【過去レコ】1992年 モンブラン・ボス山稜

Pontaro
その他1人 - GPS
- 248:00
- 距離
- 19.4km
- 登り
- 3,407m
- 下り
- 3,422m
| 天候 | 8/9 晴れ 8/10 未明に雪 8/11 晴れ |
|---|---|
| アクセス |
利用交通機関:
バス
ケーブルカー(ロープウェイ/リフト) 飛行機
8月7日 成田=ソウル=モスクワ=チューリッヒ 8月8日 チューリッヒ=シャモニ 8月9日 シャモニ=レズーシュ=ニデーグルーグーテ小屋 8月10日 グーテ小屋停滞 8月11日 グーテ小屋ーモンブランーグーテ小屋=ニデーグル=シャモニ 8月12日 シャモニ⇔モンタンベール 8月13日 シャモニ⇔ミディ 8月14日 シャモニ=チューリヒ 8月15日 チューリヒ=モスクワ= 8月16日 =ソウル=成田=秩父 ※航空会社は大韓航空 |
| コース状況/ 危険箇所等 |
●ルート上の注意点は以下3点です。 .ーロアールの落石 ヘルメットあった方が安心できます。 ∋劃債床爾離淵ぅ侫螢奪 ドーム周辺のクレバス それと、多かれ少なかれ高度の影響が出ますので、日本出国前に富士山などでの順応訓練が必要になるかと思います。 ●標高グラフが登り返していますが、これは、8/10停滞日に偵察でドームのコルを往復した際のものです。 ※当時はGPSロガー無く、ルート図は手書き入力したものです。 ●グーテ小屋が新しくなり、ますますベッドの予約無しでは、入山できなくなっています。天気が当たらない可能性もあり、グーテ小屋2泊くらいの計画がよいかも知れません。 ●アイゼン、ピッケルがマストです。 コンテで登るならザイルも必要。 |
| その他周辺情報 | ●チューリッヒで利用したホテル(現存) 8/7 バシリアホテル https://basilea-hotel-zurich.hotel-ds.com/ja/ 8/14 ホテル・デュ・シアター https://hoteldutheatrebyfassbind.h-rez.com/index_ja.htm ●シャモニでベースにしたホテル(現存) 8/8、8/11〜13 スキーステーション(ドミトリー) http://chalet-ski-station.chamonix.hotels-fr.net/ja/ ●モンタンベール https://www.montblancnaturalresort.com/en/montenvers-mer-de-glace ●ミディ https://www.chamonix.net/english/leisure/sightseeing/aiguille-du-midi |
写真
装備
| 個人装備 |
長袖シャツ
長袖インナー
ハードシェル
ズボン
靴下
グローブ
アウター手袋
防寒着
雨具
着替え
靴
ザック
サブザック
アイゼン
ピッケル
行動食
地図(地形図)
コンパス
ヘッドランプ
予備電池
筆記用具
ロールペーパー
サングラス
ナイフ
カメラ
|
|---|---|
| 共同装備 |
ザイル
|
感想
1992年夏、憧れのモンブランに登ってきた。メンバーは自分と会社山岳部先輩のMさんで、キナバル山に続いての二人の挑戦であった。トレーニングで谷川岳、富士山に登ったが体力不足が露呈し、その都度怒られた。モンブランに登っている時も、高度の影響や、体力的なところでギリギリであったが、何とか山頂往復する事ができた。ひどい高山病症状は出なかった事が幸いしたのかも知れない。
モンブランに登る前に、『モンブランに立つ “生きがい療法”と勇気あるガン患者たちのドラマ』のドキュメンタリーを読んだ。登山初心者のガン患者が1年ほどの訓練を経て挑んだモンブラン。生きていく事だけでも大変なガン患者7名の挑戦で、うち3名が風雪の中を登頂した話だ。ひどく感動を覚え、もっと俺頑張らないとダメじゃない、と思ったものだ。
会社山岳部会報に記載していたものを一部加筆修正したものですが、何しろもう30年近く経過しており、正確でない部分や、当時と変わっている部分もあると思います。しかし、山頂直下のナイフリッジや広い山頂、ドームのコルまで降りモンブランを振り返った際の安堵感に充実感は、ついこの間のように鮮明に思い出す事ができます。
以下登山レポートです。
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8月6日
仕事を終えて出発。池袋の待ち合わせ場所に向かう。実は2月前、今回パートナーのMさんからの電話で、ひょっとしたら行けなくなるかもとの事。単独で登るか、トレッキングに切り替えるか、中止かあれこれ悩んだ。旅慣れるだけでも良いかなと思っていたが、何とかMさんも出発できるようになった事でほっとした。但し、今度はヨーロッパに暫く残るとの事で、スイスで解散する計画となった。池袋で軽く飲み、成田の旅館に入った。
8月7日
スイスのチューリッヒまで、ソウル、モスクワと経由する長旅。行きは時差(夏は7時間)があり、成田発9時50分のフライトも、この日のうちにチューリッヒに到着した。大韓航空の機内食は美味しく口に合った。世の中の話題はバルセロナオリンピックに集中していた。ソウルを出発した飛行機は、日本海を戻りカムチャッカ付近よりシベリアに向かった。政治的なものであろう。韓国は中国との国交樹立で、台湾との関係悪化したあたりもよくわからない。大韓航空のスチュワーデスが美人だったのを覚えている。夜のチューリッヒ着。空港から市街地までは電車で3駅だった。夜のチューリッヒは、ホテル探しから始まった。満室が多く、空いていても2万円以上だったりと、なかなか丁度よいホテルが見つからない。やっと100スイスフラン(1スイスフランは約100円)のホテルバジレラに落ち着いた。重荷で歩き回り汗びっしょりになっていた。時計は12時近かった。夜の街は若者でごった返し、どこの酒場も満員であったが、ようやくバーに潜り込め、ヨーロッパ最初の夜に乾杯できた。
8月8日
スイスからフランスのシャモニまでは鉄道の旅となる。往復で158スイスフランで、スイスパスより安かった。但し、観光でスイスをあちこち回るならスイスパスがよいかも知れない。いわば周遊券で、日本で予め購入しておく事になる。こちらは急行券や特急券が無く、乗車券のみであった。女性の車掌もスイスらしい。チューリッヒ発のジュネーブ行き特急はベルンで後ろ数車両を切り離し、後ろ車両はインターラーケン行になっていた。時刻表に記載があったのかも知れないが、我々は気づいていなかった。隣の座席の女性が、どうして我々の間違いに気づいたのか、インターラーケンに行ってしまうから、前に行きなさいと言った。間一髪で車両を降りたが、前車両は既に出発した後だった。車内アナウンスも分からなかった。次の列車をのんびり待った。
ローザンヌまでのスイスらしい牧歌的な風景や、美しいレマン湖、マルティーニからの変化に富んだ登山電車には圧倒されてばかりだった。国境を越えると、モンブランとドリューが見えてきた。スイスは小さな国である。フランスのシャモニまで半日で移動できた。
天気もよく、シャモニからモンブランの頂上がずっと見えていた。買い出しを終え、ドミトリーに戻った。実はシャモニに到着し、ホテルを探したが、インフォメーションのスタッフの話では、土曜とあって、どのホテルも満室との事。隣町まで行かないとダメらしい。そこで、シャモニにあるスキーステーションというドミトリーを紹介された。山小屋風でシャワーもあり、45フランスフラン(1フランスフランは約28円)と安く、山登りで来ていた我々には丁度良かった。他の登山者と情報交換もできたので有意義だった。
スネルスポーツに寄った。スタッフの神田さんは有名な方で、固形燃料を購入した際、細かいコインを数えるのが不慣れだったので、大きい札を出したら、「今あるのが見えたぞ、折角来たのだから覚えな」といって、自分の財布からコインを取り出してしまった。シャモニには登山用品店が多く、足りない装備は現地調達も可能だ。
8月9日
6時起床。気持ちよく晴れた朝だった。ドミトリーから今日もモンブランが見えている。予定通りモンブランに向け出発する。シャモニのバス停には、日本人パーティが既にバスを待っており、暫し情報交換。彼らは既にどこか登ってきたようで、ボロボロに雪焼けした顔をしていた。天気は下っているとの事。シャモニを出て日本人ばかりを乗せたバスもレズーシュでロープウェイに乗り継ぐと大勢の登山客や観光客で混雑してきた。ベルビューの気持ち良い草原から登山電車は急勾配をギヤをかんで登っていった。終点二・デーグルから登りだした。ビオネッセイ氷河の末端を見下ろしガレ場を登る。単調な登りが続いた。今日は無理せずテートルース小屋で刻み、明日グーテ小屋に上がる計画であったが、グーテ小屋まで十分行けそうであり、また天気が下っている情報から、今日中にグーテまで登っておいたほうがよいだろうとの判断だった。テートルースから雪原を横断すると、落石の多いクーロアールに出た。思っていたほどではないなと思い、トラバース開始した。真ん中で立ち止まりひと息入れると、向こうから「デンジャラス」の怒鳴り声。この時落石の発生は無かったものの、はっとして小走りに斜面を抜けた。途中グーテ小屋へと続く岩稜で、何度も落石がクーロワールへと落ちていくのを目撃した。当たればただでは済まない。上部を見て、素早くトラバースするしかなさそうである。
グーテ小屋はテートルースから見えているのになかなか近くならない。グーテの山頂でジュラルミンの小屋が光っている。すっかりバテてグーテ小屋に上がった。既に時間は5時を過ぎていた。
ベットの予約もなく食堂の床に寝るものと覚悟していたが(前日、フランス山岳会で、グーテのベットは満床と言われていた)、天気が下っていたため、登山者少なくなった模様で、幸いにもベットを確保できた。夕食時に、小屋から翌朝の朝食についての説明があった。悪天が予想されるため、朝食時間を2時から6時に変更するとの事。これで、グーテ小屋連泊が決まった。3782mのグーテ小屋の夜は、多少の息苦しさは感じたもののぐっすり眠れた。ひどい頭痛は無かった。
8月10日
未明に屋根をたたく風雪の音で目が覚める。外はひどい天気のようである。6時の朝食に起き上がる。外に出てみたがガスで視界は効かない。雪は降っていなかったが、あたりは数センチほどの新雪に覆われていた。朝食(フランスパン、紅茶、ジュース、デザート)を食べて、のんびりした。
変な話であるが、ここのトイレはすごかった。山小屋の前、絶壁ギリギリにトイレが建っていて、半畳ほどのスペースの入口半分に板が渡してあるだけ。用を足す際には板のギリギリにしゃがむしかなく、バランスを崩し後ろに落ちてしまいそうで怖い。下からの冷気がお尻に当たっていた。落ちないように扉につかまり微妙なバランスで用を足した。
8時頃になるとガスが切れ青空が少し出てきた。小屋で一緒になった日本人パーティと話し、偵察に行こうという事になった。準備を始めた。あわよくば登頂もと考えていた。別パーティの日本人ガイドからは、好天は2時間ほどしか持たないから、注意しろとの事だった。小屋から上は、すぐに広い雪稜となり、ドーム・デュ・グーテをガスの中登り始める。日本人パーティはだいぶ先行している。彼らはガスの中、トレースを付けていってくれた。ドーム・デュ・グーテを登りきり、ドームのコル付近で、我々は無理せず引き返す事にした。丁度ガスが切れ、モンブランの全容を初めて見る事ができた。美しく女性的な山だ。モンブランというケーキは、よくこの山の特徴を捉えている。頂上部が栗で、その周りのクリームで囲まれた部分が、ミディやグーテではないかと思う。日本人パーティと我々を抜いていった数パーティが頂上目指して登っていった。丁度その頃から天候が回復し始めた。日本人ガイドの予想が外れた形になった。グーテに戻る途中にも登ってくるパーティがいた。ドームの下りで、一か所狭いクレバスをまたいだ。
登頂し下山したパーティがグーテに戻ってきた。嬉しそうだった。我々は明日がんばろう。天候に恵まれれば登れる自信がでてきた。明日一日の好天を祈った。
8月11日
星空の下朝三時。グーテ小屋を出た。シャモニの夜景が美しい。風はあるが、晴れていた。昨日のトレースをたどり、休まず一気にバロ避難小屋まで登った。真っ暗闇の中、小屋の入口が分からずうろうろ。途中抜いたパーティが、下から左だと怒鳴ってくれ、ようやく入り口がわかった。鉄梯子を登り、アイゼンのままジュラルミンの小屋にガチャガチャと入ったものだから、中で寝ていた登山者を起こしてしまったようだ。誰も居ないと思っていたので申し訳ない事をした。まだ真っ暗なので、朝焼けまでこのバロ小屋で待つ事にした。風が強く猛烈に寒い。足先の感覚が無くなっていたので、アイゼンを一旦外して、靴も脱いで靴下をもう一枚重ねてはいたら、ようやく暖かくなってきた。
1時間バロ避難小屋で休憩した後、朝焼けの外に出る。グランドボスを一気に越えるといよいよ山頂が近くなってきた。痩せた稜線を慎重に登った。我々はバロ小屋を出たところでアンザイレンし、コンテで登った。疲労が出てきたので、途中、安全な雪のテラス状のところで無理せず休憩させてもらった。頂上稜線で50mほどだったか、ナイフリッジに出た。美しい稜線であったが、右から吹き付ける風が強く気が抜けない。スリップは許されない。もしMさんが右にスリップすれば、稜線左で確保するしかない。早くも下山してきたパーティが居て、すれ違いもやっとであった。稜線が広く、傾斜が無くなったところが山頂であった。
風を避けるところも無く休憩する。疲労に睡魔でついうとうとしたら、Mさんに起こされた。写真を撮って下山準備にかかる。ドイツの女子大生が登ってきた。昨日、グーテ小屋で下手な英語に付き合ってくれた人だ。ナイフリッジがさすがに怖かったのだろう、父親、彼氏に両側をがっちりサポートされながら登ってきた。よく登った。「コングラッチュレ−ション」と叫ぶと、クシャクシャの顔になった。我々は先に下山開始した。
ドームのコルまで慎重に下ると、風は嘘のように弱まっており、気温も上昇してきた。何といっても、クールワール以外危険なところはもう無いので、緊張から解放された安堵感にほっとできた。広い雪原の真ん中でザックを下し休憩した。モンブランを振り返り眺めていると、何とも言えない充実感、達成感に満ち足りた気持ちになった。
グーテ小屋に戻った我々は、小屋でケーキにコーヒーで暫くくつろいだ。最後の登山電車に間に合うようにグーテ小屋を後に下山開始した。
岩稜は昨日の雪も解けており快調。但し、昨日よりずっと多い登山者が登ってきており、道を譲ってばかりで時間がかかった。今日も日本人パーティがずいぶん登ってきていた。クーロワールも素早く渡って通過。二・デーグルまでは単調な道を降りた。テートルース小屋を目的に登ってくるグループもいて、かなり軽装な人もいた。途中、アイベックスの親子に会えた。最後の曲がり角を越えると、観光客いっぱいのニ・デーグル駅が見えた。
8月12日
昨夜、シャモニのドミトリーに到着した際、いつものお姉さんが不在であった。代わりにお婆さんが出てきた。嫌な予感は当たり、どう見てもベットは2つありそうだが、お婆さんがベットの数を間違えたのか、ベットは1つしか確保できなかった。仕方ないので、自分はシャモニの別の安宿に移動した。集合をドミトリーに昼としたので、朝寝坊してのんびり過ごした。
ヨーロッパに来る前、モンブランに登る事と、モンタンベールからドリューを見上げる事の2つを目標にしていた。幸い、両者とも達成できた。この日は、シャモニから登山鉄道でモンタンベールを訪れた。30分程、赤い電車に揺られてモンタンベールに到着。ここも多くの観光客に登山者で賑わっていた。
ドリューにかかっていたガスはゆっくり流れ、少しずつ槍ヶ岳のスケールを大きくした山が見えた。美しい光景だった。
メールドグラスに降りてみた。シャモニから見えていたボソン氷河は、どちらかと言えば、氷河が重みで落ちている感じに見えた。しかしメールドグラスは、支流と合流し大河のごとく流れていた。無数に開いたクレバスから、真っ青の氷を覗き込む事ができた。メールドグラスの向こうに見覚えのある山が見えた。グランドジョラスの北壁だった。空気が澄んでおり、ここの光景は忘れないだろう。
ところで、シャモニから山の装備などをまとめて日本に郵送した。詰め込んだ荷物が20キロを超えた。20キロを越えて発送はできないとの事でザイルを取り出した。送料は1032フランスフラン(2万9千円)。カウンターの叔母さんが高い高いと言っていたが、本当に高かった。これでだいぶ身軽になったものの、懐もだいぶ軽くなってしまった感じ。今度からは重くても持って帰ろうと思った。
8月13日
今日も観光をしようとミディのロープウェー駅に行く。朝早かったが切符売り場は長蛇の列。仕方なく、ここから乗るのを諦め、シャモニからバスでモンブラントンネルを抜け、イタリア・クールメイヨール手前のラパルドに向かった。30分も走るとモンブラントンネルの反対側に出た。そこよりロープウェーを乗り継ぎシャモニに戻ろうとした。つまり、朝考えていたのと逆コースになる。ところが、ラパルドでロープウェイに乗るのに2時間以上待ち、エルブロンネルで更に乗り継ぎで2時間待った。ようやくミディに到着し、すぐに乗れる整理券をもらえたが、今度は運悪く停電となり、回復に1時間待たされ、結局1日がかりでシャモニに戻った。しかし、エルブロンネルからの展望が素晴らしく、特徴のある岩峰(後で調べたところダン・デュ・ジュアンだった)がそびえ、遥か遠くにマッターホルンにモンテローザを望めた。また氷河の上の小さなスキー場が営業しており、日程に余裕があれば遊んでみたかった。ミディからは、それまでの3台1組のかわいらしい赤いゴンドラと違い、何十人も乗れるゴンドラで一気に高度を落としていく。ミディを出た直後はすごい傾斜で怖いくらいであった。
やっとドミトリーに戻った。夜は埼玉出身の一人旅の片桐さんからワインのご馳走になった。意気投合し、Mさんを置いて飲みに行ってしまい、Mさんには申し訳なかった。イギリスから入りドイツ、スイスを経由しフランスに来たもよう。この後はアフリカに入り、帰国はアテネからとの事、日程に余裕のない我々にしてみると、羨ましい限りであった。会社を辞めたと言っていた。また日本で飲もうという話をしたが、再会は果たせなかった。
8月14日
あっと言う間のシャモニ滞在であった。シャモニを後にした。
ローザンヌで途中下車しレストランに入った。ここでMさんとは最後の食事となった。Mさんは、このあとジュネーブからパリ行きの夜行を探すとの事。最終目的地のイギリスへは、のんびり船で渡るとの事であった。自分のチューリッヒ行きの電車の時間となり、握手をして別れた。Mさんは会社山岳部の先輩であるが、転職により会社を去り、これを最後にお会いしていない。再会の機会あれば、当時の話もしてみたい。この日は、帰国を前に、チューリッヒのホテル・デュ・シアターに泊まった。ヨーロッパ最後の夜は寂しかった。
8月15日
大韓航空は定刻10時フライト。モスクワ経由で、ソウル便に乗り換えた。
8月16日
夜も明けソウル着。成田行きに無事乗り換えると長旅もこれで終わったと感じた。隣合わせた日本の青年。フランスでのグライダー選手権の帰りと言っていた。こちらのモンブランの話もした。お互い充実した旅であったようだった。彼は、機内で彼女宛の手紙を書いていた。
旅も終わり、安心したのか成田に到着した大韓航空機の機内に、何と財布を忘れてきた事に税関を出た所で気づいた。空港関係者者から機長に連絡してもらい、機長さんに財布をもってきてもらうという失態で旅は終わった。
会社山岳部はの皆さんは、モンブランに同行頂いたMさんはじめ、富士山トレーニングにご一緒頂いたTさん、Hさん。色々お世話になりありがとうございました。
次にヨーロッパアルプスに登れる機会ができれば、メンヒやユングフラウ、マッターホルンやモンテローザなど登ってみたいと感じた。
(2021.6.25 当時を回想しヤマレコ投稿)
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