』と言っている』と耳よりな情報を掴んできた。いくらで泊めてもらえるのかが心配だったが、たまにはのんびりしたい気もしたのでその話に乗ることにした。
玄関を入ると広い三和土に続く大きな板の間があり、そこから右手奥に広い台所と並んで自在鉤に大ぶりのヤカンがかかった囲炉裏があって、囲炉裏には何本かの薪が燃えていた。真夏だというのにその火は少しも暑さを感じさせなかった。
囲炉裏のある部屋は西側の道路沿いと南側に窓があり、北側は玄関との間に仕切りがあって、そこがこの家の主の居場所らしく、風呂から上がったばかりの主人が長々とうつ伏せに寝たまま『腰が悪いのでこんな格好で失礼する』と言った。
夫人は『旅館ではないので特別なものはできないのよ。うちで食べるのと同じものを食べてもらってるのよ』と言った。『その方がよっぽどいい。何だって食べますよ。一緒に話しを聞かせてもらいながら食べるのが一番だ』と言うと、『こんなもんだよ』と言いながら大根の葉とアブラゲを煮たものを見せ、『お父さん,ちょっとお願いネ』と言って、主人が自在鉤のヤカンを下ろしすのと入れ替えに大きな鍋をかけたながら『お風呂に入って下さい』と言った。
クマザサ茶
風呂は4〜5人がゆったり入れる大きさで、民宿ではないといいながら明らかに客を迎えることを意識したつくりだった。風呂から上がると、たぎった鍋にカボチャや野菜を入れるところだった。先客は所沢の人で、埼玉県岳連の上の方の人らしく、7月20日に龍飛を発ってあちこちの山を登り、今日ここに着いたところだと言った。
7月20日と言えばOgaと谷川岳で落ち合って破間川に入った日で、その時私達が登ろうとした守門岳にも栃尾市の方から登ったと言い、今月の20日まで旅を続けると言った。『豪勢な旅ですネ』と言うと、『若い時、死に物狂いで働いたもの・・』と笑う。龍飛の階段のある国道の話しから、大きなプロペラの風力発電の話し,太宰治の『津軽』の話しにおよんだ。
私は大根葉やコマツナ等の葉菜類とアブラゲの煮ものが好きなので、夫人が出してくれたビ-ルを一口だけ飲んで、専ら大根葉を食べた。
所沢氏がヤカンを指して『クマザサのお茶だそうだけど飲んで見ますか』と言ってビールのグラスに注いでくれた。すかさず主人が『これで血圧が下がったんだ』と言い、夫人も『本当にこれで下がったのよ』と言った。
それはお茶といういより白っぽい白湯のようで、飲むととろっとして甘みがあり、子どもの頃によく飲まされた重湯の味に似ていた。『クマザサをどうやるんですか』と聞くと、夫人が『何もしないのよ。生の葉をそのまま入れるのよ』と言い、ヤカンの蓋を開けて見せてくれた。中にはクマザサがぎっしり詰まっていた。『こんなにいっぱい入れるんですか』と言うと、主は『山にいくらでもあるでよ』と言う。『クマに聞いて見ようかしら・・』と言うアレだが、生半可でないその使い方に、山で暮らす者の真骨頂を見た気がした。
わずかなクマザサ(?)から抽出したわずかなエキス(?)なるものに、もっともらしい効能書きを書いて売ったり買わされたり・・・,人々の健康に対する不安には限りがないが、『クマに聞く』までもない,山で暮らす先人に聞けばいいのだ。
炉辺談話はずむ
鍋がグツグツ煮え、夫人がそれに味噌で味をつけてから次に大皿たっぷりのワラビと山盛りの漬物を出してくれた。私がワラビのとろろのことを話すと夫婦は『それは知らなかった。今度やってみる』と言い、さらに私が『ウワバミソウも根っこの部分をよく洗ってたたいてとろろにするとうまい』と言うと『ウワバミソウは知らない』と言うので『ミズナのことだ』と言うと『それならここの沢にいっぱいある』と言った。
私達が沢で使うのは、たいていこのミズナかフキで、なければサワアザミ。油で炒めてしょうゆで味をつけるだけだが、あるとないとでは食事の内容がうんと違うのでフライパンと油,醤油は欠かせないのだ〜,等と話しているところへOgaが20cmくらいのイワナを2尾釣って帰ってきてそこから釣りの話しになる。
主人は釣りはやらないがイワナはよく捕ったと言った。その捕り方は無理捕りと言うやつで紹介を憚られる。海でも川でも漁は楽しいが、私達は無理捕りはしないし、イワナ,ヤマメに関してはあくまでも釣りでなくてはならないと考えている。
Ogaが風呂から上がってきたところで焼肉が始まったが、私は専ら大根葉とワラビ専門で、大皿にたっぷりあったのをほとんど1人で頂いた。
所沢氏の『知人がマイタケを見つけてそれを民宿に持ち込んだら宿代を只にしてくれたのだが、別の所でその話しをしたら「馬鹿なことをした。3万円ものだ」と言われた〜』と言う話しからキノコの話しになった。
Ogaがトンビマイタケの話しを出すと、主人はシロマイタケの話しをした。私はブナハリタケが好きなのだが主人はそれは知らないと言い、ムキタケのことも知らないと言った。キノコは土地によって採れる種類も好みも異なる傾向が強いからか,なかなか話しが噛み合わず、いささか盛り上がりに欠けた。
イワナ・ヤマメ談義
再び魚の話しに戻り、イワナとヤマメはどちらがうまいかという話しになった。
Oga,Naka等と3人で東北の山を2週間歩いた時、焼石連峰の縦走を終えて夏油温泉から一関に向かうクシ-の中で運転手とその話しになったことがあった。その時の運転手さんが少しだけ食べるのならヤマメがうまい。けれど沢山食べるならイワナだと言った。イワナの味は飽きが来ないというのだ。私はその考え方が分かる気がした。
それとは少し違うかもしれないが、私達が山で釣った魚を焼く時、すぐ食べるのならジュウジュウと油が垂れるくらいに焼いたところで食べる。この食べ方ではヤマメの方が断然うまい。けれど、焼いた魚を持ち歩く場合はおき火で水分も油もなくなるくらいまで完全に焼き枯らして新聞紙に包む。こうすると夏でも3〜4日はも持ち歩けるのだが、こういう焼き方をするとイワナの方がうまいと思う。
ジューシーに焼いたヤマメはうまいが一度に沢山は食べられない。それに対して、焼き枯らしたイワナはいくらでも食べられる。タクシーの運転手さんが言ったのはそう言うことなのだろう。主人も『イワナの方が味があるな』と言った。
これはしかし、それぞれの魚に適した食べ方の違いを言っているのであって、どちらが旨いということの答えではない。どちらが旨いかという問題はどちらが好きかということに関わっていて、つまるところその人の好みに帰するのだろう。
Ogaは黙っていた(彼は必ずヤマメを先に食べる)が、彼の目は『どっちだっていい。まずは魚を目の前まで持って(釣って)来ることだ。』と言っていた。釣ってきた者の余裕である。イワナは焼き枯らして翌日食べることにする。
こうして大平宿の夜は、予期せぬプラスαを伴って更けていった。
静寂が心をつなぐ
『旅館ではないから特別なことはできないよ。同じものを食べてもらうよ』と言って、出される料理は朴訥で飾り気のない遠慮のいらないものばかりで、それをまるで家族の一員でもあるかのように好き勝手にわいわい喋りながら食べて飲んで、眠くなったらそのまま寝てしまっもいいような居心地のよさ。
その上に『よかったらここは30人くらいは泊まれるから使っていいよ』,『私達は毎週金曜日から日曜日まで来てるから寄って下さい。電話してからでもいいし、パッと来てもいいよ』とまで言ってもらい、Ogaも私もここがすっかり気にいってしまった。特筆すべきは、私達に対するもてなしが客のための特別の演出ではなく、その人達のそこでの生活のありようそのものであると言うことである。それは私達を家族同然に迎え入れると言うことに他ならない。
尽きない話しが何かの拍子に一瞬途切れ、座が静まり返る時がある。その時、誰もがじっと火を見つめ、静寂が人々の心を一つにつなぐ。誰もがこの夜の出会いを忘れまいと思う。そういう時に誰かがアクビをしたりすると、それを潮に『もう休もうか』となり、楽しかった団らんも心を後に残しながら終わりを迎える。大平宿での思わぬ出会いのぬくもりを心に刻み込んで床に就く。
静寂とは必ずしも音のない世界ではない。かすかな葉擦れの音とか、柱がきしむ音、時おり屋根をたたく木の実,虫の音,正体不明の音・・等々,そういう純粋な音がかえって静寂の深さをきわだたせる場合がある。けれど、この夜の大平宿はどこまでも無音であった。
8月12日(木)
Ogaは4時過ぎに起きて釣りに行き、6時には24cmはあるイワナを1尾釣ってきた。夫人がそれをさっそく囲炉裏で焼いてくれた。
今日の行動をどうするか・・,前日、中央アルプス縦走路入口と言う標識を見た。そのことを聞くとあれは摺古木山の登山口だと言い、主人がその道を地図に書いてくれた。その摺古木山が中央アルプスのどこに位置するのか,縦走路とはどういう意味なのか,何も知らない。
主人の話しでは、林道を30分走ると最終避難小屋があり、頂上まではそこから1時間程度だと言う。登るかどうかはともかく、その避難小屋まで行ってみようと言うことになった。所沢氏も天候次第では登るというので一緒に行くことにした。
摺古木山に登る
9:30,再訪を約しいとまを告げて宿を出る。三差路を左折してすぐその先をもう一度左折。林間の舗装道路をしばらく走るとやがて右手に沢が並行するようになり、その辺りで舗装が切れると途端に悪路になった。進むにつれて道はますます険悪になり、果たしてこのまま進めるのだろうかと不安になる。けれど右手の沢は進むほどにいい渓相になってきてそちらに気をとられる。車を停めて釣りに切り替えようかと言う誘惑に駆られるのを我慢する。『帰りにしよう』
ブルトーザーが1台,道路を削っていた。雨が降ると道が川になるのだろう。深くえぐられたり、埋まった石が顔を出していたりする。道が悪いだけでなく、人頭大かそれ以上の石が転がり落ちてもいる。今土砂ぶりの雨が降ると私達はここから出られなくなるに違いなかった。
私の車は軽四輪だからまだいいが、所沢氏の車は普通車で車体が長いから尻をこすりそうで難渋していた。40分近く走って10:08に林道終点の避難小屋に着く。車が3台あり、1台のワゴンには大きな網を持った目つきの鋭い男がいて、隣に車を入れている所沢氏の顔を陰険な目でにらみつけていた。
高山蝶のハンタ-だろうか・・。所沢氏を同業者か取り締まりの監視員とでも思っているのか,いやな目つきだ。もう1台の車には登山者風の人がいた。“風”をつけたのは朝の雨でクマザサがぬれているのを嫌って登るかどうか迷っていると言ったからである。変な人だ!
雨が少しパラついていた。雨はすぐに上がるだろうが問題は展望である。中央アルプス,南アルプス,御岳,乗鞍岳,北アルプス,これらの山々が見えて、自分がどの位置にいるのかと言うことを立体的に把握したい。それができなければ登る意味が半減する。
でも登ろう。摺古木山がどんな山なのか登ってみなければ分からない。ここが中央アルプスの一部であるなら、この山が縦走路の西の出発点なのかも知れない。それを確かめたい。頂上まで1時間足らずだし、その間に晴れるかもしれない。隣の山が見えるだけでもいい。それに、大平宿の地元の山に登らなければ大平宿を知ったことにはならない気がするし・・。
簡単な登りだった。はじめにかぶり気味のクマザサにぬれながらの急登が15分続き、それを抜けると水平道に変わる。雨が上がり、次第に展望が開けてきた。雲の上がり方で天候の先行きが読める。問題はそのスピ-ドだ。
小さな鞍部に小沢があった。冷たい水を一掬飲む。今私達が登っている山は、摺古木山の前山というか、本峰の一つ西のピ-クで、道はそのまま水平道を本峰の真下まで進んで直上するコースと、先に前山に登り、そこから尾根伝いに本峰に至るコースとに二分する。その分岐点には右1.0km.左1.9kmの標識があった。少しでも早く展望の利くところに出たいので右コ-スを選び、遅れている所沢氏に矢印のサインを置いて先に行く。
急登再び15分で前山に着く。雲のスピ-ドは遅く、視界はせいぜい5km程度。北隣の山の斜面がクマザサにびっしりと覆われている様が見事だ。何万人もの血圧が下がることだろう。
前山から5〜6分で頂上に着く。標高2169m,三角点の山である。Ogaが差し出すブルーベリーのレーズンを頬張る。10分遅れて所沢氏が着く。所沢氏は着くやいなや、三角点の標柱の上に座っていたOgaをおどけた格好で乱暴に押し退けてその御影石の標柱の頭を撫でた。まるで100人目の恋人を捕まえたと言わんばかりのその仕草がおかしくて笑ってしまった。彼は三角点ハンターだったのだ。
頂上からの展望は駄目だったが縦走路の入口は分かった。けれど、そこから木曽駒ケ岳まで直線にして50kmはあろうかと言う距離である。果たしてそれが中央アルプス全山の縦走路なのかどうか、帰って資料を調べるしかない。その縦走路のことよりも、私は南アルプス南部の山々を見 たかった。
11:55,下山開始12:50,駐車場着。登山者風の男が四角いダンボール箱のような荷物を背負って登って行った。縦走する積もりらしい。蝶のハンターはまだいたが、私達が出る直前に下って行った。
所沢氏に別れを告げて一足先に出る。心は沢である。ところどころで渓相を見ながら悪路を下って、結局かなり下の堰堤の近くまで下がり、入渓する。
上がりを14:30までと決めてOgaは下流へ、自分は上流へと釣り上がる。エサはブドウ虫。2つ目の淵で当りがありがっちりと針がかりした。潜ろうとするのを強引に起こして浮いたところを一気に抜き上げようとした。イワナだった。25cmはある。が次の瞬間竿が軽くなった。針が折れたのだ。まさか8号の針が折れるなんて・・。9号ならよかったのだろうか? 9号の針はハリスが0.8号でミチイトも0.8号だったから同じ太さを避けて0.6号ハリスの8号にしたのだが、それなら0.8号の通しにして自分で針を結ぶべきだった。
このあたりがOgaと私の違うところで、彼はハリスつきの針は買わず自分で結ぶ。それが正しい。それで切れたのなら自分が悪いと諦められるが、買ったものが悪かったのかもしれないと思うと悔いが残るのだ。
アタリがあったことに意を強くして釣り上がったが、その後はアタリがなく時間切れで戻る。Ogaも珍しく釣果なし。けれど、この沢は釣れる沢だということが分かった。これも大平宿の魅力の1つになる。
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