甲斐大和〜大菩薩嶺〜深山橋《日本百名山》


- GPS
- 16:08
- 距離
- 39.2km
- 登り
- 2,799m
- 下り
- 2,889m
コースタイム
- 山行
- 7:27
- 休憩
- 1:06
- 合計
- 8:33
- 山行
- 6:11
- 休憩
- 1:00
- 合計
- 7:11
天候 | 1日目(12/21):晴れ 2日目(12/22):晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2014年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
下山:奥多摩湖深山橋から西東京バスでJR青梅線奥多摩駅 |
写真
感想
1日目(12/21)
甲斐大和駅にタクシーは常駐していない。駅前にあった電話番号に電話を掛けると10〜20分程で来ると云うので待っていると返信があり、「甲州市内であった車のスリップ事故で通れず行けない。嵯峨塩温泉までも凍結で行けるかどうか分からない・・・」と言うので、諦めて10劼瞭残を歩くことにした。登山地図で確認すると、景徳院や竜門峡と云った魅力的な個所もあり、覚悟を決めて歩き始めた。まずは国道20号線を東京方面に進み県道218号線へと入って行った。この道を真っ直ぐ進めば上日川ダムから上日川峠に到る筈だ。
日川(にっかわ)を渡ると左岸に鳥居畑古戦場の石碑と案内板があった。此処田野の地は、天正10年(1582) 3月11日、小山田信茂の裏切りにより武田勝頼はこの地に追い詰められ、最後の戦いを行ったが織田信長の部将滝川一益に攻め滅ぼされた。このすぐ先にある景徳院は勝頼と正室北条氏、世子信勝が自害した寺で墓や生害石、夫人を葬ったとされる没頭地蔵が遺されていた。
県道に戻り1.5區覆爐販橘膓兇肪し、県道を離れて右岸に渡った。県道は此処から大蔵沢の方に迂回してしまい日川は竜門峡となり渓谷が始まった。東電発電所に繋がる水路の暗渠の上を歩くが凍結しているので危なっかしい。先ずは竜門の滝がある筈だが高巻いているので判然としない。やがて取水口の堰堤に達すると飛び散った飛沫で回りの岩が真っ白に凍りついていた。取水口上のコンクリートは完全凍結でスケートリンクのようだ。しっかりした石組の残る炭焼き釜の跡を見るとすぐに焼山沢が右から合流した。その地点には滝があり“落合三つの滝”と呼ばれている。合流地点からは一つしか見えないが三段に分れた豪快な滝のようだ。
しっかりした橋で左岸に渡ると休憩舎があり県道へ上がる道が分岐した。平戸の石門は大岩が重なりその隙間を遊歩道が通っていた。次に現れる筈の休戸の滝はよくわからないまま過ぎてしまった。“木賊の石割ケヤキ”は正に大岩の割れ目から木が生えている。竜門峡の見所も此処までで急坂を登り県道に戻った。丁度天目BSで近くには栖雲寺があった。南の方を見るとお坊山、米沢山、笹子雁ヶ腹摺山が望め、その後ろには富士山の姿も望めた。
此処からはまた車道歩きで嵯峨塩鉱泉を目指した。距離は3勸未△襪世蹐Α嵯峨塩鉱泉に近づいた頃、西側から流れ込む支流の境沢に架かる橋の袂に指導票があり、「←三角コンバ」と記されていた。どうやら2.5万図の細点線道の登山道のようだ。三角コンバは1,460mの三角点峰だろうと見込みを付け此処から登ることにした。
急登斜面に微かな踏み跡を辿り登って行くがテント泊装備の重い荷物を背負っていてはスピードが上がらない。50分程歩き続けピークに乗り上がった。壊れた標識に「三角コンバ1,435m」とあったが三角点は無い。1,460mの位置ではなくその手前、南東の別のピークだった。展望はなく指導標には「←境沢の頭 境沢橋→」、南方向に「古部山→」とある。境沢の頭はこれから向かう方向だが古部山は南尾根の1,414mの三角点の峰かと思ったが立寄るには少し遠い。後で調べてみると更にその先の1,312m程のピークだった。
疲れたので昼食休憩を取り、北西方向に進路を変え稜線を行くと直ぐに4等三角点「若林」のある境沢の頭(1,460m)に到着した。此処の山頂標識も真っ二つに割れ無残だった。繋ぎ合わせて写真を撮った。山頂からの展望は良く、富士山が乱れた雲を纏い相当な強風が吹いていることが知れた。南アルプスは白峰三山の北岳、間ノ岳、農鳥岳と鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳の姿、その東には八ヶ岳、奥秩父の国師岳等素晴らしい眺めだ。
西の尾根を下ると深沢峠に下り、宮宕山へと通じるが今日は北東の稜線を辿った。一つ顕著なピークを越え嵯峨塩深沢林道に下り立つと此の道は平成15年に源次郎岳から棚横手山へ縦走した時に歩いた道だ。しかし殆ど記憶に残っていない。東側の展望が良く滝子山から黒岳、牛奥ノ雁ヶ腹摺山を通り大菩薩峠に繋がる稜線が一望できた。この稜線は平成14年に歩いた。暫く林道を歩き、林道が日川へと下り出す地点では嵯峨塩鉱泉からの登山道が上がって来ている筈で注意していたがそれらしい分岐は見つからなかった。当初予定では此処に登って来る筈だったのだが・・・
北への尾根に取り付き源次郎岳東峰(1,530m)に登った。展望が良く三角コンバや富士山、御正体山、三ッ峠山、御坂黒岳の更に向こうには毛無山の姿も確認できた。此処から先は再び初めて歩く道、踏み跡は薄いが下草もなく問題は無い。下日川峠(しもにっかわとうげ)では林道に飛び出し稜線に続いている。ピークにNTTの電波塔があり林道はその取付け道路だった。再び薄い踏跡の道となり3等三角点「下日川」(1,627m)のピークに達した。アップダウンを繰り返し、右手から砥山林道が近づいてくると中日川峠に到った。林道歩きでも行けるが敢えて稜線道を歩きP1637を踏み樹林帯の稜線を行くと右手に上日川ダムと大菩薩湖が見え隠れしだした。再び林道に出ると大菩薩湖を一望することができた。また稜線の登山道に戻り北に進むと砥山(1,605m)に到った。3等三角点「砥山」があり期待したが山頂標識は無く、展望も利かなかった。
初めて大菩薩嶺に登った平成12年に通った上日川峠(1,585m)は県道が通り、ロッジ長兵衛は冬季も週末は営業しているようだ。甲斐大和からバスが来ているが12月9日で今年の運行は終わっていた。峠には市営の駐車場がありこの季節でも来ることができるようで、此処からだと簡単に大菩薩に往復してくることができる。嘗て歩いた広い林道を進み福ちゃん山荘に達するが此処は冬季休業中。以前は大菩薩峠経由で登ったが今回は唐松尾根を直接登った。もう時刻は15時、明日は冬至という此の季節の日暮れは早い。当初予定ではノーメタワまで行く筈だったので、何んとしても今日中に大菩薩嶺に登りたいものだ。
唐松尾根の登山道を登り始めると登山者が下って来た。初めて登山者と会った。流石は日本百名山、登っている人はいるものだと思ったら後から軽い荷物で追い越して行く人がいる。何処まで行くのかと聞くとピストンで上日川峠まで戻ると云う。10キロにも満たない荷物で軽快そうで羨ましい。疲れた体に鞭打ち標高差300mを詰めて雷岩が見えて来るとさっきの人が早や下って来た。積雪は徐々に増し15冂になった。雷岩で大菩薩稜線に乗り上がった。荷物を置いて大菩薩嶺ピストンに向かった。空身は何んと楽なことだろう。苦労して登った大菩薩嶺(2,057m)は分っていたが樹林帯で展望がない。3等三角点「大菩薩」にタッチして直ぐに引き返した。
今日の幕営は雷岩にしよう。樹林に入ると丁度良い平地があった。強い風も防げ好都合だ。16:06もう日暮れ時だ。この日の日没は16:42関西より20分程早い。日の入りの写真を撮りたかったが稜線に雲があり難しそうだ。行動を止めると急に寒くなってきた。急いで雪の上にテントを設営するが中々ポールが立たずグニャリとポールを曲げてしまった! テントに潜り込み早速夕食の準備にかかると火が暖かい。この日の甲府市の最低気温はマイナス0.8℃、標高差は1,700mあるので明日の朝はマイナス11℃位になるだろう。食事を済ませ18時には寝に着いたがやはり寒い夜だった。
2日目(12/22)
今日は冬至で日の出は6:43。大菩薩の稜線でご来光を見よう。5時前に起床し朝食を食べ、テントを撤収し6:36に出発した。今日の冷え込みで凍結しているだろうと6本爪のアイゼンを履いた。稜線の西側はずっと展望が利くが、東側は木が途切れない。一寸焦って標高2,000m地点の標識のある辺りまで下ると東側が開けた。既に奥多摩三山の方向に光が溢れだしている。しかし此処からが長かった。6:43に日が登るのはあくまで地平線の話し。奥多摩三山の上に出るのは少し時間が掛る。6:56遂にご来光だ。風が強く身を切るような寒さの中待った甲斐が合った。
歩を進め妙見ノ頭(1,980m)に立った。山頂から富士山を見ると焼けて美しい。山頂は丹波山村・小菅村・甲州市の境界で“北辰妙見大菩薩”と刻まれた石碑が置かれていた。大菩薩峠まで下りるとしっかりした道がある筈だが短絡して丹波山村と小菅村境界尾根を下った。道は無いが東の稜線の雪をサックサックと下って行くと右手から道形が現れた。大菩薩峠からの登山道だろうか? 鞍部に達すると展望が開け奥秩父の稜線笠取山、黒槐山、唐松尾山を望むことができた。此処は“フルコンバ小屋跡”で、嘗ては小屋があったのだろうが痕跡は全くない。
小菅村へ下る小菅大菩薩道が右に分岐しているが、指導標に従って稜線道の丹波方面へと進んだ。樹林越しだが大菩薩嶺や鶏冠山や甲武信岳も確認できた。ノーメダワ(1,361m)に到ると登山道は稜線の南側へと巻い行きサカリ山を通らない。そんな訳にはいかないので強引に稜線に取り付いた。歩くのに支障はなくP1465へ登り返し、サカリ山(1,542m)へと進んだ。今倉山とも呼ばれているようで3等三角点「山葵谷」が設置されているが山頂からの展望は無い。雪は殆どなくなったのでアイゼンを外した。
追分に下ると巻いていた正規の登山道が合流した。展望良く雲取山(2,017m)から七ッ石山、日陰名栗山、鷹ノ巣山と奥多摩石尾根が一望できた。丹波山村と小菅村への下山路が分岐するがそのまま東の稜線に取付き中指山(ななさすやま)を目指した。追分から直ぐの処に何んとモノレールの終点があり簡易なプラットホームも設けられている。まるで観光用に作られたかのようだった。中指山の稜線は小ピークが連続し結構キツイ。中でも2つ目のピークは無名ながらかなり急登を強いられた。中指山(1,315m)は小栃山とも呼ばれているようだが3等三角点「中里」があるだけで山名を示すものは無かった。展望も利かず、タイムを記録しただけで直ぐに出発した。
中指山の東尾根は急で標高約948mの今川峠まで標高差370mも一気に下った。小菅村と丹波山村を結ぶ県道の峠で、小菅村と丹波山村両村長名で“御触書”なる立て札があり「この地は、小菅村と丹波山村が『平成の陣取り合戦』として決定した両村の境界である。四百年前の太閤検地のわだかまりを捨て新たな一歩となる両村共栄の地とする。平成26年3月30日」とあった。何のことか分らず後で調べてみると、太閤検地までは両村は一つの村だったが余りに広いので二つに分けさせられた。境界を決めるのに一番鳥の鳴き声と共に牛を歩かせ出合った所を境界とすることになった。小菅の衆が鳥を早く鳴かせた結果小菅村の領域が峠を越えて大きく入り込んだ。2.5万図にある大丹波峠を越えた不自然な境界は太閤検地の遺物ということだ。この400年の蟠りを払拭しようと立て札の日の午前8時30分に両村を牛に見立てたポニーを先頭に大丹波峠ならぬ県道の今川峠で境界争いを再現し共栄を誓ったと云うことだった。
ウズモ山(1,066m)へは登路はなく急斜面を這い登り山頂に達した。植林の山で山名を示すものは無く、展望もなかった。村境界は歴史の経緯でウズモ山山頂から稜線を外れ丹波山村側に食い込んでいる。西のピークへの登り返しも結構あり厳しい。大丹波峠(約922m)へと下ると小菅村側から林道が達し広場となっていた。鹿倉山(ししくらやま)ハイキングコースの案内板があり登山の基地となっているようだが今日の登山者はいないようだ。
林道はゲートがあるが更に続きジグザグに標高1,100m位まで上がっている。林道から折り返すように登山道となり巻くように登って行って稜線に達するとまた林道となった。2.5万図には描かれていないが先程の林道が迂回して来たのにまた乗ったようだ。暫くは林道を歩くが稜線を外れている部分がありP1257は明らかに北側を巻いていた。稜線に取付くと登山道らしきものがありP1257に到るが微かに期待した山名は無かった。
もう一つ明瞭なピークを越え一段と存在感のある鹿倉山(1,288m)に達するが、此処も展望は得られなかったが3等三角点「獅子倉」が置かれていた。次のピークは無名だが伐採地で展望良く奥多摩石尾根の山々や奥多摩三山、この先の大寺山の仏舎利塔等を望むことができた。大マトイ山(1,178m)は大丹波峠の案内板に“タナグチ山”とあった。此処は展望がなく先に進んだ。最後の山、大寺山(950m’)は平成14年の登山地図に三頭山の眺めが良いと書かれているが木が育ち最早展望は無くなっていた。此処で異質なのは白いコンクリート製の大きな塔があり四面に金の仏像が置かれている。昭和49年(1974)に日蓮宗日本山妙法寺が建てたようだがすごく新しく見えた。40年経っても回りとしっくりきていないのは何故だろう?
山頂からは小菅村余沢への下山路も示しているが尾根の先端深山橋へ下山する予定だ。P844を過ぎると急坂だが捗った。当初予定では深山橋13:57のバスに乗る予定だったが、昨日10厖省な歩きが入ってしまったので今日の行程は4.5區びてしまった。途中時間短縮して来たのでもしやと思っていたがもうどうあがいても予定のバスには乗れそうにない。深山橋南詰から西に100m程入った処に下山し深山橋に達したのは14:11、次のバスまでは1時間近くある。橋の袂で湯を沸かしてコーヒーを飲んで寛いでいると1時間の時間も直ぐに過ぎた。山間部は日差しが無くなるのが早く、バスの来る頃には寒くなってきた。
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