奥穂高岳
- GPS
- 15:53
- 距離
- 25.7km
- 登り
- 1,961m
- 下り
- 1,972m
コースタイム
- 山行
- 6:26
- 休憩
- 1:09
- 合計
- 7:35
- 山行
- 6:31
- 休憩
- 1:27
- 合計
- 7:58
過去天気図(気象庁) | 2022年07月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
タクシー 自家用車
|
写真
装備
MYアイテム |
totasu3
重量:-kg
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感想
今夏、いよいよ3大メジャー(槍、劔、穂高)完踏となる奥穂高岳へ行く機会を得た。
上高地から見上げるだけだった奥穂高は登ってみると、尾根は狭いナイフリッジ。登山は通常尾根筋を登るものだが、東西を大キレットと馬の背に阻まれ、沢を直登するしかない。もうこれ以上岩塊が存在できないであろう限界の傾斜でそそりたっているので、直登はあべのハルカスを階段で登っているかのよう。太ももが悲鳴を上げる。体力消耗対策ジェル(Last Mile)より、足つり防止ジェル(No Clamp)を持ってくるべきだった。
コースは涸沢-重太郎新道のラウンドを時計廻りか、反時計廻りか?よりスパルタンな時計廻りを希望していたが、両日とも午後は雨、しかも初日は雷発生の予報。西穂高尾根で落雷による多数の死者も出ていることもあり、直前により安全な反時計廻りを選択。
河童橋を通過するとき皆実は渡って進みたかったが、パーティの選択に従うと決めていた。これが大正解で、雨を回避することが出来、翌朝山頂の眺望も堪能できた。想像以上に険しかった穂高岳、重太郎新道を登っていれば山中一泊二日の行程だと現在の私の体力では登頂出来なかったかも知れない。出来たとしても皆の足を引っ張り、ガスに包まれた尾根で雨に打たれてずぶ濡れになっていた。現に15時ごろずぶ濡れで山荘に到着したパーティーがいた。
涸沢-ザイテンは標高のデパートゆえに美しい高山植物が待っていたが、次第に観る余裕を失っていく。なんとか穂高岳山荘に辿り着いた時は太ももは限界を超えていた。
手強い穂高に集う人は無骨な山男や自然を愛する淑女ばかり。健脚の初老夫婦、金沢から単身乗り込んだパパさん、夕食を待つ間大部屋では自然に談笑に花が咲く。
私の父は高校、大学と働きながら夜学に通う苦学生だった。私が生まれる前、24歳の父は昭和31年、尼崎城南高校 山岳部パーティで穂高小屋を訪れている。調べてみるとこの年は第二期穂高小屋のラストイヤーだったようだ。翌年から現在の穂高岳山荘への大改築が始まる。
国産メーカーやゴアテックスのない当時の山行は大変だったろうと思う。「寝袋は進駐軍が遺体を運んだ払い下げ品を神戸元町に買いに行く」「山小屋では人を詰め込むため、仰向けにならず、横向きに寝てくれと言われる」などと語っていたことを思い出す。
夕食後から日の出までの時間は長い。高山症状に耐えて迎えた朝は快晴!かのジャンダルムを眺めながら奥穂高岳山頂に到着!そして素晴らしい眺望の尾根を堪能する。北は槍ヶ岳から後立山、東は南アルプスから覗く富士山、南は眼下に上高地-乗鞍から御嶽、西は白山の向こうに日本海、オールスターに囲まれてニヤニヤと言葉も出ない。
重太郎が拓道する間、前穂高の麓に愛娘 紀美子をテントに遊ばせていたという紀美子平にザックをデポして前穂高へ。それは槍ヶ岳の穂先を彷彿させるものでした。
岳沢小屋のバナナスムージーでリフレッシュして最後の4kmを噛みしめる。
上高地 岳沢登山口まで下山してくると、トレッキングに向かうご老公から声をかけられた。「君たち、奥穂高から下ってきたの?懐かしいなぁ 昔は登ったけど、今はこの辺だけを楽しんでるだけだけどね」
下山後、頭に浮かぶのは人の思い出ばかり。厳しい環境だからこそ、そこに集う人たちの心は無意識に繋がるのであろう。
https://www.relive.cc/view/vAOZDGoXJyq
穂高神社 本宮:安曇野市 奥宮:上高地 明神池 嶺宮:奥穂高山頂
(現在の嶺宮は重太郎の親族から山頂を譲られたもの)
https://www8.shinmai.co.jp/yama/article.php?id=YAMA20140704002381
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