<高尾駅北口>
甲州街道に接する北口から出発。関東の駅百選に入る寺社風の駅舎が特徴。
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7/15 13:53
<高尾駅北口>
甲州街道に接する北口から出発。関東の駅百選に入る寺社風の駅舎が特徴。
中央本線の高架を潜るまでは国道沿いに進む。
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7/15 13:56
中央本線の高架を潜るまでは国道沿いに進む。
日本橋から51kmのキロポスト。
1
7/15 13:58
日本橋から51kmのキロポスト。
両界橋で南浅川を渡るとともに中央本線を潜る。川を隔てて村があった事からその名前が付いているが、この先の小仏関所を破った者の処刑場があった事から別の意味も帯びて見える。
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7/15 14:00
両界橋で南浅川を渡るとともに中央本線を潜る。川を隔てて村があった事からその名前が付いているが、この先の小仏関所を破った者の処刑場があった事から別の意味も帯びて見える。
西浅川交差点を右折し都道516号へ入る。ここからまた旧甲州街道が始まる。
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7/15 14:01
西浅川交差点を右折し都道516号へ入る。ここからまた旧甲州街道が始まる。
<高尾駒木野庭園>
旧街道には直接の関係はないが昭和二年の建物という事で築約100年。駒木野宿の江戸側の入り口にあたる。
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7/15 14:04
<高尾駒木野庭園>
旧街道には直接の関係はないが昭和二年の建物という事で築約100年。駒木野宿の江戸側の入り口にあたる。
小仏関所手前にある石仏。特に左右の二体は年季を感じる。交通安全の仏様を集めたものだろうか。
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7/15 14:06
小仏関所手前にある石仏。特に左右の二体は年季を感じる。交通安全の仏様を集めたものだろうか。
老人ホーム入口に石祠がある。小仏関所番川村氏の表庭にあった井戸の上に建てられたものらしい。
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7/15 14:07
老人ホーム入口に石祠がある。小仏関所番川村氏の表庭にあった井戸の上に建てられたものらしい。
<駒木野橋跡碑>
この先の小仏関所を渡るためには榎沢川を渡る必要があった。今は暗渠になって橋もないため当時の面影は残っていないが、人工的に人の背よりも高く掘られていたという事実から小仏関所の堅固さが想像できる。
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7/15 14:08
<駒木野橋跡碑>
この先の小仏関所を渡るためには榎沢川を渡る必要があった。今は暗渠になって橋もないため当時の面影は残っていないが、人工的に人の背よりも高く掘られていたという事実から小仏関所の堅固さが想像できる。
<小仏関跡>
甲州道中で最も厳重といわれた関所跡。通行手形と手を付いて許しを請う「手形石・手付き石」が碑の前に保存されている。
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7/15 14:08
<小仏関跡>
甲州道中で最も厳重といわれた関所跡。通行手形と手を付いて許しを請う「手形石・手付き石」が碑の前に保存されている。
公園の一角には駒木野宿本陣跡の立派な碑も建てられている。
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7/15 14:09
公園の一角には駒木野宿本陣跡の立派な碑も建てられている。
関所の建物や駒木野宿は戦災で焼失し現在は公園化されたこの辺りだけが名残をとどめている。
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7/15 14:09
関所の建物や駒木野宿は戦災で焼失し現在は公園化されたこの辺りだけが名残をとどめている。
ヤブカンゾウ
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7/15 14:09
ヤブカンゾウ
関所を後にして100mほど進んだ所にも石碑などが集められていていよいよ旧街道に入ったのだという気分になる。ここから小仏峠まではじわじわと登り坂が続くが、右端の碑に「念珠坂」とあるようにこの先僅かの区間で下り道となっている。
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7/15 14:10
関所を後にして100mほど進んだ所にも石碑などが集められていていよいよ旧街道に入ったのだという気分になる。ここから小仏峠まではじわじわと登り坂が続くが、右端の碑に「念珠坂」とあるようにこの先僅かの区間で下り道となっている。
坂の下にも戦争の供養塔のほか庚申塔などがある。
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7/15 14:13
坂の下にも戦争の供養塔のほか庚申塔などがある。
ヒメヒオウギズイセン
1
7/15 14:15
ヒメヒオウギズイセン
<蛇滝茶屋跡>
この右手の建物は蛇滝の修行に訪れる人の休憩所だった。この他富士講の碑もあり、旧街道以外にも山とのかかわりが深い。
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7/15 14:16
<蛇滝茶屋跡>
この右手の建物は蛇滝の修行に訪れる人の休憩所だった。この他富士講の碑もあり、旧街道以外にも山とのかかわりが深い。
圏央道下を通過。
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7/15 14:17
圏央道下を通過。
途轍もない暑さが続くけどまだまだアジサイは元気。
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7/15 14:19
途轍もない暑さが続くけどまだまだアジサイは元気。
越えるべき山が見えてきた。
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7/15 14:20
越えるべき山が見えてきた。
<常林寺>
この辺りまでが駒木野宿だったらしい。寺院入口に石碑が集められている。
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7/15 14:23
<常林寺>
この辺りまでが駒木野宿だったらしい。寺院入口に石碑が集められている。
高尾山の入口のひとつ、日影沢林道を見送り中央本線の赤煉瓦アーチで北側へ。
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7/15 14:32
高尾山の入口のひとつ、日影沢林道を見送り中央本線の赤煉瓦アーチで北側へ。
だんだんと沢幅が狭まり山間の雰囲気が出て、道中これくらいの小滝であればいくつか観察できる。
1
7/15 14:34
だんだんと沢幅が狭まり山間の雰囲気が出て、道中これくらいの小滝であればいくつか観察できる。
対岸にヤマユリの群生。
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7/15 14:36
対岸にヤマユリの群生。
こっちはコオニユリ。
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7/15 14:37
こっちはコオニユリ。
国鉄時代の小仏トンネル跡。SLの排煙を行う装置が取り付けられていた。
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7/15 14:39
国鉄時代の小仏トンネル跡。SLの排煙を行う装置が取り付けられていた。
バス終点の小仏停留所まで来て初めて小仏峠の名前を初めて見る。西浅川交差点から峠まではほぼ一本道なので迷う心配もない。
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7/15 14:41
バス終点の小仏停留所まで来て初めて小仏峠の名前を初めて見る。西浅川交差点から峠まではほぼ一本道なので迷う心配もない。
<寶珠寺>
以前は断食道場として知られた臨済宗のお寺。入口に建つ馬頭観世音菩薩碑の台座には「小佛宿」の字が見て取れる。
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7/15 14:43
<寶珠寺>
以前は断食道場として知られた臨済宗のお寺。入口に建つ馬頭観世音菩薩碑の台座には「小佛宿」の字が見て取れる。
都指定天然記念物 小仏のカゴノキ
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7/15 14:44
都指定天然記念物 小仏のカゴノキ
本堂
この裏手に回るとかつて江戸−甲府間を月に三度往復した三度飛脚が寄進した一対の常夜燈がある。民間の飛脚は関所の門限外に通行することができなかったため、三度飛脚の定宿がここ小仏宿だったという訳だ。
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7/15 14:45
本堂
この裏手に回るとかつて江戸−甲府間を月に三度往復した三度飛脚が寄進した一対の常夜燈がある。民間の飛脚は関所の門限外に通行することができなかったため、三度飛脚の定宿がここ小仏宿だったという訳だ。
小仏宿を過ぎると民家が絶え傾斜がきつくなる。いよいよ小仏峠越えの始まりだ。
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7/15 14:48
小仏宿を過ぎると民家が絶え傾斜がきつくなる。いよいよ小仏峠越えの始まりだ。
<登山口>
急坂のクランクを登り突当たりの駐車場より入山。
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7/15 14:53
<登山口>
急坂のクランクを登り突当たりの駐車場より入山。
<くすし滝>
入ってすぐ右手にはヤゴ沢が流れていて滝行の修行場がある。この辺りは小仏一里塚があった。
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7/15 14:54
<くすし滝>
入ってすぐ右手にはヤゴ沢が流れていて滝行の修行場がある。この辺りは小仏一里塚があった。
山道と言っても砂利の敷かれた林道を歩くので山登りというよりはハイキングに近い。
1
7/15 14:59
山道と言っても砂利の敷かれた林道を歩くので山登りというよりはハイキングに近い。
駐車場から200mほど歩いたところにある水場。
1
7/15 15:00
駐車場から200mほど歩いたところにある水場。
さらに200mほど進むと道は大きく北にカーブして斜度が増す。
1
7/15 15:03
さらに200mほど進むと道は大きく北にカーブして斜度が増す。
一部簡易舗装の道も交えながら九十九折れに登っていく。道幅こそ広くはないが登山にしては歩きやすい。当時は馬も歩いたという。
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7/15 15:10
一部簡易舗装の道も交えながら九十九折れに登っていく。道幅こそ広くはないが登山にしては歩きやすい。当時は馬も歩いたという。
<小仏峠>
駐車場より200m近い標高差があるが道が良いこともありすんなりと峠に飛び出した。このまま北へ向かえば影信山、陣馬山。南へ向かえば小仏城山〜高尾山とハイキングにはうってつけの峠道である。小仏の由来は奈良時代の僧、行基がこの地に寺を建て小さな仏を安置した事と言われている。行基は高尾山開山の祖でもある。
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7/15 15:11
<小仏峠>
駐車場より200m近い標高差があるが道が良いこともありすんなりと峠に飛び出した。このまま北へ向かえば影信山、陣馬山。南へ向かえば小仏城山〜高尾山とハイキングにはうってつけの峠道である。小仏の由来は奈良時代の僧、行基がこの地に寺を建て小さな仏を安置した事と言われている。行基は高尾山開山の祖でもある。
峠から僅かに都心方面が覗ける。昔はどんな眺めだったのだろうか。天気が良ければ相模湖側も見られるがこの日は今一つだった。
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7/15 15:12
峠から僅かに都心方面が覗ける。昔はどんな眺めだったのだろうか。天気が良ければ相模湖側も見られるがこの日は今一つだった。
平日休みを問わず無人の茶屋は寂しい限りだが多数の石碑や石仏とハイカーで賑わう。写っているのは明治天皇小佛峠御小休所址及御野立所碑と三条実美歌碑。
『来てみればこかひはた織いとまなし 甲斐のたび路の野のべやまのべ』
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7/15 15:13
平日休みを問わず無人の茶屋は寂しい限りだが多数の石碑や石仏とハイカーで賑わう。写っているのは明治天皇小佛峠御小休所址及御野立所碑と三条実美歌碑。
『来てみればこかひはた織いとまなし 甲斐のたび路の野のべやまのべ』
以前は廃屋となった小屋の間を通り抜けたのだが今はすっきりとした広場に整備された。
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7/15 15:13
以前は廃屋となった小屋の間を通り抜けたのだが今はすっきりとした広場に整備された。
古い高尾山の道標も。寛政7年(1795年)とある。
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7/15 15:13
古い高尾山の道標も。寛政7年(1795年)とある。
ここから神奈川に入る。ここ小仏峠から笹子峠まで「甲州古道プロジェクト」として案内に力を入れているようで細かく道標が立てられている。
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7/15 15:13
ここから神奈川に入る。ここ小仏峠から笹子峠まで「甲州古道プロジェクト」として案内に力を入れているようで細かく道標が立てられている。
内容が割とマニアックな案内図もあってありがたい。
1
7/15 15:14
内容が割とマニアックな案内図もあってありがたい。
これから一番お世話になるのがこの形の標柱。
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7/15 15:14
これから一番お世話になるのがこの形の標柱。
下りは西の尾根へ入る。東京側と違って地道ながら非常に歩きやすい道に整備されてすいすいと足が出る。多くはないが当時の石畳の跡も見られる。
1
7/15 15:15
下りは西の尾根へ入る。東京側と違って地道ながら非常に歩きやすい道に整備されてすいすいと足が出る。多くはないが当時の石畳の跡も見られる。
<東京電力新多摩線 67号鉄塔>
150mほど高度を落とした所で高圧線鉄塔の脇を通過。
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7/15 15:25
<東京電力新多摩線 67号鉄塔>
150mほど高度を落とした所で高圧線鉄塔の脇を通過。
中央道を行く車の音が聞こえるようになると遊歩道じみてくる。
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7/15 15:31
中央道を行く車の音が聞こえるようになると遊歩道じみてくる。
豊かな芳香を放つヤマユリ。
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7/15 15:32
豊かな芳香を放つヤマユリ。
<登山口>
下りも難なく山道を抜けられた。ハイカーとしては束の間の山歩きは本当にありがたい。
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7/15 15:32
<登山口>
下りも難なく山道を抜けられた。ハイカーとしては束の間の山歩きは本当にありがたい。
底沢の道標を見て県道516号に乗った後、西に切り返すようにして車道を進む。
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7/15 15:34
底沢の道標を見て県道516号に乗った後、西に切り返すようにして車道を進む。
林道に近い小径を進んでいくと底沢地区の丁字路に出る。この北は美女谷と呼ばれ、小栗判官で知られる照手姫の美貌からその名が付いたという。
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7/15 15:40
林道に近い小径を進んでいくと底沢地区の丁字路に出る。この北は美女谷と呼ばれ、小栗判官で知られる照手姫の美貌からその名が付いたという。
美女谷を後にし国道20号線を目指し南下していくと中央道の高架の下に馬頭観音が立っている。本来の旧街道はこの辺りで山道になっていたようだが西は中央道、東は中央本線に挟まれた車道に付け替えられている。
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7/15 15:43
美女谷を後にし国道20号線を目指し南下していくと中央道の高架の下に馬頭観音が立っている。本来の旧街道はこの辺りで山道になっていたようだが西は中央道、東は中央本線に挟まれた車道に付け替えられている。
<長久保架道橋>
しばらく線路沿いに坂道を下りていくとトンネル前でガードを潜る。ここも裏高尾で見たようなレンガ造りの橋脚が残る。
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7/15 15:46
<長久保架道橋>
しばらく線路沿いに坂道を下りていくとトンネル前でガードを潜る。ここも裏高尾で見たようなレンガ造りの橋脚が残る。
<小原一里塚跡>
そのガード脇に一里塚跡の標識が立て掛けられている。確か以前は先ほどの馬頭観音の近くにあったはず。江戸より十五里目。
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7/15 15:46
<小原一里塚跡>
そのガード脇に一里塚跡の標識が立て掛けられている。確か以前は先ほどの馬頭観音の近くにあったはず。江戸より十五里目。
中央線のレンガ擁壁。
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7/15 15:47
中央線のレンガ擁壁。
程なくして国道20号に合流した。
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7/15 15:49
程なくして国道20号に合流した。
<小原の郷>
小原宿本陣の少し西にある道の駅風の施設。小原宿は2町半と規模としてはさほどではなかったらしいが難所の小仏越えの先であるためなくてはならないものだった。
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7/15 15:52
<小原の郷>
小原宿本陣の少し西にある道の駅風の施設。小原宿は2町半と規模としてはさほどではなかったらしいが難所の小仏越えの先であるためなくてはならないものだった。
<小原宿本陣(旧清水家住宅)>
神奈川県で唯一現存する本陣。上階は養蚕に使われていて当時の道具が残っている。11月に大名行列を模したお祭りが行われる。
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7/15 15:54
<小原宿本陣(旧清水家住宅)>
神奈川県で唯一現存する本陣。上階は養蚕に使われていて当時の道具が残っている。11月に大名行列を模したお祭りが行われる。
門前に設置された陶板の解説板。下段の概念図がいい感じ。
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7/15 15:54
門前に設置された陶板の解説板。下段の概念図がいい感じ。
本陣以外にも宿場の雰囲気を残した建物がいくつかある上、各建屋の軒先には当時の屋号が掲げられていてタイムスリップしたような気分になる。
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7/15 15:55
本陣以外にも宿場の雰囲気を残した建物がいくつかある上、各建屋の軒先には当時の屋号が掲げられていてタイムスリップしたような気分になる。
小原宿を過ぎると旧道は国道に絡むように離合を繰り返す。下調べがないとやや厳しいが旧道の出入り口には決まって何かしらの道標があった。旧道は背後のグラウンドの外周に沿って通っていたらしいが完全に整地されてしまっているため適当に看板等を読みながら突っ切った。
1
7/15 15:57
小原宿を過ぎると旧道は国道に絡むように離合を繰り返す。下調べがないとやや厳しいが旧道の出入り口には決まって何かしらの道標があった。旧道は背後のグラウンドの外周に沿って通っていたらしいが完全に整地されてしまっているため適当に看板等を読みながら突っ切った。
小径を抜けると国道を跨いで向かいの坂へ上がる。この辺りは地味にアップダウンが多い。
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7/15 15:59
小径を抜けると国道を跨いで向かいの坂へ上がる。この辺りは地味にアップダウンが多い。
少し上ったおかげで南に相模嵐山や石老山が見えた。
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7/15 16:01
少し上ったおかげで南に相模嵐山や石老山が見えた。
ここにもヤマユリ。
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7/15 16:03
ここにもヤマユリ。
そしてヤブカンゾウ。
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7/15 16:03
そしてヤブカンゾウ。
<えんどう坂>
中央道を右手に見て南へ折れ、中央線を越えたところで西に入る。ここも例に漏れず道標が出ているが見ての通り階段道から始まるので予備知識がないと厳しいか。
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7/15 16:06
<えんどう坂>
中央道を右手に見て南へ折れ、中央線を越えたところで西に入る。ここも例に漏れず道標が出ているが見ての通り階段道から始まるので予備知識がないと厳しいか。
下りたところが与瀬下宿らしい。
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7/15 16:07
下りたところが与瀬下宿らしい。
再び国道20号に合流。与瀬宿のあった辺りだが小原宿のような雰囲気はほとんどない。
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7/15 16:09
再び国道20号に合流。与瀬宿のあった辺りだが小原宿のような雰囲気はほとんどない。
相模湖駅前を通過。旧名は与瀬駅。
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7/15 16:10
相模湖駅前を通過。旧名は与瀬駅。
<与瀬宿本陣跡>
与瀬神社南にある坂道からまた旧道に入る。本陣を示す碑はないが小仏峠にもあった明治天皇の行幸碑が建っている。
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7/15 16:19
<与瀬宿本陣跡>
与瀬神社南にある坂道からまた旧道に入る。本陣を示す碑はないが小仏峠にもあった明治天皇の行幸碑が建っている。
ここで北の與瀬神社へ寄り道。
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7/15 16:20
ここで北の與瀬神社へ寄り道。
高速道路の上を渡っているユニークな参道。手前の赤い部分が歩道橋。
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7/15 16:21
高速道路の上を渡っているユニークな参道。手前の赤い部分が歩道橋。
<慈眼寺>
歩道橋を渡り切った先にある寺院。1573年創建。
これから向かう與瀬神社とは神仏分離によって分かれたが、与瀬神社の霊験と言われている虫封じの祈祷は今でもこちらで行われている。
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7/15 16:22
<慈眼寺>
歩道橋を渡り切った先にある寺院。1573年創建。
これから向かう與瀬神社とは神仏分離によって分かれたが、与瀬神社の霊験と言われている虫封じの祈祷は今でもこちらで行われている。
街道沿いの二の鳥居から続く長い長い階段道。古びた随神門を過ぎると最後は壁のような石段を登る。今回一番息が切れた箇所だ。
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7/15 16:23
街道沿いの二の鳥居から続く長い長い階段道。古びた随神門を過ぎると最後は壁のような石段を登る。今回一番息が切れた箇所だ。
<與瀬神社>
相模川から上がった御神体をほとりの村に祀ったのが始まりで、その後災厄が続いたため1682年に現在の場所に移された。元あった村は今は相模湖の底。
街道のそばに建つお宮としてはかなり大きなものだが当時は賑わったのだろうか。整備された現代でもかなり気合の要る参道だが。
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7/15 16:24
<與瀬神社>
相模川から上がった御神体をほとりの村に祀ったのが始まりで、その後災厄が続いたため1682年に現在の場所に移された。元あった村は今は相模湖の底。
街道のそばに建つお宮としてはかなり大きなものだが当時は賑わったのだろうか。整備された現代でもかなり気合の要る参道だが。
参道の橋に戻り郡内の険阻な山稜を一望。
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7/15 16:26
参道の橋に戻り郡内の険阻な山稜を一望。
高台に位置するので相模湖も望める。相模湖ができるまでの旧甲州街道は湖の中央付近にある勝瀬の村を通り吉野宿へ抜けていたらしい。
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7/15 16:26
高台に位置するので相模湖も望める。相模湖ができるまでの旧甲州街道は湖の中央付近にある勝瀬の村を通り吉野宿へ抜けていたらしい。
次の旧道入口は20号と合流してすぐのカーブ北端にあるがここから先はルート不詳。ちなみにこの脇にあるラーメン屋は以前は「関所」という名前だった。
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7/15 16:31
次の旧道入口は20号と合流してすぐのカーブ北端にあるがここから先はルート不詳。ちなみにこの脇にあるラーメン屋は以前は「関所」という名前だった。
舗装路をしばらく進むと先ほどの與瀬神社方面へ抜けられる道が切り返すようにして付けてある。見送って北に進むと林道のゲートが現れる。ここは大平小屋を経由し明王峠へ至る貝沢コースで入口には今熊大権現碑や祠もある。
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7/15 16:33
舗装路をしばらく進むと先ほどの與瀬神社方面へ抜けられる道が切り返すようにして付けてある。見送って北に進むと林道のゲートが現れる。ここは大平小屋を経由し明王峠へ至る貝沢コースで入口には今熊大権現碑や祠もある。
貝沢ルートは3年前に歩いた事があるが予想以上に道が良かったという印象しかなく、対岸に渡れる橋があったような記憶がない。そして谷は10mほどと深い。
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7/15 16:34
貝沢ルートは3年前に歩いた事があるが予想以上に道が良かったという印象しかなく、対岸に渡れる橋があったような記憶がない。そして谷は10mほどと深い。
ピンクテープが谷を横切るように付いていたのでこれを辿って沢床へ下りた。踏み後はほぼなく、足元もぐずぐずなため慎重に足場を選ぶ必要があった。
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7/15 16:37
ピンクテープが谷を横切るように付いていたのでこれを辿って沢床へ下りた。踏み後はほぼなく、足元もぐずぐずなため慎重に足場を選ぶ必要があった。
対岸へ取り付き藪の薄い方へ這い上がると何とそこにはハイキングコースの文字が。
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7/15 16:38
対岸へ取り付き藪の薄い方へ這い上がると何とそこにはハイキングコースの文字が。
人が通らないのか道の前後は灌木がうるさかった。
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7/15 16:39
人が通らないのか道の前後は灌木がうるさかった。
南に進むと擁壁が現れほっとする。
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7/15 16:40
南に進むと擁壁が現れほっとする。
<貝沢(与瀬)一里塚跡>
擁壁の切れ間から上るとそこに一里塚跡が建てられていた。十六里目。
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7/15 16:41
<貝沢(与瀬)一里塚跡>
擁壁の切れ間から上るとそこに一里塚跡が建てられていた。十六里目。
周辺はちょっとした広場になっている。北側は山で圧迫感があり旧道の雰囲気は感じられない。
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7/15 16:42
周辺はちょっとした広場になっている。北側は山で圧迫感があり旧道の雰囲気は感じられない。
旧甲州街道はしばらく山際を通る。地味にアップダウンの多い区間だ。
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7/15 16:44
旧甲州街道はしばらく山際を通る。地味にアップダウンの多い区間だ。
中央道の陸橋へ寄り道して相模湖を一望。現在の甲州街道よりも高い位置にあるため眺めがいい。
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7/15 16:45
中央道の陸橋へ寄り道して相模湖を一望。現在の甲州街道よりも高い位置にあるため眺めがいい。
秋葉神社参道入口にある庚申塔・石仏群。
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7/15 16:48
秋葉神社参道入口にある庚申塔・石仏群。
原形を留めていない石碑も残されている。藤野〜相模湖はこういった石造物を多く見かける。
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7/15 16:48
原形を留めていない石碑も残されている。藤野〜相模湖はこういった石造物を多く見かける。
少し進んだ先にも馬頭観世音碑。
1
7/15 16:54
少し進んだ先にも馬頭観世音碑。
奈良本地区西側から南に入り、
1
7/15 16:57
奈良本地区西側から南に入り、
陸橋で中央道を渡る。先ほどの鋭角なカーブといい不自然さが拭えないルート。
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7/15 16:59
陸橋で中央道を渡る。先ほどの鋭角なカーブといい不自然さが拭えないルート。
吉野地区へ向けて大きく下っていく。途中切通のような道が現れると幾分か街道の雰囲気が出る。その雰囲気の良さに漫然と車道を歩いてしまったが、本来のルートはこの先のカーブで地道に入るようだ。
1
7/15 17:00
吉野地区へ向けて大きく下っていく。途中切通のような道が現れると幾分か街道の雰囲気が出る。その雰囲気の良さに漫然と車道を歩いてしまったが、本来のルートはこの先のカーブで地道に入るようだ。
<観福寺>
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7/15 17:03
<観福寺>
道間違えのお陰で蓮の蕾が見られた。
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7/15 17:03
道間違えのお陰で蓮の蕾が見られた。
<吉野宿 高札場跡>
道なりに下り、相模湖ICを渡った先の空き地に高札場の道標が建ててあった。確かに地区の中心ではあるが坂の途中でやや場所が悪い。
1
7/15 17:11
<吉野宿 高札場跡>
道なりに下り、相模湖ICを渡った先の空き地に高札場の道標が建ててあった。確かに地区の中心ではあるが坂の途中でやや場所が悪い。
傍には石仏群も。
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7/15 17:11
傍には石仏群も。
兆候はあったけど街歩きだから大丈夫だろうと高を括っていた山靴のソールがこの辺りで限界に。ザックの底にあるテープを出すのが面倒で手持ちの針金で応急処置。
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7/15 17:13
兆候はあったけど街歩きだから大丈夫だろうと高を括っていた山靴のソールがこの辺りで限界に。ザックの底にあるテープを出すのが面倒で手持ちの針金で応急処置。
<吉野宿(藤野町郷土資料館)>
国道に出た先が吉野宿の旅籠ふじや。郷土資料館兼休憩所しての利用もでき、時期になると享保雛も展示される。
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7/15 17:14
<吉野宿(藤野町郷土資料館)>
国道に出た先が吉野宿の旅籠ふじや。郷土資料館兼休憩所しての利用もでき、時期になると享保雛も展示される。
ふじや向かいが吉野宿本陣跡。昭和29年に大火が発生しほとんどが焼けてしまった。奥にあった本陣跡の建物も取り潰され、画面外にあるぼろぼろの土蔵が残るのみである。
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7/15 17:14
ふじや向かいが吉野宿本陣跡。昭和29年に大火が発生しほとんどが焼けてしまった。奥にあった本陣跡の建物も取り潰され、画面外にあるぼろぼろの土蔵が残るのみである。
かつては数百人もの遊女を抱えた吉野宿も200mと進まないうちに西端に出る。吉野橋のたもとには廿三夜塔・百万遍供養塔が保存されている。ここに日本三奇橋の猿橋と同じ造りの橋が何度も掛けられたが残念ながら現存しない。
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7/15 17:17
かつては数百人もの遊女を抱えた吉野宿も200mと進まないうちに西端に出る。吉野橋のたもとには廿三夜塔・百万遍供養塔が保存されている。ここに日本三奇橋の猿橋と同じ造りの橋が何度も掛けられたが残念ながら現存しない。
橋の先で国道の迂回路へ。
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7/15 17:19
橋の先で国道の迂回路へ。
現代的な保存のされ方をした石仏。
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7/15 17:20
現代的な保存のされ方をした石仏。
二間ほどの広さの道が続く。この先「甲州古道」の道標では藤野中学校の脇より藤野駅に向かって歩く迂回路を案内されるが、これは藤野駅前の国道が歩道も確保できないほどの隘路のため。
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7/15 17:22
二間ほどの広さの道が続く。この先「甲州古道」の道標では藤野中学校の脇より藤野駅に向かって歩く迂回路を案内されるが、これは藤野駅前の国道が歩道も確保できないほどの隘路のため。
それでも旧街道を進む。案の定交通量が多すぎて関野一里塚跡(十七里)は写せなかったので日連大橋を渋々撮る。
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7/15 17:26
それでも旧街道を進む。案の定交通量が多すぎて関野一里塚跡(十七里)は写せなかったので日連大橋を渋々撮る。
藤野駅前を通過。
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7/15 17:29
藤野駅前を通過。
駅前を過ぎるとすぐ、「甲州古道案内図」の看板の指示に従い国道南を並走する小径に入るとしばらくは住宅地の間を歩く。
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7/15 17:30
駅前を過ぎるとすぐ、「甲州古道案内図」の看板の指示に従い国道南を並走する小径に入るとしばらくは住宅地の間を歩く。
地区突き当りの最後は手摺付きのコンクリートの橋で古道の雰囲気も何もあったものではないが、その先は突然歩きやすい山道になる。予想だにしないご褒美だった。
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7/15 17:38
地区突き当りの最後は手摺付きのコンクリートの橋で古道の雰囲気も何もあったものではないが、その先は突然歩きやすい山道になる。予想だにしないご褒美だった。
しばらくすると登り坂となり跨線橋で中央本線の北からまた国道20号へ出る。
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7/15 17:41
しばらくすると登り坂となり跨線橋で中央本線の北からまた国道20号へ出る。
<関野宿本陣跡>
国道と合流した先が関野宿本陣跡。生垣の陰になっているので振り返らないと見落としてしまう。
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7/15 17:42
<関野宿本陣跡>
国道と合流した先が関野宿本陣跡。生垣の陰になっているので振り返らないと見落としてしまう。
少し進み増珠寺の参道前に出ると地元出身の力士、追手風喜太郎の解説板がある。
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7/15 17:43
少し進み増珠寺の参道前に出ると地元出身の力士、追手風喜太郎の解説板がある。
傍らには石碑・石仏。
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7/15 17:43
傍らには石碑・石仏。
次のカーブの先で旧道は北側の小径に入り、
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7/15 17:44
次のカーブの先で旧道は北側の小径に入り、
すぐ先の御留坂で国道に復帰する。ここは案内に従ったが西進して三柱神社の前を通るルートが正しかったかも知れない。
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7/15 17:45
すぐ先の御留坂で国道に復帰する。ここは案内に従ったが西進して三柱神社の前を通るルートが正しかったかも知れない。
ナツズイセン
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7/15 17:46
ナツズイセン
名倉入口交差点で南へ下る。
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7/15 17:50
名倉入口交差点で南へ下る。
下りきった先の境沢橋より甲斐国(山梨県)に入る。現在もここが山梨と神奈川の県境となっている。
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7/15 17:52
下りきった先の境沢橋より甲斐国(山梨県)に入る。現在もここが山梨と神奈川の県境となっている。
堺沢橋の先で折り返すようにして坂道に入る。山梨東部の山でよく見る形式の道標が旧甲州街道を案内してくれていた。
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7/15 17:53
堺沢橋の先で折り返すようにして坂道に入る。山梨東部の山でよく見る形式の道標が旧甲州街道を案内してくれていた。
境橋の先は壁のような急斜面が立ちはだかる。現代は斜度のきつい坂道をヘアピンカーブで登っていけるがそれでもきつい。
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7/15 17:57
境橋の先は壁のような急斜面が立ちはだかる。現代は斜度のきつい坂道をヘアピンカーブで登っていけるがそれでもきつい。
境川を振り返って。ここで甲斐国側は桂川と呼び、相模国では相模川と呼び名が変わる。
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7/15 17:58
境川を振り返って。ここで甲斐国側は桂川と呼び、相模国では相模川と呼び名が変わる。
<諏訪番所跡>
坂の終盤、街道を見下ろすようにして諏訪番所(境川番所)跡が設けられている。明治初頭まで甲斐国出入りの取り締まりの任を務めたが小仏関が厳しかったためこちらは緩かったらしい。
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7/15 17:59
<諏訪番所跡>
坂の終盤、街道を見下ろすようにして諏訪番所(境川番所)跡が設けられている。明治初頭まで甲斐国出入りの取り締まりの任を務めたが小仏関が厳しかったためこちらは緩かったらしい。
<船守寺>
由来書が掠れて読み辛くなっているが日蓮上人伊豆流罪の折にその身を助けた船守弥三郎の骨が分骨されている。弥三郎出身の地らしい。
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7/15 18:05
<船守寺>
由来書が掠れて読み辛くなっているが日蓮上人伊豆流罪の折にその身を助けた船守弥三郎の骨が分骨されている。弥三郎出身の地らしい。
<諏訪神社>
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7/15 18:06
<諏訪神社>
神社脇の公園には二十三夜塔、庚申塔などが並ぶ。
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7/15 18:06
神社脇の公園には二十三夜塔、庚申塔などが並ぶ。
諏訪大社より分祀を受ける前の古郡神社の名で扁額が掛けられている。
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7/15 18:06
諏訪大社より分祀を受ける前の古郡神社の名で扁額が掛けられている。
道路脇にひっそりと建つ馬頭観世音碑。
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7/15 18:08
道路脇にひっそりと建つ馬頭観世音碑。
街道沿いは蔵を残した家屋がいくつか立ち並ぶ。趣のある門構えの家だとふと見ると「油屋」の屋号があった。
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7/15 18:10
街道沿いは蔵を残した家屋がいくつか立ち並ぶ。趣のある門構えの家だとふと見ると「油屋」の屋号があった。
塚場地区に入るとすぐに陸橋で中央道を越える。西に扇山が大きい。
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7/15 18:11
塚場地区に入るとすぐに陸橋で中央道を越える。西に扇山が大きい。
<疱瘡神社>
江戸時代に建立された疫病退散の神社。
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7/15 18:12
<疱瘡神社>
江戸時代に建立された疫病退散の神社。
<塚場一里塚>
神社裏手に円丘の塚を見ることができる。昔はカヤの木が植えられていたそうだが整地されてしまったようだ。江戸から十八里目。
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7/15 18:13
<塚場一里塚>
神社裏手に円丘の塚を見ることができる。昔はカヤの木が植えられていたそうだが整地されてしまったようだ。江戸から十八里目。
このまま旧街道を進んでいけばまた国道20号線と合流する。正面には要害山に雨降・権現山の稜線が横たわる。
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7/15 18:14
このまま旧街道を進んでいけばまた国道20号線と合流する。正面には要害山に雨降・権現山の稜線が横たわる。
北の塚場碑林園へ寄り道する。ここも旧甲州街道の真新しい道標が立てられている。
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7/15 18:15
北の塚場碑林園へ寄り道する。ここも旧甲州街道の真新しい道標が立てられている。
<塚場碑林園(榛名山公園)>
案内に従って個人宅の軒先を行くような隘路を進んでいくと広場に出る。元は古墳があったとされ、後に公園化された一角には石碑が集められている。
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7/15 18:18
<塚場碑林園(榛名山公園)>
案内に従って個人宅の軒先を行くような隘路を進んでいくと広場に出る。元は古墳があったとされ、後に公園化された一角には石碑が集められている。
傍らの祠に納められた縄文中〜後期の石棒。ここは古くから信仰の場だったらしい。
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7/15 18:18
傍らの祠に納められた縄文中〜後期の石棒。ここは古くから信仰の場だったらしい。
公園は高台に位置するため比較的眺めが良い。南西に鶴島御前〜栃穴御前山、奥には高柄山から倉岳山まで見える。
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7/15 18:18
公園は高台に位置するため比較的眺めが良い。南西に鶴島御前〜栃穴御前山、奥には高柄山から倉岳山まで見える。
北には八王子最高峰の醍醐丸から生藤山・三国山。
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7/15 18:18
北には八王子最高峰の醍醐丸から生藤山・三国山。
少し移動すれば北西に雨降・権現山に扇山の堂々とした山容。天気が良ければ三ツ峠も拝めるらしい。さすがに富士山までは見えないか。
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7/15 18:19
少し移動すれば北西に雨降・権現山に扇山の堂々とした山容。天気が良ければ三ツ峠も拝めるらしい。さすがに富士山までは見えないか。
新町交差点より国道と合流、そのまま直進する。
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7/15 18:21
新町交差点より国道と合流、そのまま直進する。
次の新町二丁目交差点を過ぎた辺りが上野原宿のあった場所になるが今日はここで切り上げて上野原駅に向かう。
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7/15 18:24
次の新町二丁目交差点を過ぎた辺りが上野原宿のあった場所になるが今日はここで切り上げて上野原駅に向かう。
<牛倉神社>
上野原市街のほぼ中心に鎮座し参道は甲州街道に面している。ウシという神が租税を集め倉に収めていた跡地に日本武尊がお宮を建てた伝説が由来という。
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7/15 18:25
<牛倉神社>
上野原市街のほぼ中心に鎮座し参道は甲州街道に面している。ウシという神が租税を集め倉に収めていた跡地に日本武尊がお宮を建てた伝説が由来という。
広い境内と立派な社殿を維持した良いお宮である。秋口の例大祭では多くの人で賑わう。
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7/15 18:25
広い境内と立派な社殿を維持した良いお宮である。秋口の例大祭では多くの人で賑わう。
天神さまでしかほとんど見られないが牛つながりという事で撫で牛がいる。
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7/15 18:25
天神さまでしかほとんど見られないが牛つながりという事で撫で牛がいる。
境内を出て少し西に街道時代の門が残されていた。上野原宿の一つだったのだろう。
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7/15 18:26
境内を出て少し西に街道時代の門が残されていた。上野原宿の一つだったのだろう。
<JR中央本線 上野原駅>
牛倉神社より南下して上野原駅で第三区間を終了した。
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7/15 18:38
<JR中央本線 上野原駅>
牛倉神社より南下して上野原駅で第三区間を終了した。
帰り道で応急処置のワイヤーを取った。山行(?)でソールが剝がれたのは初めて。
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7/15 19:01
帰り道で応急処置のワイヤーを取った。山行(?)でソールが剝がれたのは初めて。
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